人に優しいデジタル
2020/06/13 00:03
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投稿者:ちぃ - この投稿者のレビュー一覧を見る
ITやデジタルの論客とされる人たちの語り口がどうにも気になる。もちろん、全員がそうだとは言わないけれども、挑発的でとんがっていたり、上から目線だったり、ご自身の知識をひけらかしたりする人が少なくない。もっともなことを言っていても、そんな言い方されちゃうとなんだか素直に聞けないなあなどと思ったりもする。
そこで、ドミニク・チェン。「気鋭の情報学者がデジタル表現のこれからを語る」という帯の惹句だけ見るとこの手の論客と見えるが、実は正反対。衝撃を受けるほど正反対。デジタルに対してこんなにあたたかい語り口とアプローチがあったのかと目を開かされる。
人と人とのコミュニケーションとは、副題の通り「わかりあえなさをつなぐため」のもので、そのわかりあえなさとは埋めるべき隙間ではなく、新しい意味が生まれる余白である、と。コミュニケーション、そしてそれに使われる言葉に対する研ぎ澄まされた感性と繊細で緻密な観察がまずあって、デジタルはそのための手法のひとつに過ぎない。この考えがベースにあるから、本書で書かれる言葉は穏やかであたたかく、美しいとさえ言える。
言葉に対する著者のこの感性を思ったとき、その生い立ちに触れずにはいられない。母方の日本の家族、父方の台湾の家族はそれぞれ第二次大戦で各地を移り住み、特に父親は5か国語を操って日本留学中にフランスに帰化するという奇異な人生を送ったという。そして、著者本人は東京でフランス国籍者として生まれ、在日フランス人の学校に通った日本語・英語・仏語のトリリンガル。こんな人が考えるデジタルは、人に優しいものになるに違いない。
未来をつくる わかりあえなさをつなぐために
2022/07/11 15:41
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投稿者:S - この投稿者のレビュー一覧を見る
人の心理描写が主な内容だったと思います。その時,その人が,何を思いどのような反応をしていたのかどんな事を感じたのか,国が違う人どうし考える事が違ったりその時どうしたら良いのかなどあらゆる事に語り手や読んでいる人に対しても意見を求めているような感覚でした。作者は一言で表すと波瀾万丈な人生を歩んでいますがあらゆる場面で自分の意見を持っていたり他者の心情や気持ちなど考えたり理解しようとしているように思え私も自分自身の意見をもつ事は今後必要になってくる大事な事であり私に足りない事だと思いました。
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筆者の10年の研究や実践、思考の自叙伝的著作。自分と他者/世界の分からなさを受け容れる、わかりあうことを志向する活動とその過程の作品に心を動かされた。
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共話という言葉を知った。テイクターンな対話ではなく、発話を重ねるような在り方。共話は私とあなたという境界を溶解する。レビューは対話的で、モブワークは共話的。
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ITやデジタルの論客とされる人たちの語り口がどうにも気になる。もちろん、全員がそうだとは言わないけれども、挑発的でとんがっていたり、上から目線だったり、ご自身の知識をひけらかしたりする人が少なくない。もっともなことを言っていても、そんな言い方されちゃうとなんだか素直に聞けないなあなどと思ったりもする。
そこで、ドミニク・チェン。「気鋭の情報学者がデジタル表現のこれからを語る」という帯の惹句だけ見るとこの手の論客と見えるが、実は正反対。衝撃を受けるほど正反対。デジタルに対してこんなにあたたかい語り口とアプローチがあったのかと目を開かされる。
人と人とのコミュニケーションとは、副題の通り「わかりあえなさをつなぐため」のもので、そのわかりあえなさとは埋めるべき隙間ではなく、新しい意味が生まれる余白である、と。コミュニケーション、そしてそれに使われる言葉に対する研ぎ澄まされた感性と繊細で緻密な観察がまずあって、デジタルはそのための手法のひとつに過ぎない。この考えがベースにあるから、本書で書かれる言葉は穏やかであたたかく、美しいとさえ言える。
言葉に対する著者のこの感性を思ったとき、その生い立ちに触れずにはいられない。母方の日本の家族、父方の台湾の家族はそれぞれ第二次大戦で各地を移り住み、特に父親は5か国語を操って日本留学中にフランスに帰化するという奇異な人生を送ったという。そして、著者本人は東京でフランス国籍者として生まれ、在日フランス人の学校に通った日本語・英語・仏語のトリリンガル。こんな人が考えるデジタルは、人に優しいものになるに違いない。
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最近、研究者の中に、何をやっているのか、専門は何なんのか、よくわからない人が増えてきた。彼らは、人類学、哲学、科学、工学、医学、それらを行ったり来たりする。社会が既存の学問体系ではカバーできないほど複雑になっている今、今後の学問のあり方を体現している人たちだ。私にとって、本書の著者のドミニク・チェンさんもそういう学者の一人。
本書は、注目の若手学者ドミニク・チェンがコミュニケーションについて、自身の半生と絡めて論考したものだ。私たちは完全にわかりあえることはできないという前提に立つことからコミュニケーションは始まる。それでもあえて共に在るために、という言葉は力を与えてくれる。子どもの誕生からたどり着く著者の結論は温かい。子どものいない私のような者でも共感を覚えた。
しかし、一般向けのエッセイのような装いながら、これがなかなかに高度で、難しい。読者は本書を読むことで、著者の思考過程をトレースする。もちろん、チャレンジするだけの価値はある。
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昔から、質実剛健な日本語をベースにしているのに、どこか英仏の欧米圏のコンセプチュアルな薫り漂うドミニクさんの文体に憧れている。本著では特異な他言語文化圏で育った環境や、吃音との向き合いによって獲得した言語感性獲得の背景が分った。
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昨年の愛知トリエンナーレで、架空の遺言を特殊なタイピングソフトで打ち出す展示があった。ゆっくり打ち出された言葉は大きく、素早く打ち出された言葉は小さなフォントで表示され、タイピングのスピードや書き継ぐ間が可視化されるソフトだ。
何十台というディスプレイに、さまざまな遺言が粛々と打ち出されてゆく展示は、連動しているキーボードの動きとあいまって、とてもインパクトが強かった。まるで透明人間がそこにいてタイピングをしているようだったのだ。
普通の文書では隠れて見えなくなってしまう思考過程が伺える面白い展示だったが、内容が遺言であったため、一字一句を追うには精神的な負荷がかかりすぎて、早々に鑑賞をギブアップした記憶が残る。これがもし、作家の執筆状況の再現だったなら、何時間でも飽きずに見ることができただろう。
このインスタレーションの作者がドミニク・チェンだということに、本書を読み始めて三分の一程度進んだところで気がついた。
チェン氏の出自や生育歴はかなり複雑だ。母は日本系、父はベトナムの血が交じる台湾系、そして国籍はフランス。結果として中国語とフランス語、英語、そして日本語を操れる多言語話者として育ち、若い頃はゲーム文化やパソコンによる画像作成にどっぷりハマり、現在は言葉やコミュニケーションと情報技術を統合した分野で活躍されている。
話題はチェン氏の自伝的内容がメインだが、すると必然的に氏が興味を持って研究してきた分野の話も混じる。人工知能と人工生命の話、そもそも「生命」とは何かを探求する話、コミュニケーション技法としての対話と共話、精神的な距離感を示す共在感覚の話など、それらが言及されている書物の紹介と具体的な体験とが併せて語られており、まさに今ココの世界を見せてもらっていると感じた。
「コミュニケーションとは、わかりあうためのものではなく、わかりあえなさを互いに受け止め、それでもなお共にあることを受け容れるための技法である。」とチェン氏はいう。例えば情報技術が発達してSNSに代表される情報発信の場がカジュアルになってきたために、かえって人々の意見や立場、思想の違いが明らかになり互いの溝が深くなるように感じるが、それを受け入れ乗り越えてゆくことは可能だし、そのための知恵をすでに人類は持っている。
そんなわけでタイトルの「未来をつくる言葉」は実にいいなあと思うのだった。
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2020/04/13-04/14
読んでいて心が洗われるような、新しい「なにか」に触れるような感覚があり、読み進めていくうちに清々しい感覚が生まれる箇所がいくつもあった。
そして、少し頭が良くなったふうに感じる感覚も(笑)
『未知の世界を発見する時とは、既知の領域を離れる時。それ以前の状態には遡行することのできない不可逆な変化を起こしたとき、「はじまり」であると同時に、「おわり」をあらわしている。』
いままさに世界的に、同時に、いままで構成された環世界から脱領土化を(奇しくも)はかり、未知の世界の「はじまり」になった。そんなときだからこそ、「わかりあえなさをつなぐ」ことがとてもとても大事なんだと感じる。
以下、抜粋(一部編集)
「世界を『わかりあえるもの』と『わかりあえないもの」で分けようとするところに無理が生じるのだ。そもそも、コミュニケーションとは、わかりあうためのものではなく、わかりあえなさを互いに受け止め、それでもなお共に在ることを受け容れるための技法である。『完全な翻訳』などというものが不可能であるのと同じように、わたしたちは互いを完全にわかりあうことなどできない。それでも、わかりあえなさをつなぐことによって、その結び目から新たな意味と価値が湧き出てくる」
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複数の言語をまたいだ自我を持つ著者の自伝のような評論のような本。彼自身のお子さんの誕生から始まる思索が、彼の子供時代からのい自我形成や仕事のポートフォリオの紹介、そして2019年秋に大きな話題となった愛知トリエンナーレまで繋がる。
奥様との新婚旅行でのモンゴルでの話、彼と娘さんの関係性が描かれている「メタローグ」のチャプターでの日本語を喋れないふりをする話、「対話」と「共話」の対比の話、など。
テッドチャンの「あなた人生の物語」の紹介と彼の読後感も素晴らしい。そうなんだよ!と共感。
それにしてもこのテーマにこのタイトルをつけた編集者の方は本当に優秀。
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・既知と無知の極限点、知識の先端(ドゥルーズ)
=人は、未知の領域へ向けて足を踏み出す以外に新しい知識は獲得できない。
・生命にとっての身体は、世界を認識し、周囲の環境に働きかけるための支点であり、原初の文脈である。
・特定の言語グループに属する人間にはその言語に固有の現実世界が立ち現れる(サピアウォーフ仮説)
=言語相対論
・個体の中で主観的に立ち現れる感覚意識体験=クオリア=「この感じ」
ことばは、それぞれのクオリアの最大公約数でしかない。
・語彙場=村上春樹の性描写の前に漂う言葉の雰囲気的なもの
・守破離=型の反復によって新たな型が「自然発生」する=演繹
⇔
正反合=あらゆる事物に対して適用できる共通言語=帰納
・表音文字をつなぐ(接着剤)のは、ロジック。=欧米
表意文字にはそれ自体に意味がある。
・religio=宗教=再び結ぶ
・世界は、表現の数だけ「異世界」であふれている。
表現行為は、受け取り手がその領土を自由に探索し、そこから新しい価値を自らの領土に取り込む運動を通して初めて成立する。
・インターネットは、新しい文化をつくったのではなく、それまで見えなかった文化の力学を「可視化」した
・クリエイティブ・コモンズ=ぬか床の共有みたいなもの
・タイプトレースに見える息遣い
・プロ黒ニズム=生物の成長の歴史がその形に表出すること
★情報を交わす主体の環世界の「差異」こそが、新たな道の価値を生み出す
=コミュニケーション(翻訳)の中で生まれる差異と結び目から新たな意味と価値が生まれる
・自己を構成する要素を自律的に生産し続ける働き=オートポイエーシス=社会すらも生命現象の中に包含される
・シンバイオシスとホロビオント
複数の生物種が連合することで生まれる「超個体」
=共の身体
・個体ではなく関係性から出発する思考
ベイトソン
メタローグ
自他の境界が曖昧になっていく感じ
★共話(Synlogue)
能の営み、互いの主体が交わる
日本人的な相槌文化
⇔
対話(Dialogue)
差異の強調
・行為中の反省
相手の動きを見ながら新しいものを生み出すこと
即興、協働
・思い出すという行為は、メタローグの契機である。
・言葉を発することは、翻訳である。相手の世界に通じるように自分のクオリアを伝えることだから。
・コミュニケーションとは、わかりあえなさを違い受け止め、それでも共に在るための技法。
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今日もSNSで何かについて揉めている、これは世界が分断されていく「わかりあえなさ」の象徴の一つだ。そもそも100%わかりあうなんて不可能だけど、「わかりあおう」とすることはできる。それには互いの意見を主張する「対話」よりも、あいまいな言葉を連ねていくことで会話を構築していく「共話」が必要だ。相手の視点に立って、淀みながらでもいいから互いに言葉を交わしていくこと。その結び目が世界を広げ、時空を超えて私たちを繋いでくれるはずだから。
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2020年22冊目。
とんでもない本に出会ってしまった...。もう一度読み直して、咀嚼し直すことを前提としつつも、一読目の感覚を拾っておきたい。
「誰かに寄り添う」ということは、僕のなかでは「相手を理解し切ることはできないという前提に立ちながら、不動の理解を手にしたいという欲求を抑え、理解しようとする途上に居続けること」だった。大切にしてきたその感覚の粒度がこの本によってさらに細かくなり、もっと言うとアップデートされた。
この本のなかで度々出てくる概念である「環世界」。それは、「それぞれの生物に立ち現れる固有の世界」のことだそう。同じ人種の、同じ国籍の、同じ血筋の人同士であったとしても、個体ごとに知覚の様式は異なり、世界の認識・見え方も違ってくる。もっと言うと、同じ一人の人間のなかですら、使用する言語や表現形式によって、その広がり方は変わってくるという。
自分に見えている世界をなんとか他者に伝えようとするときに、人は言葉を使う(もちろん、音や絵を使うこともある)。けれどその言葉は、どれだけの精度を持って放たれたものであったとしても、その人が見ている環世界の全てを表すことは決してできない。
僕はいつもその感覚を思うとき、「引き伸ばしたクッキー生地」をイメージしていた。丸とも四角とも割り切れない歪な形に伸びた生地を、そのまま誰かに提供することはできない。だから、丸や四角や星の型で生地をきれいにくり抜き、絶妙な加減で焼いて仕上げることによって、「はい、これがクッキーです」とようやく手渡せるようになる(作ったことはないけれど、たぶんそんな感じだと思う)。この整形されたクッキーが「言葉」であり、切り捨てられてしまった周囲の歪な生地も含めた全体が、本書で言う「環世界」なのだと思う。
各人が感じている世界は、こんなにも個別的で、流動的で、歪であるならば、誰かと対峙するときに僕らが立つべき前提は、「わかること」よりも「わからないこと」なのだと思う。その人が自身の環世界を必死で表そうとする行為は、この本がいうところの「翻訳」で、「その翻訳行為から常にこぼれ落ちる意味や情緒もある(p.195)」ということを忘れてはいけない。その人が語ることができたものの背景に、どれだけの「語り得ない感覚」があるのか。
この本ですごいと感じたのは、そんな「語り得ない」「わかり得ない」ものへの想像力を育んでくれるだけでなく、「わかりあえないものこそが繋がりを生む」と逆説的に捉えているところだった。読みながら震えた箇所を二つ引用させていただきたい。
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●そもそも、コミュニケーションとは、わかりあうためのものではなく、わかりあえなさを互いに受け止め、それでもなお共に在ることを受け容れるための技法である。「完全な翻訳」などというものが不可能であるのと同じように、わたしたちは互いに完全にわかりあうことなどできない。それでも、わかりあえなさをつなぐことによって、その結び目から新たな意味と価値が湧き出てくる。(p.197-198)
●固有の「わかりあえなさ」のパターンが生起するが、それは埋めら���るべき隙間ではなく、新しい意味が生じる余白である。このような空白を前にする時、わたしたちは言葉を失う。そして、すでに存在するカテゴリに当てはめて理解しようとする誘惑に駆られる。しかし、じっと耳を傾け、眼差しを向けていれば、そこから互いをつなげる未知の言葉が溢れてくる。わたしたちは目的の定まらない旅路を共に歩むための言語を紡いでいける。(p.199)
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この言葉に、本書のなかで語られる本当に様々な事例(過去の哲学者たちの考えから、現在のテクノロジーや著者の実体験まで)を潜り抜けてから辿り着くと、言葉そのものが表している意味以上の希望を抱くことができる。
「拙速に理解して、思考や感情を安定させてしまいたい」、これは脳処理負担を下げるために生み出された、人間の本能レベルの感覚だと思う。けれど、それを手放し、不可解さのなかにとどまれるネガティブ・ケイパビリティを持って向き合えたとき、そこには「Aが伝え、Bが理解する」という一方通行のやりとりでは生まれ得なかった共創が出現するのではないか。
おそらく、「for〜(〜のために)」は「with〜(〜とともに)に取って代わられるのだと思う。そうしたwithの関係性から生まれたコミュニケーションが、結果的に本当にお互いのためになるforを生み出すのかもしれない、とも。
そんなwithを生み出す出発点は、「わかりあえなさ」や「エラー」という不完全性にある。そう捉えさせてくれたこの本は、僕にとって本当に希望になった。
一つひとつの出来事から素晴らしい洞察を見出し、それを惚れ惚れするほどの解像度で綴った著者への敬意がやまない。そして、ここまで言語化された本書が、やはり著者の環世界の一部に過ぎないのだと想像すると、途方もない気持ちとともに、ますます敬意が増してくる。「わかり得ないもの」に想いを馳せることにはこんな素敵な効果があるのだと、こうして書きながら改めて思う。
言葉をはじめとした表現が持つ不完全性へのもどかしさを抱きながら歩む人に、心から読んでほしいと思える一冊だった。これは何度も読み直させば。
-----脱線-----
村上春樹さんは作品を描くとき、無意識の世界にまで降りていき、そこで見聞きしたものを、余計な解釈をせずに「総体としてそのまま受容する」と、あるインタビューで語っていた。表現とは切り取ることだと思っていた僕は、この言葉に驚愕し、村上作品が持つ物語の強さの秘訣を知った気がした。
本書を読んでから、村上さんのこの姿勢は「環世界を限りなくそのままを提示しようとする挑戦」なのだと感じた。(それでも環世界を表し切ることはできないだろうという前提を持ちつつ)それを他者に伝達することを可能にするものは、単発の言葉や文章の「意味」ではなく、ストーリー全体を潜り抜けることでしか表せない「体感」なのだと思う。それは文章量・情報量・意味量が増えることによって比例的に増すという意味ではなく、物語全体の流れや行間にしか発することができないものによって生み出されるように思う。
各単語の意味の総計以上の世界の広がりを物語によって見せる作家への敬意も、本書を読むことでますます強まった。
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良本です。様々な分野に明るく、実践的な研究を積み重ねてきたドミニクチェンさんのまとめ的な文書になってます。
最初は半生記みたいなもんかな、と思っていたら、マルチリンガル環境における学びに続き、言語やコミュニケーションをテーマにサピアウォーフやベイトソンなどが語られ、人身の子育てやクリエーションの経験も踏まえて、醸成された言葉が紡がれてます。とりわけ、メタローグ、共話といった概念が興味深かったです。
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ぬか床と会話できる「NukaBot」は面白いです。ぬか床の菌類と共生している意識が芽生えます。とても今日的な理解を助けてくれる考え方がたくさんありました。「今日の社会では、依然として「個」の思想が強すぎるのだ。決して全体主義に陥ることなく、わたしたち個々の人間が、個体としてだけではなく、同時に「種」としての時間を生きる認識が生まれるにはどうすればいいのだろうか。」(P141)わかりあえなさを前提とした思考錯誤はコロナウィルスとの向き合い方のヒントにもなりそうです。