祖たちの言葉を思い出させてくれる、命の営み
2022/02/17 09:31
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投稿者:amisha - この投稿者のレビュー一覧を見る
鹿の前足をもらった時、どうやって食べようか、一瞬躊躇した。仕事で標本や剥製にするための動物の亡骸を回収していた時のことを思い出した。自身の経験してきたことと重ね合わせながら、読んでいると共感できることが多い内容だ。
スーパーで肉を買うなとか、フライドチキンをウーバーイーツで頼むなとか言えた柄ではないが、時々、生きることについて真剣に考えてみる必要がある。特に子育て世代の人たち。一番厳しい局面に立たされている人こそ、向き合って考えてみる必要があるのではないか。SDGsとかいう頭でっかちな押し付けよりも響く。
小さい頃祖父が私に言って聞かせた言葉「自分が仕留められると思うものを食べろ。もうワシは牛は食わん。」と言って家族団欒のすき焼きの座敷には姿を見せず、祖父は台所で魚を食べていた。あの光景を思い出す。その時その時の選択が、後に生きるものの命を繋ぐということを、今になって教えられた。
本来の獣との向き合い方
2021/05/24 13:03
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投稿者:想井兼人 - この投稿者のレビュー一覧を見る
今の食肉のあり方はいかがなものだろうか。
パックに入った肉しかみる機会がない子供たちは、肉と命を結び付けて考えることなど難しいのではないか。
本書は命とは何か、肉を食べるとは何なのかを教えてくれる両書である。
革製品をおしゃれと楽しむこともいいが、本書をきっちりと読んでその実際を理解したうえで楽しんだらいいと思う。
多くの人に読んでもらいたい1冊である。
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"“死後の再生”なんて、生きることだけが目的の私たち人間にとっては観念的なものにすぎないとも言える。私自身そう思っていた。けれど、山に通い、台所で肉を捌くようになってから、少し変わってきた。観念ではなく、事実としての自分の死体の行方を考えるようになったからだ。今は、遺灰を畑に撒くよう家族にお願いしておきたいと思う。せめて、土と交わりたい。あたらしく生まれる命あるところへ。"(p.77)
"はっきりわかっている大事なことは、明日も生きるなら、まずは食べるしかないということ。考えてみれば、山の獣はじめあらゆる生き物はそうやって生きている。うちのコッコも、食べて、排泄して、産卵、以上。そんな暮らしぶりだ。大事なことから順番に考えるとスッキリする。スッキリした頭で考えていきたい。"(p.232)
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写真家の人が猟を見に行き、ついには皮なめしの白鞣しを見に行く。のと並行して、猟でとったジビエを料理して食べる、子供が養鶏をする。
なんか、すごい。
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写真家の繁延あづささんが家族で移住した長崎で出会った猟師たち。その営みを目にし、人間と獣、さらには生と死と生き方を考えるようになるエッセイ。
私も読みながらすごく考えさせられた。
目の前で獣の死を目の前にして変わっていく生死感
肉を食べるということは命を頂くということ…
「絶対、おいしく食べてやる」という思い
そして「殺すなら苦しまないように一気に殺すこと」という思いなど…
先日、友人が生きた伊勢海老をもらったということで捌きに行ったのだけど私もその時に思ったのが「殺すなら苦しまないように一気に…」と思った。ナンマンダブナンマンダブとつぶやきながら捌く私に友人は「食べにくいわ!」と言ってたけど生物の命を絶つっていう行為はなかなか覚悟がいると思う。
魚やエビとか貝とかならまだしも、獣となると相当な覚悟がいると思う。
筆者の繁延さんは「そんな罪悪感を持たないようにスーパーなどのお肉コーナーは無機質で、生き物感をわざと出さないようにしている」というようなことを書かれていて私もハッ!とした。
そうなのよ…スーパーでパック詰めされているお肉も元々は生きた生き物だったのよね。当たり前だけどそんなことを意識してない…というか意識させないようにしているだろな…
大学生の時に山の生活を学習する…みたいなキャンプみたいなのがあって、友人に誘われて参加した時に「鶏をしめて捌く」っていうのがあったのを思い出した…。
しめるのは男子がやるということになってたのだけどなかなかな感じで…泣いてる女子もいたけど…。
生き物を殺して食べるという行為
殺すということにはある意味責任がある。
今は、殺す行為を誰かが別でやってくれているから
食べる人たちは「その殺すという責任」を請け負わないでいられる。
繁延さんの息子さんは養鶏をされているそうだ
そして卵を産まなくなった鶏を自分の手で「終わらせる」ということまで背負っているそうだ。
すごいことだと思う。
メメントモリ
人の命はいくつもの命の上で成り立っている
すごい本を読んだ。
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著者は写真家。出産に関わる写真をライフワークとしている。
東日本大震災を1つの契機として、それまで住んでいた東京から縁もゆかりもない長崎へと移り住む。そこで猟師の「おじさん」と知り合い、肉を分けてもらうようになる。そうこうするうち、狩猟の現場にも連れて行ってもらえることになった。
カメラのファインダー越しに、死の瀬戸際で猛っていたケモノが、命を失うさまを目撃する。
そしてケモノは放血・解体され、肉となる。
生きものが食べものとなる瞬間。
著者は思うのだ。
絶対、おいしく食べてやる
と。
長崎に引っ越すことになった顛末。
試行錯誤しながら、「おじさん」にもらった肉の調理法をさまざま試し、おいしく食べられた時の喜び。
犬と猟をする別の猟師と、その女性スタッフの不思議な関係。
まだ幼い息子が養鶏をすることに決め、2年ほど卵を取ってから「潰す」ことにし、親子で奮闘する話。
鞣し皮職人を訪ね、その仕事ぶりを見学させてもらったときのこと。
そうしたエッセイの合間に、ケモノや猟師、解体や鞣し作業のモノクロ写真が挿入される。
元はウェブマガジンの連載で、それらを再構成し、書き下ろしを加えた作りである。
全般に生きることの手触りを探っているようなエッセイである。
食べることは生きること。
肉であったものはかつては生きていて、それを殺した延長線上に食肉はある。
死を目撃するのはやはり衝撃的だ。けれども、いやだからこそ、なのか、いのちをもらった以上は、肉であれ皮であれ、無駄にすることなく、大切に「いただく」。
そんな猟師や職人の気概を、間近で見守る著者もまた、いのちについてさまざまに思いを巡らせる。
整合性の取れた話ではない。結論があるわけでもない。
ただそうして、いのちの現場に立ち会うことで、見えてくる景色もあるはずだ。
読者もまた、著者とともにその現場に赴き、いのちについて考える。
そんな上質のフォトエッセイである。
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狩猟とそれを行うハンターたちに取材したエッセイ。
山とそこに棲息する獣たちと人間をめぐる、生と死の循環を取り上げているところなど、全体の雰囲気はこの本に推薦文を寄せている赤坂憲雄氏の著書『性食考』に類似している。獣を殺して料理し、自らの糧となるまでを追うところなどは、内澤旬子氏の『世界屠畜紀行』とも似ているだろう。しかしこの本の際立って特徴的なのは、著者の母親として出産と育児をした体験、写真家としての立場から狩猟を追う体験、そして家族と共に獣の肉を料理して食べている体験をひっくるめて描いているということだと考える。またポストコロナ文学として、野生の肉を食べている面からコロナウイルス蔓延の影響を試論しているのも興味深い。
実際の狩猟で得られた猪をはじめとする写真も多く掲載されており、著者の体験を深く追いやすいのもありがたかった。
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https://www.akishobo.com/book/detail.html?id=979 ,
https://adublog.exblog.jp/
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最近界隈で流行りな狩猟ノンフィクションの逸品です。
写真家の著書なので本人撮影の生々しくも精気溢れる獣と肉とその間の写真が挿絵がわりに使われてます。さすがはプロの作品だと雑魚は感心しきりなのです♪
写真家は狩猟を追い獣肉を喰らう日々のなかで浄めと穢れの交錯する狩猟曼荼羅を彷徨い己の業と向き合う。
山界に惹かれながら平地に留まる魂の揺れが見てとれる秀逸なノンフィクションに仕上がってます。
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鹿の前足をもらった時、どうやって食べようか、一瞬躊躇した。仕事で標本や剥製にするための動物の亡骸を回収していた時のことを思い出した。自身の経験してきたことと重ね合わせながら、読んでいると共感できることが多い内容だ。
スーパーで肉を買うなとか、フライドチキンをウーバーイーツで頼むなとか言えた柄ではないが、時々、生きることについて真剣に考えてみる必要がある。特に子育て世代の人たち。一番厳しい局面に立たされている人こそ、向き合って考えてみる必要があるのではないか。SDGsとかいう頭でっかちな押し付けよりも響く。
小さい頃祖父が私に言って聞かせた言葉「自分が仕留められると思うものを食べろ。もうワシは牛は食わん。」と言って家族団欒のすき焼きの座敷には姿を見せず、祖父は台所で魚を食べていた。あの光景を思い出す。その時その時の選択が、後に生きるものの命を繋ぐということを、今になって教えられた。
***下記 亜紀書房サイトより
「かわいそう」と「おいしそう」の境界線はどこにあるのか?
山に入るたび、死と再生のダイナミズムに言葉を失いつつも、殺された獣を丹念に料理して、一家で食べてきた日々——。
獣を殺す/料理する/食べる。
そこに生まれる問いの、なんと強靭にして、しなやかであることよ。
いのちをめぐる思索の書。
母として、写真家をして、冒険者として。
死、出産、肉と皮革を、穢れから解き放つために。——赤坂憲雄氏、推薦!
【目次】
はじめに
序章 獣の解体と共食
第1章 おじさんと罠猟
第2章 野生肉を料理する
第3章 謎のケモノ使い
第4章 皮と革をめぐる旅
おわりに
著者紹介
繁延 あづさ(しげのぶ・あづさ)
写真家。兵庫県姫路市生まれ。桑沢デザイン研究所卒。
2011年に東京。中野から長崎県長崎市へ引っ越し、夫、3人の子ども(中3の長男、中1の次男、6歳の娘)と暮らす。雑誌や広告で活躍するかたわら、ライフワークである出産や狩猟に関わる撮影や原稿執筆に取り組んでいる。
主な著書に『うまれるものがたり』『永崎と天草の教会を旅して』(共にマイナビ出版)など。現在「母の友」および「kodomoe」で連載中。
ブログ「きょうのできごと」
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すごくいい本を読んだ。無駄な文章など1行もなかった気がする。評価は☆4.5です。
山で実際に獣を追い、自らの手で殺し、捌いて得た肉とスーパーにきれいにパックされた肉。同じ肉でもその尊さには圧倒的な差がある。
生きるためには食べなければならない。その基本原理にある“食べるためには生き物を殺す”ということを知らなくていいはずがない。そして目の前で息絶えた獣の肉だからこそ「絶対においしく食べてやる」と食を大事にする心が芽生えるのだろう。
子供も自ら生食べるためとわきまえたうえで動物を飼い、食と命という隣り合わせの真実に向き合っている。
そんなことはあまり考えもせず、多くの人が洒落たレストランできれいな服を着て美しい皿に盛られた肉をいただいていることだろう。
図書館で借りて読んだけれど、これは買っておこうかな。
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近所のおじさんから猪の肉をもらうことから、狩猟と、獣の肉を食べることについて書かれている。文章と写真が秀逸。スーパーに並ぶ肉がいかに異様なものであるか、これを読むとよくわかる。
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狩猟の話はつい読んでしまう。ぼく自身は狩猟はやらないし今後もやることはないだろうが、山を海や川に、獣を魚に入れ替えれば、ぼくのやる釣りになる。たぶんぼくは、ほかにいくらも食べるものがあるのに、わざわざ山の獣や川の魚に迷惑をかける、その合理的な理由、もしくは免罪符のようなものが欲しいのだろうと思う。
誰かが狩りや釣りをしようとしまいと、食べ物としての肉や魚はスーパーに行けば所狭しと並んでいる。きれいに包装された肉や魚は、その状態でどこからかポカンと飛び出してきたわけではない。命を奪う作業をほかの誰に押し付けただけの話だ。ぼくらが肉や魚を食う以上、命を奪う過程をほかの誰かに任せてそ知らぬ顔をしているべきではない、という考え方はわからないでもないが、なんとなくもやもやする。
本書にわかりやすい答えが書いてあるわけではない。著者自身は狩猟はやらないので、狩猟者本人より、命を奪うという行為の重さについて自覚的なのかもしれない。
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「川と皮と革 すべてをかわと読むのはそのつながりを示している」
「ニワトリと卵と息子と思春期」を読んで読みたくなった。
人は様々な命を咀嚼して取り込んで生命を維持してるのに、その命のサイクルから逃れてるわけか、、
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「衣」に注目して、集った本たち(1)
『山と獣と肉と皮』(繁延あづさ著)(Recommended by Hirotake Furuoka)
動植物を問わず、生き物は食べる⇔食べられる関係で繋がっているので、地球上の食物連鎖はドラマチックです。大雨のなか、鹿や猪はどうしてるのかしらと、ふと思いました。
鳥獣被害が深刻とはいえ、捕獲した鹿や猪の生命に感謝を。著者は気合を入れて調理します。美味しそう~。死から再生へと、本からジビエの豊かさが伝わってきます。
だがそればかりではありません。タイトルが表しているように皮革にも意を注ぐのです。今回のテーマは「衣」でした。そこで、「人間は毛皮を脱ぐことを選んだ!」という説に注目した大岳さん。なんと鋭い着眼でしょう。著者は言います。「胎児は母親の胎内で人類にいたる歴史を再現する。私たち人間もいっとき獣になるのだが、胎内での体毛の退化によって、毛に代わるものを別の生きものから調達する。それが衣服ではないか」と。生きものの関係は食のみではありませんね。