本を読むのも勇気がいる
2019/11/23 09:27
2人中、2人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:夏の雨 - この投稿者のレビュー一覧を見る
最近たまに本が読めなくなっていることに気づくことがあります。
あるいは、本を読んでも楽しくない、夢中になれない自分に気づくことがあったりして、そんな時に出会ったのが、この本。
「本を読めなくなった人」って自分のことです。
でも、そんな人に向けた「読書論」って、まるで逆説のような気もしますが。
書いたのは気鋭の文芸評論家、若松英輔氏。
あらかじめ書いておくと、この本を読んだからといって本が読めるようになるわけではない。
ましてや読書嫌いの人が本好きになったりもしない。
でも、少し勇気が出ます。
本が読めなくなっているというのは「新しい読書の次元が開けるという人生の合図」と、若松氏はいいます。
「新しい読書の次元」とは他人に左右されない、自分だけの読み方かもしれません。
「人が何を、どう、どれくらい読んでいるか」は気になります。例えば書店によくあるベストセラーの順位なんかはその顕著なものです。
それは気にしないでいい、とあります。
「他者と比べる習慣から自由になることができれば」いいのだと、若松氏は書いています。
そもそも読書そのものが自分だけの行為です。
その行為が他人と交わることもありますが、この本にあるように「読書とは、自分以外の人の書いた言葉を扉にして、未知なる自分に出会う」行為です。
本を読めなくなった人が果たしてわざわざ「読書論」を読むかどうかわかりませんが、きっとこの本を読めば、もう少し本とつきあってみるかと感じるのではないでしょうか。
読書が好きだったはずなのに読めない、という罪悪感を軽くしてくれるかもしれない
2023/03/05 18:02
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投稿者:みーしゃ - この投稿者のレビュー一覧を見る
転職して忙しくなり、スマホばかり触って本を触らなくなり、本を読むのが好きなはずなのに何を選べばいいかわからなくなった、そんな折に見つけて5日間かけて少しずつ読んだ。
この方の結論はシンプルで「本が読めないときは無理して読まなくてもよい」。読めない時期にも意味がある、読めなくなっている時は今まで出会ったことのない何かの訪れを「待って」いるのかもしれないのだから―ということなのだそう。本を読むこと、それも効率よくたくさん読むことを暗黙のうちに強いている常識の中で、読書が好きだったはずなのにと思っている人にとって、少し罪悪感の軽くなる言葉なのではないかと思う。
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読み書きどちらも自分は人より遅くてコンプレックスに感じることがあったけど、ゆっくりでいいから読み書きのサイクルを続けていこうと思えた。
>「読む」ことと「書く」ことは呼吸のような関係です。読めなくなっているのは、吐き出したい思いが、胸にいっぱいたまっているからかもしれません。
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読むこと、そして書くこと。ふたつがつながることでさらに豊かな時間となる。納得。アウトプットの大事さを忘れていた自分に気づいた。
時に、自分の読書に自信を失ったとしても、この本のおかげでとても前向きになれる気がします。
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ゆっくり心に染みました。
本がうまく読めなくなり、呆然としたことがあったので、同じような方がいるということも、少しホッとしました。
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本が読めない。特に小説がーーー。
数年前から徐々に徐々に私の中で小説離れが起こっている。
興味を持って読みはじめるが、数ページで断念した本たちがだんだんと積み上がる度、罪悪感を覚えていた。
読みたい、という欲望はあるものの、読めない自分に自信をなくしてゆく日々。
自信をなくす、というよりも残念、といったほうがいいかもしれない。
思い出すのは子供のころの、青春時代の、小説との蜜月。
あの頃に戻りたいーーー。
と思っていたところで、この本のレビューを見かけた。
無性に読みたくなり、再読を決行。
結果、安堵した。
読みたいのに読めないのは自分だけじゃない事。
読めなくても良いこと。
無理に読む必要はなく、読めるときがくるのを「待つ」こと。
再度いろいろ教えてもらった。
というか、骨身に染み込んでいて、自分で考えついたと思ったことも、この本に書いてあった。恥ずかしい。(よくあるのだ)
若松さんの文章は、私が人生経験不足だからなのか、時折よく理解できないところもあったが、読んでいると落ち着く。
「本が読めなくなった」人たちに優しく寄り添う本だった。
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「思い」「想い」「憶い」
3つめは使ったことがなかったけど、
歳をとると圧倒的に
「憶い」が強くなるかも。
慈悲という言葉に
「悲しい」という字が入っている理由もなるほど。
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読書に関する本はいくつか読んできた。
だいたい同じようなことが大切だと再確認させてくれる。
特に著者の言葉は誰よりも優しくて、じんわりと胸に響いた。
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今はネット全盛期、スマホも全世代に普及をし、
改めて読書の存在意義は、何か?この本で語られています。著者の問題意識は、なぜ読まなくなったことから少し視点をずらし、なぜ読めなくなったかに置かれています。この視点は、かなり新鮮なものでした。
本を読む必要性が、ある人とない人で、大きな格差が生まれていると思います。これは、本を読むのが、良い、悪いとは、違うことです。誰だって、「必要ならやります」。今、読書は、必要なんでしょうか?
出版業界は、このたった20年で業界規模が半分になりました。新聞も同様です。この減少が意味していることは、なんでしょうか?
現在家計に占める書籍費の割合は毎月850円です。この数字が、深刻というより、多くの人が読書に価値を置かなくなったことの裏付けできる数字だと思います。本を読む必要性がないと思う人が、圧倒的多数であることは、周知の事実で、「いや、それでも必要性がある」という問題提起は、正直意味ありません。
〇〇離れを防止するために、〇〇の必要性や意義を語りかける手法というのは、ただ業界が縮小していくと自分達が食いっぱぐれるからでしょう。今、出版業界は、「売り方」だけにこだわり、血みどろの競争をしています。本来は、「在り方」を、問うべきなのに、実体は、如何に読者が求める本を出すかに、必死になっています。いいじゃないかと思いますが、テレビ番組と同様に、実は必要ないのに、なぜか、見られている、売れているというのも書籍には、沢山あります。
売れる本が良い本というのは、わかりますが、この論理は、自滅につながるというのは、勝てばいい、儲けばいいと考える愚かさと同じです。ただ、自体は、ますます自滅に向かっている気がします。必死に努力をしても、ちっとも良くならない日本と瓜二つです。
なんとかしなきゃと思い、〇〇離れ自体を、問題にするのは、賢いやり方というより、単なる時間と労力の無駄です。〇〇離れ防止キャンペーンをやる、これは、果たして、有効な方策なのでしょうか?
本質的な問題を提起しないで、どうでもいいことを、取り上げ、必死に改善し、頑張るのは、日本人の個性と思いますが、それは豊かな時代か、登り調子の時代に許された甘い態度です。今の時代は、もうそんなことが出来る余裕なんてありません。生き残るためには、何をしなければいけないか、それぐらい日本の状況、日本人を取り巻く環境は、切迫していると思います。
大学教授や企業経営者を使って、読書離れを食い止めることは、それこそ何十年前からあるキャンペーンで、それで何か効果が上がったという話しは聞いたことがありません。
大学生の勉強時間が世界最低で、
もちろん読書量も世界最低です。
根本的な何かが、日本では機能していないと、
見た方が良いと思います。
大学教授は、読書をするのが、ほぼ職業と変わらないので、如何にしても今の状況を変えたいと思いますが、それは、説得力があるようで、私はないと思います。ここらへんに、出版業界が抱える大きな問題があると思います。権威が大嫌いなのに、権威を利用して何とかしたい、本当に浅はかな考えだと思います。
読書に変わるモノが、この数十年年で次々と出現してきました。ネットに代表される新しいメディアは、本を読む行為自体を、あまり意味のないことにしてしまいました。以前それはテレビでした。現在でも、日本人平均で年間1200時間テレビを視聴しています。生活時間を15時間とすると年間80日です。
以前もテレビが読書を駆逐してしまったと言われましたが、ただ両者は割と相性が良いのか、共存している状況でした。どちらもあるまとまったコンテンツを読者や視聴者と呼ばれる受け手に語りかけるスタイルでした。
しかしネットは違います。何かを発信したら、すぐにフィードバックがある。これは、読書やテレビよりハマると思います。まるで依存症患者のようになるぐらいまでハマります。ある面では、ユーザーに至福を与えてくれます。その代償はいったい何か?読書とも、テレビとも違うことは、確かです。
読書は、読み手が能動的に著者の問題提起を理解し、自分なりに解釈する必要がありました。読み手の知性によって、受け取り方が全く違いました。子供向けの絵本が、何十冊の本を読むより、メッセージと優れていることを、経験できる、こんなことは、ザラにありました。
テレビは、視聴者が一方的に伝えたい側の問題意識を、驚くほどの情報量で、訴えかけられます。視聴者が、その問題を理解するというより、圧倒されてしまう現象が多々起こります。おまけに、ビジネスモデルの中核である企業広告を、これでもかと、見させられまし。それを毎日、毎日、テレビ番組を見れば、何かの感覚が麻痺するのは、当たり前です。
では、ネットはどうでしょうか?これは、ユーザー同士が双方向に問題意識を投げることができます。しかし、匿名性の特質なのか、問題が理解され、解決に向かうことは、ほとんどありません。必然的にネット世界は、カオスの体をなしています。
本の世界、テレビの世界、ネットの世界、
これらをバランス良く「使う」のがいいでしょうが、現実は、「使われる」状態になり、貴重な人生の時間が、どんどん奪われているのが実態だと思います。それをどうするかの答えを何に求めるか、一人一人が真剣に考えなくては、いけないことかもしれません。
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今月本屋で見かけてそのまま購入。腑に落ちるというか、納得できた本。なんと言うか、気が楽になった。以前から量も少ないし、読みは浅いしで、こんなのじゃ本を読んでるとは言えないなと心のどこかで思っていた。だけど、これからも細々とでも読み続けていきたいと思えた。おそらく繰り返し手にする本。
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著者のことは100分de名著という番組で、とてもわかりやすく優しい口調で哲学的な内容の作品を紹介してくれる書評家として知った。私が本を読めなくなっているのは、単に時間がないというだけではないのだと、この本を読んで気付いた。示唆に富む言葉と「コトバ」や本の数々。例えや引用も交えて、説得力抜群。字も大きくて気持ちを楽にしてくれる。量でもなく、話題性でもなく、自分の中にある大切なものを発見できる読書。それをめざそう。
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まず、タイトルにも魅かれたが、読み進めていくうちに、この著者の読書や人生に対する真面目で優しい、そして深い態度にひかれていった。
活字も大きく、行間も広く、それだけでも本を読めなくなった人に対する思いやりがあるように感じた。
本を無理して読む必要はない。それは自分の内からのメッセージでもあり、読めない本にも意味はある。。。本は私たちがいつか戻ってくるまで、じっと辛抱強く待っていてくれる存在だと気づかせてくれる。(コアラ)
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最近どうも本を読み切るのが苦痛だったり、長く感じたり、そもそも読みたいという本に出会えなかった。結果、誰かがいいという本、仕事に必要な本、ベストセラーに走り、本屋さんに行かず、Amazonでばかり買っていた。昔は仕事の帰りに毎日のように書店に立ち寄り、買う日もあればうろうろするだけの日もあった。しまいにはKindleにどんどんダウンロードして積読。Audibleで速度を速めて聴いて読み終える。そんな読書は今の自分に必要なかったのだ。だから読まなくなっていたのだ。
ハッと気づかされたのは、
多読がいいことという思い込み、同じく速読がいいという思いこみ。誰かが勧める本が自分に合うとは限らないこと。言葉を、自分に必要な言葉を探すために読書をするのだから、時に立ち止まり、考え、何年かけて読んでもよいということ。
著者の語り口はとても優しく、まるでカウンセラーの先生の話を聞いているようである。押しつけは一切なく、心が楽になる。
仕事でも言葉に多く関わる。自分の言葉を育むため、これからは自分のための本、言葉をゆっくりと探そうと思う。
著者の他の作品も読んでみたくなった。
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書くという経験でもっとも重要なのは、「うまい」文章を書き上げることよりも、自分という存在を感じなおしてみることなのです。むしろ、「うまく」書こうとしたとき、自分の心をよく感じられないことも分かってきました。
「うまく」書こうとする気持ちが、心の深みへと通じる扉を見えなくしてしまうのです。(p.41)
「読む」とは、今日まで生きてきた、すべての経験を通じて、その日、そのときの自分を照らす一つの言葉に出会うことにほかなりません。
読書とは、印刷された文字の奥に、意味の光を感じてみようとすることなのです。読書とは、自分以外の人の書いた言葉を扉にして、未知なる自分に出会うことなのです。(pp.78-79)
旅とは、行く先々の光景を扉にしながら、自分の心のなかを見つめようとする営みだともいえそうです。
このことに気がつけば、旅はどんなところへ行っても発見があるものです。あまり快適ではない旅だったとしても、思い出深く印象に残ることがあるのはそのためです。(p.120)
本が読めなくなった、というのは、決まりきった名所見物のような「正しい」読書というたびにはもう、喜びを感じられなくなったということです。
そう考えてみると、読めなくなるということをきわめて自然なことのように感じられます。
ゆっくりと光景を眺めて、さまざまなことを感じ直し、これまでの人生とこれからの人生を深く見つめ直したい、そう思っているときに、見方を決められ、せかされているわけですから、いやな気持ちがして当然です。
本が読めなくなった、ということは、自分の旅は、自分で作るときがやってきた、という人生からの合図です。
ほかの人たちがやっているように、ではなく、自分にあった場所へ、自分にあった歩調で進んでいく。そして、世の人がみるものではなく、そのときの自分が見つめなくてはならないものを「観る」ことを、人生が求めているのです。(pp.121-122)
読書で大切なのも「肌感覚」なのです。
「肌」で情報以外の意味を受け取ることができるようになると、次第に情報もしっかりと受け止められるようになります。しかし、逆はうまく行きません。「あたま」に情報が先に入ると、肌感覚は休眠することが多いのです。(p.129)
本が読めなくなっているということは、「からだ」からの肌感覚を取り戻せ、という合図なのかもしれません。
情報収集としての読書に「からだ」が拒否反応を起こしているのかもしれないのです。
かつてのように読めなくなっている。それは情報以外のものを摂りいれなくてはならない、という「からだ」からの合図かもしれません。(p.130)
「見る」を「読む」に、「物」を「言葉」に置き換えて読んでみてください。
どう見たのか。じかに見たのである。「じかに」と云うことが他の見方とは違う。じかに物が映れば素晴らしいのである。大方の人は何かを通して眺めてしまう。いつも眼と物との間に一物を入れる。ある者は思想を入れ、或者は嗜好を交え、ある者は習慣で眺める。(『柳宗悦 茶道論集』)(pp.136-137)
直に「物/言葉」にふれればそ��に意味をありありと感じることができる。だが、そのためには3つのことに気を付けなくてはならない、と柳はいいます。
1つ目は「思想」です。世の中にはさまざまな「思想」があります。どんな思想でもそれを通じて見ると意味が歪んで見えてしまう。
2つ目は、「嗜好」です。もっと平易な言葉でいうと、「好き嫌い」です。好きか嫌いかの判断を先にすると、本当の姿が見えなくなる。
3つ目は、「習慣」です。先月読んだ本だから、もう読まなくてよい、という態度を柳は戒めます。人は、日々、変化している。日々、新しく世界と向き合っている。昨日興味を持っていなかった本に、今日、「人生の一語」を見つけることは、けっして珍しくないのです。(p.137)
訪れるもの、呼びかけ来るものは、いつ来るかわからない。そのいつ訪れるかわからない物が、いざ来たという場合、それに心を開き、手を開いて迎え応ずることのできるような姿勢が待つということであろう。邂逅という言葉には、偶然に、不図出会うということが含まれていると同時に、その偶然に出会ったものが、実は会うべくして会ったもの、運命的に出会ったものということをも含んでいる。(唐木順三『詩とデカダンス』)(p.169)
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少し前、本が読めなくなった。
読みたい気持ちが起こらなくなった。
そうしたらこの本が目についたので、買ってはみたものの、読めずに放置。
最近は本が読めるようになったので、この本を読んでみた。
何だか自己矛盾しているようだけど、そういうことになってしまった。
私の場合、本を読めなくなったのは気持ちの問題で、いろいろと「頑張らねば」と肩ひじを張っている自分に疲れて、心が一休みを要求したのだと思う。
今にしてわかる。
そういう時は無理して本を読まなくてもいいのだ、と。
だけど、心は休養を求めても、頭が読書を求めていたから苦しかったんだよね。
”読書で大切なのも「肌感覚」なのです。
「肌」で情報以外の意味を受け取ることができるようになると、次第に情報もしっかりと受け止められるようになります。しかし、逆はうまく行きません。「あたま」に情報が先に入ると、肌感覚は休眠することが多いのです。”
なるほど、そういうことか。
若い頃より読みたい本は増えているのに、若い頃より読むスピードが落ちていることも辛かった。
だけどしょうがない。
年齢とともに身体能力は落ちていくのだし、年齢とともに本を読みながら作者と対話したり、自分の経験を振り返ったりと、心の中で体験することが増えているのだもの。
時間がかかるようになったけど、読書が深くなってきているような気がするのだもの。
”本が読めなくなったとき、多くの人は、その理由を外的なものに探します。しかし、ほんと再び出会い直す「鍵」はすでに自分のなかにあるのです。”
読書で大切なのは量ではなく質なのだと、受け止める自分の準備が整えば、おのずと読書と再会できると。
わかっちゃいるんだけど、読みたい本は増えていき、人生の残り時間は減っていく。
悩ましいところです。
でも無理せず、読書に気が乗らないときはぼ~っと過ごすことにしよう。
割とすぐ読書に戻ってこられることが今回わかったから。