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投稿者:太陽電池 - この投稿者のレビュー一覧を見る
松田聖子の歌はカラオケでよく歌われているが、実は素人が歌いこなすのはかなり難しい。それをサラッと歌いこなすのはさすが聖子。その声を聴いただけで、その能力を見い出した若松さんはプロデューサーとして凄い才能だと思う。まさに若松さんあっての松田聖子だと言うことがよく分かる。若松さんがいなければ、聖子はデビューすることすら出来なかった。デビューから約8年間の歌のタイトルやアレンジもすべて若松さんが考えたおかげ。松本隆やユーミンの聖子に対する詩や曲の提供は知られているが、意外と知られていない若松さんの功績を今一度見直すべきである。当時、レコードだけでなく、ブロマイドや関連グッズの総売り上げは840億円。当時としてはとてつもない額である。この聖子人気に嫉妬したのが、ほぼ同い年の山田邦子である。「ブリッコ」という言葉は今では伝説だが、聖子と同い年の私が見ても当時の聖子は、かわいこぶる所は全くなく、山田邦子が漫談のネタとして使ってからテレビ、ラジオ、雑誌などで流布されたが、当時の子供達(今では50歳以上)に信じられて、今はそれが当たり前のように思われているのはファンとして残念である。元暴走族のリーダーだったとか色々雑誌で中傷されていたが、全て嘘である。「ブリッコ」の方は気にすることなく残ってしまったようだ。
子供のころ、私は歌謡曲が嫌いだった。まるで演歌みたいな暗い曲が多かったからだ。突っ張り路線に走った百恵も好きになれなかった。しかし、80年代になるとそこに聖子が登場する。まるでポップスかビートルズを聴いているかのような喜びがそこにはあった。車に例えると、ガソリンエンジン車がまだ主流の時代に、ハイブリッド車を飛び越していきなりソーラーカーのようなクリーンな電気自動車に乗っているかのような快適さ。今のテスラやポルシェ初のEVタイカンを思わせるような静かで滑らかな走り。しかも、自宅の太陽光発電で充電して走るクリーンで全く異次元の走りだ!まさにアルバム「ユートピア」の世界だ。私自身も今年初めてEVを買い、やっと聖子の歌のイメージに人として追いついた感じ。40年以上の時空を超えて今、走るソーラーカー。それにぴったりの曲が聖子だった。本書では、その聖子の誕生が簡単ではなかった事が記されている。また、「瑠璃色の地球」の作曲者の正体が分かる記述がある。まさに、先進的で、あの当時、アイドルが歌う地球環境保護の歌など他にあっただろうか?
聖子は子供のころ、小児喘息の発作で苦しんでいた。発作が始まると止まらず、母親が学校まで迎えに来たこともあった。そういう子供の頃の苦労があり、まさに艱難辛苦に耐えた証が、あの美しく伸びやかな声を作ったのだろう。その聖子を世に出した若松プロデューサーは我々にとって命の恩人、救世主である。
話はそれるが亡くなった娘の沙也加さんについて一言。あれはもう国家の犯罪である。子供の頃、有名人の娘というだけで、壮絶ないじめに会い、母親を気遣い歌手への道を諦め、やっとミュージカル女優になれたのに。国家公安委員会の毎回の議題は「次は誰を殺すか?」「どうやって殺すか?」である。どうせ特定秘密保護法で永久に議事録は公開されないだろうから先に言っておく。ZARDの坂井泉水、忌野清志郎、そして沙也加さんは、おそらくこの組織の暗殺予定者リストに入っていたであろうと。沙也加さんは、自殺に見せかけた他殺だと私は今でも思っている。聖子が元の精神状態に戻るのは、簡単ではない。しかし、またいつか、かつての勢いを取り戻して歌って欲しい。そして聖子が沙也加さんと同じ目に会わないことを祈るばかりである。
『松田聖子の誕生』
2022/10/10 19:25
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投稿者:百書繚乱 - この投稿者のレビュー一覧を見る
「すごい声を見つけてしまった」
松田聖子を発掘し、デビューさせ、スターダムに押し上げた伝説のプロデューサーが初めて明かす「松田聖子」のすべて
オーディションのカセットテープ
芸能界入りに反対する父親
難航するプロダクションさがし
潮目の変化とデビュー
そして、スターへ
〈何より大切なのは、松田聖子は誰にも似ていなかったということ。〉
1980年4月1日発売のデビュー曲「裸足の季節」
7月1日発売、2枚目のシングル「青い珊瑚礁」
8月1日発売のファーストアルバム「SQUALL」
8月14日「ザ・ベストテン」初チャートイン時の羽田空港からの生中継
10月1日発売で初のオリコン1位となった3枚目のシングル「風は秋色」
年表にすればメロディーと歌声がよみがえり
語られる誕生秘話が40年の時の隔たりを一気に越えていく
松田聖子と同時代をすごした者にはたまらない一冊、2022年7月刊
松田聖子さんのすごさが分かる1冊です。
2022/08/16 17:32
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投稿者:広島の中日ファン - この投稿者のレビュー一覧を見る
昭和時代を代表するアイドル歌手、松田聖子さんの直属のプロデューサーが著者。松田聖子さんはどう誕生したのかを、著者がご自身の体験をこの新書1冊にまとめました。
個人的には、最後まで聖子さんが歌手になるのに反対だったお父さんを著者が説得する、前半の話もすごい内容でしたが、いざ歌手になってから、ご自身の歌手として妥協を許さない聖子さんの「プロの歌手」としての意気込みのエピソードがさらに衝撃的でした。松田聖子さんのすごさが伝わる1冊です。
聖子ちゃんが大好き!
2022/07/28 18:42
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投稿者:nako - この投稿者のレビュー一覧を見る
なので、この本を手に取りました。聖子ちゃんの歌への情熱、プロヂューサーの若松さんの熱意が「松田聖子」という不世出の歌手を生んだのだなあ・・・としみじみ思った。同時代を生きられて幸せです。
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投稿者:sas - この投稿者のレビュー一覧を見る
聖子ちゃん世代ですが、デビューまでの難産の話しは詳しく知りませんでした。
歌手へと引っ張るエネルギーと、聖子ちゃん本人が歌手になりたい気持ちの強さの融合ですね。
当時は歌唱力に乏しいアイドルが多かったですが、聖子ちゃんの歌唱力は別格でした。
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デビューの契機から1980年代を通じて松田聖子の楽曲をプロデュースしてきた当時CBS・ソニー社員だった著者の自叙伝。そうであるがゆえ,文体に主観的な印象を拭えないが,松田聖子本人が自身の歴史を自らの文体で残さない以上,80年代における松田聖子史の貴重な「一次資料」だといえる。これに付け加えるならば,本編は,デビュー前に著者に郵送した松田聖子の手紙が6通引用されているという「史料紹介」の役割も兼ねている。
本編は176頁までだが,残りの60頁近くを「アルバムとシングルについて」と題し,当時プロデュースした楽曲の成り行き,作詞家・作曲家とのいきさつ,アルバムの構成について述べられているのは,興味深い。些か本編と同じ内容が繰り返されている箇所も少なくないが,おそらく,これは,「アルバムとシングルについて」が先に執筆され,それを受けて本編が書かれたためだと思われる。
本書のタイトルである「松田聖子の誕生」には,3点の意味合いがあるのだと推測される。
第1点目は,文字通り,松田聖子本人の誕生である。蒲池法子という高校生から松田聖子という80年代最強のアイドルが誕生したプロセスは,本編を通じて余すところなく語り尽くされている。
第2点目は,「松田聖子」という音楽ジャンルの誕生である。著者も述べているように(144-145頁),松田聖子の楽曲は歌謡曲でありながら,当時洋楽的センスに満ちあふれた作詞家・作曲家・編曲家たちによって作られたものであり,それが娯楽性溢れる歌唱法によって歌謡曲に収まってしまうという特徴がある。そのような音楽ジャンルは1970年代までには存在していなかったことから,「松田聖子」は新たな音楽ジャンルを誕生させたといっても過言ではない。
第3点目は,「松田聖子」に代表されるリゾートやトロピアカル・アイランドといった海外旅行の誕生である。80年代には新興の旅行代理店も参入し,ますます海外旅行が身近になっていくが,「松田聖子の誕生はちょうどその過渡期とも重なっていた」という文面が,本書のタイトルにもちょうど重なっていた点を,看過してはならないだろう。著者がアルバムのキャッチコピーを考えるときに,『anan』をはじめ,女性ファッション誌を意識して見ていたというのも,その象徴である。
著者が,聖子の父親と初めて対面したのが,西鉄グランドホテルだったというのも,本書を福岡で読んでいるからこそ,非常に興味深い。
本書の原稿は,2022年の初夏に書かれたという。前年末に神田沙也加さんが亡くなったことで,本書の文面は,その母親に対するエールであるようにも伺えた。
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松田聖子誕生の秘話がとても興味深く読めた。サブスクで曲を聞きながら読むとなお良し。
横道にそれた話が多いのがやや残念。
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松田聖子が筆者である若松プロデューサーにスカウトされ、サンミュージックと契約てCBSソニーからデビューし、大スターになるまでと、その後が語られる。彼女はオーディションで入賞してすんなり歌手になれた訳ではなく、父親の強硬な反対があった。そこをなんとか説得するまでが前半の読みどころ。
若松氏が総合的に聖子をプロデュースして私生活も含めた面倒を見ていたとは知らなかった。デビュー曲「裸足の季節」のCMタイアップにまつわる逸話はファンには有名だが、リアルタイムで河合奈保子派の私ですらお馴染みのことでも「裏方目線」だと新鮮だ。
聖子が大ヒットを連発し、80年代を代表するアイドルになれた理由、その経緯やシングルとアルバム製作秘話が後半。年にシングル4枚、アルバム2枚はかなりのハイペースだが、作詞家、作曲家、編曲家、ミュージシャンへの発注は若松氏の差配で、タイトルやコンセプトやアートディレクションもほとんど彼が考えていたとは知らなかった。15thアルバム「シトロン」までが氏の担当で、以後は手を離れる。聖子がその後どうなったか、言外に含みが感じられる。私の評価は「若松宗雄氏プロデュース、松本隆氏作詞の頃がいちばん良かった。聖子の作詞のセンスはひどい」というものなので、あしからず。
あとがきで神田沙也加と松田聖子に語りかける言葉に胸が詰まった。聖子ファンのみならず、昭和歌謡好きにも楽しめるはず。読みながら思わず彼女のCDをポチッてしまった!
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風立ちぬのアルバムとロングバケーションの録音時期とメンバーが一緒だということは知らなかった。
松田聖子って個人的にら松本隆前が好きなんだよな私は。聖子の定番と言われるけど、やっぱり、小田裕一郎だろ。松本隆らは深みを増したのは間違いないけど、聖子ちゃんの才能に目をつけた人たちが群がった感じ。今回は若松さん視線だけど、相沢さんはどんな風に対応していたのだろう。才能と直感が多いので、よくわからないという本に。
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人と人の出会い、そのタイミング、社会など周りの環境、大きなものが動くときには、こういうものがピタッとハマっている、そんなように感じた。もちろん、そういうものを味方につけるには、実力、才能だけではなく、意志や努力する気持ちの強さがあればこそ、松田聖子のデビューからあっという間の快進撃の理由がよく分かった。
この時代だからこそ、YouTubeで、登場するエピソードの当時の映像を見ることができた。すごいのは、ザ・ベストテンで、札幌から羽田に到着した飛行機のタラップを松田聖子が降りてきて、そのまま駐機場で歌を披露する、もちろん生放送!他にも、デビュー直後の初々しいながらも力強い歌声とか。
帯の「松田聖子は、誰にも似ていなかった」は印象に残った。だからこそ、なかなか才能が認められなかったが、だからこそ、その歌声と人柄、頑張る姿が人をひきつけ始めると、誰にも似ていないことが爆発的な人気となっていく。
著者はオーディション・テープから松田聖子を発掘し、デビューから10年近くの間プロデューサーを務めた方。紹介されているエピソードから、ものすごい方だというのはよく分かるが、自著なので、もう少し謙虚でも良かったのでは?
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レポートを書くため、参考文献として読んだがとても面白く、興味深かった!!山口百恵、松田聖子…と言った昭和を代表するアイドルの方々は現代のアイドル像(大人数、歌って踊る)とは異なっていて、興味を持った。松田聖子が『誰にも似ていないアイドル』として花開いていくまでの道のりを若松プロデューサーの視点から書いている。
デビューまでにこんなに紆余曲折があったとは…それにしても、若松氏の粘り強さと人脈と芸術方面にも長けた直観力、聖子ちゃんの運を手繰り寄せる人望の厚さがよく分かった。
こんな子は売れないよ、と何人にも言われて、それでも自分の直感を信じ続けるのは中々できないことだと思う。
名だたる音楽家、作詞作曲家の方々が楽曲に関わっているので、すぐに曲を聴きたくなった。
聴きたい歌手の曲を数タップですぐに聴ける、なんて便利な時代だろう…。
本書は神田沙也加さんが亡くなられた後に書かれている。後書で聖子さんへエールが送られている。思わず泣きそうになった。
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まぁ既知のことばっかりだろうけど一応育ての親の本を読んでみるか と借りてきた。
この本で初めて知ったこと
1)当時のCBSソニーが5部まであってクラシックの1部、歌謡曲ポップスの2部、ニューミュージックの3部、洋楽の4部、学芸の5部。若松氏は「ソニーの天皇」と言われた酒井政利氏が君臨する2部に課長として配属されキャンディーズなどを手掛けヒットさせるも酒井氏のパワハラ(若松氏が見つけてきた新人を「俺がやるわ」と横取り、深夜から始まる終わらない叱責)に耐えきれず「一人でやらせてくれ」と直訴。結果6部が新設され2部と競うことになったと。へー。
6部長となってすぐに渥美二郎のメガヒットが出るものの自身が一から手がけた歌手ではないため(おそらく酒井氏との競争心から)新人発掘に焦っていたと。だからこその決戦大会は見ずに地方予選のテープを聞いていたわけだね。なるほど。そこに聖子。で、若松氏は部長だから一存でデビューさせることができる。聖子の才能に惚れていたこともあるだろうけど父親の頑固さ(障害)と酒井氏へのライバル心(反骨)もあるなこりゃ。
聖子の事務所選びで尾木プロ(浜田朱里)ゴールデンミュージック(柏原芳恵)ナベプロに断られる。
ナベプロの1980を調べても1981の沢田富美子(銀座の土地しか買いませんでお馴染みの不動産資産家ですね今や)しか出てこない。あれ?前年は?とさらに調べたらモスクワオリンピックマスコットということで売り出そうとしたらボイコット、歌手デビューが1981になったとある。なるほど18歳デビューが19になったのね。
んでこの沢田富美子はCBSソニーとがっぷり四つのタッグを組んでの売り出しだったらしい。
前述の浜田朱里もソニー。
てかわざと酒井の駒に当てに行ってる???
それならそれでなかなかヤバいし(褒め言葉)相手も酒井に忖度して断るよね。同年デビューでレコード会社同じのアイドルを二人抱えるなんてやるわけないし(金が分散するじゃん)
で、なんとかサンミュにねじ込んだとあるがここもソニー内部での2部6部の争いを相澤社長が知らない訳はないし、「なんでうちなの?」の質問には「平尾昌晃音楽学校行ってたならナベプロが先でしょ?てか断られたんだね。あと君が一番仲のいい尾木プロ行ったんじゃないのぉ?」てのはお見通しの上での質問でしょ。ただ相澤社長としてはそれまでの酒井ソニーにあんまり恩義がなかったのか(確かにサンミュのスターはいない、それどころか淳子のライバルだった)それともここまでレコード会社の企画部長が肩入れしてるなら大したプロモーションを事務所としてかけなくてもレコード会社が金を出してくれると読んだのか。)
尾木同様、同じ年デビュー予定のサンミュ&ソニーの中山圭子。有名人の娘で相澤社長が直々にスカウト。おそらく2部担当。大型タイアップであるティモテシャンプーの非認可成分発覚でCM中止。でサンミュは内部評判のいい聖子にシフトするものの若松氏が当初筒美京平に頼みたかったデビュー曲は「言いたくないけど何か別の力が働いていたかのような」感じで進まない。とな。
これ。酒井氏による圧力をはっきりと示唆している。サンミュとしてはもう「聖子でいこうぜ」ってことなんでしょうけどCBSソニー内部では縄張り問題があったんですねぇ。
仮に(というか確実に)酒井氏による若松潰しがあったとすれば、それによって筒美京平から小田裕一郎になった訳で。筒美京平でも売れてた気もするけど青珊瑚はなかったし風秋もなかったし、翌年の淳子のピンクレオタード(ミスティー)もなかったわけでね。あれって作曲が小田裕一郎で編曲が大村雅朗だから聖子ユニットを先輩が使ったのよね。ディブギもそうかな。
この逸話を聞くたびに相澤社長の心内を想像しますね。サンミュというか日本アイドルのセンターを擁する事務所としてきたわけだけど淳子は自分たちが捕まえてきたのに対し聖子は若松氏に「連れてきてもらった」のでね。しかも当初はさほど乗り気でなかったし。聖子が売れてる最中も芸能界では「でもあんた聖子乗り気じゃなかったでしょ。ただの運じゃん。若松さんに感謝しなね。」て感じだったのでは?と思うと同時に、中山圭子のデビューを決めていたのに同年秋のデビューを予定したり、79年末からドラマ出したり、80年1月にはラジオもやらせている。中山圭子にも同様にやらせていたかもだけどデビュー前のサンデーズ参加なども含めて「こりゃこっちだな」と日に日に気づいていったのかも。
さらに相澤社長の心内を想像しますが(病気なので放っておいてください)
花の82年組なんて言われますけどその前に奇跡の73年組とでもいうべきものがありますよね。山口百恵、桜田淳子、アグネスチャン、キャンディーズ、浅田美代子、石川さゆり、グレープ、城みちる、フィンガー5、海原千里真里、海老名みどり。あと林哲司も。
で相澤社長ね。スタ誕で森昌子はホリプロに取られた。山口百恵も取られた。だが光る宝石こと淳子はゲット。んで73年組のトップとして山口百恵と桜田淳子はデビューから2年ほどはいい勝負だったと思うんですね。どころかレコ大の最優秀新人賞は淳子だったわけだし(百恵はノミネートすらなかった)
でも76年以降はかなり水を開けられてしまう。
相澤社長はちらっと考えたことあると思うんですよ。「もし淳子がソニーで百恵がビクターならどうなっていただろうか」と。
いざ聖子がソニーからやってくるとそのソニーならではの曲作りにびっくりしたんじゃないかなー。
2)若松氏がキャスティング、詩と曲の推敲、音仕上げ、曲順、ジャケ写、帯コピーまで決めていたと。さすが。シングル曲タイトルもほとんど彼みたいだし。にしても「ミスソニー」はいいよね。他にも「ソニーの神秘」とかもいい。てか「ちょっとエッチな美新人」てまじで狂ってんだろ。電通。
3)デビューで平尾昌晃に頼んだらそれは「お願い」だが、しっかり売れてからのエイティーンB面ならこれは「福岡の音楽学校でお世話になったお礼」の印税。タイトルは平尾昌晃が。「年齢をタイトルにするとその瞬間を思い出すしファンの思い入れも強くなる」とな。さすがだ平尾昌晃。てか結局両A面にするなら最初からしときなさいよ。失礼な。
4)若松氏が作曲家であったこと。彼の兄も東芝歌手であったこと。
5)豪華になりすぎた「風立ちぬ」調整を頼むも全く聞き入れない大瀧詠一。好き。
6)赤スーのメロディを上げて終わらせるようユーミンに依頼。その後原田知世1位の際「若松さんに(メロディ後半上げ)教えてもらいました」と言われたと。これ多分何かの嫌味だと思いますよ。だってユーミンだから。
7)大村雅朗が編曲の際に歌詞を先に知りたがっていたこと。
8)風立ちぬのB面「Romance」と「瑠璃」は大瀧詠一マネの紹介の作曲、平井夏美だが謎のまま。それもそのはずで当時作曲家の平井夏美(本名 河原慎司)はビクター社員。
同時期の冬のリヴィエラ(ビクター)は河原担当。若松氏はレコーディングブースに入っていたらしく、終わったあともタイトルをどうするかで盛り上がったと。
レコード会社が違っても才能の自由な交流。
こういうのってイイ。凄くイイ。好き。
ちなみに河原氏は1974にビクター、1986にソニー、1989にビクター、1994にソニーらしい。
メンヘラ?
作曲は瑠璃色、リトダ(田村英里子)、太陽いぱ(伊代)、春休み(水谷麻里)、忘れて(明菜)、少年時代(井上陽水)
すげぇなアンタ。
9)「FAXになってからレコード会社担当が簡単にOK出すようになった」阿久悠
いちいちカッコいいんだけどいい加減にしてくれない?
10)渚バル、TVではキーを上げて華やかさを出していたがレコードは低い。「右手に缶コーラ」の「ラ」は本来の聖子の音域を下回るがその方が曲全体の雰囲気が良くなるのでこちらの色合いにした。
これ。これね。幼心に「このめっちゃ低くて本人出しにくいラが肝」って思ってた。マジで。
なんていうのかね、漫画でコマをはみ出して書く絵というか、一旦歌うのを中断したかのような感じっていうのかな。分かる。分かるよ若松。
11)83年6月発売7枚目アルバム「ユートピア」
ジャケ写が素晴らしいこのアルバム、当時社内で「これじゃ売れない」などと多方面から好き勝手言われてたので若松氏がユートピアに行きたいと思ってつけたとのこと。
聖子プロジェクトはソニーを支えるものだっただろうからそりゃ嫉妬とやっかみで色々言われただろうし(酒井氏はもう全体のトップかな、その頃)83年6月なら明菜をはじめ82年組がいたわけで。
まぁ言われるでしょうね。お疲れ様です。
この本も他にも書いてあるけどいくら何でもそれはないだろ
1)スイメモで母親がわからなかったし、うちでデビューしませんかとレコード会社から引き合いがあった。
いくら何でも話盛りすぎ。親が気づかないわけないし誰が聞いても聖子だし。
そもそも顔より先に「声」に惹かれたわけでしょ?若松氏は。だったらその声をファンや音楽業界が分からないわけないし。はい解散。
この本に書いてないけど書いとくべきなのでは?
1)聖子のパワーボイスがたった1年ちょっとで壊れてしまったこと。彼女が過労で複数回倒れていたことに触れているし、若松氏は事務所に文句を言ったとしているが結果として彼女のパワーボイスが失われたことは素直に書くべきなのでは(まぁ書けないだろうけど)
2)最初から裸足の季節となっているが「ハイヌーンは熱く」について一切触れてない。またデビューがいきなり早まったため香坂みゆきの曲を使ったと他で読んだけどどうなんでしょ。
最後のアルバム懐古はなるほどねーって感じ。当時子供すぎたし聖子ちゃんにあまり興味がなかったので情報が滑っちゃうんだけど、聖子ファンにとっては「ふむふむ」というものでしょう。
個人的には酒井政利氏(2部)とのバトルが感じられたことと、1970年代も80年代もCBSソニーはレコードが売れるトップアイドルを生み出すんだけどその舵取りは酒井から若松に移っていたのがアツい。