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投稿者:怪人 - この投稿者のレビュー一覧を見る
1984年や動物農場の小説で知られるジョージ・オーウェルの評論集であり、訳者が選択した16編の著作が収められている。どれも1930年代から40年代の時期に書かれた作品だ。原爆、冷戦、スポーツ、ナショナリズム、イギリス事情、ガンジーなどに関してオーウェルの見解が述べられており、それほど時代差を感じさせず、なるほどと刺激を受ける。本の帯にはオーウェルの慧眼と記されているが、納得する。
「わたしと核兵器」について考えようということ
2022/01/10 21:34
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投稿者:BB - この投稿者のレビュー一覧を見る
表題作「あなたと原爆」を含むジョージ・オーウエルの評論集。
「あなたと原爆」は、アメリカによる原爆投下から2カ月後、トリビューン紙に発表した評論だそうだ。この時期にオーウエルがこんなことを書いていたということにまず驚いた。
核兵器の開発と引き換えに私たち人間が手にしているのは、無期限に延長される「平和なき平和」の状態だ、ということを、つづっている。
大国が核兵器を持ってにらみ合う世界を予見し、戦闘なき対立状態を初めて「冷戦」と名付けた論文としても知られているそうだ。
結局、核兵器を持ってにらみ合うことは無意味。平和なき平和ではなく、核兵器なき平和にしなくては。一人の生ある人間として、「あなたと原爆」ならぬ「わたしと核兵器」について考えれば、自ずと答えが出る。
ほかの評論も大変興味深い。
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2019年8月読了。
やはりこういう世相だからこそオーウェルを読んでおくべきだと思う。
25ページ(科学とは何か?)
「もっと物理学を、もっと化学を、もっと生物学をという方向にばかり狭く集中して、文学や歴史を蔑ろにしていくのであれば、大衆への科学的教育は殆ど役に立つことはなく、むしろ害になること大だ、ということだ。」
→物理学、化学、生物学を法律学や経済学に変えても、行き着く結末は同じようなことのように思える。根っこがなくて手先だけ起用な輩はむしろ問題を起こす。
111ページ(スペイン内戦回顧)
「世界のどこかで残虐行為が行われなかった年などなく、左翼と右翼の双方が一致して残虐行為があったと認めているケースもまずない」
→歴史の改竄はお手の物。古今東西を問わずに自分の都合に合わせて歴史を書き換えるのは歴史的に繰り返されてきている。
131ページ(同)
「長い目で見れば―長い目で見た場合に限った話だということは忘れないでいただきたい―労働者階級はファシズムに対する敵としてもっともあてになる存在であり続けるだろう。」
→そういう意味ではウチの国では見事なまでに労働者階級は育っていない。おかげ様をもちまして自分がファシスト的な感覚を持っているという自覚もない層の思うがまま。
151ぺージ(ナショナリズム覚え書き)
「「ナショナリズム」ということばで私が言わんとしていることは、第一に、人間を昆虫のように分類することが可能で、何百万あるいは何千万という人間の集団全体に確信をもって「善良」とか「邪悪」だとラベル付けできると考えるような姿勢である。しかし第二に言いたいのは―実は、こちらの方がずっと大事なのだが―、自分をひとつの国家やなんらかの組織に一体化し、それを善悪の判断を超えた場所に措定して、その利益を増やしていくことのみが自分の務めであると認識するような姿勢のことである。」
→「愛国」を声高に叫ぶ人々の何と居丈高なことか。付き合いきれない。
156ページ(同)
独ソ不可侵条約の締結を左右の専門家がどのように捉えていたかを紹介している。いかに自分の主張に都合のいい事実を切り取ってくるか、不利な情報は無視するか。やっていることは今も昔も大して変わりはない。
170(同)
「ナショナリストは自分たちの側が行った残虐行為を認めないばかりでなく、そういった残虐行為について聞く耳さえ持たないという驚くべき能力を持っている。ほぼ六年もの間イギリスのヒトラー崇拝者たちはダッハウやブーヘンヴァルトの強制収容所の存在をどうにかして知るまいと努めてきた。」
→感想は上に同じ。
193ページ(同)
「現代の世界ではインテリと呼ばれるような人間は誰であろうが、政治を気にかけないという意味で、政治から距離を置いて関わらないことは許されない。誰でも政治―広い意味での政治―に関わらねばならないし、好みを持つべきだ。」
→「政治についての発言ってなんかダサい」みたいな呑気なことを言っていられる時代も年齢もとうに過ぎているという気が最近頓にある。
220ページ(おいしい一杯の紅茶)
硬質なエッセイに続いて紅茶の淹れ方、しかも11もの特質的なルールがあるという。
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これが1945年前後(表題作はまさしく1945年)に書かれたものというから、その先見性に驚くしかない。
冷戦構造しかり、国家とテロの関係やナショナリズム、差別の問題とまるで現代を論評しているようだ。
アメリカでトランプ大統領が誕生した時、「1984年」がベストセラーになったという。歴史を自身の都合で書き換え、監視によって言論の自由も奪う世界なんて小説のなかだけで許してほしいけど。
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オーウェル、鋭いっ!
と言いたい場面が多々あった。
『スポーツ精神』では、スポーツとは本来的に競争であって銃撃戦のない戦争と変わりないとバッサリ言い切られる。オリンピックに浮かれる日本に水を差されているみたいだがその通りかもしれない。韓国とこんな風になっている時にオリンピックをすることにいささか恐怖を覚えた。
「サッカー場での清く健康的な対抗意識や、国民を統一するためにオリンピックが果たす多大な役割について戯言を言うよりも、現代のスポーツ崇拝がどのように、そしてなぜ、起こったのかを問うてみることの方が有益だろう。」
なぜかというと、スポーツは
「自分自身をより巨大な権力の単位と同一化して全てを競争的な名声を通して見るという狂気じみた現代的な慣習(=ナショナリズム)と、切っても切れない結びつきを持っている」から。
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慧眼だけでなく、オーウェルの「動く人」としての人間臭さが感じられた。
「象を撃つ」の描写力には打ちひしがれざるを得ない
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一九八四年で有名なジョージ・オーウェルのエッセイ集。いずれも1940年代という第二次大戦前後の世情を真摯に批判的に記している。
当時の時代背景や英国、欧州の国民意識などわからない部分もあるが、現代に置き換えても通ずる内容。これこそが訳者の選定基準なのだろう。
主義や思いが先にあり根拠を後からつけるということは多々あるが、それを他人事とせず、またそうなってしまうことを当然と開き直ることもなく自省する姿勢を持たなければ。
2,3章の印象が強いが表題をこれにしたのは、日本人にとって原爆のインパクトが大きいからだろうか。
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ジョージ・オーウェルの評論集。
16編の短編が4部構成で収録されている。
1部ではオーウェルの鋭い視点や先見性、2部から3部ではその表現力や観察力、4部では人間らしさが垣間見える構成になっていると感じた。
どれも大体70年前くらいに書かれた作品であるが、現代を生きる上でも大切な知恵が得られる本だと思った。
特に印象に残っているのは以下の4作。
表題作「あなたと原爆」
10ページ程度だが、内容はページ数以上に濃く、本の初めから圧倒された。
オーウェルの鋭い視点や思考、先見性が凝縮されているように感じ、この最初の作品だけでもこの本を読んでよかったと思えた。
WW2終戦の年に、核兵器の出現によってわずかな超大国が世界を分ける「平和なき平和」の到来を予想しているが、まさに世界はその通りとなった。後から書いたのではないかと疑ってしまうほどに素晴らしい評論だった。
「科学とは何か?」
理系的な意味での科学偏重に傾く社会を具体例に、広い教養を持つことの重要性を説いている。広い教養を持たなければ、正しさは得られないのかもしれないと感じた。
「イギリスにおける反ユダヤ主義」
反ユダヤ主義という差別の状況をふまえ、理性と感情のねじれが記されている。ナチスの反ユダヤ主義が発覚したせいで反ユダヤ主義というものが消えなくなったという着眼点は非常に興味深い。様々な差別問題に対する現代人の態度にも同じことが言えるように思い、戒めにしたいと思った。
「ガンジーについて」
他人に対しても家族や友達のように平等に接するべきと言った考えをはじめとした聖者のようなガンジーの主張に対し、「特定の人を他の人間以上に愛するからこそ愛」であり、人間ならば聖者であることも避けるべきという主張はとても人間味にあふれていて共感できた。
特にp271、11行目「人間であることの本質とは、完璧を求めないこと...」から始まる一文はとても素敵で印象に残った。
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第82回アワヒニビブリオバトル「【復路】お正月だよ!ビブリオバトル2022」第21ゲームで紹介された本です。オンライン開催。
2022.01.03
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毎年8月は太平洋戦争(第二次大戦を含む)とりわけ原爆について書かれたものについて読むことにしてるんです
と言っても今年で2年目ですがw
8月になると急にそんなこと言い出すのは偽善的な匂いもしちゃいますが、まぁなんにも考えずにいるよりは、はるかにマシかなとも思うのですよ
ちなみに去年は『ある晴れた夏の朝』を読みました(これは本当に良書なんで特に中高生にはもう強制的にも読ませたいです)
で、今年はその段階で本書を読もうと決めてたんですが、ちょっと思ってたのと違った
もっと原爆についてたくさん書かれてるんかと思ったら違かったです
それでも、第二次大戦前後に書かれた評論集は戦争について多くのことがさすがのオーウェル的視点で書かれていて凄く考えさせられました
でも、多分半分もわかってないと思う
分かってないんだけど『光文社古典新訳文庫』シリーズの素晴らしい解説でなんとなく分かった気にさせられてしまう
あれはよくない
ほんとよくない
あの素晴らしい解説はほんとよくない(何かが矛盾している)
めっちゃ引っ張られてつい自分の意見のように書いちゃうもん
なので、見当違いと言われることを恐れずに、半分も分かってないだろうなと思いつつも自分の思ったことを書き記しておこう
オーウェルが白日の下に晒したかったのは戦争の持つ、あるいは戦争をしたがってる人が持つ「こっけいさ」だったのではないかと思う
なんのために戦争するのか、どうなれば勝利なのかほんとは分かってないんじゃない?
自己弁護の成れの果て、自己矛盾からの逃避が戦争なんじゃね?
自己を省みずに本当の自分を認めず、うわべを取り繕ってかっこつけてるだけじゃね?
大衆の中に自分を紛れ込ませて責任逃れしてるんじゃない?
単純に戦争ダメ!じゃなくてきちんと戦争に至る道をつまびらかにすることで、馬鹿馬鹿しさに焦点を当ててる
そんな気がしたけど
ぜんぜん違うかも!w
だって難かったんだもん!
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開高健が言及していた (と記憶している) 『象を撃つ』を目当てに購入した。
せいぜい十数ページのエッセイにこれほどまでに魅了されるとは思ってもいなかったのだが、その卓越は凡そ次のようなところだろう。
ライフルで頭部を撃たれた象はその肢体から力を失い頽れる。殺到するビルマの群衆。なかなか事切れない象にさらに銃弾を撃ち込むも血が溢れるばかりで、あまりの痛々しさにその場から逃げ出してしまう。オーウェルにその引き金を引かしめこのスペクタクルを演出したのは、白人は主人然としてなければならないという情けない矜持だったのだ。オーウェルにそれなりに深い罪の意識を植え付けたのがいかにつまらない動機だったか。その描写に力点が置かれている。
母国の帝国主義を憎みながらも若さゆえに支配者たる白人像と決別しきれず、結果帝国主義とビルマの群衆に踊らされた著者の告白が、白人支配の虚しさとして結実している。
その他のエッセイも概ね面白かった。
物書きという職業にどう向き合っているかについて著者は、時代が彼や人々に要請する公的な事柄と彼の内的な好き嫌いを和解させることが使命だという。
「子どもの頃に手に入れた世界観を完全に捨て去ることは私にはできない」
時に文学的均整を、また時に政治的目的を劣後させながらも伝えたいことを伝える。その姿勢に好感を持った。
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全部で16篇のエッセイ。良かったのは、以下の5篇
Ⅰ
あなたと原爆
復讐の味は苦い
Ⅱ
象を撃つ
Ⅲ
イギリスにおける反ユダヤ主義
Ⅳ
ガンジーについて
1945年10月19日にトリビューン紙上に発表された表題作は、原爆投下の僅か2ヶ月後に、米ソ両超大国間の冷戦を予言したもので、冷戦(Cold War)という言葉自体、このエッセイが世界で初出らしい。フランス革命に対するエドマンド・バークの省察といい、イギリス人知識人の先見性は大したものだと思う。
「ガンジーについて」では、聖人視されることの多いガンジーは、聖人ではなく、イギリスからのインドの平和裡の独立を最終目的とする政治家である、という前提で評論している。その中では、イメージとは随分違う言説も登場し、自分のガンジー像を修正せざるを得なかった。
(以下、「ガンジーについて」より抜粋)
P270
普通の人間にとっては、特定の人を、他の人間以上に愛するからこそ愛なのであって、そうでなければそれは愛ではない。
P274
ドイツのユダヤ人は集団自殺をするべきだ、そうすれば「世界の人々とドイツの人々がヒトラーの暴力に目を覚ますことになっただろう」
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東西の冷戦を予見した表題作を含め本作から『1984年』『動物農場』で描かれる思想的なものを知ることができた。現在でも通用するどころか現在社会への批判そのもの。特に「ナショナリズム覚え書き」は全く古びていない。繰り返し読みたい。
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449
223P
ジョージ・オーウェル
1903‐1950。1903年、植民地時代のインドにて、英国公務員の息子としてベンガルのモティハリで生まれる。イートン校で学んだのち、1922年にビルマにてインド帝国警察に加わり、1927年に除隊して作家になった。1933年から49年にかけて小説やエッセイ、ノンフィクションなどを発表。1945年に『動物農場』が大成功を収め、1949年には『1984』がそれを凌ぐ記録的ヒット作となった。『1984』の刊行から数ヶ月後の1950年1月、ロンドンにて死去。20世紀でもっとも重要な作家のひとりとされる
あなたと原爆~オーウェル評論集~ (光文社古典新訳文庫)
by ジョージ・オーウェル、秋元 孝文
「そうよ、 だんな、俺の仕事は取り上げられて、今じゃそれをユダヤ人がやってんだよ。ユダヤ人! いいかい、この国を裏で本当に支配してんのはユダヤ人だよ。金を握ってんだよ。あいつらが支配してるのさ、銀行に金融に、なんでもそうさ」 私はたずねる。「でも実際には平均的なユダヤ人だって、時給一ペニーほどで働いている労働者じゃないのかい?」 「ああ、そう見せかけているだけなんだって! 実際にはあいつらみんな金貸しだ。ユダ公ってのはずる賢いんだよ」
一般的に信じられているのとは違って、過去が現在より事件に満ちていたというわけではない。過去により多くの出来事があった気がもしするならば、それは過去を振り返る時には何年もの時を隔てて起きた複数の出来事が、折り重なって近くにあるように見えるからであり、我々が記憶していることも本当に初めて見聞きした時と同じように蘇ることはほとんどなく、だいたいがすでにどこかで知っていることだからだ。一九一四年から一八年の戦争(1) に、今の戦争にはないような、なにか壮大で叙事詩的なところがあったように思われているのは、主として戦後に出された本や映画、回想録のせいだ。
もちろんそんな感情が子どもじみているというのは承知の上だが、それでもこんな普通の感情さえ理解できないような「知的で進んだ」左翼知識人になるくらいなら、こういう 躾 のもとに育てられる方がましではないか。革命の瞬間が来た時に尻込みするのは、まさしくこういう、ユニオンジャックを見ても心躍らせたことがないような連中だろう。誰でもいいから、ジョン・コーンフォード(4) が戦死する少し前に書いた詩(「ウェスカの嵐の前に」) とヘンリー・ニューボルト卿(5) が書いた「今宵校庭にかたずを呑むよな静けさが」を比較してみるがよい。書かれた時代の違いのために過ぎない技巧上の差異はあるにしても、二つの詩の感情的な内容はほぼ寸分 違わないということが了解されよう。国際旅団に参加して勇敢に死んだ若きコミュニストのコーンフォードは骨の髄までパブリック・スクール的だった。彼はその忠誠を誓う主義こそ変えたが、国に対する感情は変わらなかった。この事実が示しているのはいったいどういうことだろう? もったいぶった反動主義者の骨組みからでも社会主義者は作れるということ、ある種の忠誠心が別の忠誠心に形を変える力があること、祖国愛と軍人の美徳を人は精神的に必要としている、ということをただただ表しているのだ。そしてこういうものを、左翼のカンカンに怒ったウサギたちがいかに嫌おうとも、それに代わるものはまだ見つかってはいないのだ。
ナショナリズム」ということばで私が言わんとしていることは、第一に、人間を昆虫のように分類することが可能で、何百万あるいは何千万という人間の集団全体に確信をもって「善良」とか「邪悪」だとラベル付けできると考えるような姿勢である(*1)。しかし第二に言いたいのは――実は、こちらの方がずっと大事なのだが――、自分をひとつの国家やなんらかの組織に一体化し、それを善悪の判断を超えた場所に措定して、その利益を増やしていくことのみが自分の務めであると認識するような姿勢のことである。ナショナリズムを 母国愛 と混同してはならない。どちらのことばも非常に曖昧な用法をされることが多いため、その定義はいかなるものでも反論される可能性が高いが、そこには二つの異なった、対立さえする考えが含まれているのだから、両者は明確に区別されなければならない。私が言う「母国愛」が意味するのは、ある特定の場所や生活様式への愛着ではあるが、その場所や生活様式を世界で最良だと思いはしてもその愛着を人に押し付けようとはしない態度のことだ。母国愛とは本質的に、軍事的にも文化的にも防衛的なものだ。対照的にナショナリズムは権力への欲望と切っても切れない関係にある。全てのナショナリストの変わらぬ目標は、自分ではなく、個人としての人格を埋没させんと自ら決めた国家なりなんなりの集団に、より大きな権力や威信を付与することなのだ。
あなたと原爆~オーウェル評論集~ (光文社古典新訳文庫)
by ジョージ・オーウェル、秋元 孝文
「そうよ、 だんな、俺の仕事は取り上げられて、今じゃそれをユダヤ人がやってんだよ。ユダヤ人! いいかい、この国を裏で本当に支配してんのはユダヤ人だよ。金を握ってんだよ。あいつらが支配してるのさ、銀行に金融に、なんでもそうさ」 私はたずねる。「でも実際には平均的なユダヤ人だって、時給一ペニーほどで働いている労働者じゃないのかい?」 「ああ、そう見せかけているだけなんだって! 実際にはあいつらみんな金貸しだ。ユダ公ってのはずる賢いんだよ」
一般的に信じられているのとは違って、過去が現在より事件に満ちていたというわけではない。過去により多くの出来事があった気がもしするならば、それは過去を振り返る時には何年もの時を隔てて起きた複数の出来事が、折り重なって近くにあるように見えるからであり、我々が記憶していることも本当に初めて見聞きした時と同じように蘇ることはほとんどなく、だいたいがすでにどこかで知っていることだからだ。一九一四年から一八年の戦争(1) に、今の戦争にはないような、なにか壮大で叙事詩的なところがあったように思われているのは、主として戦後に出された本や映画、回想録のせいだ。
もちろんそんな感情が子どもじみているというのは承知の上だが、それでもこんな普通の感情さえ理解できないような「知的で進んだ」左翼知識人になるくらいなら、こういう 躾 のもとに育てられる方がましでは���いか。革命の瞬間が来た時に尻込みするのは、まさしくこういう、ユニオンジャックを見ても心躍らせたことがないような連中だろう。誰でもいいから、ジョン・コーンフォード(4) が戦死する少し前に書いた詩(「ウェスカの嵐の前に」) とヘンリー・ニューボルト卿(5) が書いた「今宵校庭にかたずを呑むよな静けさが」を比較してみるがよい。書かれた時代の違いのために過ぎない技巧上の差異はあるにしても、二つの詩の感情的な内容はほぼ寸分 違わないということが了解されよう。国際旅団に参加して勇敢に死んだ若きコミュニストのコーンフォードは骨の髄までパブリック・スクール的だった。彼はその忠誠を誓う主義こそ変えたが、国に対する感情は変わらなかった。この事実が示しているのはいったいどういうことだろう? もったいぶった反動主義者の骨組みからでも社会主義者は作れるということ、ある種の忠誠心が別の忠誠心に形を変える力があること、祖国愛と軍人の美徳を人は精神的に必要としている、ということをただただ表しているのだ。そしてこういうものを、左翼のカンカンに怒ったウサギたちがいかに嫌おうとも、それに代わるものはまだ見つかってはいないのだ。
ナショナリズム」ということばで私が言わんとしていることは、第一に、人間を昆虫のように分類することが可能で、何百万あるいは何千万という人間の集団全体に確信をもって「善良」とか「邪悪」だとラベル付けできると考えるような姿勢である(*1)。しかし第二に言いたいのは――実は、こちらの方がずっと大事なのだが――、自分をひとつの国家やなんらかの組織に一体化し、それを善悪の判断を超えた場所に措定して、その利益を増やしていくことのみが自分の務めであると認識するような姿勢のことである。ナショナリズムを 母国愛 と混同してはならない。どちらのことばも非常に曖昧な用法をされることが多いため、その定義はいかなるものでも反論される可能性が高いが、そこには二つの異なった、対立さえする考えが含まれているのだから、両者は明確に区別されなければならない。私が言う「母国愛」が意味するのは、ある特定の場所や生活様式への愛着ではあるが、その場所や生活様式を世界で最良だと思いはしてもその愛着を人に押し付けようとはしない態度のことだ。母国愛とは本質的に、軍事的にも文化的にも防衛的なものだ。対照的にナショナリズムは権力への欲望と切っても切れない関係にある。全てのナショナリストの変わらぬ目標は、自分ではなく、個人としての人格を埋没させんと自ら決めた国家なりなんなりの集団に、より大きな権力や威信を付与することなのだ。
ドイツ、日本、その他の国で起こったような悪名高い明確なナショナリスト運動について使われる場合、上記の事実は明らかであろう。外部からも観察可能なナチズムのような現象に直面した場合には、 殆ど全ての人がだいたい同じことを言う。しかし、ここでもう一度繰り返し言っておかねばならない。私が「ナショナリズム」ということばを使うのは、より適切なことばがないからである。私が使っている、より広い意味でのナショナリズムは、共産主義や、政治的カトリシズム、シオニズム、反ユダヤ主義、トロツキズムや平和主義といった運動や傾向まで含むものなのだ���必ずしも政府や国への忠誠心を意味するものではないし、 自分自身の国 への忠誠心とも限らない。そして、その対象が現実に存在する集団である必要性さえ、厳密に言えば、ない。いくつかの明白な例を挙げるなら、ユダヤ世界、イスラム世界、キリスト教世界、プロレタリアートや白色人種、こういったもの全てが熱烈なナショナリズム的感情の対象なのだ。ただ、こういったものが実在するのかどうかには疑問の余地が大きく、そのいずれに関しても普遍的な定義は存在しない。
十年から二十年前に今日の共産主義にもっともよく似ていたのは政治的カトリシズムだった。そしてそのもっとも目覚ましい唱道者といえば――典型例というよりはむしろ極端な例であるが――G・K・チェスタトン(4) であった。チェスタトンは少なからぬ才能に恵まれた作家であったが、自身の感受性や知的誠実さをローマ・カトリックのプロパガンダのために抑圧することを選択した。生涯の最後の二十数年にチェスタトンが出した作品全体が、実際には骨を折ってこじつけた巧妙さをもって「エフェソのディアーナは偉大なり(5)」というのと同じほど単純そして退屈な、同じことの絶え間ない繰り返しであった。彼が書く全ての本、全てのパラグラフ、全ての文章、物語の中で起きる出来事から会話に至るまであらゆるものが、間違えようもないほどに、プロテスタントや異教に対するカトリックの優越性を示そうとするものであった。ところがチェスタトンはこの優越性をただ知的で精神的な領域のみにとどめておくのでは満足できなかった。その優位性は国家的威信や軍事力にも当てはめられるべきだと信じ、その結果ラテン諸国、なかでもフランスを、無学にも理想化することとなった。チェスタトンはフランスにはそれほど長く住んだ経験がなく、彼が抱いたフランスのイメージ――カトリックの小作農たちが赤ワインのグラスを傾けながら絶えず「ラ・マルセイエーズ」を歌っている――は『チュー・チン・チョウ(6)』がバグダッドの日常生活を描いていないのと同様に現実のフランスの姿からかけ離れている。こうした無理解とともに、フランスの軍事力へのただならぬ過大評価(一九一四~一八年の前にも後にもチェスタトンは、フランスが単独でもドイツより強いと言っていた) に加えて、戦争の実際の経過を、愚かしくそして下劣にも賛美したのだ。「レパント…
タバコ屋店主(女性)―「ないですね、すみませんがマッチはないです。通りを向こうに行った店の女の人に聞いてみましょうか。 あの人 ならいつでもマッチを持ってますよ。なんといっても選ばれし民ですからね」 若いインテリ。共産主義者かそれに近い思想の持ち主―「いや、ユダヤ人は好きじゃない。隠したことはないよ。あいつらには我慢できない。とは言っても、もちろん私は反ユダヤ主義者じゃないよ」 中産階級の女性―「そうねえ、私は反ユダヤ主義者なんかじゃあないですよ、でもね、ユダヤ人たちの態度ときたら本当に 酷 すぎますよ。行列の先頭に割り込むのとか、そういうの。まあ憎らしいくらい自己中心的なのよ。ああいう気の毒な目に遭ったのにはあの人たち自身にも大いに原因があると思いますわ」
牛乳配達―「ユダヤ人ってのは働きゃしねえんだよ、イギリス人が���くみたいには。あいつらは 狡 賢いときてる。俺たちゃ『ここ』で仕事する(と、力こぶを作ってみせる)。あいつらはここで仕事してんだろ(と、おでこをピシャリと打つ)」 公認会計士。教養もあり自分なりの左翼思想の持ち主―「あいつらユダ公ってのはドイツ 贔屓 なんですよ。明日ナチスがイギリスを侵略しに来たら、あいつらはすぐに寝返るに決まっています。仕事で多くのユダヤ人と会ってきましたが、心の底ではヒトラーを崇拝しているんですよ。自分たちを 苛める人間にはいつだって 諂うんです」
こういった戦時中の現象のみから判断するなら、反ユダヤ主義が間違った前提の上に作られた疑似論理的な考えだと推論するのは容易であろう。しかし、それゆえ反ユダヤ主義者が自分のことを論理的な人間だと考えるのもまた当然なのである。新聞に書く記事でこの問題に触れると、決まってかなりの数の抗議を受けることになる。そしてその抗議の手紙の中には、経済的な不満などまるで無さそうに思える、たとえば医者のような、分別あるそれなりの立場の人からのものが必ず混じっている。こうした人たちは(ヒトラーが『わが闘争』で言ったのと同様に)、自分には反ユダヤ主義的な偏見など最初は全くなかったのだが、あくまで事実を観察した結果、現在の主張に辿り着いたのだ、といつだって言う。しかし反ユダヤ主義の特徴の一つは、おそらくは事実ではありえないような話を信じてしまう能力を持っていることである。一九四二年にロンドンで起こった奇妙な事件がその好例だ。近くで爆弾が炸裂したのに恐れをなして逃げた群衆が、大挙して地下鉄駅の入り口に押し寄せ、その結果百人以上が押し 潰されて亡くなった。ところがその日のうちにロンドン中で「ユダヤ人の仕業だ」という噂が繰り返されたのだ。人々がこういうことを信じてしまうようであれば、そんな人たちと議論しても、成果があまり望めないのは明らかだろう。唯一役に立ちそうなアプローチは、彼らが他の問題に関してはまともな判断を維持できるのに、特定の一つの問題に関してのみ、馬鹿げた噓ですら信じ込んでしまうのは なぜか、それを探ってみることだ。
ユダヤ人の子はパブリック・スクールではまず決まって大変な目に遭った。もちろん並はずれて器量がいいとか運動ができればユダヤ人であっても徐々に人気者になることはできたが、普通はユダヤ人であることは 吃りとか 痣 に匹敵するような生まれつきの欠陥だった。裕福なユダヤ人はイギリス人風やスコットランド人風の貴族的な名前に変えて出自を隠したし、そうすることを一般の人々は、犯罪者が名前を変えて、できるだけ身元を隠そうとするのと同じように、至極当たり前のことだと考えていた。二十年ほど前にラングーンで友人とタクシーに乗ろうとしていた時のこと、ぼろ着を着た色白の少年が大急ぎで我々のところにやってきて、コロンボから船で来たのだが帰るための金が欲しいとややこしい話をし始めた。その話しぶりと外見は正体を「見定める」のが困難なものだったので、私はこの子に尋ねてみた。
本を買うことや、あるいは読むことでさえ、金のかかる趣味で平均的な人間には手が届かないという考えは、とても広く信じられており、詳しく検討してみる価値がありそうだ。読書に��のくらいお金がかかるのか、一時間当たり何ペンスになるのか、という計算は見積もりが難しいが、まずは自分が所有している本の総計を数えて、その価格の合計を出すことから始めてみよう。他の様々な経費を除いた後で、過去の十五年間にかかった費用をかなり正確に割り出すことができるだろう。
まず数えて価格を出してみたのは、このアパートにある本である。だいたい同じくらいの数の蔵書を別の場所に置いているので、完全な数字を出すためには最終的な数字を倍にするつもりである。校正刷り、ボロボロになって読めない本、安価なペーパーバック、パンフレットや雑誌は、製本されていない限り数に入れなかった。食器棚の一番下に溜まっていた昔の学校の教科書などのクズ本も入れていない。数に入れたのは自分から求めて入手した本、あるいは人からもらったもののうち、もらわなければ自分で買っていたであろう本、そして捨てずに置いておきたいと思う本のみである。このカテゴリーに入る本を私は四百四十二冊持っていて、その入手ルートは以下のとおりである。
それでも読書の費用は、本を借りるのではなく買い、かなりの数の雑誌を加えたとしても、喫煙と飲酒を合わせた額を超えることはないのである。
本の価格とそこから読者が得る価値の関係を体系づけるのは困難である。「本」には小説も詩も、教科書もあれば、参考書や社会学的論文その他いろいろあり、本の長さと価格は対応しない。いつも中古で本を買っている場合は特にそうだ。五百行の詩に一〇シリング払うこともあれば、二十年のうちに折に触れて開く辞書を六ペンスで入手するかもしれない。何度も何度も読み返す本もあれば、心の中の家具の一部となって人生に向かう姿勢そのものを変えてしまうような本もあるし、ちょっとだけ目を通して読み終わることのない本もあれば、一息で読んでしまったのに一週間後には何も覚えていない本もある。
ましてや公共図書館から借りる場合には、かかる費用はほぼゼロである。
それでは、イギリスの大衆が実際に本に使っている金額とはいかばかりか? 具体的な数字は存在するに違いないのだが、残念ながら見つけられなかった。しかし、戦争前にこの国では、再販本と学校の教科書を合わせて年間一万五千点の本が出版されていた。もしそのそれぞれの本が一万部も売れたなら――学校の教科書も入っているとはいえ、これはおそらく高い見積もりだ――平均的市民は直接間接にかかわらず年間たった三冊しか本を買っていないことになる。その三冊の費用は合計しても一ポンド、あるいはそれ以下である。
これらの数字は当て推量であり、誰かが正しく訂正してくれるというなら喜んでそれを受け入れよう。しかし私の見積もりが多少なりとも正しいならば、ほぼ一〇〇パーセントの市民が文字を読めて、普通の男がインド人農民の生涯賃金より多額の金をタバコに費やす国にとって、誇れる記録ではない。そしてわれわれの本の消費が過去同様に低いままであるならば、少なくとも我々は認めなければならない。本の消費が少ないのは、読書がドッグレースや映画やパブほどにエキサイティングな娯楽ではないからであり、買うのであれ借りるのであれ、本の値段が高すぎるためではないのだ、ということを。
1.単なるエゴイズム 人に賢く思われ、人の噂に上りたい、死んだ後も名前を覚えられていたい、子どもの頃に冷たい仕打ちをした人間に大人になってから恨みを晴らしたい、などなど。こういったことが動機、しかも強い動機である、ということを認めないのは大ウソだ。作家というのはみなこういう性質を、科学者、芸術家、政治家、法律家、兵隊、成功した実業家など、言ってみれば人間世界の一番外側の層の部分にいる者たちと共有しているのである。人類の大部分の者たちはさほど利己的ではない。だいたい三十歳を超えると個人的野望を捨て去り――たいていの場合は本当に個人であるという感覚さえほとんど捨ててしまう――あくせく働く仕事のおかげで息も絶え絶えに、概して他の者のために生きていく。しかし最後まで自分自身のために生きようと決意した、才能に恵まれ、かつわがままな人間というのも少数ではあるが存在し、作家はこの層に属す。真剣な作家というのは一般的にジャーナリストに比べて金には無頓着だが、より虚栄心が強くて自己中心的であると思われる。
聖者というのはいつだって、潔白が証明されるまでは有罪扱いされなければならないものだが、潔白かどうかを試す方法は、もちろん、誰の場合でも同じというわけにはいかない。ガンジーの場合に人々が知りたいと思うのは、どの程度まで彼が虚栄心に動かされていたのか――つまりは、お祈り用の布の上に座って精神力のみで帝国を揺るがせた、慎ましい裸の老人という自意識に、どの程度動かされていたのか――そして本質的に威圧行為や 欺瞞 と切っても切り離せない政治の世界に参入することで、自らの原則を曲げるものと、どの程度妥協したのか、ということだろう。決定的な答えを導きだすためには、ガンジーのしたことや書いたものをこと細かに検討しなくてはならないだろう。彼の人生そのものがいわばある種の巡礼であり、すべての行動が重要な意味を持つからだ。しかし一九二〇年代の記述で終わっているこの不完全な自伝(1) は、ガンジーなら自分の人生において、生まれ変わる前の部分とでも呼んだであろう時期を扱っていて、聖者あるいはそれに準じるこの男のなかに、その道を選んでいれば弁護士や役人、あるいはビジネスマンとしてさえ立派に成功したであろうような、抜け目なく有能な人間を読者が見つけることができるために、なお一層ガンジーを検討するための強力な材料となっている。
オーウェルは「なぜ書くか?」にあるように幼少期から自分は作家になるのだという感覚を持って育ったと言うが、名門イートン校から大学に進学せずに選んだのは英領インドでの警官職であり、幼少期に離れて以降あまり会うことのなかった父と同じ職を選んだ背景に文学的野心があったようには思えない。しかし、ビルマでの経験はオーウェルを帝国主義のあやまちに目覚めさせ、「象を撃つ」「絞首刑」といった初期の名エッセイの材料を提供することとなる。そして、生涯で刊行した小説作品は六作、ルポルタージュとして『ウィガン波止場への道』(一九三七年)、『カタロニア讃歌』(一九三八年) などがあるが、とにかく書き続けた多産なオーウェルが残したもので分量的に大きな割合を占めるのは、各誌に書いたエッセイ、評論の 類 であり、『葉蘭を窓辺に飾れ』(一九三六年)、『空気を求めて』(一九三九年) といった小説作品があまり成功しているとは言い難いことを考慮するなら、こうした評論においてこそ、オーウェルの作家的力量が十分に発揮されているようにも思える。
オーウェルは書斎の人ではなく行動の人であった。ビルマで警官職に就き、帝国主義の手先となった経験からその欺瞞に気づき、現地の人々を実質的には支配しながら、実は支配者という仮面に拘束されて、被支配者の前で 面子 を失わないことに全てをかけるほどに追い込まれている自分を発見する。
右であれ左であれ私の国」は、いざ戦争となったら母国のために戦うだろうというオーウェルの母国愛を書いたものだが、ここにもオーウェルの思想の一端が垣間見られる。それは人は自分の周りの人々や環境を愛するものだ、という極めて現実的な真理である。
国家としてのイギリスやその政治体制ではなく、その土地、文化、風俗、そして人々といったものをオーウェルは愛した。政治体制が変わっても同じままであるように感じられるその場所にまつわる「何か」を愛した。「おいしい一杯の紅茶」もそういった英国の民衆文化への愛に基づいたものだ。
エリック・ブレア(オーウェルの本名)、インド、ベンガル州のモチハリにて生誕。父は英領インド阿片局に勤務する下級官吏。生後間もなく母、姉とともに帰国し母一人の手によって育てられる。定年までの七年間で父が帰国したのは一度きりであった。幼少期のエリックは神経質で内向的。フロンキーという名の架空の友だちを作りあげる。
私立予備校のセント・シプリアン校入学。名門のパブリック・スクールから奨学金を獲得するという宣伝効果を期待され、月謝を半額に免除される。そのことでエリックは「負い目を感じさせられた」と語っている。のちに文芸批評家・作家となるシリル・コノリーとこの学校で出会い友人となる。オーウェルはのちに「あの楽しかりし日々」というエッセイでセント・シプリアンや教師たちを大いに批判する。
『一九八四年』こそ広く読まれていても、ジョージ・オーウェルは今ではかつてほど一般読者に馴染みのある作家ではなくなっているのではないだろうか。ひょっとしたら『一九八四年』の印象からSF作家だと思っている方も多いかもしれない。 かつて日本ではオーウェルが広く読まれていた時代があり、代表作とされる二つの小説作品以外にも彼の著作の多くを日本語で読むことができた。
また、解説でも書いたが、オーウェルのことばが現在の急変する世界について考えるのに非常に重要だという思いもあった。歴史におけるファクトとフェイクの問題、国家と個人の問題、ナショナリズムの問題、こういったオーウェルが取り上げたテーマは二十一世紀を生きる我々に多くの考えるヒントを与えてくれる。日本の読者にとって簡単に手の届く場所にそれを置いておきたいと思った。
時代や社会に流されることなく本当のことを主張し続けたオーウェルのことばが、それを必要としている人たちに届いて、モノの見方を変えたりなんらかのヒントになれば、そしてその結果世界が少しでも真っ当になり、豊かになれば、これに 勝る喜びはありません。一人でも多くの読者に届きますように。
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動物農場とその解説を読んで、オーウェルについてもっと知りたいと思って選んだ。解説内で「彼は書斎の人ではなく行動の人だった」と記載があるが、彼の行動やその時の心の動きについてリアルに描かれていることに親近感を覚える。一番印象に残っているのは「なぜ書くか?」。政治的な目的もあって書いている、ということを、はっきりと本人が認めている点が新鮮。