紙の本
珠玉の短編集
2020/09/26 17:26
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投稿者:とるまさ - この投稿者のレビュー一覧を見る
村上春樹ワールドをあちらこちらに堪能することができる短編集。
雑誌掲載時と単行本での読了後の感覚にかなり相違がある。
長編とは違う楽しみ方いつもできる。
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阪神タイガースではなくヤクルトが好き
2020/09/10 15:39
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投稿者:夏の雨 - この投稿者のレビュー一覧を見る
『職業としての小説家』という自伝的エッセイの中で、村上春樹さんは自分は「長編小説作家」と見なしていると書いています。
では短篇小説は嫌いかといえば、「好きだし、書くときはもちろん夢中」になっているとも書いていますが、「僕にとっては長編小説こそが生命線であり、短篇小説や中編小説は極言すれば、長編小説を書くための大事な練習場」ともあります。
けれど、村上さんの愛読者の中には短篇小説の方が好きという人も当然いて、私もその一人ですが、練習場で一生懸命走っているのもいいのではないか、あるいは練習を終えてこれから長編小説にはいっていくんだなと予感するのも楽しみでもあります。
おそらく2018年から2019年にかけて、村上さんは「また短篇が書きたくなってきたな」期にはいったのでしょう。
この短編集に収録されている8篇の短篇のうち7篇はこの期間に文芸誌「文學界」に掲載されたもので、表題にもなっている「一人称単数」だけが書き下ろしである。
この期間に村上さんは自身の父親について初めて書いた『猫を棄てる』というエッセイを発表(「文藝春秋」2019年6月号)しているが、ほぼ同時期に「「ヤクルト・スワローズ詩集」」という短篇も書いていて、その短篇でも父親とのことが綴られている。
もちろんエッセイと小説では描かれている世界が違うが、とても興味をもった短篇だった。
もう一篇気になったのは「謝肉祭(Carnaval)」という短篇。
その中に学生時代の逸話として女の子からもらった連絡先を書いたメモをなくす話が書かれているが、それは初期の短篇小説「中国行きのスロウ・ボート」に出てきたエピソードにそっくりで、村上さんの短篇がまるで円のようにぐるりと回った感じがした。
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タイトルも装幀もらしくない。中味はいつもの村上ワールド。
2020/11/03 22:33
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投稿者:タオミチル - この投稿者のレビュー一覧を見る
久しぶりの短編集。劇画タッチにも思える表紙と各小説のたたずまいがあまりに違ってちょっと驚く。小説は、過去を回想する男のモノローグ的な小品が並び、落ち着いたイメージ。ちなみに『東京奇譚集』に出てきた品川猿が再登場。鄙びた温泉町で幸せに暮らしていて、よかったと思う。他にも初期の小説『中国行きのスロウ・ボート』に繋がっているような物語もあったり、長く読んでいる読者にとってはいろいろ深読みできる一冊でもある。
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どれも静かな雰囲気の感じられる好短編集だ
2020/11/03 15:27
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投稿者:まなしお - この投稿者のレビュー一覧を見る
8編の短編が収められている。2018年から2020年にかけて「文學界」に掲載された7編に書き下ろし1編を加えたものだ。私小説的に見えるものもいくつかあって、今までにない感じのものもある。文体はいつもの村上春樹だ。どれも静かな雰囲気の感じられる好短編集だ。
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長編が読みたい
2020/09/01 05:28
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投稿者:もっと自由に - この投稿者のレビュー一覧を見る
村上春樹さんは、流石だなぁ、上手だなぁ、すごいなぁと思わせられますが、どうしても長編が恋しくなります。
次回作の長編がいつになるかのわかりませんが、楽しみに待ちながら、焦らずゆっくり短編を読んでいます。
紙の本
村上主義者しか買わないか…
2020/08/18 08:09
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投稿者:コアラ - この投稿者のレビュー一覧を見る
ううむ,何年かぶりの短編集ということで購入。そして後悔。これって著者が村上春樹でなければ売れるだろうか?評者は一応ファンなので買いましたが,ううむ,これはひどい。芥川賞でも取るつもりなのだろうか,と思わせる作品集だ。とりわけ最後の「一人称単数」は,なんか学生の同人誌に載っていそうな作品だった。
著者の最良の作品は「羊をめぐる冒険」なのだろうか?
まぁ,誰も評者の批評なんか気にしないだろうから,好き勝手に罵詈雑言を書かせて頂きました。ちゃんと税金を払った残りのわずかな箇所分所得から支出して買いました。評者は村上主義者です。次回作に期待します。
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人生を変えたほどでもなく、ずっと忘れずに覚えているほどでもないが、なにかのきっかけで思い出した印象的な出来事を小説にした印象。実体験に基づくものなのかどうか分からないが、そのように思わせるのがやはり作者の筆致によるものだと思う。村上作品で一番最初に読んだ「回転木馬のデッドヒート」を思い出した。個人的には好きな部類。
「ウィズ・ザ・ビートルズ」〜品川猿の流れまでは好きなんだけど、表題でもある「一人称単数」の後味が悪く、満点ではないかな。
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石のまくらに
学生時代のバイト先の年上女性、美人ではないの送別会
時給が悪いのでためる。
彼女は小金井に住んでいたが遠いので自分の住む阿佐ヶ谷に泊めて。
一晩限りのセックス。
つきあっている片想いの男が身体をもとめてくる。
男は別の女、美人がいる。
いくときのその名を言ってもいい?べつにかまわないけど。
名前は普通の名前だった。
大きな声をだす。されはちょっと困る
タオルをくわえてもらうことにした
翌朝、文学部に通っているという。
小説家になりたいの?
とくにそういうつもりはない。
彼女は短歌を書いていた。泊めてくれたお礼に自分の短歌集を郵送
28冊め。短歌についてはわからない。
言葉は忘れた。古い短歌集を手に取って読むことの意味もわからない
タオルに残った彼女に歯形は忘れない。
クリーム
小学生の頃、一緒にピアノを習ったお嬢様からピアノ発表会の招待状。
なぜ、よばれたのか?連弾で間違えると舌打ちが聞こえた。
神戸の丘の上の発表会場に到着。門扉には鍵がかかっていた。
近くの四阿のベンチに座る。気が付くと老人がいる。
中心がいくつもあり外周のない円 むずかしいことを考える
クリームの中のクリーム しょうもないつまらんこと
意味不明のことを言い、気が付くと消えていた。
この話を友人に話す。
答えみたいなものはみつかりましたか?
どうだろう。
心を激しく揺さぶられた時、この円について考えた。
チャーリー・パーカー・プレイズ・ボサノヴァ
学生時代に書いた架空のアルバム批評
A面
コルコヴァド
ワンス・アイ・ラウド O Amor em Paz
ジャスト・フレンド
バイバイ・ブルースChega de Saudade
B面
アウト・オブ・ノーホエア
ハウ・インセンシティヴInsensatez
ワンス・アゲイン Outra Vez
ジンジ
雑誌の掲載された後、抗議の手紙が何通か届いた
15年後、NYのレコード屋で同じタイトルLPを発見
プレイヤー故障で視聴不可。35ドル。購入やめたが翌日買いに行く
店主がそんなレコードはない。ペリーコモシングズジメヘンならある
冗談を言われた。店主が帰り際に、もしあったら私もききたい
バードが夢に出てきた。コルコヴァドを吹いた。
34才、始まったばかりで死んだ。死ぬときに口ずさんだのはベートヴェンピアノ協奏曲1番と3番。スイングしている。今一度の生命をくれてありがとう。
ボサノヴァを演奏させてくれてありがとう。
信じたほうがいい。実際にあったことなのだから。
ウィズ・ザ・ビートルズ
高校の廊下で1回だけすれ違った英国版withTheBeatlesのLPを胸に抱きかかえた美少女
高校時代の彼女サヨコの家に約束の時間に訪ねるが不在。浪人中の兄が家で待つように。芥川の最後の作品、歯車を読みながら待つ。兄から朗読を依頼。サヨコには話すな。兄は突然、数時間記憶がなくなる症状で大学受験していない。嫌いな誰かを殺して記憶がないのは困る。父親の頭をバットで殴るかも。
彼女から来週と間違えてると帰宅後、電話。
彼女とは東京に好きな娘ができたので分かれた。打ち明けると何も言わずに去った。
女性の身体がどんな風になっているかを教えてくれた。
18年後、兄と渋谷で遭遇。朗読後、記憶障害なくなる。大学進学。父親の会社勤務。
サヨコは3年前に子供二人残して睡眠薬自殺。遺書なし原因不明。
ヤクルトスワローズ詩集
デビュー3年、300部印刷。現在手元にない。高値がついている詩集。
右翼手、島の影、外野手の尻、島の影、海流の中の島
下宿先から歩いて行ける神宮球場。ガラガラの外野席でビール観戦。黒ビールが一杯目。売り子を呼ぶ、すいません黒ビールなんです。
子供の頃、阪神が負けると父機嫌悪い。カージナルス来日。甲子園でサインボールを受け取る。父が、よかったなあ。30才で小説家デビューした時も同じ感じ、反ばあきれて、感服。
一人暮らしの母の荷物整理。阪神先週のテレフォンカードがたくさんでてきた。
謝肉祭
クラシックコンサートひ一人で来ていた40才、既婚の醜女。仮名F*。妻も浮気の心配せず。あなたのガールフレンドと呼ぶ。
何か1曲選べ。シューマンのソナタ謝肉祭。彼女も合意。42枚の謝肉祭から、自分はルビンシュテイン、彼女はミケランジェリ。
醜い仮面と美しい素顔、美しい仮名と醜い素顔。シューマンは仮面と素顔の両方を同時に持つ。ブスがテレビに登場。資産運用詐欺師。年下の美男子夫も詐欺師。
品川猿
温泉宿で働いく猿。背中を流してもらう。部屋でビール瓶2本。生い立ちは品川の御殿場に住む大学教授に育てられ喋れるようになった。ブルックナーの7番、3楽章好き。自分は9番。
群馬の山に放たれてが。コミュニケーションがとれない。雌が全く相手にしてくれない。
好きなのは人間の女性。女性の名前を盗む。盗まれた女性は自分の名前を忘れがちになる。
5年後、美人編集者と打合せ後に雑談。携帯がなり美人中座。予約確認らしいが戻ってきて。私の名前なんでしたっけ。最近、彼女は若年生の心配。ちょっと前に鞄を置き引き。鞄は交番前に置かれていた。免許証だけない。品川猿?猿は何年も見ていない。
一人称単数
たまにスーツとネクタイで出かける。バーに入りウォッカギムレットを飲みながらミステリー小説を読む。店が混んできて一人客美魔女が隣になった。
そんなことしいて、なにか愉しい?
そんなこと?
洒落たかっこうして、一人でバーのカウンターでギムレットを飲みながら、寡黙に読書に耽っていること。
敵対する意識を感知。沈黙を破るために。
ウォッカギムレット
人間違いをしている。洋服に詳しい。業界関係者?
昔、親しかった知り合いの知り合い。私も彼女も、あなたのことを不愉快に思っている。3年前に水辺であった、自分がしたひどいことを、おぞましいことをなさったか。恥を知りなさい。
席をたった。
私の知らない誰かが水辺でひどいことをした。自分がひどいことをしたことに気がついていない。それを怖れた。
外の木には蛇がまとわりつく音。歩行者の顔はなく、硫黄のような黄色い息を吐いていた。
踝まで灰がつもっていた
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まあ、分かったような、実際にあったようななかったようなお話の数々~学生時代のイタリアンレストランのバイト仲間の年上の女性が辞めるときに、僕のアパートに泊まって、そういう関係になったが、後になって自作短歌集が送られてきた(石のまくらに)。浪人時代、高校1年で已めたピアノのレッスンの1つ年下の女の子から、神戸の山の上の小さなホールで行われるピアノリサイタルの招待状が届いたが、そんな催しは行われず、帰りに寄った四阿で白髪の老人に人生の教訓を垂れられる(クリーム)。チャーリー・パーカーがボサノヴァを吹いた架空のレコードの評を書いたのだが、バードが礼を言う夢を見る(チャーリー・パーカー・プレイズ・ボサノヴァ)。初めて付き合った女の子の家で帰ってこない彼女を待つ間、彼女の兄に芥川の歯車を朗読して聞かせ、彼が少しの間、記憶が飛んでいる話を聞かされて、再会したのは三十代半ばで、別れた彼女が結婚し子どもを産んで、自殺の道を選んだことを聞かされたが、同じ学年のビートルズのレコードを抱えていた少女は何処に(ウィズ・ザ・ビートルズ With the Beatles)。神宮でヤクルトの試合を見るのが好きで、詩まで創っている(「ヤクルト・スワローズ詩集」)。クラシックのコンサートで出会った醜い女性と懇意になり、シューマンの『謝肉祭』を評し合う仲になったが、音信不通になったと思ったら、資産投資詐欺で捕まっていた(謝肉祭(Carnaval))。品川の大学教授に言葉を教えられた猿は高崎山に放されて馴染めず、温泉宿で働いているが、背中を流してもらい、ビールを飲ませてやると、恋情を抱くのは人間で、女性の名前を盗んで満足するのだと告白する(品川猿)。着慣れないスーツにネクタイを結んで馴染みでないバーでウォッカ・ギムレットを飲みながら文庫本を読んでいると、かっこいいと思っているのかと絡んでくる女が居て、地下の店から逃げてくると、人々は真っ白な灰が積もっている歩道を黄色い息を吐いて行き交っていた(一人称単数)~私より先輩だから、ディスクなんぞと言わずにレコードと言って欲しいし、トランジスタラジオのメーカーはパナソニックじゃなくて、ナショナルと言って欲しかったね。レコードに表と裏があったことを久しぶりに思い出した
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いつもの村上春樹という感じ。最近書く側視点で読んでしまうところがあり,そこから見るとやっぱり上手いなぁとは思う。「品川猿」が妙に心に残る。
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ちょっと不思議な短編集。
言葉の並び音が気持ちいい。
正直、まだ理解しきれてないのだけど、故に何回も読んでみたくなる、不思議。まぁ、読まないけども。
著者本人の事だったりする?話もあり。
「品川猿の告白」が奇妙な感じで面白かった。
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村上春樹の久しぶりの短編集。遊び心がいつもより少し多めに含まれているような印象を受ける。タイトルの『一人称単数』が示す通り、収められた八編の短編はすべて一人称で語られる。
村上春樹が、自身が書く小説の人称のスタイルを意識的に変えてきたことはよく知られている。まず、デビュー以来しばらくは一人称のみで小説を書いている。『風の音を聞け』も『羊をめぐる冒険』も『ダンス・ダンス・ダンス』も、そして大ベストセラー『ノルウェイの森』も一人称で書かれていた。『神の子どもたちはみな踊る』で初めて三人称で書くことが試みられ、その後『海辺のカフカ』から長編小説も三人称で書くようになり、一人称の限界を越えた小説世界を描くことができるようになったという。そしてまた、いまのところ最新の長編小説『騎士団長殺し』では「新しい一人称の可能性みたいなものを試す」としてまた一人称の語りに戻っている。そうした流れの中でのこの新しい短編集『一人称単数』である。
2017年に出版された川上未映子との対談本『みみずくは黄昏に飛びたつ』の中でも人称について、かなり突っ込んだ話がされている。その中で、「四十代の半ばくらいまでは、例えば「僕」という一人称で主人公を書いていても、年齢の乖離はほとんどなかった。でもだんだん作者の方が五十代、六十代になってくると、小説の中の三十代の「僕」とは、微妙に離れてくるんですよね。自然な一体感が失われていくというか、やっぱりそれは避けがたいことだと思う」と年齢的な側面から、これまでの一人称への違和感が語られている。また、村上春樹の一人称の使われ方が他のいわゆる一人称小説とは少し違うという川上の指摘に対して、「それは私小説的なファクターがあるかないかという問題だと思う。僕の場合、そういうファクターはほぼまったくないから」と返している。
そういった過去の作品に対して、この短編集では私小説的なファクターがおそらくあえて意図的に出されたものとなっている。つまり、作者自身の年齢と思しき人物(=話者)が、自らの若かりし二十歳のころのことに起きた過去の出来事について振り返るという構造になっているものが多い。『石のまくらに』『クリーム』『チャーリー・パーカー・プレイズ・ボサノヴァ』『ウィズ・ザ・ビートルズ』『ヤクルトスワローズ詩集』などがそうだ。特に『ヤクルトスワローズ詩集』では、話者が「村上春樹」であるということまで言っている ―― もちろん、それでもこれはエッセイではなく小説であり、本当の村上春樹とは違うわけだが。この辺りの構成が、私小説的村上短編小説の新しい味わいでもある。
それでは、短編集に収められた個々の短編について見ていくこととする。※ネタばれ多数です。
①『石のまくらに』
「僕」がその当時やっていたアルバイトの仕事を辞めていく同僚女性の送別会の帰り、自宅の小金井まで帰るのが遠いからと言って「僕」のアパートがあった中央線の阿佐ヶ谷でその女性と一緒に降り、一夜と共にする。そして、その後は二度と会うこともなく、顔もよく思い出せない(月光に照らされた彼女の肉体と鼻の横に並ぶ二つのほくろだけは覚えているという表現がいかにも村上春樹らしい)。彼女は短歌を詠んでいて、「歌集」を一冊自費出版しているのだが、ある日、後で送ると言っていたその「歌集」が送られてくる。その「歌集」のタイトルが『石のまくらに』である。「石のまくら」は冒頭と最後に置かれた彼女の短歌に象徴的なものとして出てくる。
たち切るも/たち切られるも/石のまくら
うなじつければ/ほら、塵となる
石のまくら/に耳をあてて/聞こえるは
流される血の/音のなさ、なさ
「十九歳の頃の僕は、自分の心の動きについてほとんどなにも知らず、当然のことながら、他人の心の動きのことだってろくにわからなかった」と「僕」は言う。それでは、今の「僕」はわかっているのだろうか。おそらく、多くの他人の心の動きに触れてはきたが、わからないということがよくわかった程度なのかもしれない。十九歳のときにどうしていればよかったのかも、今もまだわからないのではないか。そして、そういう問いがもう意味がないということはわかるようになったということなのかもしれない。
ところで、「石のまくら」という言葉で、どういうものを思い浮かべるだろうか。川の小石を詰めた枕というものが実際の商品としてはあるのだが、自分が「石のまくら」という言葉で思い浮かべたのは固く黒くひんやりとした大きめの石だ。もちろんそんなものをまくらに寝る人はいないのだが、寝るときにも深層意識に届かせるかのように、まくらのように側に置く「石」=「意志」を象徴しているのかもしれない。そして、その固さに拒まれているように感じているのだろうか。
575調の短歌において6音節の「石のまくら」は声に出すとある種のごつごつとした違和感がある。あえて「石のまくら」をタイトルにも選び出した意図は、それなりに読者に解釈を期待するものでもある。違和感のある6音節の最初の1音節を除くと「しのまくら」となるが、村上春樹にとっておなじみの「死」につながっていると解釈することすら可能なのかもしれない。そう思うと先の二編の短歌は強く死を意識させるもののように感じる。「僕」への誘いの夜と、送られてきた歌集は、彼女の救いを求める声であったのかもしれない。抑えられた声。覚えておいてほしいと求める彼女に対して、「僕」は何ひとつ応えることもできず、またそのことにも気が付いてさえいなかったのかもしれない。その後の彼女の「死」さえも、と。
他にも印象的な短歌がいくつか仮構の歌集から小説の中で取られて紹介されている。短歌というフォーマットをそっと小説内に挿入する試みによって、若さのわからなさと、そして歳を取ることによってそのわからなさが意味をなくしていくことが小説として表現されているかのようだ。
あと、小金井は遠くないよ(武蔵小金井住人より)。
②『クリーム』
ピアノ教室で一緒だったそれほど仲のよくなかった女の子から、浪人中の「ぼく」にリサイタルの招待状が届く。指定された日時に行った指定された神戸の山の上の会場の扉には鍵がかかっていた。いつまで待っても誰も来る気配すらない。要するに少なくとも結果としては騙されたわけだが、なぜそうなったのか「ぼく」にはよくわからない。そして、手持ち無沙汰になり、時間つぶしに寄った近くの公園での老人との会話が小説の肝になる。会話の中で出てくる『クレム・ド・ラ・クレム』、フランス語でクリームの中のクリームという意味で、人生の最良のものを指すという。
そこに意図や原因があるのかもしれないが、それを知ることに意義があるのかもわからない、そういった理不尽な出来事というものがある。公園の老人は、「中心が無数にあり外周のない円」について考えるように若い「ぼく」に言う。それこそがクリームであり、それ以外に大事なことはないと。論理的にはありえないけれども、何かしらその論理を超えたところにあるかもしれない何か ―― その重要なものを探し続けることが人生にとって重要だと。それが何だったのかは当然書かれないし、それは見つかることを期待されているものではないのだ。開かれないリサイタルのように。そして、そのおかげで会うことになった老人との会話のように。
ここで何か引っ掛かりがあるとすると、この老人があえて「クレム(creme)」というフランス語を使ったことと、一方でこの短編のタイトルが「クリーム」となっているところである。小説を読む上で、そういった引っ掛かりは重要なキーであるのかもしれない。例えば、そこにフランス語の「クリム(crime)」=罪を読み取ることは深読みすぎだろうか。長き人生において何かしら知らず他人に対して犯していた罪(crimeよりもsinの方が合うような気もするが)、はこの短編集を貫く主題のひとつであるようにも思うのだ。
「要するにぼくは、好奇心というものの正しい扱い方を、あちこちに頭をぶっつけながら学習する途上にあったということになるだろう」―― そのころは何しろ時間は十分にありそうに思えたし、きっと自分がわからないけれども世の中ではよく知られていることが山ほどあると思っていた。そして、歳を取った後に、そのころの自分をそういう風に振り返るのだ。
ちなみに二つ目のこの短編だけが「ぼく」という平仮名が使われているが、他の短編では漢字の「僕」が使われている。理由は、考えてみたけれども、よくわからない。読みに注意することということとフランス語のつながりを見るのであれば、「ぼく」= beaucoup(たくさん)という示唆を読み取ってもよいのかもしれない。そこには、無数の可能性の中心としての「ぼく」があり、それによって仮に把捉される無数の周辺があり、それでもそこにはやはり核となるもの=「クリーム」がある、という構造なのだろうか。そう考えるのもまた自由だよね。
③『チャーリー・パーカー・プレイズ・ボサノヴァ』
「僕」が大学の学生のときに、チャーリー・パーカーの架空のアルバム(何と言ってもバードはすでに亡くなっているし、ボサノヴァを吹くなんて想像できない)についてのアルバム評を同人誌に寄稿する。それは結構面白く書けていて、パロディとしては上質なものの部類に入る。その後に出てくる、ニューヨークの古レコード屋で『チャーリー・パーカー・プレイズ・ボサノヴァ』というレコード盤を見つける話や夢の中でバードが『コルコヴァド』を吹いてくたりといったエピソードが村上春樹らしい。
言葉のもつ不思議な力と、事実の不確実さを表現しているのだろうか。
村上春樹の「架空の作品」ということでは、『風の歌を聴け』で架空の作家デレク・ハートフィールドを登場させた前科もあり、後で出てくる『ヤクルトスワローズ詩集』の件にもつながる。面白い小品。
④『ウィズ・ザ・ビートルズ』
ビートルズのアルバム「ウィズ・ザ・ビートルズ」を胸に抱えて高校の廊下を走る少女。1964年に彼女とすれ違った高校生の「僕」は彼女に恋をしているのだけれど、その姿を二度と見ることがない。心に沁みつくような若い時代の不思議な記憶というものがある。その心象イメージは、何か特別なものであるわけではないが、心の奥の鈴を鳴らすような何かだ。
「かつての少女たちが年老いてしまったことで悲しい気持ちになるのはたぶん、僕が少年の頃に抱いていた夢のようなものが、既に効力を失ってしまったことをあらためて認めなくてはならないからだろう。夢が死ぬというのは、ある意味では実際の生命が死を迎えるよりも、もっと悲しいことなのかもしれない。ときとしてそれは、ずいぶん公正ではないことのようにさえ感じられる」ー― この短編集に通底するモティーフが繰り返される。可能性の不可避な喪失とあったかもしれない過去に対する公正さ。
初めて付き合ったガールフレンドの家に待ち合わせの時間に「僕」が行くと、彼女の家には、彼女の兄を除き誰もいない。しばらく家で待つ間、その兄が記憶をなくす疾患を抱えているという印象的な話をする。「記憶」は村上春樹の中でずっと抱え込まれているテーマだ。そしてその後、「僕」はたまたま持っていた芥川龍之介の『歯車』を朗読する。『歯車』は、芥川が自殺をする直前に書いた小説だ。女の子に言われた時間に行っても不在で、代わりに想定をしていない誰かと印象的な話をするというのは『クリーム』と同じ構図だ。その後、六甲山の上でそのガールフレンドには別れを告げることになり、それから二度と会うことはない。
それから十八年後に兄と再会し、その当時のガールフレンドが三年前に自殺したことを告げられる。その理由は誰にもわからない。
記憶と公正さと、その残酷さ。他人のわからなさ、についての小説。とても、村上春樹らしいと感じた短編。
⑤『ヤクルトスワローズ詩集』
1982年『羊をめぐる冒険』を出す三年前に500部を自費出版した『ヤクルト・スワローズ詩集』。500部ほど印刷したが、ほとんど売れなかったが、すべてに「村上春樹」のサインをしており、今では貴重なコレクターズ・アイテムになっているという。どうやら作り話らしいが、神宮球場で小説家になるという啓示を受けたというエピソードはとても有名なので、一応話が通っていて、くすり、とする感覚を生む。
『チャーリー・パーカー・プレイズ・ボサノヴァ』での架空のレコードの話があることとも絡んで、面白くチャーミングな小噺。
なお、ヤクルトスワローズのサイトに「「ヤクルト・スワローズ詩集」より」という村上春樹のエッセイが掲載されている。そこには、この小説の一部とほぼ重なる内容が、小説内にも登場した「右翼手」という詩とともに記載されている。
https://www.yakult-swallows.co.jp/pages/fanclub/honorary_member/murakami
また、糸井重里とのショートショート集『夢で会いましょう』でも「オイル・サーディン」「スクイズ」「スター���ウォーズ」「チャーリー・マニエル」「ビール」の五編が「ヤクルト・スワローズ詩集」から抜粋されたという体裁をとっている。ヤクルト・スワローズの存在と出会いは村上春樹にとって、とても大切な何かなのだ。
⑥『謝肉祭 (Carnival)』
シューマンのカーニヴァルが好きだということで意気投合した「醜い」女性の話。醜いが人間として魅力的でないわけではない。「その方が彼女の本質により近く迫る」という理由であえて「醜い」という表現を使うという。村上春樹の小説としてはどこかテイストが変わった小説だと感じた。本当にモデルになるような女性がいたのだろうか。
⑦『品川猿の告白』
村上春樹の短編集『東京奇譚集』に収められた短編の中に、同じく人の言葉をしゃべり、名前を盗む『品川猿』という作品がある。こちらの方も再読してみた。
あの猿にはこういう過去と、その後の人生(猿生?)があったのかと思って読むと楽しい。『東京奇譚集』の『品川猿』を知っている読者とそうでない読者では明らかに味わいが違う小説だが、そこはあえて語られず、読者に委ねられている。ここでの、ああ分かっているよという感覚は、読者としてとても心地よい。
ちなみに『東京奇譚集』の『品川猿』は三人称の小説である。学生時代を思い出すという話でもあり、自殺が出てくる話でもある。語り手のみずきに対して「みずきさんはこれまで、嫉妬の感情というものを経験したことがありますか?」とその後に自殺をする松中優子が問いかける印象的なシーンがある。村上春樹のその後の小説『色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年』や『女のいない男たち』で嫉妬がテーマに挙げられることから考えても重要で印象的な短編である。
⑧『一人称単数』
短編集のタイトルにもなっている短編で、この短編だけが短編集のために書き下ろされた作品である。また、この短編だけ「私」という人称が使われている。このことは他の短編と違う位置づけの短編――他の短編のアンカーともなる位置にある――であることを示していると言っていいだろう。
前述の『みみずくは黄昏に飛びたつ』の中で、「僕の感覚からいくと、「私」というのは、どちらかといえば観察する人なんです。「僕」という人間は、たとえば『羊をめぐる冒険』のときが典型的なんだけど、いろんな周囲の強い力に導かれたり、振り回されたりすることになる」と「僕」と「私」の違いを自ら説明している。なお、その対話の後に書かれた長編小説『騎士団長殺し』では「私」が使われている。
(過去作品でも『世界の終わりとハードボイルドワンダーランド』では、「世界の終わり」では「僕」、「ハードボイルドワンダーランド」では「私」が使われている)
「私」はたまたまバーで会った見知らぬ女性に、自分の記憶にないことで詰められ、彼女の共通の知り合いに不愉快な思いをさせたということで「恥を知りなさい」と言われる。バーを出た「私」の前には、入ってきたときの街とは違う街が広がる。バーで女性に声を掛けられる前に、「私」は「そして私は今ここにいる。ここにこうして、一人称単数の私として実在する。もしひとつでも違う方向を選んでいたら、この私はたぶんここにいなかったはずだ。でもこの鏡に映���ているのはいったい誰なのだろう?」と自問している。「他でもないこの私」という単独性について、柄谷行人が固有名とともに『探求II』で思考したが、名前について象徴的に語る『品川猿』についての話をこの短編に加えた理由が何となくわかるような気がした。
確かに人生には無数の選択がある。特に若いころには、そうでなかった可能性がたくさんあるように思えるのだ。また、思いもかけない形で、「恥を知れ」と言われても仕方ない形で誰かの人生に影響を与えてしまっていることもあるのかもしれない。可能性としての人生は、「中心が無数にあり外周のない円」だ。『石のまくらに』の「僕」は歌集を送ってくれた女の子にとり返しのつかないひどいことをしてしまったのかもしれない。『クリーム』の「ぼく」はピアノ教室の女の子にひどいことをしたために、嘘のリサイタルで仕返しをされたのかもしれない。『ウィズ・ザ・ビートルズ』のガールフレンドは、「僕」の仕打ちのために十何年か後に自らの命を絶たなければならなかったのかもしれない。『謝肉祭』の「醜い」女性に「僕」の名前が利用されて名前も知らない誰かを深く傷つけてしまったのかもしれない。いまここの私の単独性は狭さのゆえであり、またいくばくかの残酷性を必然的に含むような形でしか成り立たないものなのかもしれない。
村上春樹が父との関係に触れた『猫を棄てる 父親について語るとき』の中で次のようなある種の人生観に触れている。
「我々は結局のところ、偶然がたまたま生んだひとつの事実を、唯一無二の事実とみなして生きているだけのことなのではあるまいか」
『一人称単数』のそれぞれの物語の底を流れるモチーフとして、振りかえられた父との関係も含めて歳を経て得られたある種の人生観があるといえるのかもしれない。
たくさんの仕掛けが仕込まれている楽しい短編集。また、あらためて自分が村上春樹のファンなのだなとわかった。また後で、いろいろな読み方ができそうだ。
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彼女のお兄さんとの話が印象的だった。彼女は自殺していた。
クレム・ド・ラ・クレム=人生のいちばん大事なエッセンス
シューマンの謝肉祭を聴きたくなった。
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音楽、お酒、ファッション・・著者らしいアイテムと比喩、そして不思議な感覚の8つの短編。
(カバーそして扉の)挿画 豊田徹夜とあり、気になって調べて漫画家なのだと知り、また本書を担当した感想も読んだ。
主人公の僕は架空の人物だと思って読んでいるが、「ヤクルト・スワローズ詩集」で村上春樹本人の名前を出されると、他のお話の僕にも著者のイメージが濃く重なって感じられた。
品川猿が力尽くで放逐されたいきさつがとても気になった。
20-49
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読書に興味を持ち始めた若い頃に何を読めばいいのか分からずとりあえず手に取ったのが村上春樹だった。正直なところ面白さの半分どころか3分の1ほどしか理解できていなかったが、当時の自分は周りの人たちに村上春樹が好きだと公言していた。
有名な人だし、毎年のようにノーベル文学賞の話題に挙がる人だから面白くないわけがないと思っていた。だから初期の作品から割と新しめの作品まで片っ端から読んだ。1973年のピンボール、ねじまき鳥クロニクル、ノルウェイの森、どれも面白いと思うことにしていた。
それから20年近く経ち、さまざまな小説を読んできて漸く分かったことがある。
それは、村上春樹の小説はメタファーに隠された意味を深く読み解くところに楽しみを見出すことができないと、魅力は半減してしまうということだ。
言葉をそのままの意味で捉えても、前後の文章と繋がらず、意味が分からないことが多い。ダブルどころかトリプルミーニングにもなっているのではないかと思われるような言葉や仕掛けがそこら中にあるのだ。何か意味があるように見せかけて実は何も意味がないのかも知れない。そんなことを読者に考えさせるのも村上春樹の力なのだろう。
勿論、中にはあまり深読みしなくても抜群に面白い作品もある。例えば「海辺のカフカ」の上巻(下巻は深読みが必要だ。)や「色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年」は最高におすすめだ。
今回の短編集に関して言えば、深読みが必要な作品は半分程度の割合だ。ふとした成り行きで一夜を共にすることになった、短歌をつくっている女性とのエピソードである「石のまくら」、ある女の子から招待されたピアノ演奏会の、会場近くの公園で出会った奇妙な老人が印象的な「クリーム」は、さまざまな解釈で読むことができそうだ。
もう一つの魅力は文章から醸し出される独特の雰囲気だろう。現実と非現実が交差する幻想的且つ、ノスタルジアを感じさせる文章。いつの間にかクセになってしまい、ページを繰る手が止まらなくなるのだ。世の中にハルキストと呼ばれる人たちが沢山いることに納得できる、不思議な魅力がある。
この感覚は先ほどの二作と、若き日にジョークで書いた架空の批評と同じタイトルのレコードを、中古レコード店で見つけてしまう「チャーリー・パーカー・プレイズ・ボサノヴァ」、ビートルズのLPを大事そうに胸に抱えていた1人の女の子と、人生で初めて付き合った女の子とその兄との思い出を語る「ウィズ・ザ・ビートルズ With the Beatles」から特に感じられるだろう。
僕の記憶に残っている女性たちのなかでいちばん醜い女性との交流と、大学時代のダブルデートで知り合ったあまり容姿がぱっとしない女の子とのエピソードを描く「謝肉祭(Carnaval)」の最後にはこんな一文がある。
「それらは僕の些細な人生の中で起こった、一対のささやかな出来事に過ぎない。今となってみれば、ちょっとした寄り道のようなエピソードだ。もしそんなことが起こらなかったとしても、僕の人生は今ここにあるものとたぶんほとんど変わりなかっただろう。」
これは今回の短編集のすべての作品に共通する本質を捉えた一文でも���る。村上春樹自身の人生におけるさまざまな体験に、あってもおかしくない、でも、現実にはあり得ない虚構を混ぜ込んだ8作。(小説というよりもエッセイに近い「ヤクルト・スワローズ詩集」は除くべきかもしれない。)
村上春樹の魅力を存分に堪能出来る一冊である。