- 販売開始日: 2022/04/01
- 出版社: 青弓社
- ISBN:978-4-7872-7134-1
こんなスポーツ中継は、いらない!
著者 著:青弓社編集部
※この商品はタブレットなど大きいディスプレイを備えた端末で読むことに適しています。また、文字だけを拡大することや、文字列のハイライト、検索、辞書の参照、引用などの機能が使...
こんなスポーツ中継は、いらない!
商品説明
※この商品はタブレットなど大きいディスプレイを備えた端末で読むことに適しています。また、文字だけを拡大することや、文字列のハイライト、検索、辞書の参照、引用などの機能が使用できません。
野球、サッカー、テニスなど、日本のプロスポーツがいつまでたっても世界レベルに達しないのはなぜか?身体能力の違いや技術レベルの低さ、そして優秀な指導者の欠如…そんな表面的で効果のない批判ではダメだ。われわれとスポーツのあいだにこっそりと忍び込み、スポーツ観形成に無意識のうちに働きかけるサブリミナル・メディア「スポーツ中継」こそが、諸悪の根源なのだ。試合の醍醐味を伝えない実況アナウンサーや、自慢話に終始する解説者など、一部の悪しきスポーツ中継を断罪し、日本でスポーツが文化として成熟するために、スポーツ中継はどのようにあるべきか、その可能性を探る。
目次
- 心理戦と人間ドラマのはざまに──プロ野球中継の曲がり角 水谷憲司甲子園中継の功罪 小椋博実況アナウンサーの眼差しと位置付け──サッカー中継哲学 倉敷保雄バカの心得──J2からのサッカー中継批判 山本史華元選手に解説を頼むという不幸な構図について 高橋秀樹「実況」という名のプロレス──古舘伊知郎考 岡村正史箱根駅伝中継における「ドラマ」の求め方 貴地久好テニスの神はブラウン管に顕現するか 藤崎康ラグビー中継をめぐって 佐々木典男F1中継と物語と冥界と数と──セナの一つの喪としても 藤井雅実
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10人の論者がTVスポーツ中継をメッタ斬り!サッカー主義とテニス主義の激突もすごい!
2001/01/26 18:15
2人中、2人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:藤崎康 - この投稿者のレビュー一覧を見る
いまや、巨大な権力と化したテレビというメディアの目玉商品のひとつがスポーツ中継であるが、高視聴率を稼ぐプロ野球、サッカーといったメジャースポーツだけでなく、プロレス、ラグビー、F1、テニス、駅伝などのテレビ中継が、私たちの生活に深く浸透している。
本書は、そうしたスポーツのテレビ中継のありようを、各分野の筋金入りのライター10人が、スポーツを愛するがゆえのシビアな批判もまじえて、縦横に論じつくした必読の異色本である。当然ながら、それぞれの書き手は、スポーツ中継に対する視点も、考え方も、嗜好も異なっているが、彼らに共通しているのは、お目当ての試合が放送される日には、仕事もデートも結婚式も迷わず放り投げて(?!)テレビにかじりつくだろうスポーツ狂であることだ。もっとも、スリリングな「サッカー中継哲学」を書いている現役アナウンサー・倉敷保雄は、当然、スポーツを観ることが仕事であるという幸福なポジションにあるのだが…。
たとえば、「ベガルタ仙台の魔術師・蓮見選手が放つミドルシュートのファン」であると公言する山本史華の「バカの心得」は、だれが何と言おうと熱烈なJ2サポーターであるという確信犯的な姿勢によって、読み手をぐいぐいと引っぱっていく傑作評論だ。と同時に山本の筆は、ファンに徹すること、つまりバカであること、そしてサッカー中継とは何かということを冷静な視線によって吟味する批評性を獲得していて、みごとである。
山本はサッカーファンの若者について、こう書く。「若者は、サッカー場へ忙しさを求めに行っているのではないか。全体主義を求めていると言い換えてもいい。サッカー場以外の場が、あまりにも安穏として退屈で、個々のつながりが希薄な現代だからこそ、若者はスタジアムにわざと忙殺されに行く。」この指摘は、サッカー論をこえて、ひとつの鋭い現代文化論として読むことができる。ちなみに、ここでの「サッカー」を「オウム」に置き換えれば、宮台真司が意図的に謎めいた話法で論じているような、疑似共同体がかいま見せる「非日常的なすごいもの=サイファ」に若者が吸引される、アノミー(無目的)状態にある成熟社会についての論へと発展していくのではないか(期待する)。
熱狂的なサポーターであることと批評者であることの微妙なバランスのうえに成立している山本の評論に対して、「テニス原理主義」を掲げる藤崎康(ちなみに私です)は、テニスという競技においては、プレー中の大歓声やウェーブなどの過剰な応援はいらないと、かたくなに主張する。両者の意見の対立(?)は、サッカーとテニスというスポーツの根本的な違いに由(よ)っているので、一概にどちらが正しいとは言いにくいだろう。
また藤崎は、テニス中継における饒舌すぎるアナウンサーのおしゃべりを糾弾しているが、これはどの論者にも大なり小なり共通する視点である。ただし、「F1中継と物語と冥界と数と」の藤井雅実がいみじくも指摘するように、タイム、得点、評価点、その他の数値などの言語的メッセージは近代スポーツの構成条件であり、競技の強度や物語性を際立たせるゆえ、視聴者の競技への集中をそがない限りでは、重要なファクターである。このことは、マラソン中継などの経過タイムの表示を考えれば明らかだろう。
本書の他の評論、「元選手に解説を頼むという不幸な構図について」(高橋秀樹)、「「実況」という名のプロレス─古館伊知郎考」(岡村正史)、「箱根駅伝における「ドラマ」の求め方」(貴地久好)、「ラグビー中継をめぐって」(佐々木典夫)なども、それぞれの競技中継に対する書き手の愛と叱咤が炸裂していて、読みだしたらやめられない面白さだ。 (bk1ブックナビゲーター:藤崎康/現代文化論・映画批評 2001.01.27)