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西加奈子さんのiでミナが想像するってこと、で触れていて気になった本、あとがきもよかった
深くて重くて、全然消化しきれなかったけど想像力の世界が持つ力についての言及は一貫しているなって思った。政治がそれらに関与するのは最も囚われているから、みたいな描写はそうだよなあと思った、私たちには力がある
読んでいて何度も涙が溢れそうになって、ピンときた箇所でもメモしておけなかったところも沢山ある、一周じゃこの本を5%も味わえた気がしない(それでも読んでよかったとなるのだけど)
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この本を発行できたことが奇跡だと思う。
読んでいてこれが現実だということを忘れそうになった。そのくらい私にとって彼女達の日常が現実離れしていた。
しかし彼女達の悩みに共感できることがあったり、ハッとさせられることもあった。
人の感情はとても単純だけど、社会や道徳、願望が複雑にしているのだと思う。
心の準備ができたらロリータを読んでみたい。
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1995年、イラン。大学の講師を辞めたアーザルは、七人の女子学生に声をかけ私的な文学講座を開く。年齢も宗派もバラバラな彼女たちは、父親に嘘をついたり弟の束縛から逃れる必要がありながらも、『ロリータ』や『高慢と偏見』を語るためアーザルの家に集まった。13歳から欧米で暮らし79年のイラン・イスラーム共和国成立と共に帰国したアーザルの講師生活は、新人時代からイスラーム原理主義者による抑圧を受けてきた。だが、大学には常にナボコフやフィッツジェラルドを読みたい、学びたいと願う学生たちがいた。イラン人英文学者の自伝的小説。
読書による救済と、読書空間を守ることの脆さ、難しさ。何もイスラーム社会における英米文学が〈解放〉の象徴だから〈救い〉と呼ぶのではない。小説を小説として、虚構を虚構として楽しむこと。楽しいというだけで存在が許されていること。それが非常に人間的な欲求だからこそ、支配者の手が侵食してくる。
作中でアーザルはナボコフの「好奇心はもっとも純粋なかたちの不服従である」という言葉を引いている。読書会は、ヴェールの着用を義務付けられた女性たちがアーザルのコピーした『ロリータ』を手に集い、焼き菓子を食べながら小説の世界について思いきり語り合うという〈不服従〉だ。そして他でもなくナボコフやオースティンを語る姿によって、ヴェールで覆われた彼女たちの個性が徐々に明らかとなる。『プリズン・ブック・クラブ』(21/11/25読了)に続き、〈読書会というアジール〉と〈本を語るという自己開示〉の物語。
読んでいるあいだじゅう頭を離れなかったのは、アトウッド『侍女の物語』との恐ろしいほどの相似性だ。アーザルがヴェールの着用を拒否したがために仕事を失い、女性がカフェや庭で友人男性と話したり運転をしたり色付きの靴紐を使うだけで憲兵がやってくる国を出ていくこともできなかった、まさにその80年代半ばにアトウッドは小説を発表している。『侍女の物語』は当時「こんなことは起こりえない」という反発もあったというが、現実に、同時代にもギレアデは存在し、それは欧米から見て"後進的な"イスラーム世界に限ったことではなく、いつでも自分たちの日常と地続きなのだと示してみせたのだとわかる。2021年の現状は言うまでもない。
本書の第一部と第四部は95〜97年に開かれた読書会を中心に描かれるが、それ以上に印象的なのが第二部・第三部に書かれた80年代の大学講師時代のさまざまな事件、特に〈ギャツビー裁判〉だ。
フィッツジェラルドの『グレート・ギャツビー』は不道徳だから講義で扱うべきではないと猛攻してきたイスラーム原理主義の学生を検察役に、アーザルは『ギャツビー』として被告役になり〈裁判〉を開いた。このとき弁護人として立ち上がったヴェールをつけない女子学生ザッリーンの演説は、小説を読むこと、文学を学ぶこととは何かという本質に迫り、裁判に参加した他の学生たちと同じく私も深く胸打たれた。
ギャツビー裁判の討論は、世界はわかりやすく敵と味方に二分されるものではないということを象徴している。検察役のミスター・ニヤージーも最後にはザッリーンの声に耳を傾け、ムスリム学生協会のリーダー格だったミスタ���・バフリーは〈裁判〉を妨害しようとする仲間を止めた。バフリーは革命派でありながらアーザルには礼を尽くした良き討論相手でもあった。他にも、アーザルに反発しながら講義で習った詩をミートラーへのラブレターに流用していたミスター・ナフヴィーや、西洋的な教育の常識を説明なく学生に押し付けてしまったアーザルを静かに諭したラージーエなど、ただの賛同者とは違うマーブルな印象の人びとが心に残る。
また、西洋的価値観とイスラーム的価値観を行き来しつつ相対化するアーザルの英米文学読解はとても面白かった。文学評論の著作はまだ邦訳がないようで残念。フィクションのなかに政治を持ち込み介入していくイスラーム原理主義者の言い分が現在のポリティカル・コレクトネスをめぐる議論にも重なり、考えこんでしまうところもあった。オースティンの小説に描きだされた「多様性が重要だという訴えも、声高な主張も必要ない」ほどの民主主義はいまだ現実になってはいない。けれど、現実がいかに過酷であろうとフィクションを求め、手放さなかった人たちがいる。今もありとあらゆる場所にいるのだと、胸に刻みつけたい。
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イラン革命直後に母国のイランに戻った著者が、大学の教え子で優秀な6人の女性と秘密の読書会を行う。
著者はテヘラン大学で教鞭を取ったが、ヴェールを着用することを拒み追放されてしまう。
女性の価値が男性の半分以下ともされ、美人ということだけで逮捕され処刑されてしまうような社会で、文学を学ぶ意義を問う。本書で取り上げられる『ロリータ』『傲慢と偏見』などタイトルだけは知っている著書が多かったですが、政府側とすれば規制したいような内容なのだと思う。その中に彼女らは何を見出したのか。
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イラン・イラク戦争の知識がなく、検索しながら読了。ものすごい女性差別は今も続き、彼女たちの生活を脅かしたし、それは今も続いている。その中を文学を生きる支えとした人の記録。決して他人事ではないのは、日本のジェンダーギャップが物語っている。
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読むのになかなか力を必要とした1冊だった。
そもそも作品の情報なしに読み始めたので「え?これ、なんの時代!?」みたいな。
イ・イ戦争の時のテヘランなんですね…そりゃハードだわ。
私はフィクションが嫌いなので「小説の力」と言われても、最初はピンと来なかったけど、読むうちに「華麗なるギャツビー」を読みたくなってしまった。
また、最初の1/4ぐらいまでは、この世界観になかなか慣れることができなかったけど、読了後は、なんか寂しくなってしまった…
最後の最後、ミス・ルーヒーのエピソードが、何故か1番印象に残った。
読書力?高めの方にしかお勧めしないけど、名作であることは確かな1冊。
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第2部くらいから、読み方がわかってきて
読むスピードが上がってくる。
味わって、味わって、味わって
行き着いた最後のページ。
読了感がすごくある。
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イランで英米文学を鏡に自らの苦悩や理想を引き出していく本書を、日本で読んで自身の闘い方(あるいは、闘わない姿勢への個人的な是非)を見出す。「読み」とは時に切実なものだ。空想の城は脆い。しかし反面では力強く、連鎖する。
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文庫で600ページ近くあるので、図書館から借りた単行本を半分読んだところで返却期限が1週間過ぎてしまい、結局、文庫版を買って続きを読みました。
約1ヵ月かかって読みましたが、今のところ今年のベストワン。人はなぜフィクションを読むのか。優れた文学は時代も場所も超えて力になるのだと、これほど強く訴える作品もめずらしい。
私も大学でフィツジェラルドを読みましたが、イラン・イスラーム政権下では、『グレート・ギャッツビー』は不道徳だと避難され、著者と学生たちは「ギャッツビー裁判」を行います。
(この裁判の展開自体が優れた『ギャッツビー』論になっているのがおもしろい。)
私が新宿のカフェで読んだ『デイジー・ミラー』を著者は、イラン・イラク戦争の爆撃音を聞きながら、蝋燭の灯りの中で読んでいます。
女子学生のひとりナスリーンが同い年だと後半になって気がつきました。
時代や場所を超えて、私たちが同じ物語に共感できるということに感動すると同時に、ロリータに同情し、デイジーに憧れる彼女たちの状況の切実さに胸をつかれます。文学がどれほど彼女たちの希望になっているのかと思うと涙が出ました。
「ギャッツビー裁判」をはじめ、全体が文学論でもあるので、『ロリータ』、『グレート・ギャッツビー』、『デイジー・ミラー』、『高慢と偏見』あたりは読んでおいたほうが、彼女たちとともに作品を楽しめると思います。(それに誰が死ぬとか、殺されるとかガンガンネタバレされてるし。)彼女たちの視点を通して、それぞれの作品をまったく新しい見方ができるのもおもしろかったです。
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以下、引用。
「どんなことがあっても、フィクションを現実の複製と見なすようなまねをして、フィクションを貶めてはならない。私たちがフィクションの中に求めるのは、現実ではなくむしろ真実があらわになる瞬間である」
『ミス・ブロウディの青春』
『断頭台への招待』
あたしはプラスチックね。何をされようがこわれないもの。
教授たちがヘミングウェイの短編から「ワイン」という言葉を削除しようと躍起になっているところで、ブロンテは不倫を認めているから教えないなどというところで、本当に仕事に集中できるだろうか。
一番楽しかった思い出は、いびつな形の大きなプールで泳いだこと。私は学校の水泳で優勝して、父はそれをとても誇りにしていました。革命の一年後に父が心臓麻痺で死んでから、家と庭は政府に没収されて、私たちはアパートに移りました。それ以来一度も泳いだことはありません。私の夢はあのプールの底にあるんです。プールに飛びこんで、父の思い出や私の子供時代の何かをとりもどそうとする夢をくりかえし見ます。
彼は黒板の片側に白い字で「ムスリムの娘」と大書したあと、黒板の中央に縦線を一本ひき、反対側にピンクの大きな字で「キリスト教徒の娘」と書いた。そしてクラスに向かって、両者の違いがわかるかと訊いた。気まずい沈黙の末に、教師はようやく言った。一方は��れを知らぬ純粋な処女だ。夫のために、夫ただひとりのために貞操を守っている。彼女の力はその慎み深さから生まれてくる。それに対してもう一方は……いや、処女ではないという以外にたいして言うことはない。ヤーシーが驚いたことに、うしろにいた二人の女子学生が、いずれもムスリム学生協会で活動している二人が、くすくす笑いながら小声でこんなことを言いだした。「キリスト教に改宗するムスリムが増えているのも当然ね」
『ロリータ』の物語の悲惨な真実は、いやらしい中年男による十二歳の少女の凌辱にあるのではなく、ある個人の人生を他者が収奪したことにある。
しかし完成した作品は希望に満ち、しかも実に美しい。美のみならず人生を、平凡な日常生活を擁護し、ヤーシー同様ロリータが奪われた、ごくふつうの喜びのすべてを擁護している。
彼らは他人を自分の夢や欲望の型にはめようとしてきたが、ナボコフはハンバートを描くことで、他者の人生を支配するすべての唯我論者の正体をあばいたのである。
(陪審員のみなさん、忘れないでいただきたい。「子供」とあるが、この子がイスラーム共和国にいたら、もっと年下のときから、ハンバートより年長の男性と結婚するのに何の支障もないのである)
『ロリータ』や『ボヴァリー夫人』のような物語が──こんなに悲しく悲劇的な物語が──私たちを喜ばせるのはなぜかしら? こんなひどい話を読んで喜びを感じるのは罪深いこと? 同じことを新聞で読んでも、自分で経験しても、同じように感じるのかしら? このイラン・イスラーム共和国での私たちの生活について書いたら、読者は喜ぶかしら?
ナボコフはすべての優れた小説はおとぎ話だと言っている、と私は話した。
第一に、おとぎ話には子供たちを食べる恐ろしい魔女や美しい義理の娘に毒を盛る継母、子供を森に置き去りにする弱い父などがあふれている。しかし、魔法は善の力から生じ、その力は、ナボコフのいうマクフェイト、すなわち運命が私たちに課す限界や制約に屈する必要はないと教えてくれる。
あらゆるおとぎ話は目の前の限界を突破する可能性をあたえてくれる。そのため、ある意味では、現実には否定されている自由をあたえてくれるといってもいい。どれほど苛酷な現実を描いたものであろうと、すべての優れた小説の中には、人生のはかなさに対する生の肯定が、本質的な抵抗がある。作者は現実を自分なりに語り直しつつ、新しい世界を創造することで、現実を支配するが、そこにこそ生の肯定がある。あらゆる優れた芸術作品は祝福であり、人生における裏切り、恐怖、不義に対する抵抗の行為である。私はもったいぶってそう断言してみせた。形式の美と完璧が、主題の醜悪と陳腐に反逆する。だからこそ私たちは『ボヴァリー夫人』を愛してエンマのために涙を流し、無作法で空想的で反抗的な孤児のヒロインのために胸を痛めつつ『ロリータ』をむさぼり読むのだ。
「何より心が痛むのは、ロリータが徹底的に無力なだけではなく、ハンバートが彼女の子供時代を奪ったことね」
ナボコフの『アーダ』、ゴールドの『金のないユダヤ人』、フィッツジェラルドの『グレート・ギャツビー』……。警備員は汚れた洗濯物でもつまむように、さげすみに満ちた態度でそれらの本を取りあげた。しかし没収はしなかった──そのときはまだ。それはまたのちの話である。
最初の日、フィクションは何をすべきでしょうか、そもそもなぜわざわざフィクションを読むと思いますか、と学生に問いかけた。
今学期、私たちはさまざまな作家を読んで議論することになりますが、これらの作家全員に共通するひとつの点は、規制の秩序を覆す不穏な力を秘めていることです。ゴーリキーやゴールドのように、体制の打倒をめざす政治的意志が明らかな場合もあります。しかし私に言わせれば、フィッツジェラルドやマーク・トウェインのような作家のほうが、たとえそうは見えなくとも、いっそう不穏なのです。
黒板に私の好きな、ドイツの思想家テオドール・アドルノの言葉を書いた。「道徳の最高の形態は、自分の家でくつろがないことである」。想像力によってつくりだされた偉大な作品は、ほとんどの場合、自分の家にありながら異邦人のような気分を味わわせます。最良の小説はつねに、読者があたりまえと思っているものに疑いの目を向けさせます。とうてい変えられないように見える伝統や将来の見通しに疑問をつきつけます。私はみなさんに、作品を読むなかでそれがどのように自分を揺るがし、不安な気持ちにさせ、不思議の国のアリスのように、ちがった目でまわりを見まわし、世界について考えさせたかを、よく考えてもらいたいのです。
私は毎朝、『ハックルベリー・フィンの冒険』をわきに抱え、青葉の繁る広い通りを大学まで歩いた。
のちに女性は歌うことさえ禁じられた。女の声は髪の毛同様、性欲を刺激するから隠しておくべきだというのである。
私はそう言って、コンラッドによる『ナーシサス号の黒人』の序文から、フィッツジェラルドが愛した一節を朗読した。芸術家は「人間の喜び、驚く能力に、人生をめぐる謎を感じる心に働きかける。憐れみ、美、苦痛を感じる力に……数知れぬ心の孤独をしっかりと結びつける、とらえがたくも揺るぎない、連帯への確信に働きかけ、夢、喜び、悲しみ、憧れ、幻想、希望、恐怖における連帯に、人をたがいに結びつけ、全人類を──死者を生者に、生者をまだ生まれぬ者に結びつけるこの絆に訴える」。
私は幾度もフィッツジェラルド自身による『ギャツビー』の説明に立ちもどった。「それがこの小説の主題のすべてだ。世界を華麗に彩る幻想の喪失──その魔術的な栄光にあずかっているかぎりは、物事が真実であろうと偽りであろうとかまわなくなるほど美しい幻想の喪失」。
人はなぜわざわざ文学を専攻しているなどと言うのだろう、そう言うことに何か意味があるのだろうかと考えることがある、と彼女は言う。この本に関しては、弁護のために言うべきことはもう何もありません。この小説自体がみずからの弁護になっているからです。私たちはこの本から、フィッツジェラルド氏から、いくつかのことを学べるかもしれません。私がこの本を読んで学んだのは、不倫はいいことだとか、みんないかさま師になるべきだなどということではありません。スタインベックを読んだ人が全員ストライキをしたり西部に向かったりしましたか? メルヴィルを読んだからと���って鯨をとりに行きましたか? 人間はもう少し複雑なものではないでしょうか? 革命家には個人的な感情がないんですか? 恋をすることも、美を愉しむこともまったくないんですか? これは驚くべき本です、と彼女は静かに言った。この本は夢を大切にするとともに夢に用心することを、誠実さは思わぬところにあることを教えてくれます。とにかく、私はこの本を読むのが楽しかったし、それも大切なことなんです。わかるでしょう?
演劇科の学生は、アイスキュロス、シェイクスピア、ラシーヌの代わりに、ブレヒト、ゴーリキー、さらにはマルクスとエンゲルスを入れるよう要求した──革命理論は戯曲より重要だというのだ。
僕に言わせれば、ラシーヌより重要な人間などだれひとり、まさにだれひとりいないし、彼より重要な革命指導者や政治的英雄などというものもいるわけがない。
僕はロレーヌとハーディによる一本の映画のほうが、マルクスとレーニンをふくむ、きみたちのあらゆる革命的論文をあわせたより価値があると思う。きみたちの言う情熱は情熱ではないし、狂気ですらない。それは真の文学には値しない粗野な感情にすぎない。
こうして友人や家族に電話して無事を確認するのも一種の儀式となっていたのだ。自分の安心はほかのだれかの死を意味することだとわかっていても。
若い男の態度が彼女の運命を間接的に決めたという点でクラスの意見は一致した。ウィンターボーンこそは、デイジーがよく思われたいと願うただひとりの相手だ。
ウィンターボーンには一言もいわなかったけれど、お説教するのではなく、ありのままの彼女を無条件で認めることで愛を証明してほしいと、デイジーは痛切に、挑戦的な態度で願っている。結局のところ本当に相手を想い、死によって愛を証明したのがデイジーのほうだったのは皮肉である。
「ヴェールをした女性は牡蠣の殻の中の真珠のように守られている」
作家が言います。お名前はよく存じ上げている──ヘンリー・ミラーを翻訳なさった方ではありませんか? いえ、『デイジー・ミラー』です。そうでした、作者はジェイムズ・ジョイスでしたね? いえ、ヘンリー・ジェイムズです。ああ、そうそう、ヘンリー・ジェイムズ。ところでヘンリー・ジェイムズはいま何をしているんですか? もう亡くなりました──一九一六年に。
ミスター・フォルサティーは笑いながら、理解できない映画ほど人はありがたがると言った。それが本当なら、みんなジェイムズを好きになるはずよと私は言った。それはちょっとちがいます、と彼はぬかりなく答えた。タルコフスキーのように尊敬されるのはジョイスです。ジェイムズに対しては、わかったと思うか、わかるはずだと思うから、頭にくるんですよ。ジョイスのような見るからに難解な作家より、ジェイムズのほうが受け入れるのが難しいんです。あなたは見に行くの、とミスター・フォルサティーに尋ねた。僕が行くとしたら、世間に合わせて行くだけですよ、僕としてはトム・ハンクスのほうがずっといい。
「ああ、ぼくらは優しさを求めながら、みずからは優しくなれなかった」
処女はみんな看守と結婚させられて、そのあとその看守に処刑��れました。処女のまま殺されると天国に行くと考えられているからです。
裕福な人たちはいつも、自分より恵まれていない人間は上等なものをほしがらない──いい音楽を聞いたり、おいしい料理を食べたり、ヘンリー・ジェイムズを読んだりしたがらないと思っていますけど、私にはその理由がわかりません。
母の働いている家から借りた『レベッカ』や『風と共に去りぬ』の翻訳を、私ほど大切に味わった金持ちの子はいないと思います。でもジェイムズは──これまで読んだどの作家とも全然違う。恋をしてみたい、とラージ―エは笑いながら言った。
革命がはじまったとき、革命検察官がレザー・シャーの墓をブルトーザーでなぎ倒して、記念碑を壊して、跡地に公衆トイレをつくった──それをまず自分で使ってみせたんだ。
ナボコフは『ボヴァリー夫人』についての講義の中で、すべての優れた小説は優れたおとぎ話だと主張した。じゃあ僕らの人生も、架空の人生も、両方おとぎ話だというんですか、とニーマ―が訊いた。私は微笑んだ。そのとおりよ、時々、人生が小説そのもの以上に作りもののように思えるの。
ジェイン・オースティンが二百年前に気づいていたように、結婚というものの核心には個人の自由の問題が横たわっていた。
こうすると幸せな気分になるの、と言うかぼそい声は、ちっとも幸せそうではなかった。これだけ真っ赤だと、いろんなことを考えなくてすむから。
「きみはいつも言っていたじゃないか。オースティンが政治を無視したのは、政治がわからないからではなく、自分の作品、想像力が現実の社会にのみこまれるのを許さなかったからだって。世界がナポレオン戦争にのみこまれていた時代に、オースティンは自分だけの独立した世界をつくりだした。そして二百年後のイラン・イスラーム共和国で、きみはその世界を小説における理想の民主主義だと教えている。
愛の表現が違法とされるときに、恋愛を体験することなどできるだろうか。
そうなの、私もそう言ったの──オースティンのテーマは、異常な状況における残酷さではなくて、ごくふつうの状況で、私たちのようなふつうの人間が見せる残酷さなのよ。そのほうが怖いでしょう?
「あたし、行きます」ナスリーンは言った。もう二十七歳になるのに、生きるというのがどういうことかわからない。刑務所での生活が一番つらい経験だとずっと思っていたけれど、そうではなかった。
何より希望がないのが寂しい。刑務所にいたときは、いつか出られるかもしれない、大学に行って、楽しいことをして、映画にも行けるかもしれないという希望があったんです。あたしは二十七です。愛するというのがどういうことかわかりません。この先ずっと秘密の、隠れた存在のままでいたくないんです。このナスリーンがいったい何者なのか知りたい、知りたいんです。
学生時代がなつかしい、と彼女は言う。当時はどうして英文学の勉強をつづけているのだろう、どうしてもっと役に立つものに──ここでまた笑顔を見せた──しなかったのだろうとよく思ったけれど、いまではつづけてよかったと思っている。他人がもたないものをもっているような気がする。
私はほんとにジェイン・オースティンが好きで──ダーシーに夢中になった女の子がどんなにたくさんいるか知っていただけたら!
デイジーとリジー(エリザベスの愛称)のどちらにするか迷ったが、結局デイジーにしたと言う。夢見ていたのはリジーのほうだが、ダーシー氏と結婚するなんて高望みもはなはなだしい。どうしてデイジーなの? デイジー・ミラーをお忘れですか? 子供にある意味をこめた名前をつけると、その名前のような人になるって聞いたことがありませんか? 私は娘に、私が決してなれなかった人間に──デイジーのような人になってほしいんです。勇気のある人に。
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激動のイランを冷静に見つめた記録。
そして女というだけで抑圧されながら文学を手に自分らしく生きる道を模索する筆者とその生徒たちの記録。
ページを捲れば捲るほどイランが暗黒の道へと進んでいく。
その延長線上にあるのが今のイランなのだ。
今、イランで女性たちが命を懸けて声を上げているのはこの作品で触れられるような数々の女性への酷い仕打ちの積み重ねであることが痛いほどわかる。
胸が張り裂けそうだった。
でも今このタイミングで読んで良かった。
イランを知るために映画を観るのも勿論良いけどこの本から始めても良いのでは。
私はこの本を強く推したい。
あと文学批評本としても完成度がとても高いのでそういった意味でもオススメ。
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革命後のテヘランでは『ロリータ』を含めて文学を読むことは大きな困難を伴った
1995年の秋、勤め先の大学を辞めた著者は、優秀で勉強熱心な女子を選び、読書会を催すという夢を実現する。「作品の選定基準のひとつは、作者が文学の決定的な力、ほとんど魔術的な力を信じていること」(P35)
ロリータ
ギャツビー
ジェイムズ(主に『デイジー・ミラー』と『ワシントン・スクエア』)
オースティン(『高慢と偏見』)
を取り上げつつ、自身と周囲の環境や想いを作品と重ね合わせ血肉にしていく。
最初から最後まで体制に命が特に女性の命が軽く扱われ煩悶するばかりの中、著者や学生が閉じられた場所といえども文学に触れ討論をしていたことに安堵しました。
個人的には第二部の『ギャツビー』の裁判に、これほどに私は文学を必要としたことはないんじゃないかと心を打たれました。なぜ世界に文学が在り続けるのか、人が求め続けるのかを心で感じることができた気がします。
解説は西加奈子さん。西さんの著作『i』で本作を引用されてるんですね。
第一部
著者曰く自国における「私たちの生活に一番ぴったりくる小説」(P11)として『ロリータ』を教材に選択した。選ばれた女学生は義務付けられたヴェールとコートの下には個性と信条に合わせた服装で著者の家に集う。
「ハンバートは大方の独裁者同様、みずからの思い描く他者の像にしか興味がない。」(P85)
第二部
時間を遡り、著者がアメリカからイランに戻り教職に就いた時期が語られる。新しい英文科長にマイク・ゴールド『金のないユダヤ人』を授業で扱いたいと願い出る。外国語書籍の本屋が政府により閉鎖され、進歩的な新聞も閉鎖される中、著者の受け持ちの講義が始まる。
『グレート・ギャツビー』の価値観に戸惑う学生たちに「小説を読むということは、その体験を深く吸い込むことです。」(P183)と著者は語りかける。
状況が悪化する中、期せずして授業で『ギャツビー』を裁判にかけることになる。
状況は悪化の一途を辿る。
「政府はどうにか全国の大学を閉鎖し、教員、学生、職員を粛清した。殺された学生や投獄された学生もいた。単に姿を消した学生もいた。テヘラン大学はおびただしい失望と悲痛の場と化した。」(P248)
第三部
1980年9月、戦争が始まった。この戦争は1988年7月末まで続く。
「この戦争はわれわれにとって大いなる祝福である!」というスローガンが掲げられる。
戦争と失業の中、著者は本を読みまくる。2人の子どもに恵まれる。研究会の仲間と仕事をするようになり、その後また大学で働くようになり『デイジー・ミラー』と『ワシントン・スクエア』を取り上げる。
これまで読んだどの作家とも全然ちがう。恋をしたみたい、とラージーエは笑いながら言った。(P362)
ラージーエ(ファーストネーム)は本名、彼女はもうこの世にはいないから安心して使えるのだそう。
停戦前に発射された最後のミサイルの一発が近所の家に落ち、数人が亡くなる。戦争は唐突にひっそりと終わり、和平は敗北と同じだったが国内の敵との戦いは終わっていなかった。
第四部
家での読書会ではオースティン『高慢と偏見』は楽しく読まれる中、1人の学生の結婚が決まる。革命に対する幻滅が深まり、日常の規制は緩和される。しかし作家協会のツアーバスが崖下に落とされそうになったり、流れる血は日常にありふれていた。
ソマリアやアフガニスタンをごらんなさい。あの人たちに比べれば、女王のような暮らしをしているじゃありませんか。(P513)
冒頭、著者のことわりがきに
この話に登場する人物と出来事には、主として個人を守るために変更を加えてある。検閲官の目から彼らを守るだけでなく、モデルはだれで、だれがだれに何をしたのか穿鑿して楽しみ、他人の秘密によってみずからの空虚を満たそうとする人々からも守るためである。(P8)
幸いにも、日本には検閲官はいないが後半部分はどこにいようと自戒すべきことと感じる。
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とても長いので時間はかかったが、読み終わることができた。不思議と挫折しようとは思わなかった点が、この本の素晴らしい点だと思う。改めて、文学が持つ力を教えてくれた。さらには、想像がつかなかったイランという国、ひいてはイスラム教という宗教も教えてくれた。様々な文学作品が筆者に染み込んでいる様が、とても美しく、また健気だと感じた。
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河出文庫グランドフェア2023の5冊目。ちょうど西加奈子の最新刊「くもをさがす」で、彼女が読んだ本のリストの中にこのタイトルがあったので、前から気になっていたこともあり選んだ。
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イスラーム革命後のイランで密かに開かれた女性たちの読書会。女性が学ぶことを厭う場所で学び続けることの苦しさを思った。学べば、どう生きるかを他者に規定される理不尽と、向き合わざるをえないから。
知ることは、自分の世界の狭さに気づくことだ。
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イラン革命後の抑圧された全体主義社会で、女の価値は男の半分と言われる中、女性だけで密かに行われた西洋文学の読書会の回想録。
文学とは、この本で描かれるように、読者が自らの人生の痛みや現実と照らし合わせながら読まれてきたんだな