ネットに侵入する書評
2015/12/27 03:17
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投稿者:朝に道を聞かば夕に死すとも。かなり。 - この投稿者のレビュー一覧を見る
まず、男性向け自己啓発書の研究からある特徴が浮かび上がってきます。288ページに図表があるんですけどね。
ラフにまとめると「自助努力で、社会よりも自分の変革が大事で、読む人は自分の意味を再確認する日常的参照点になっている。対人関係論では特に同僚との差異化・卓越化がうたわれている。稼いだ金は自己投資して、仕事特化で奥さんとかプライベートなことはあんまり言わない。人称性が大事なので、書き手のプロフィールは売りの大事な要素。
女性向けの啓発書のポイントは「自分らしさ」の内面重視。他者から与えられた人生のレールに無自覚に流された結果のネガティブな象徴としておばさんは対置される。感情的手がかりから自己の「好き」から自己変革するのを尊重する。女性は自らの内面を重視することが求められるのは、結婚や出産等のライフイベントによって人生が分岐する度合いが強いため。
次に手帳術です。
手帳術は、私たちにとって最も身近な自己啓発への入口です。日記みたいな感じで振り返っていた手帳は、振り返るものから予定するメディアへ予測するメディアになりました。人生目標の導出実現もできる、就職活動や恋愛等にも応用できるとされました。時には夢を書けだなんて言う。優先順位の判断力や情報処理能力の上昇に手帳は手軽なツールとして用いられます。
片付け術ではこんなことが書いています。
自分のときめくものしか置かないスペースは自分だけのパワースポットになりうる。また物を減らしていくときはデトックスと表現される。私的空間の浄化は人生や自己変革に関わる営みとして位置付けられている。自己啓発界は、「掃除」を発見した。老荘思想などの東洋思想を範として心の世界に注目がなされていた。
掃除を啓発の契機とし、私的空間をパワースポットとして魂が休息する場所とする。社会は自己啓発書の中に直接描かれることはほとんどなく、社会のせいにしても僕らの未来は開けない。掃除・片づけ・収納もセルフブランディングなわけです。
社会を変えるよりも自分を変えよ、今ここに満足せずより高みを目指すプロスペクティブな入り込みが深くなればなるほど、自己啓発を通じた存在証明の感覚もまたより真正性を増していくことになります。
「複雑で先が見えない社会だからこそ、自分がしっかりしなきゃ」っていうイデオロギーに、自分は変えられるというマインド。自己確認をする社会、社会に期待せず、自助努力でなんとかすることを求める私たち。
なんか、大変ですね。
自己啓発の傾向から見る社会学
2016/10/28 11:02
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投稿者:390 - この投稿者のレビュー一覧を見る
店にあふれる自己啓発書から見る社会学。啓発書の傾向から、時代の価値観――「生きづらさ」が見えてくる。斬新かつ新鮮で面白い。
書店の啓発書コーナーをナナメに見つつ、「でも売れてるんだよな」とほのかな興味も抱いているヒト(私もその一人…)にオススメ。
啓発書をずっと敬遠していたが、むしろ読んでみたくもなった。
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なんとまあ、こういう研究が存在するのか。男性は成功せよ、女性は自分らしくあれ。何歳までになにをしておけ、意識高い人々をナビゲートしてくれるビジネスマン向けの自己啓発本だけでなく、女性ターゲットではモノにこだわる雑誌an・anのインテリア特集、ときめく片付け「こんまり」、風水Dr.コパ、片付けで人生が変わるカレン・キングストン。ここ最近のトレンド手帳術、ビジネスマン必携の手帳の活用の仕方、ほぼ日手帳の販売戦略などなど、あらゆる今の生活をもっと素敵にするための指南書を分析。
面白い本だが、読んでいてなんだかだんだん気持ち悪くなってきた。この本が悪いのではなく、自己啓発書であふれている世界の不気味さ。書店が広告のカタマリに思えてくる。
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自己啓発本研究の第一人者(?)である牧野氏の2冊目。男性・女性向けの年代本から始まって、手帳、片付けまで。それぞれがどういう争点で、どういう差異を作りだそうとし、それぞれの中で互いにどう闘争し、それによってどんな「界」が生まれているかを探る試み。
ヘゲモニックな男性性を追いかけるもの、自分らしさの追求、通して見えてくる「自分」というものをコントロールできる、技術的なものとして扱える対象であるとする思考。
非常に面白かった。
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現在の出版業界を席巻している自己啓発本を通じて、社会の思想の流れを解こうとする社会科学の本。当初は自己啓発本を批判的に解説しているだけかと思いきや、世の中の「薄い思想」の流れを的確に捉える材料として非常にまとまっている。
自己啓発本は自己を高めるあるいは変えるための書、主にミドルクラスの就業者に読まれている。1960年くらいからあるが拡大してきたのは80年代、男性は仕事での卓越性を女性は自分らしさを一貫して追求しているが、その中でも社会の変化に応じてその中身であるテクニックは変わってきている。日常が人生につながっておりそれを変えることで人生が変わると説いているフォーマットが基本。この本で取り上げられているジャンルは、世代本、手帳術、片付け。
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雑誌に書いた記事を本にしたようで、対象が不明。大学院生がこれを真似して論文を書くと落とされるかもしれない。ビジネスマン相手の本ならいいかもしれない。
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借りたもの。
自己啓発本ブームは、社会にどのような影響を与えているのか?を統計を基に検証する本。
1970年代~2015年までの自己啓発本の内容の変遷についても言及。
ビジネス、ライフスタイル、スピリチュアルまで……多様に思える自己啓発本だが、男性向けと女性向けがあり、男性向けは「仕事効率・能力アップ」、女性向けは「家事や役割に囚われず、自分らしさを実現すること」になるという。
結論としては、手段の変容でしかなく、根底にあるものは何も変わっていないという。
生き方、手帳術、片づけと変わっても、そこには男性には「仕事効率を上げるため」のマネジメントであり、女性には「自分らしくあるため」の手段でしかない。
巻頭には編集者によるテンプレート化も指摘しているものの、世間が求めるステレオタイプのイメージから、世間は抜け出せない現実もあるようだ……
それでも、わずかながら内容が変わるのも事実だと私は思う。
特に今は、女性の社会進出に伴い、女性のお金との付き合い方、家事・育児……そして男性は仕事ばかりで良いのか?という、家族の在り方(性別役割分担の弊害が明確化されてきた?)を見直す事が、急務のような雰囲気がある。
(文中で引用されていた多賀太の文章は、私には性別役割分担の権化にしか見えなかったので、憤りを覚えた。男の存在価値がこの人の提唱する家庭には無い)
自己啓発本が多く書店に並ぶのは、それを解消する手段を探しているからではないだろうか……?
それは自己啓発本が促したのか、世相に敏感な著者たちが取り入れたのかは、判然としなかった。
著者は僅かにほのめかしただけだが、男の「仕事」と女の「自分らしさ」の壁が瓦解すると時が、真にその効果が現れた事になるかも知れない……
個人的な疑問は、本に限らない、実践的なセミナーはどのくらい社会に対して効力があるのか?という事。それは明言されていないし、お門違いな話なのだが……
自己啓発本を読んでいる時に感じる矛盾やモヤモヤ感の原因を明示される点で、「よく言ってくれた!」と思った。
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ああそうか、と腹を抱えるほど自分を笑うことができた。こういう感覚は久しぶりだ。評が書けるだけの距離はしばらく取れそうにないけれど。
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●→本文引用
やはり会社員として生き残るため、「仕事における卓越(ヘゲモニックな男性性)」の獲得ために読んでいるのか。他人事のようだが。自己弁護、自分を映す鏡、自分を納得、安心させるためのツールのように読んでいた。
別件だが、付箋を付けながら読まなくなったのが、感想が出てこない理由のようだ。ということが分かった?
●だがおそらく、自己啓発書のメッセージそのままに、自己を完全に一元的にコントロールすべく、一元的に統合すべく購読を行なう者は多数派ではないだろう。第一章で示したように、状況による自己の使い分けを意識的に行っている者の方が啓発書購読経験率が高いことを考えれば、また啓発書のメッセージは基本的には一定の距離を置いて選択的・解釈的かつ応急処置的に摂取されていることを考えれば、そのメッセージは一元的な自己への単純な統合というよりは、多元的な自己のそれぞれに意味を与える資源として、あるいは多元的な自己を生き抜いていくための休息・退避的な自己のモードを創出する資源として、また多元的な自己の様態それぞれを「やりくり」していくためのヒントとして選択的・解釈的に消費されていると考えるのが実情に即しているのではないだろうか。つまり、やはり浅野が自己の多元性そのものをめぐる議論において指摘していた「多元性を維持することで自分自身を流動化し、それによって社会の流動性に対応していこうとする戦略」にむしろ近しいところで、その多元性それぞれに一定の見通しをつけ、また諸状況を多かれ少なかれ自らへと引き取り確認・啓発するための資源として、啓発書は消費されている筆者は考える。
●たとえば先に紹介した青少年研究会のデータからは、自己啓発書の購読経験者は非経験者よりもファッション、音楽、ヒーリンググッズ、エステ・クリニック、ダイエット(を通した自己変革)への関心が強いという結果が出ている。これらを考えるとき、啓発書は今日において自己を支える数多のツール(自己のテクノロジー)の一角に過ぎない可能性があr、だとすれば私たちはどのような「ツールに支えられた自己」を生きているのか、各種のツールによってその支えられ方は相違するのか否か、といった経験課題が新たに現れてくることになるだろう。
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面白そうだけど、この価格で紙だけでは買えないな。
図書館予約で手に入れば、という感じかしら。
すぐさま読みたい、という話でもないし。
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20190803 中央図書館
自己啓発という(きつい言い方をすれば)「呪縛」がどのように生まれ変化してきているのかという、興味深いところに着目したものだが、著者ご本人も、もともと「自己啓発」はまんざらでもない、というタイプの人ではないか、と想像する。
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読者は、「目新しいことは多分、一つもないんですけど」と、内容の重複を自覚しつつ、そのことを逆に「やっぱり大事なことは同じだな、本質は一緒だな」、「『やっぱりそうだ、やっぱりそうだ』っていうのを確認」しながらそうした重複を眺め、自らの『今ここ』を確かめているのである。だからこそ、「『ああ、もうこんなの知ってる』とか、そういうふうには思わない」のだ(Oさん)。(p.42)
イルーズは、次女ぼんをその一部に含むセラピー言説は「新しい文化的母型 cultural matrix」を提供するものだと述べていた。この言及を導きとするならば、自己啓発書とは、読者の選択・解釈を伴った自由度の高い応急処置の「パッチ」を今日提供することのできる希有な文化的母型であり、またその流通によってある種の感情的ハビトゥス(イルーズ)や「自意識を志向づける日常的な参照点」(リクターマン)をその都度再形成することを支援する文化的母型なのだと改めて定位できるだろう。(p.45)
「年代本」を含む、人生のある局面にターゲットを絞った自己啓発書群の浮上を俯瞰するなら、それはまず各出版社による読者開拓の戦略だといえるが、それだけでなく、人生の各局面を細分化して切り出し、その局面ごとに調整を図るべしとする、分節化されたライフコース観の浮上あるいは強化を示しているといえないだろうか。(p.104)
興味深いのは、男性向け「年代本」の基本的志向が、正社員として組織内での卓越を目指す「ヘゲモニックな男性性」への積極的埋没へと向いているのに対し、女性向け「年代本」では、妻として、母としてといった、従来的な女性のライコースからの積極的離脱へと向いている点である。(p.120)
天野(1992)は、日記から手帳への移行に伴って、「ふりかえる」から「予定する」へと人々の生活の重心が移行するだけでなく、仮に自らを振り返るにしても、内面的な世界を映し出すのではなく、行動の記録や業績の記録を綴るというように「ふりかえりの『質』」が変化するのではないかとも指摘していた。(p.170)
山田洋子は、現代を「人格崇拝」が高度に進展した「心」を崇拝する時代だと指摘し、その一事例として自己啓発書への注目の高まりに言及していた。(中略)より日常的に、まさに日々を営む私的空間において、選ばれたモノによってアイデンティティを日々確認し、モノの配置を整序して空間の透明性を高め、好ましいモノで部屋を充たし、ときには浄化の儀式を行い、祭壇を設けて自らを癒し浄めるといった、「心」の聖化に志向した日常的儀礼の浮上であった。「心」は今日、まさに私秘的に崇め奉られる対象になっていると考えられるのである。(pp.266-267)
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自己啓発本を書いている著者は、
自己啓発本を、よく読む人なのだろうか。
ふとそんな疑問が浮かんでしまう。
所謂、ビジネス書と呼ばれる書店のコーナを見ると、結構面白いことがわかる。著者は、ざっくばらんにいるが、著者の職業は、経営者や大学教授、社会的地位の高い職業、例えば医師や弁護士が書いた本が多数ある。そして所謂、彼らは、難関大学を卒業している。しっかりと調査していないが、150冊をピックアップしたら、9割以上の著者が難関大学を卒業していた。
当たり前じゃないかと思うかもしれないが、
小説コーナの著者を分析すると、それほど難関大学出身者は、多くない。
ビジネス書の分野が際立って学歴の高い著者が占めている。新書と呼ばれる、あるまとまった知識を手軽に得られる書籍群も、これまたビジネス書と似たような結果になったのは興味深い。新書から、ビジネス書、自己啓発に繋がる道があるみたいである。
出版社別に見ると、それこそ大手出版社が7割以上を独占していた。非常にバランスが悪いと思う。
ビジネス書や自己啓発書は、サラリーマンの教養書となっている感じがする。ビジネス書や自己啓発書というのは、参考文献がほとんど紹介されていない。著者の経験や思いを、あるまとまった文章として表現されているが、主張の根拠が、思いや経験、後はどこで引っ張ってきたかかわらない論文の引用、一応エビデンスがあるというが。。。
学生時代に、ほとんど本なんて読んだことがない学生は、もの凄く多い。そのままスライドして会社員となるが、仕事で求められるスキルや知識は、大学で学ぶような知識とあまり関係ないことになっているので、少なくない人が途方に暮れる。自分の学び方を知っている人間は、わからないこと、知らないこと、出来ないことを素直に認め、できるように努力するが、そうではない人間は、わかっているふり、できるふり、知っているふりをする。
そんな時、ビジネス書や自己啓発に救いを求めるのではないだろうか。つまり、自分がどういう学び方をするかを考えてこなかった者が、学ばないと、やばいと思い、安易に手をとるのが、ビジネスや自己啓発本ということじゃないだろうか。ただ、自己啓発やビジネス書で得られる知識というのは、かなり奇形なもので、そんなモノを沢山、沢山知っても、何も意味のないような気がするが。ただ、その時の不安を解消するには、手軽で良いんじゃないかと思う。これは、非常に大事な事で、ビジネスと成り立っている存在意義がある。
学び方を知るには、何か問題意識を持ち、問題提起を具体的に行い、その問題がどういう性質なものなのかを各種分析方法やら、理論、概念等を勉強して、把握していくと思うが、こういった作業は、非常に時間がかかるし、また楽しい!と思うより、悩んだり、よくわからない状況に途方にくれたりすることが多い。大学のゼミナールに参加したことがある方ならわかるが、何か1つの文献をテキストに、そこから沢山のことを学ぼうとするのも、難しいが、それを一人で行うのは、もっと難しい。ただし、強烈な問題意識があれば、不��議と可能となる。
ビジネス書や自己啓発から学ぶようにすると、専門書や論文等を参考にして自分の問題提起への見解を考えていくことに比べて、面倒なことをしなくて済む。なぜなら、何がわからないのか、わかるように努力する過程を省いて、「あなたが、わからないことってこうでしょ」とか、「あなたが、不安になっていることってこうでしょ」とか、「あなたが問題にしていることってこうでしょ」と、わざわざ提示してくれるからだ。結果、何がわからないか、何を問題として考えなくちゃいけないかという、学習する上で最も大切な問いを自分に問うことなく、学習が進むことになる。
書籍業界自体が、この20年で半分近く落ちた。
自己啓発書やビジネス書は、どうだろうか?
半分規模になっているだろうか?私の推測だと、
たぶん現状維持だと思う。それだけ、必要とされているわけだから、やはり自己啓発書やビジネス書が存在する意味は、十分にあると思う。
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『自己啓発本は終わりなき焚きつけのメディア』
自己啓発本そのものの分析ではなく、自己啓発本がどんな機能をしどんな風に読まれているかという、社会における自己啓発本のあり方を研究した本。
男性向けと女性向けで内容が異なり、男性向けでは仕事における卓越、女性向けでは自分らしさの獲得が獲得すべき価値として書かれている。
しかし、発行の年代によって大きく変わっている部分もあり、景気がいい時はがむしゃらにはたらき組織にどっぷりつかることが、不景気の時は、会社にしがみつくのではなく、自分でキャリアを気づけと内容が大きく変わっている。たまらなくご都合主義な本である。
読者層は、大卒正規雇用のホワイトカラーが多いらしい。つまりは、生きるために精一杯層は読まず、いい感じに不自由なく生きてるけど、手に職があるわけでもなくふんわりした仕事をしていて漠然とした不安を感じている人、そんな人たちの心の隙間にうまく刺さったのが自己啓発本だといえる。
そんな人は可処分所得が多いため、自己啓発本を頻繁に消費する。
なので、ふと立ち止まったら自己啓発本を買い、全てを鵜呑みにはせず、取捨選択して自分の肌にあったものだけ取り入れるという接し方をしている人が多い。
さながら栄養ドリンクのようだ。
自己啓発本は、片付け術、手帳術、年代別自己啓発と細分化しながら、いろいろな生活をその射程に入れている。最近なら筋トレだろうか。
それら自己啓発本の基本的意図は、全てを自分のコントロール可能なものへとし、主体性を獲得するということ。フロイト的にすると、超自我から距離をおき、エスを自我に置き換える活動である。
自分の人生を操作可能なものにしたいという根源的な願望がある。
人生の舵を握ったからといって幸福になるわけではないのだが、自由意志による自己決定が文明の進展なので、オカルトやスピリチュアルにかまけるよりはよっぽどマシなのかもしれない。
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自己啓発っていう言葉が、なんかよくわからんのやけど、自己啓発本は他者なので。
他者啓発本あるいは単に啓発本とは言わないのは、その内容と関係なく読むひとそれぞれがやっぱ大事やな、と啓発されるからか。
やっぱり大事やな、確かに、と分析される啓発本のワンフレーズを読んで思ってしまう。
ワンフレーズで全てわかってしまうようなベタさと、そういう共同的でジャンクな価値観の上塗りこそ読ませるのか。逆を辿って自分の好きなものがよくわかった。