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投稿者:るう - この投稿者のレビュー一覧を見る
恥ずかしながら最近になって古典という位置付けの少女漫画を読み始めた。
そこで手に取ったのがこの一冊。
橋本治や大塚英二の萩尾望都論の妙な偏りが気になる。
斜に構えた見方をしないと少女漫画を語れなかったののかもしれない。
大泉サロン時代の仲間との亀裂
増山氏の美学と嗜好をありのまま吸収し我が物にした竹宮氏とその世界に疑問を持った萩尾氏の違いが出たのかも。
彼女らの導き手だった増山氏にとって竹宮氏は愛弟子であり同盟者、萩尾氏は言うことを聞かない反逆者だったとしたら。
そして竹宮氏は萩尾氏に強烈な劣等感を持っていた。
萩尾氏からすれば「増山さんは元々私の友達だったのに!」
……この泥沼。彼女たちが創作を放棄しなかった事は奇跡と言っていい。
萩尾氏とご両親の断絶エピソードは読んでいて辛い。
ご両親は自分たちの娘が天才であること、神の子の父母であることを最後まで理解できなかった。
愛はあるがわかりあえない残酷は萩尾作品の底に深く流れている。
これが余計悲しい。
「11人いる!」大好き
2022/11/04 14:01
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投稿者:ふみちゃん - この投稿者のレビュー一覧を見る
SFの漫画で何が好きかと問われて、まず思い出すのが「ポーの一族」「11人いる!」「イグアナの娘」「地球へ」、あれ~4作品中3作品が萩尾氏の作品で、「地球へ」だけは竹宮恵子氏の作品だけど、彼女も24年組だあ。この作品をリアルタイムで読めた私は幸せものです
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投稿者:ヤマキヨ - この投稿者のレビュー一覧を見る
筆者の萩尾作品への思い入れが詰まった一冊です。初版初刷りから間をおかずに二刷が出ているのもすごいところ。
これまで自分が読んできた萩尾氏の作品が、本書の中で次々浮かんできます。ただ、全容ではないとはいえ、けっこう詳しいあらすじも書かれています。まだ読んでいない作品がある場合はネタバレ注意です。そのため、後半の最近の作品を取り上げている章では、あらすじに関わるとことを飛ばしながらの斜め読みになりました。
本書を読んであらためて本棚の萩尾作品を読み直したくなったし、未読の作品がとっても気になり始めました。
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投稿者:エムチャン - この投稿者のレビュー一覧を見る
山岸凉子、竹宮惠子、池田理代子……。24年生まれの作家さんは、1970年代以降時代の先端を行ってたんだなぁと思いました。たしかに、萩尾望都の、ポーの一族、十一人いる!などは、少女漫画の領域を超えて……
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2021年9月頃に極私的萩尾望都月間を敢行したことで、萩尾作品を総復習できただけでなく、どこかしら世界の見え方が変わった気がしていた。
ところへ、都合よく作家論が出た。
その上読んでみたら、長山靖生氏の文章がそもそも美味しい上に、萩尾の味が思い出されてきて、評論を読むことでこれくらい「めくるめく」思いをしたのは久しぶり。
「一度きりの大泉の話」以後の歴史観を整理するという意味でも重要な一冊だと思う。
個人的には萩尾作品の幅の広さを一覧すると同時に、対象(読者層)の広大さを思った。
少女ではなく少年を経由することで、当時女性として描きづらかったことを描くという手法が、実は現代においてはフェミニズムの文脈に沿う、と思っていたが、いやそれさえも狭い狭い、実は中年男性にも(紆余曲折などせずとも直に)刺さるように、すでにできていた、と。
萩尾作品は蘇るという言い方では足りない、萩尾作品は常に現在生起し続けている。
長山靖生氏の本にも興味が湧いた。
「偽史冒険世界―カルト本の百年」とか「文豪と女ー憧憬・嫉妬・熱情が渦巻く短編集」とか、積読を崩してみよう。
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目次
はじめに――世界はどこから来て、どこに行くのか
【凡例……というか何というか】
第Ⅰ章 双子と自由とユーモアと
――踊るように軽やかな表現の奥に
萩尾望都はなぜ「双子」を欲するのか/発表の場を移してからの快進撃――描きたかった表現/ファンタジーからドッペルゲンガー恐怖へ/漫画だからって「面白く」なくてもいい――萩尾望都の“文学性”/自由は少年の姿をしていた――あるいはジェンダーへの目覚め/なぜ日本ではなく、ドイツのギムナジウムなのか/幼い頃の萩尾望都――戦前的両親との意識差/三井三池炭鉱争議と漫画との出会い/「ごめんあそばせ!」――自由を模索する少女
第Ⅱ章 美しい宇宙、孤独な世界
――萩尾SFが求める多様性社会
SFは自由への目覚めをもたらす/萩尾の抜群のSFセンス/「闇の中」「星とイモムシ」――デビュー前に描かれた幻のSF/ドタバタSF「爆発会社」、本当に怖い「ポーチで少女が小犬と」/「あそび玉」――美しくて孤独な宇宙/ミュータント迫害と戦後世界
第Ⅲ章 少年と永遠
――時よ止まれ、お前は美しい
『ポーの一族』――時空を超越する少年の物語/『ポーの一族』の反時代性と超時代性/未経験の時空へのノスタルジー/「小鳥の巣」――ギムナジウム物の正典/停滞する時間、動かぬ船としての学校/永遠の少年、永遠の孤独/川又千秋の戸惑い――あるいは奔流する物語と枠線の溶解/一四歳の少年――萩尾望都の発見、あるいは発明/純粋結晶世界としての『トーマの心臓』/少年の時と永遠への意識――『悲しみの天使』と『デミアン』/ヘッセの神秘主義と『トーマの心臓』/ユリスモールの欺瞞と回心――ユーリはなぜ堕落を経験する必要があったのか/漫画評論を魅了した萩尾漫画の〝文学性〟/中島梓の驚愕、橋本治の苛立ち
第Ⅳ章 大泉生活の顚末と心身の痛み
――少女漫画��再考①
伝説のはじまり――萩尾・増山・竹宮の出会い/大泉サロンという幻想/大泉時代の作品と、映画の影響/竹宮惠子による呼び出し事件/目の痛み、心の痛み
第Ⅴ章 「花の二四年組」に仮託されたもの/隠されたもの
――少女漫画史再考②
「花の二四年組」とは何だったのか/「新感覚派」「ネオロマン派」との違い/〝男読み〟の許容、すべての人のための少女漫画/増山による「自分としての二四年組」という限定/大塚英志の特異的な二四年組観/「二四年組」神話の形成と恣意性/声をかけられたのは「ポスト二四年組」/二四年組史観への疑問と漫画史の是正/党派的分断主義への違和感/「コボタン」というもうひとつのサロン、「三日月会」というエコール/この際だから簡単に漫画史のまとめを/開拓され続ける少女漫画の“新しさ”/作品世界の深度に伴い進化する表現技法
第Ⅵ章 SF少女漫画の夜明け
――先人たちの挑戦と萩尾望都の躍進
概観・SF少女漫画史/水野英子や細川知栄子にもSFファンタジーはある/米沢が最初に言及したSF少女漫画は萩尾作品/SFブームに先駆けた『11人いる!』/フロル――愛されるジェンダーSFのアイドル/続々と登場する女性SF漫画家たち/萩尾フォロワー 水樹和佳と吉田秋生の活躍/光瀬龍と二人の女性漫画家の出会い/原作物の歴史に関する竹宮惠子の誤解
第Ⅶ章 次元と異界の詩学
――漫画で拓いたSFの最先端
『スター・レッド』――赤い惑星は人類をどこへ運ぶのか/セイの孤独、宇宙の未来/『銀の三角』――超次元の音楽が響く世界で/時空に挑むタイムループ/音楽と世界と/『マージナル』――男だけの地球は再生できるか/『バルバラ異界』――夢はどこにつながっているのか/火星生命とカニバリズム/「他者」がいない世界に「私」はいるのか/未来を人はやり直せるか/物語構築・世界構造の秘密と秘跡/本に込められた想い
第Ⅷ章 親と子、その断絶と愛執
――母娘問題の先取り
『訪問者』――すべての父は彼を想って泣く/オスカーはモテるうえに、どうやら死なない/『メッシュ』――孤独な二人、それぞれの家族問題/「半神」――他者の視線と自分自身/「カタルシス」――過干渉という愛の困難/「イグアナの娘」――娘は私、という母の病い/母を排除していた初期作品群/親と子――煩わしく慕わしい存在/『残酷な神が支配する』における関係の困難性/『残酷な神が支配する』に見る愛の可能性/「残酷な神」とは何ものか
第Ⅸ章 ふたたび、すべてを
――私たちが世界と向き合うための指針として
時代の停滞と変わらぬ創作意欲/歴史の方へ、そしてあの名作の方へ/枯淡の味わいも帯びた、少し不思議な珠玉の短編群/震災と原発事故――祈り、癒し、そして前進/『AWAY―アウェイ―』――約束のその先に/再開『ポーの一族』――SF的世界観と、依存ではない共生
あとがき
《主要参考文献》
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萩尾望都氏は、まぎれもなくマンガ界の巨匠である。なにしろこうやって「作家論」の本が出ているのだから。
実は先日、「11人いる! 復刻版」を読んだばかり。昔読んだ時と比べると、かなり違った印象を受けた。自分を取り巻く環境や社会の変化もあるかもしれない。また、それだけの「深さ」がある作品なのだろう。
本書の「あとがき」にこうある。「まだ読んでいない萩尾作品がある人は幸いです。こういう本を書いておいてなんですが、皆さんもまずは他人の言葉など気にせず、読んで感じて味わって、自分の感覚で楽しんで下さい」と。未読の作品に限らず、既読の作品でも読み返せば、また違ったものが見えてくるかもしれない。
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萩尾賛美より竹宮批判のインパクトの方が強いかな。
(歴史の歪曲に対する感受性の強さなんだろうけど)
しかし、著者のはしゃぎ振りには、ちょっと引く。
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とても丁寧な作品評論でした。蘊蓄を垂れ流し、同時に害悪をも垂れ流した「萩尾望都と竹宮惠子」(中川右介)とは雲泥の差でした。著者は萩尾望都を「時代の精神を伝える」作家だと大きく評価しています。図書館にリクエストして借りたんだけど、買うことにしました。
細い新書だけど、黒い背表紙の上はビッシリ密にカラフルな付箋紙がモヒカンの様に聳え立っています。
私にとって、萩尾望都を正式に意識したのは、大学に入って漫画批評誌『ぱふ 特集萩尾望都』(1980)を読み、橋本治の評論を知ってからでした(『花咲く乙女たちのキンピラゴボウ』)。大人になっても漫画を卒業しないどころか、男であるのに少女漫画を読んでいる。その後ろめたさを払拭できたのは、「漫画を評論する」という雑誌が登場したからです。これで男たちは、好きな少女漫画を語る「自由」(それでもしばらくマイナーな立ち位置でしたが)を得たのでした。そして「それを可能にしたのが萩尾作品の「深さ」です」(109p)。
著者は私と同年代ですが、手塚治虫や宮崎駿は、社会に大きな影響を与えた作家ではあるが、その価値観は一時代前のものだと断じます。「この半世紀の現実や私たちの気持ち、新たな理想への模索を代弁してくれるのは誰か」それが萩尾望都だと著者はいうのです(4p)。最初、それは少し言い過ぎでは?と思っていたのですが、本書を読み終えて、私は萩尾望都を読み損なっていたことに気がつきました。
どこにも隙のない表現、SF作家が大いに唸るSFマインド、自由への渇望、多様性への希求、ジェンダー漫画の嚆矢、未来を人はやり直せるか?という課題、家族との葛藤、東日本大地震‥‥。もう一度読み直さなくてはいけない。同時に未読の萩尾望都を紐解かなくてはいけない。今しきりにそう思っています。
橋本治の萩尾望都論の首木から、この本は私を解放してくれました。また、大泉生活の顛末を受けて、竹宮惠子を的確に批判し、「24年組」の幻想を明確に批判したのも、スッキリする想いでした。本書は、以後の萩尾望都論の外せない道標となるでしょう。
第二期「ポーの一族」の位置付けも、私は少し勘違いしていたのかも知れません。確かに、そもそも「ポーの一族」は、時系列が行ったり来たりする構造でした。「ユニコーン」が現代を描いたからと言って、それは直ぐにシリーズを終わらすことを意味しない。著者の言うように、出来るだけ長く書き綴られることを私も希望したい。
knkt0922さんの紹介で刊行をいち早く知った。ありがとうございました。
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当然、SF漫画の大傑作『11人いる!』にひっかけたタイトルだろう。どうせなら「!」も付ければよかったのに。それほどの、なかなかの力作だった。
あいにく、自分は、当時は妹の持ち込んだ少女漫画を盗み見するくらいにしかそちらの世界には触れていないので、『11人いる!』以外は、その続編を少しと、『ポーの一族』『トーマの心臓』あたりを、後追いで読んだ程度。『11人いる!』のテイストと違って、正直、のめり込めなかった。
また、読んだタイミングも後追いで、1975年当時ではなかった。
「まず強調しておきたいのは『11人いる!』が1975年の作品だということ。つまり劇場版『宇宙戦艦ヤマト』(1977)や『未知との遭遇』(同、日本公開は翌78)や『スターウォーズ』(同、日本公開は翌78)より前で、SFブームに乗った作品ではなく、その先駆けだったという点です。」
1982年の『ブレードランナー』より前だったとは思っていたが、ヤマトやスターウォーズよりは後に読んだ印象だ。人類の未来、科学の進歩に夢も希望もあった当時の空気が横溢しているのは、当時も感じてはいたように思う。
「(「爆発会社」で描かれた)臨海地区に立ち並ぶ未来の都市建設群は、同年三月から始まる大阪万博のパビリオン群を先取りしたかのようでした。(中略)当時の萩尾は「人類の進歩と調和」に期待を抱いていたのではないでしょうか。」
ともかく、著者による萩尾望都絶賛は、厭味がなく気持ちよい。
残念ながら、作品を追っての変遷や、細かい描写による表現の分析にはついていけなかったが、それでも、昭和における少女漫画の立ち位置や時代が求める表現の模索などに関しての俯瞰的な考察は、非常に面白かったしためになった。
70-80年代は、『ドカベン』『ブラックジャック』などの「チャンピオン」系から、やがて『Dr.スランプ』『北斗の拳』の「ジャンプ」系に触れてきたので、それらいわゆる少年漫画の作品をとらまえて、本書のような分析は可能だろうか?と思いながら読んだりもした。ジェンダー云々による比定はいけないのかもしれないけど、少女漫画との差を思い知る感がある。
ジェンダーといえば、今回改めて『11人いる!』は復習しておいたが、確かに、まだあの当時は女性の社会進出は(『11人いる!』では大学進学ですら)珍しい存在として扱われている。主人公タダの相方フロルの言動の端々にも「女なんか」や、「女になってやってもいいよ」と、女性を男性より下に見た発言がちらほらと出てくる(両性具有で今後性別を選択する種族という設定で、キャラとして「男になりたい」という役割を担わされていたということもある)。 本書にも、
(「11人いる!」の中で)受験生の中に女性がいることに男たちが驚く場面があることは、女性の社会進出がまだ一般的ではなかった当時の社会認識を反映していました。」
と分析している。
斯様に、本書では、萩尾望都、萩尾作品についてだけではなく、その社会的背景、その他の少女漫画作家や男性作家との関係、位置関係、さらには日本の戦後漫画史も俯瞰して見せてくれて、非常に読み応えのある内容になっ��いた。
あいにく、自分が、せいぜい庄司陽子の『生徒諸君!』や、大和和紀『はいからさんが通る』、美内みずず『ガラスの仮面』などの有名作品、里中満智子の短編作品などを著名作家の作品にしか触れてこなかったので、作者の深い考察にはとうていついてはいけなかったが、こうした趣味の分野を深掘りしていく作業は、さぞや楽しかったのだろうなと、その文章が発する熱量を羨ましく感じながら拝読した。
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[図書館]
読了:2022/10/18
最初「ユーリのサイフリートへの敗北」とか書いているところが目に入り、わー、やっぱり男性視点だとこう見えちゃうのかー、と思ったが、萩尾作品への愛は伝わった。めちゃめちゃ竹宮惠子嫌いやなと。
「1949年生まれは(中略)戦後教育で育った人たちですが、学校で受けた教育と社会実態の乖離が大きく、特に女性の戸惑いと軋轢は酷かったろうと察せられます。戦前に教育を受けた親世代との「世代の断絶」が深刻だったことでも知られています。」
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残念ながらリアルタイムでは知らないのですが、萩尾望都の作品が、初期のものからずっと大好きです。母の影響です。小さい頃から、英才教育並みに、実家の書棚に並ぶその時代の少女漫画を読んできました。成長して読み返せば、どの時点で読み返したとしても新鮮に新たな感想を持つような、深みがある作品ばかり。最近の優れた漫画は映画的だなと思うことが多々ありますが、この時代の少女漫画は、文学的なものが多い。萩尾望都はその頂点では?
ちなみに実家の書棚には、竹宮惠子作品は「私を月まで連れて行って」しか並んでなかったです。キュートでオシャレでポップだけど、少しだけ切ないようなSFコメディ。こちらも大好きでなんども読み返しました。
なので、おとなになるまで、竹宮惠子の代表作のトーンは知らなかったです。大泉時代の確執も知らなかった。萩尾望都と竹宮惠子を似ていると括る向きもあるのは知っていましたが、全然違う気がするのになと思っていました。この評論本を読んで、その解説に、なるほど!と思いました。竹宮惠子にブレーンや原作者がいたのも初めて知りました…「私を月まで連れて行って」だけトーンが違うのは、その作品はブレーンがついていなかったからとかかしら…?なんて想像しちゃいました。