まさしく、そう!
2024/04/29 16:43
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投稿者:岩波文庫愛好家 - この投稿者のレビュー一覧を見る
終始頷きっぱなしで、読んでいて本当に「その通り」と評する事の連続でした。著者が本書で論述している事を私自身もここ暫く痛切に感じていました。絶妙にいいタイミングで本書に出会えたと思います。
言葉というのは乱雑に扱えば何を伝えようとしているのかさっぱり解らず、或いは解らないどころか、意図せぬ方向へ解釈される事も多々あります。それだけ日本語が難しいとも言えますが、日本語を扱う以上、致し方ない事です。
本書で二重丸を付けたくなるワードがありましたので、幾つか列記します。
・「まん延」「ひっ迫」という言葉表記。当用漢字云々の面から「蔓延」「逼迫」としていない。
→しっくりこないです。
・「スピード感」「警戒感」「温度感」「規模感」という表記。明確には言い切らず、責任を逃れているかのよう。
→「○○感」と言っている人は当事者意識が薄そう。
・新型コロナ禍で「ロックダウン」「クラスター」というカタカナ語が導入される。
→カタカナ語による新語が発生する事はそれなりに良いとは思うが、メディア先導に対して追従出来ていない人達へは放置されている。
新聞やテレビやネットニュースの見出しの稚拙さについて言及がありました。「藤井二冠を殺害予告疑いで追送検」→「藤井二冠の殺害予告疑いで追送検」、「列車が人と接触して死亡」→「人が列車と接触して死亡」、「14人感染、さいたまの中学生など 1人死亡」→「さいたまの中学生など14人感染 1人死亡」・・もう本当に大丈夫だろうか?
「発言を撤回します」→「前言を撤回します」は解るが、『発言』自体を『撤回』など出来る訳ない、おかしな日本語だ、と呆れるばかりです。
著者は本書の末で「私たちの生活は言葉とともにあり、そのつどの表現と対話の場としてある」と述べています。もう本当にこれに尽きます。言葉を歪曲したり、力業で捩じ伏せるような事はこれ以上盛んにならない様に願うばかりです。
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投稿者:とめ - この投稿者のレビュー一覧を見る
十把一絡げにステレオタイプで話すことの楽しさと危うさ、○○感、氾濫するカタカナ語、現代の差別用語といった実例に基づき、言葉とは自分をはじめとした人類にとって途方もなく複雑な文化遺産であると主張している良書。
いつものことば「にひっかかる」「について考えてみた」
2024/02/25 00:17
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投稿者:これひと - この投稿者のレビュー一覧を見る
(p.129)私自身(中略)哲学対話に参加したことがある。その時の印象は「物足りない」だった。(中略)しかし、対話を終えたほかの参加者の方々の顔は(中略)だくさんの刺激を受け、自分のものの見方が変わったという感想を述べる方もいた。
某大学入試に、別の所が引用されていたので、購入した本。高評価の多い感想をみて、上記の本文が思い浮かんだ。私自身が恵まれているのかもしれない(笑)。「字数制限のない新聞連載エッセイ」というところか。「問題提起」にある思想家(学者)の解釈をつないでみて「哲学した」……という現象についても「哲学」が必要なのかも。
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古田徹也(1979年~)氏は、東大文学部卒、同大学院人文社会系研究科博士課程修了、新潟大学教育学部准教授、専修大学文学部准教授等を経て、東大大学院人文社会系研究科准教授。『言葉の魂の哲学』(2019年)でサントリー学芸賞受賞。専門は現代哲学、現代倫理学。
本書は、2020年9月~2021年5月に朝日新聞に連載されたコラムのテーマをベースに、内容としては大半を書き下ろしたもの。
内容は、私たちが今、日常の生活の中で使っている様々な言葉について、それらの持つ多様な側面を考察した(著者はその行為を「哲学する」と表現している)ものであるが、34に分けられたテーマは、新聞連載から取られていることもあり、常日頃感じていることも多く、とても興味深いものとなっている。
私が面白いと思ったのは、例えば以下のようなテーマである。
◆近年若者がよく使う「○ガチャ」という言葉について
◆「まん延」、「ちゅうちょ」、「あっせん」、「ねつ造」、「改ざん」、「ひっ迫」等の平仮名書き、漢字との交ぜ書きについて
◆特定の障害のある人や在日外国人にも習得・理解がしやすいように調整された、いわゆる<やさしい日本語>について(人工的な共通言語は、G・オーウェルの『1984年』に登場する全体主義国家の公用語「ニュースピーク」に通じることに注意が必要である)
◆対話の「当意即妙さ」、「流暢さ」は言語実践において称賛されるべきことなのか
◆自由で民主的な社会において、「なぜそれをしたのか?」という問いに政治家が答えないことをどう考えるか
◆政治家・有名人が謝罪会見で使う「私の発言が誤解を招いたのであれば申し訳ない」、「ご心配をおかけして申し訳ありません」、「私の不徳の致すところで・・・」等は謝罪の言葉といえるのか
◆「スピード感」のような「○○感」という言葉について
◆氾濫するカタカナ語をどう考えるか
◆性差や性意識にかかわる言葉(「母」のつく熟語、「ご主人」、「女々しい」、「彼ら」等)をどう考えるか
◆コロナ禍で現れた「新しい生活様式」、「自粛を解禁」、「要請に従う」等の言葉をどう考えるか
◆政治家がよく使う「発言を撤回する」ことはできるのか
読了して、改めて、言葉の大切さ、「<しっくりくる言葉を慎重に探し、言葉の訪れを待つ>という仕方で自分自身の表現を選び取り、他者と対話を重ねていく実践>」の重要性を認識することができた。
(2022年1月了)
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言葉について考えることは、それが息づく生活について考えること p.37
「お父さん」や「お母さん」等々も、そして「先生」も、子どもから見た自分の立場にはほかならない。それを一人称として用いることによって、いまの自分が、子どもを保奏し、ときに教え諭す役割を担う者であることを、自ずと示しているのである。p.64
依存先が限られてしまっている」ということこそ、障害の本質にほかならない。逆に言うなら、「実は膨大なものに依存しているのに「私は何にも依存していない」と感じられる状態こそが、自立。といわれる状態」だということである。p.69
※しっくりくる言葉を吟味するということ
学部生の書く哲学・倫理学の論文は、まず何らかの問いを立て、それに対する答え(および、その答えの根拠)を探究する、という手順を踏むのが一般的だ。このとき、読む側からすると、なぜそれを問うのかという大本のポイントが掴めない場合がある。その問いに客観的な重要性があるかどうかが明確でなかったり、逆に、あまりにメジャーな問いであるがゆえに、それをなぜ今こうしたかたちで問うのかが分からない、といった具合だ。そうした場合、論文指導の最初にまずこの点を学生に尋ねると、学生本人のこれまでの経験が問いの基層にあるケースが多い。たとえば、高校時代にかくかくのことに悩んだとか、アルバイト中にしかじかの場面に遭遇したといった経験だ。それを聞いて腑に落ち、論述の内容に入り込めるようになったとき、私は学生に対して、論文の冒頭において当該の経験に―書ける範囲で、あるいは、より一般化したかたちで触れつつ、問いを自然に導くかたちにしてはどうか、と提案することもある。さらに、そこからその問いの客観的な重要性を示す論述が必要な場合もあれば、問いが明確に示されれば、それだけで十分に重要性が分かる場合もある。よく勉強している学生はど、そういうことを書いていいんですか、と驚く。p.86
十拍一絡げにする言葉の危うさ p.123
重要なのは林の表現を尊重するということだ。具体的には、相手の言葉を十分なかたちで描い上げ、それがどのような脈絡の下で発せられたのかをきちんと踏まえたうえで応答するということが必要だろう。批判を受ける側も、自分の言わんとすることをちゃんと聞いてもらい、それをよく理解してもらったうえで、納得できる問題点を指摘されるのであれば、苦い思いをしたり、多少傷つく部分はあるとしても、感謝する部分の方がきいだろう。p.138
「自粛を解禁」という誤用が意味すること p.240
「発言を撤回すること」はできるか p.250
※つまり、しっくりくる言葉の候補は、自分がこれまでの生活のなかで出会い、馴染み、使用してきたものたちなのである。それゆえ、そうした言葉の探索は自ずと、これまでの自分自身の来歴と、自分が営んできた生活のかたちを、部分的にでも振り返る実践を含んでいる。よく、「自分の言葉で話しなさい」ということが言われ、創意のある言葉やユニークな言葉を繰り出すことが無闇に推奨されることもあるが、「自分の言葉で話す」というのは必ずしもそういうことではない。むしろ���ありがちな言葉であっても、数ある馴染みの言葉の中から自分がそれをしっくりくる言葉〉として選び出すのであれば、そのことのうちに、これまでの来歴に基づく自分自身の固有なありようや、自分独自の思考というものが映し出される。逆に、「お約束」に満ちた流暢な話しぶりや滑らかな会話は、こういう場合は人はこう言うものだ)、こう言うのが世間では正解だ〉という暗黙の基準にしばしば支配されている。それが常に悪いわけではないが、しかしそのときには、言葉に責任をもつべき自分がそこに存在しないことも確かなのである。P.280
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DPZの古賀さんが呟いていて、興味を持ったので読んだ。
最初の方は、言葉に関するエッセイ的な感じかなあと思っていたけれど、後半はいかに言語と思考が結びついているかがよくわかる題材が多く、普段の自分の言葉の使い方を振り返させられた。流行りの言葉は使い勝手がいいけど、ちゃんとそれを使うことによってどのような効果があるのか、どのような印象を与えてしまうのかを考えて使わなければいけないなと感じた。
自分は言葉を扱う職業に就いている。それでも自分もあまり考えず言葉を使ってしまうことがある。だから「言葉は道具以上の役割を持っている」ということを常に頭のどこかにおいて、言葉を使っていこうと思う。
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われわれが普通に使っている言葉を題材に哲学者の書いた
エッセイ本、というところ。タイトルはいささか仰々しいが
平易な文章で書かれているし、ひとつひとつの章も短いので
普段哲学とは無縁の暮らしをしている人にぜひ読んでもらい
たい。そしてこの本を契機として、哲学的に考えるという
ことに触れていただきたい、そう思った。平易な上に、著者
の抱いているだろう言葉についての問題意識と私のそれが
そう遠くないと思われ、あっという間に読了。それにしても
近年の政治家やメディアなどの言葉を生業にしているはずの
人たちの言葉遣いは本当にひどいと改めて思う。
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言葉にして伝えるって難しい。何気なく使っている言葉の定義や語源を十分に理解することなく、気づけば軽い気持ちでコミュニケーションをとっている自分がいる。人と会話する機会が増え、コミュニケーションがフラットになりつつある今だからこそ咀嚼するように読み直したい新書。ウィトゲンシュタインの「言語批判」をベースに、日常的に使用される言葉の側面について深く考察がなされている。
p125
ステレオタイプで話すというのは、何でこんなに楽しいんだろう。
この一文は全体を通して最も印象的だった。言われてみれば、日常生活においてカテコライズを通して物事を単純化したり、あるいは相手に伝わりやすいように比喩を用いたりする。この行為自体が絶対的に悪というわけではないが、このような"わかりやすさ"にはミスリーディングな理解・伝達を誘発したり、最悪の場合、差別・排斥といった形で人を傷つけてしまうことすらある。
p281
私たちの生活は言葉とともにあり、そのつど表現と対話の場としてある。言葉を雑に扱わず、自分の言葉に責任をもつこと。言葉の使用を規格化やお約束、常套句などに完全に委ねてはならないこと。これらのことが重要なのは、言葉が平板化し、表現と対話の場が形骸化し、私たちの生活が空虚なものになることーひいては、私たちが自分自身を見失うことーを防ぐためだ。
単に語彙力や読解力を高めれば良いという話ではなく、多様な言葉のもつ多様な側面を見渡し、他者との対話を重ねていく中で「言葉を哲学する」こと。批判的な精神をもって探究を続け、言葉に対して責任を負える人でありたい。
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日々、使う/使われている言葉を吟味することの大切さを再認識させられる。目下、Covid-19によって、言葉とそれを取り巻く環境も大きな変動を受けているが、この点に関する様々な指摘は、言葉が持つ力の強さをよく示している。著者の娘さんの言葉に対する素朴な感覚は尊いし、炒めるを辞書でどう書くかの話や見出しの検討の話は、言葉を扱う我々が普段どのような心構えを持つべきかと言うことを端的に表しているように感じた。
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ジェンダーに関する言葉について考えるきっかけを与えてくれた。基本は時々哲学者の言葉が引用される言葉に関する違和感をテーマとしたエッセイ集。
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古田先生のエッセイ.こういう知性を磨いてきたひとの雑談みたいのは面白いね.どんなふうにそれぞれの言葉や語が使われてるかよく考えようね,じゃなくて,どの言葉をつかうかよく考えて選ぼうね,のほうに行くところが古田先生の面白いところで,私なんかにとっては意外なのである.
あくまでエッセイであって,きちんとした議論がある本じゃないから,自分の不満や苛立ちを正当化してくれるものとして読まないように注意しなきゃいかん.「新しい生活様式」とか「自粛要請」とかの章は,読んでて何も考えずに頷いてしまいそうになる.
3章あたりで紹介されてた国立国語研究所の資料も面白い.
https://www2.ninjal.ac.jp/gairaigo/
https://www2.ninjal.ac.jp/gairaigo/Report126/report126.html
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その人が話す、使う言葉が、思考の解像度を反映して、価値尺度は露になる。だから、泥臭く読書をして言葉を手にしていくこと、磨いていくことは尊う。そもそも不完全なコミュニケーションの精度をそれでも上げて、伝える技術、言葉を運用していく作法を手にしようともがくこと。
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この本は「ぼくらの時代の文章読本」として読めるのではないか。巷に存在するさまざまな日本語について、著者はあくまで市井の生活者という立場から地に足の着いた考察を重ねる。メディアが流布する言葉、私たちがいつの間にか使うようになり馴染んでしまった言葉、などなどについて著者のシャープな分析が光る。そこから導き出されるのは著者の「良心的」とも言えるスタンスであり、過激さはないもののその優しさには一本筋が通されているとも思った。逃げ腰ではなく世界と対峙し、何かを掴み取ろうとしていると思われる。実に哲学的な1冊と思った
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●=引用
●しっくりくる言葉を探し類似した言葉の間で迷いつつ選び取ることは、それ自体が、思考というものの重要な要素を成している。逆にいえば、語彙が減少し選択できる言葉の範囲が狭まれば、その分だけ「人を熟考へ誘う力も弱まる」ことになり、限られた語彙のうちに示される限られた世界観や価値観へと人々は流れやすくなる。ニュースピークとはまさに、その事態を意図した言語なのである。
●私たちが言語を用いて行うことのうち、(A)特定の相手の言わんとすることを最大限に汲み取ろうしたり、その相手に合わせて噛み砕いた言葉を発したりする言語実践と、それから(B)突き詰めた精密な思考や豊かな表現を目指して行なわれる言語実践、この二種類のものの間には原理的に緊張関係があるということ、そして、この緊張関係は解くべきではない、ということだ。(中略)たとえば、<やさしい日本語>と<精密コードとしての日本語>のいずれかを、あらゆる言語実践の規範とすべきではない。そうやって二種類の言語実践の間の緊張を解いてしまえば、いずれの言語実践の実質が致命的に損なわれ、私たのち社会から多くの重要なものが失われてしまうことになる。それゆえ、<やさしい日本語>の推進に際しては、それが文字通りの意味であまねく行き渡るべきものではなく、あくまでも初期の日本語教育にかかわるものであり、また、地域に住む多様な人々がそこに自らの「居場所」をつくるためのものである、という位置づけが堅持され、その認識が広く一般に共有される必要がある。
●そうやって適当な言葉のやりとりをノリで行なっているとき、人はしばしば何も考えていない。
●ぺらぺらしゃべれることや、間髪容れずに話を切り返せることは、必ずしも美徳ではない。むしろ私たちは、秒単位のタイムスタンプが押された言葉がネット上を無数に流れ続けるこの時代だからこそ、言い淀む時間こそ大切にし、言葉がゆっくりと選び取りながら語る実践に意識的に向かうべきではないだろうか。ステレオタイプな言説によって多様な現実をぱっと一括りにして済ませたり、当意即妙な受け答えをすることそれ自体を目的とする実践よりも、現実の難しさや複雑さを受け止めた言葉を慎重に紡ごうとする実践の方を尊重すべきではないだろうか。
●遠慮をしたり、知ったかぶりをせずともよいこと。素朴と思われそうなことでも否定される恐れをもたずに、自分の経験に即して自由に語れること。話している途中で詰まっても、相手が次の言葉を待ってくれること。話を途中で遮られないこと。―こうした機会は、多くの人にとって必要なものであるにもかかわらず、貴重なものになっている。だからこそ哲学対話や哲学カフェは、哲学する場である以前に、安堵と解放と承認の場ともなるのだろう。
●マスメディアで頻繁に用いられている「賛否の声が上がっている」という類いの常套句も、問題になっている事柄の内容をさしあたり度外視して、熱量の上昇のみに言及できる便利な言葉だ。どちらかの道理に明らかに分がある場合にも、また、賛否どちらかの声の方が圧倒的に優勢である場合にも、「賛否の声が・・・」と表現しておけば、旗色を鮮明にせずに済むし���自分の言葉に責任をもつ必要もなくなる、というわけだ。「炎上している」とか「賛否の声が上がっている」といった言葉によって物事をひとまとめにしてしまうのではなく、具体的な内容を「批判」する行為が、メディアでもそれ以外の場でも、もっと広範になされる必要がある。
●批判は、相手を言い負かす攻撃の類ではない。繰り返すなら、批判は相手とともに問題を整理し、吟味し、理解を深め合うために行なわれるべきものだ。それゆえ、批判は、相手に真っ向から向き合うというよりも、言うなれば、お互いに少し斜めを向き、同じものを見つめ、そのものの様子や意味について語り合う、というイメージで捉える方が適当だ。
●以上のような「お約束」の言葉たちから逆に見えてくるのは、謝罪が謝罪であるために必要な本質的特徴だ。それは、「謝る」というのはまずもって、当該の出来事をいま自分がどういうものとして認識しているかを表明することである、ということだ。(しかもその際には暗に、当該の認識が、謝罪する相手や世間の認識とおおよそ合致していることが期待されるとも言える)
●マクダウエルの言う通り、伝統へと入っていくことは、母語を学ぶことの一部を成している。ただし、このことはもちろん、物事の伝統的な見方はすべてそのまま受け継がれて保存される、ということを意味するわけではない。言語は生ける文化遺産であって、私たちの生活のかたちが絶えず変容を続けるなかで、言葉やその用法も変わり続けている。そして、特定の言葉に対する違和感は、社会や物事のあり方に対する私たちの見方が変わりつつあることを示す重要なサインでありうる。たとえば「お母さん食堂」や「お母さんといっしょ」といったものに見られる「お母さん」の用法は、現在でも疑問に思ったり不自然に感じたりする人が一定数おり、今後もその割合は増えていくだろう。
●同様に「募ったが募集していない」とか「半年後に割り勘にした」といったナンセンスな物言いが社会にまかり通り、そうした意味の壊れた言葉によってその場を切り抜けることが許されるとすれば、人は何事に対しても責任をとらずに済むことになり、まさに何でもありになってしまう。そして、それ以前に、言葉自体が安定した意味をもちえなくなってしまう。言葉がねじ曲がり、壊れることは、そのまま、言語的なコミュニケーションが不全に陥ることを意味する。言葉を雑に扱わず、その意味や用法に心を配り、自分の言葉に責任をもとうと務めることは、言葉とともにある私たちの社会や生活をさ支える基礎でもあるのだ。
●言葉を発することは、それ自体がひとつの行為である。この、言われてみれば当たり前のことを、彼らのような哲学者がことさら言い立てる必要があるのは、この点が実際にしばしば忘れられがちだからだ。たとえば、生活を送るうえでの単なる道具として―記録や報告や伝言のための手段に過ぎないものとして-言葉を捉えるとき、私たちは得てして、言葉が何よりも人を癒したり励ましたりしうること、また逆に、ときにどんな暴力よりも人を傷つけたり恐怖を与えたりすることを忘れてしまう。
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すべての哲学は、言語批判である。
ウィトゲンシュタインの言葉だという。
この立場から身近なことばの在り方を観察し、批判的に捉え返したのが本書だということだ。
ことばの中には過去の文化が蔵されている。
新しい言葉の中に、新しい世界の見方が表れている。
発言という行為には応答の責任が伴う。
ことばのもつ危うさにも言及されていた。
大きな主語での語りのおおざっぱさ。
批判が非難と同義にされ、批判が忌避される日本の言語環境。
十分吟味されないで導入された新語による視野の固定。
誤用が定着することでおきるコミュニケーション不全。
文章が上手で、非常に読みやすい。
(この人はあと数十年したら、きっと新聞紙上の鷲田清一さんのポジションにいるのではないかと思う。)
取り上げられた内容は、どこかでこれまでに読んだことがあるような。
哲学の人だけでなく、言語学の人も問題にしている内容でもある。
誤用が定着することを危険、としているところは、哲学者だなあ、と面白く感じたところではあったけれど。
勝手に私が期待しすぎているだけかもしれないが、もう少し突っ込んだ議論があったらなあ、と感じる。
たとえば、やさしい日本語についての議論。
私は10年以上ボランティアとしてやさしい日本語を使う仕事をしている。
その立場から言って、本書の議論にはやや疑問が残る。
筆者は、やさしい日本語が日本語の豊かさを損なったり、日本語での思考を単純化したりすることを危惧している。
理屈としては、ごもっとも。
が、やさしい日本語は、実践家の中でいろいろな立場はあるかもしれないが、少なくとも自分たちにとっては、「緊急避難」的に用いるものだ。
情報から取り残される人を少しでも少なくするために、限界を意識しつつ使うもの、と言ったらいいだろうか。
やさしい日本語を使ってみれば、すぐに表現の限界にすぐにぶち当たる。
だから、例えば専門的な内容の文書や表現そのものを楽しむ文芸的な作品にまでやさ日にすることは、まずない。
やさしい日本語に関わっている人ほど、このような「住み分け」を意識するのではないかと思う。
すべての表現をやさ日化すべきだと主張する人がもしいるとすれば、それはやさ日を表面的にしか知らない人ではないのかと思う。
また、筆者が危惧するほど、やさしい日本語が日本社会に広がるとも思えず、規範化もしない気がする。
グロービッシュやベーシック・イングリッシュの話を思い出す。
簡略言語は、ネイティブには広がらない。
身につけるメリットが感じられないからだ。
関わっている者の立場からは、もう少し関心を持ってもらいたいとさえ思うが、これが現実。
そう考えていくと、筆者の危惧は、理屈としては理解できるが、今自分が見えている現実とはかなり異なっているように思われる。
あとは、謝罪についての議論も、もう少し詳しく掘り下げてほしかった。