紙の本
心臓の近くに置いておきたい本
2020/01/20 21:21
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投稿者:ゆず - この投稿者のレビュー一覧を見る
正直読みやすいかと問われると私は読みにくいと答えると思う。話も終始重い。でも読んだら分かる、たわいもない描写で自分の気持ちをすっと言語化されて驚く間もなく心が軽くなる瞬間を味わう事が出来る。この本は紙で持ちたいと思ったので買いました。宇佐見さん受賞おめでとう。
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投稿者:れい - この投稿者のレビュー一覧を見る
『推し、燃ゆ』から入ったので、驚きの連続でした。描写は非常に生々しく、読んでいると息が詰まるように胸が苦しくなります。苦しい、汚い、醜い…。しかしそんな息苦しさの中にたしかにあるのは「生」の感覚。『推し、燃ゆ』よりも荒削りな感じがしますが、一気に読ませてしまう文章には脱帽でした。
紙の本
若いって素晴らしい
2020/11/14 07:56
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投稿者:夏の雨 - この投稿者のレビュー一覧を見る
第33回三島由紀夫賞受賞作。(2020年)
三島賞としては最年少の受賞、作者の宇佐見りんさんは21歳でこの作品を書いた時はまだ19歳だったという、で話題となった作品。
しかも、昨年第56回文藝賞を受賞しているから、W受賞となった。
三島賞の選考委員の一人、高橋源一郎氏はこの作品が「かか弁」と呼ばれることになった独特の文体を「極めて評価が高かった。女性の一人称の語りは現代文学の潮流」と評価しているが、決して読みやすいものではない。
うさぎ年に生まれたからうさぎと名付けられた19歳の女性はまだ自身のことを「うーちゃん」といい、その名前で弟に語りかけるようにして書かれているが、どこの方言なのか、方言にもならない未熟な幼児語なのか、「かか弁」で全体が描かれているが、読む側にはかなり苦痛を伴うものではないだろうか。
文藝賞の選考委員の磯崎憲一郎氏はそれを「完全に失敗」としている。
それでも、心を病んだ母と娘、あるいは祖母と母との関係といった最近の女性作家たちがよく描く物語が新人賞に次々と選ばれるのは、なんといっても「書く力」だと思う。
139枚の中編ともいえない長さながら、びっしり書き込まれた文字を目の前にすると、しかもそれが理解しがたい「かか弁」であればなおさら、これだけの作品を書ける人はそんなにいないことを実感するだろう。
まさにそれは若い書き手だけが手にできる特権のような気がする。
中上健次に魅かれて熊野に行ってそこでこの作品を書く力を得たという宇佐見さんが、「かか弁」を離れてこれからどんな物語を書くのか楽しみだ。
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昔からこんな境遇の人もいるだろうね、という。
それをただ一人の視点でずっと語るだけだから普遍性がない。そして、共感しにくい。
独特な方言を使うことで一人の女の子が語ってるというリアリティを生んでいる。見るべきところはそれくらい。
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しんどいな~
っていうのが読んでる途中、読み終わる5行目までの感想。
まず、独特な文体。どこかの方言?
それ故が、ひらがな多くてどこで切っていいのか分からない。
3回読まないと分からなかった文章もあったり。
19歳の親離れできてないし、(あきらめて)女になりきれないうーちゃんの独特の世界観。
女になりきれないってのは、その見本?となるべく母親「かか」が壊れているから。
重荷でもあるし、小さい頃の憧れ的なものもすてきれない。
そして、「かか」も結局幼少期から成長で来てない感。
「かか」も「うーちゃん」も精神的自立が必要なのに、それらが出来てない内向き、内向きな話で、とにかく読んでて苦しい。
ただ、わかっていたこととはいえ、最後の5行になんとなく救われました。
うーちゃんはそうじゃなかったかもしれないけど。
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私もメンタルを悪くしてる母がいて、その母のことが好きなので感情移入しながら読んでしまった。
母への愛と自立がドロドロになってて好きだな。
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「かか弁」という家庭内でのみ通じる方言のような独特の言い回し、音読したくなる音楽性のある文体で生々しい愛憎や嫉妬を語る。
文体や表現に驚きはするものの、こういう母親とこじれた関係の若い女性が主人公の物語を読むには、わたしは年をとったんだなという気もした。
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かかとうーちゃんは不思議な言葉を共有しているのに共依存にはならない。
かかはババに愛されたい気持ちを抱えて不思議な言葉を話し、うーちゃんはその言葉を使っているだけでかかはババの愛情を求め、うーちゃんはかかの愛情を求めている一方通行が切ない。
うーちゃんの求める完璧な母の愛情は今のかかではなく、過去のかかであり、かみさまという絶対的な存在。
だからこそ孤独で壊れていくかかのためにかみさまとなってかかを産んで愛してあげたいと願っている気がする。
もしそれが叶えば共依存はやっと成立するのかもしれない。
みっくんはその共依存の中にはいないようにも感じるのに、呼びかけ続けるのがみっくんというのが不穏な空気に繋がっている。
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第56回文藝賞受賞。
私も「かか」と呼ばれているので、うーちゃんはムスメのようで、同時にかつての自分自身のようで、読んでいてものすごく疲労。
そして全編「かか弁」で描かれるこの文体!『おらおらでひとりいぐも』を読んだ時の疲労感と同じだー。
十代のピリピリした原始的な、本能的な、それでいて自己陶酔的な感覚を描くのに、確かに「かか弁」じゃないと伝わらない。
痛みすらも「同期」してしまう、母と娘の境界の曖昧さ。それゆえ愛情も深いが憎しみも深い。
「かかを産みたかった」(p12)
母親の愛に飢え続けた母、母を神と思えなくなった自分、どちらをも救うには、そうするしかないと信じて。
プリミティブなもの(血にまつわるエピソード、熊野参拝、処女懐胎...)と、SNSのような現代のツールが自然に同時進行する。どんな状況でも他者にどう見られているか、どんな反応があるかを確認せずにいられない。第三者の視線が介在するたび、うーちゃんの行動が芝居がかって見える。それが十代に必要な儀式に思える。
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依存してくる「かか(母)」との関係に限界を感じ
那智勝浦へ旅に出る娘の話
なぜ旅に出るかといえば
「かか」の生まれ直しを謀り、「かか」を処女懐胎するためで
それには仏に願をかけねばならぬ、と
そう信じたからである
「かか」は子宮摘出の手術を控えており
それが成功すれば多少「かか」の狂気は落ち着くだろう、と
そういう期待もあるのだが
座して待つことに我慢ならないらしい
たぶん本人にも訳のわからぬ話で
無意識の相互依存が崩れるのを恐れてるんだろうけど
それを受け入れようとする健気な努力というか
まあ、一般論的に
若者は旅をすることで
所詮人間はひとりだ、ということを知ろうとするものなんである
そういうパターンがあるのである
むろん逆に
旅によって人はひとりじゃないと知るパターンもあるが
それは置いておきましょう
この作品の面白さは
「かか弁」と名付けられた独特の言い回しを用いて
しかも
弟にあてた告白という二人称の文体で書かれたところにある
なぜそんなものを書く必要があったのか
これもたぶん
本人にすらわかってないモチベーションだろうけど
ひょっとしたら、そんな風にして
自分はひとりじゃないと確認したかったのかもしれないし
あるいは、弟の背後に改めて
「かか」ないし「とと」を発見しようとしたのかもしれない
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方言のような独特の言葉遣い、その言い回しが物語を覆い,少し現実からずれた雰囲気を作っている.愛されずに育ち今も愛に飢えた母親かかをかわいそうに思ううーちゃん.家出して,青岸渡寺に向かいながらもそれでもSSには繋がって,そして,うーちゃんは願う,かかを産んで育ててあげたいと.そんな親子関係が悲しい.
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独特の文体。幼い感じなのですいすい読めるかと思いきやそうではない。そんな単純なもんじゃなかった。
母と自分、弟?と自分、家族と自分、SNSの中の知り合いと自分、いろいろなつながり。
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せっかく購入したけれど、1/10 ほど読んで、読むのをやめた。
買って損をした気分だ。
「何語」か「どこの放言」かわからない駄文で書かれている。
この作家の新刊が芥川賞だなんて、選考基準が大きく変わったのだろうか?
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すごいの読んだ
会社の健康診断が思いのほか早く終わったから喫茶店でちょっとだけサボってから行こうと思って軽い気持ちで読み始めたら読み終わるまで止まらなくなった。
おかげで遅刻した。どうしてくれる。全然いいんだけど。
紀州を目指すとどうしても中上健次を連想してしまって、そういう先入観よくないぞ、と気をつけながら読んだんだけど、この肌感覚としての痛みと、理不尽なほどに原罪をみずから抱え込んでしまって離さない業の深さはやっぱり中上健次を思い浮かべずにいられなかった。それも枯木灘。
自分が女子だったら刺さりすぎて読み進められなかったんじゃないかと思うくらいに震えました。比喩じゃなくてホントに震えた。寒かったのかな。もう秋だし。いや、お店の中だったし、そんなわけないか。
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“おそらく誰にもあるでしょう。つけられた傷を何度も自分でなぞることで傷つけてしまい、自分ではもうどうにものがれ難い溝をつくってしまうということが、そいしてその溝に針を落としてひきずりだされる一つの音楽を繰り返し聴いては自分のために泣いているということが。”
はあ、待ってくださいよ。
傷をレコードの溝にたとえ、そこに針を落として自分の不幸を流して酔いしれるという表現。天才なのでしょうか。はい、間違いなく天才ですよね。
ただただ作者の感性と表現に嫉妬を覚えてしまう。若干二十歳にしてこれは恐ろしすぎる。
内容は主にひとり語りで、「うーちゃん」なる主人公が自分をとりまく環境について語っていくのだが、その主軸となるのが「かか」つまり母親の存在だ。
主人公は母を愛している。でも、愛するがあまり、自分が産み落ちてしまったことが母にとって最大の不幸であり、「母が処女であったころ」に戻ってほしいと強く願ってやまない。そんな母を、自分が妊娠して大切に育みたいとすら思う。
川上未映子の『乳と卵』を彷彿させるというか、やはり女性にとって母親というのは「母」であり「女」であり「子ども」という特殊な存在だというのを改めて再認識させられる。
まるで自分の一部のようで、守られていると思ったら守るべきものだったりして、強いと思っていたら壊れそうに弱くて、気持ち悪くて愛おしい。
“不幸に耐えるには、周囲の数人で自分がいっとう不幸だという思い違いのなかに浸るしかないんに、その悲劇をぶんどられてしまってはなすすべがないんです。”
この一節もひどく心に響いた。
自ら悲劇のヒロインになることで与えられる特別な免罪符。それを人は過去に見出すのではないだろうか。「わたしいじめられていたからさ」「わたし片親だからさ」「わたし不幸でしょう」そんな聞いてもないのに吐露される思いには寂しさと恍惚なる思いが入り混じってるのではないだろうか。
これには少しギクリとする。わたしは中高親の転勤で渡米をしていたが、それをあたかも「不幸」な話として周囲に吹聴していたからだ。ねぇ、思春期に異国の地でひとりぼっちで過ごした人間が捻くれないわけないじゃない、なんて。
とても愚かでした。
目を瞑りたくなるような現実を突きつけられるような赤裸々に綴られた言葉ひとつひとつが胸に痛切に響いて読みながら何度も本を閉じたいと思ったし、読後感は最悪。でもこれがリアル。それを描ける筆者の未来の作品が楽しみでならない。
これが私小説でも何でもないフィクションなら、本当にわたしは作者の才能に嫉妬してしまうよ。