現代詩のような短編集
2020/03/17 03:18
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投稿者:une femme - この投稿者のレビュー一覧を見る
言葉遊びが、ところどころに散りばめられた現代詩のようであり、しかし、エッセイのような、一つずつの物語になっていて、とても面白い。
思索的自由な散歩
2023/01/28 11:39
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投稿者:ichikawan - この投稿者のレビュー一覧を見る
散歩と思索というのは相性がいい。「わたし」がベルリンの通りを散策しながら思考をめぐらす作品であるが、堅苦しいものではなく、言葉に導かれ、自由奔放に歩き回る作品である。
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投稿者:とめ - この投稿者のレビュー一覧を見る
ベルリンの街路で散策という孤独遊び、言葉遊びそして妄想遊びを楽しみつつ、接吻する度に舌と舌が細胞情報を交換し合うなどといった感性をも披露する自己チュー的なお話。
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面白かったです。
ドイツの様々な通りを散歩しながら、あの人のことを考えたり、不思議な人たちに出会ったり、歴史的な物事に接したり。
言葉遊びも豊かでした。ドイツ語がいきなり出てきますが、意味も書いてありました。
なかなかおいそれと外出出来ない昨今ですが、状況が落ち着いたらわたしも色々考えたり考えなかったりする散歩に出かけたいと思いました。
ドイツの「FUTON」に「Hokkaido」という名前が付いてた、という文を見て、昔イギリスに住んでいたことのある同僚が「日本のポッキーが『Mikado』という名前で売ってた」と言ってたのを思い出しました。帝。。
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ベルリンの街並みと多和田葉子の想像力、言語力がゆるやかに化学反応を起こしながら散歩はどこまでも続いていく。散歩しながら思索する人は多いだろうけど、そんな人たちの頭の中を多和田仕様で覗かせてもらったような気持ち。気取らず朗らかに、足取り軽く彼女はゴドーを待っている。
散歩に出たくなるけれど、ただ同じ道を歩いても多和田葉子が拾い上げる要素の数は誰とも比較にならないように感じる。そしてわたしもこの本で、かつて歩いたことのあるベルリンの記憶を辿る。
ベルリン以外には住みたくない、本当にそう思ったことがあった。
そうだったよ、わたしも、もう一度ベルリンに行きたい。
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文庫化。
ドイツの市街地の通りを舞台にした短編集。
主人公は著者を思わせる人物造形で、一瞬、エッセイのようにも錯覚してしまうが、間違いなく小説だった。代表作のひとつでもある『献灯使』に繋がるような造語も面白い。
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散歩、という気軽な気持ちでぷらぷらと歩く範囲など高が知れているはずなのに、知らないうちに連れ去られている。
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“川、湖、滝など、水の見える場所にすわっていると喉につかえていたものが流れて楽になる。”(p.171)
“子供は親のすべての表情、仕草、言葉を解釈できないままに記憶し、夜空のように肩に背負って歩いていく。”(p.206)
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よく判らなかった。
掴みどころのない話、というか、なんだろう、散文詩的?
最初の方は、モノローグの中の日本語とドイツ語の言葉遊びが面白かったけど、だんだん空想が膨らみすぎて妄想に近くなり、もしやこれは病んだ精神の記録か?と思うような雰囲気に。
で、待ち続けた「あの人」って?
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ベルリンに移り住んだ「わたし」の、都市彷徨。
カント通りにはじまり、マヤコフスキーリングに終わる。
人の名前のついた、大小の通りを、目的なく、というより、歩行から日常的な意味を拒むように、散歩する。
目次の裏にある地図を見て、絶句した。
ベルリンの市街区域が薄いグレーで表示され、それぞれの章のタイトルとなる通りが黒く書かれている。
もちろん、それぞれの場所に書かれているに違いないのだが、てんでばらばら、印刷の汚れか糸くずのように、ある。
最初、なんじゃ?これは地図の意味を成すのか?と思った。
読み終わった今見ると、通りだけが浮遊するかのような描き方は、この作品にぴったりな気がする。
そうか、ベルリンは人の名前を冠する通りがたくさんあるんだ。
まずそこが日本とは違う。
マルクス、ワーグナー、ルター。
私たちも知っている人名を見ると、そこに立つことで、過去に想像が誘われるのもわかる。
「わたし」の想像力は自由奔放に、時間だけではなく空間も言語や文化の壁も超えて、歩き回る。
時に言葉遊びの力も借りて。
風変わりな小説ではあるけれど、面白い。
御用とお急ぎでない方にしか、お勧めできないけれど。
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小説だと思って読みはじめたからか最初は読みにくかった。
小説ということだけど、小説というより多和田さんが散歩をしていて、考えていることをつらつら垂れ流しにしているエッセイという感じで、一緒にベルリンの街を、時空を、思考の中をふらふら歩いている気分になる。
特に最初の方は、言葉遊びが樋口一葉と雰囲気が似ていて川上未映子が好きそうな感じだなと思った。
「別宮、別宮浮かん、別空間」、「おつまず、つままず、つつましく、きつねにつままれ、つまらなくなるまで」
★「シーン」があるのは映画の中だけのことで、現実にはシーンなんてない。切り取ることのできない連続性の中を突っ走っていくだけだ。
★出逢ったかもしれない人たち、親友になったかもしれない人たちで町はいっぱいだ。そのせいか、どんなに気の合う昔からの親友でも、同じくらい気の合う人間は町にたくさんいるのだけれど偶然知り合う機会がなかっただけではないかという疑いが払いきれない。
★家に帰って待っていれば確実に会えるのだが、家ではなく、わたしが辿り着いた遠い場所まで、あの人の方から歩み寄ってほしいのだ。
★「四時に行くわ、とマリアは言った。八時、九時、十時」
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ベルリンに住む「わたし」は「あの人」に会うため町を歩く。勝手に名付けた人びとが語らう黒い喫茶店、ガラス越しにミシンを踏む人の姿が見える帽子屋、子どもの幽霊がお菓子をねだる自然食料品店。待ち合わせを永遠に引き延ばすかのようにさまよう「わたし」の歩みはベルリンの町に折り重なる何層もの歴史の記憶に分け入り、だんだんと浸食されてゆく。
ざっくり言ってしまえば、散歩中の意識の流れを追っただけ、とも言える小説。だが、散歩の合間に目に入ってくる景色と、それにまつわる知識や個人的な思い出、あるいは全然関係ない心配事などが同時多発的に頭のなかをかけめぐる、あの感覚そのものを言語化したような語り口が本当に素晴らしい。
とにかく一文一文のコストが高くて、ふんだんに盛り込まれたマルチリンガルな言葉遊びや、町の通りに名前を付けられた偉人たちとベルリンにまつわるトリビア、移民として暮らす「わたし」の実感などを読むだけで満足感がある。たとえば「果物の話は必ず政治の話につながっていく」という一文を私は心に刻んだ。散歩や普段の会話のなかに、見て見ぬふりをして考えないようにしている事柄が多いことに気付かされる。
実はグーグルマップと対照して読むことができるくらい本当のベルリンに即して書かれてもいるらしい(2017年当時)。大きな観光地はオペラ座くらいしかでてこないけれど、読んでいると「わたし」がたびたび入ってしまう味もサービスもよくない個人経営のカフェや、インスタレーションのようなガラス張りの帽子屋をのぞいてみたくなる。なにより〈歩く〉という行為をこんなに豊かに感じられるようになるまで、いろんな町に行ってあらゆることを学びたくなる。
町の記憶に語りかけ、幽霊たちと共に「わたし」が歩んでいった先に「あの人」が待つことは遂にない。どこに行けば会えるのかはっきりわかっている人と思わぬ場所で再会したい、という願いは叶わぬまま、「わたし」はベルリンという大きな「家」をでて語りから解き放たれてゆく。取り返しのつかない寂寥感と同時に、「春のような」解放感が体を包むラストの一文。物語の行く末を知るためではなく、ただただ〈読む〉ことの快楽をひさしぶりに思い出させてくれた小説だった。
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街を歩きながら思ったことがひたすらに描かれいる。
軽いなんてこと無い情景から
ベルリンの壁だったりの歴史まで
色々なことが独り言として並んでいる。
自分には抑揚がなくて辛かった。
それでも筆者の独特で面白い表現もあり、なんとか読破。
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「わたし」は散歩をしている。読者も一緒に歩き始める。でも、あれれと思っているうちに、言葉がつるつる滑って行ったり、時間と空間がずれたり、いないはずの人が現れたり。
短歌を作っていて時々、自分の中からひょいと意外な言葉が出てくることがある。見ている情景と自分の心とが化学変化みたいなものを起こしている時は、その感覚を逃がさないように、言葉の海でジタバタする。
『百年の散歩』を読んでいて、そんな心の動きに似ていると思った。
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去年初めて著者の小説(犬婿入り)を読んで衝撃を受けて他も読もう!となったものの目先の積読にうつつを抜かしていたので今年こそという思いで読んだ。本作もめちゃくちゃオモシロかった。ドイツ在住の著者による都市論がふんだんに展開されていて小説とエッセイの境目のような展開も好きだった。
実際に存在するドイツの通りや広場を訪れたときの話が延々と会話なしのモノローグで語られていてさながら著者の日記のような構成。誰かといる時間はなく常に1人で行動し、その風景とそれにちなんだ頭で夢想したことをミックスする語り口がオモシロかった。フリースタイルラッパーよろしく、1つのワードを起点にしてワードプレイを展開して想像の世界へと跳躍していく小説の楽しさがふんだんに詰まっているのも魅力の1つで言葉に生きる人の語彙力や発想の豊かさに驚くことが多かったし、この言語感覚が直で分かる日本語話者で良かったなと思えた。パンチラインも山ほどあるのもかっこいい。日本人の作家でこんなにストレートに撃ち抜かれることもなかなかない。一部引用。
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携帯は、古い家の壁にあいた穴のようなものだ。その穴から雨や風のように用件が吹き込んでくる。車窓ならば、長いこと田園風景を眺めていても、緑の中から手が伸びてきて、わたしの生活に入り込んでくることはない。
よくテレビに顔を出して自信ありげに自説を振り回すおかかえ経済学者は駄目。誰がおかかえているのか知らないけど、もしかしたらおかかが抱えている鰹節なら、経済発展節を唸り続けて、希望の味噌汁の出汁にもならない薄い栄養素と引き替えにたっぷり出演料をせしめているんだろう。
君も死から逆算し、詩を二乗しながら生きているんだろう、と同意を求めるような目が浮かんだ。
二つの色は擦り合わされるが、決してすいさいえのぐのようにみずっぽく混ざることはない。人の思いはぶつかることはあってもすっかり溶け合うことはない。水彩画でも色が滲んで混ざっている部分は美しいが、いろいろな色が自分を失ってお互い相手に溶け込んでしまうとウンコ色になる。
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最後のラインに代表されるように自立を謳う内容が多い。ただ1人行動なんだけども常に「あの人」と呼ばれる存在を気にしていて、孤独に生きること、他者を考慮して生きることの論考を繰り返している点がほとんどエッセイで興味深かった。その論考をしながら街を移動している際には余裕で時間を超越していてドイツの過去の歴史がクロスオーバーする、その軽やかさは唯一無二だと思う。膨大なカタログがあるので厳選して色々読んでいきたい今年こそ。