電子書籍
哲学者としての大事なマインドセット
2023/02/26 14:27
1人中、1人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:Bakhitin - この投稿者のレビュー一覧を見る
三木那由他著『言葉の展望台』読了。
『「コミュニケーションの道具」という言語観には、この経験の居場所はなさそうだ。何か、大きな発想の転換が必要に思える。』(本文より) これは哲学者としてはほんとうに大事なマインドセットだと思う。
言葉はいつもゆらいでいることを見据え、織り込み、計算したうえで、「コミュニケーションの理論的なモデル」からずれたものとして言葉を使うのがよいと思う。現実は「理論的モデル」に適合するためにあるのではない。そうではなくて、
理論的モデルを無限に生み出す母胎として「いかなるモデルによっても汲み尽くせない」。現実が存在するのである。現実が「いかなる理論的モデルによっても汲み尽くせない」と思っている人間が現実に直面したときに、いちばんよく口にする言葉は何か。
それは、 「そういうことって、あるかもしれない」。つまり、理論は、つねに書き換えられなくてはならないという義務にさらされているのである。生身の人間の経験の居場所を探し続けることによってしか、新たな言語観は出てこないと思う。
そして、今まで「当たり前」になっていた会話の中で埋め込まれていたある種の「規範」を突き崩していくことがいかに大変なのかを三木さんは淡々と語る。そして、この論考は、
「会話」はいったい何なのかについて、大事なことを一つ教えてくれる。それは「会話分析」の発見した『規則』と経験的に確かめられた実証的『概念』というよりはむしろ、ルールに従ったり従わなかったりすることが、それに対応した間主観的理解や社会的結果を生み出していくという意味で、↓
アプリオリな性格を持ったものであるということ。つまり我々が普段の「会話」で従う『規則』とは経験的規則ではなく、私たちがある社会のメンバーとしてコミットしなければならない『規範的で』『道徳的』な秩序なのである。「規範的で」あるからこそ、そのルールの持つ拘束力は非常に大きい。
なので, そのルールに従わない場合は、必ず「差別」や「排除」のような社会的サンクションが与えられる。そういう側面を考えると、著者が言っているように「カミングアウトは、その成否に世界の命運がかかっているような気持ちになる」というのは過言ではないと思う。もう一つ、
今回の論考は「断絶」についてもいろいろ考えさせられる。つまり、断絶は「断絶以前」を自分のうちに抱え込んだまま「断絶以後」の時代を生き延びることを選んだ人間にとってしか存在しないということだ。
紙の本
会話の在り方を模索し続ける哲学者。
2023/01/24 10:45
2人中、2人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:ゲイリーゲイリー - この投稿者のレビュー一覧を見る
普段私たちが何気なく行っている会話。
自分の意図を伝えたり相手の意図を汲み取ったりと、当たり前の様に行われている会話とは、コミュニケーションとは一体どういう行為なのか。
本作は、そうした問いを研究対象とする言語哲学者による、日々の会話やコミュニケーションについて考察した一冊となっている。
哲学と聞くと何やら堅苦しく、小難しい言葉や抽象的な概念を想起するかもしれない。
しかし本作にそういった側面は全くなく、言語哲学を知らずとも充分に楽しめる。
映画や漫画といったフィクション作品のセリフや、何気ない日常会話。
その様な誰もが一度は見聞きしたことがあろうコミュニケーションを例に、言語の世界を丁寧に案内してくれため、
肩の力を抜いた状態で思う存分会話やコミュニケーションの深遠さ、面白さを知ることができるのだ。
関節言語行為、調整(アコモデーション)、解釈的不正義、解釈的周縁化といった概念でさえも、私たちの日常会話を例に取り扱い、噛み砕いて説明してくれる著者の手腕は見事と言う他ない。
そのため本作は言語哲学入門書としても最適と言えるだろう。
また、会話やコミュニケーションの恐ろしさについて述べられているのも特筆すべき点だろう。
マンスプレイング、意味の占有等、日々行われる会話の中で抱く違和感の正体を著者は独自の視点で明らかにしていく。
約束事とは約束を持ちかけた当人にとっても思いがけない不利益をもたらすことがある、という一文に共感できるのはきっと私だけじゃないはず。
約束の外側での人と人との力関係によって約束事は如何様にも変形させられてしまうという事実に、平等な会話やコミュニケーションは存在しないのかと惨憺たる気持ちになった。
しかし著者は対等な会話を諦めない。
対等な会話とは、ふたりが共同でつくる約束事が自分の思い通りにいかない可能性を認めるということでしか始まらないと断言する。
また、話し手の意図を重視するコミュニケーション観が根強く、自身の発話の意味を他人によって占有される経験が少ない人々ばかりが言語学哲学を担ってきたのではないか、
と言語哲学そのものにも不平等さがあると警鐘を鳴らす。
対等さ平等さという視点で言語やコミュニケーションの在り方を模索し続ける、著者の姿勢に胸を打たれた。
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投稿者:6EQUJ5 - この投稿者のレビュー一覧を見る
「群像」の連載を書籍化。言葉とコミュニケーションを廻るエッセイという感じですが、内容・論理展開などなど全体的に私は受け入れられない。
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筆者はエッセイのような物と言ってるが、いやいやしっかり哲学です。
言葉の厳密なる意味、特にコミュニケーションのあり方を突き詰めて考察している。
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言語哲学者による、コミュニケーションと言葉についてのエッセイ。
正直、話がすっと入ってこなくてあまりピンとこなかった…。やたら読むのに時間がかかった。たまにこういう本がある。
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言葉とコミュニケーションについて、哲学者である三木那由他さんが、ご自身の研究や実生活の体験から生じた疑問や問いかけを、丁寧に述べてゆく一冊。
「言葉=コミュニケーションの道具」という考え方を深堀りするというより、言葉によるコミュニケーションがもたらすもの、孕むものを解釈してゆくイメージです。
言葉がコミュニケーションである、とはどういうことなのか、について論じてゆくような流れがあります。
さまざまな問題、
「言葉の専有」「マンスプレイニング」「一人称問題」「ジェンダー」「謝罪の懐疑論」
などのトピックを挙げて、その話題に合った哲学者の主張や考え方、そしてそれに対する三木さんの考え方がが語られます。三木さんが例に出す題材が、漫画やゲームであったりするのが意外で、三木那由他さんの個性を感じられるようで面白かったです。
なんとなく難しいことを云っていて、なんとなくその内容がわかるような気がする、という読書体験ではなく、著者の実体験から起こる問いかけや、著者自身がまだ解決に至っていない問題に対する言葉には、切実さがありました。
「一人称代名詞の使用を避け続けていた日々、私は自分が言及している当の対象が、そのように語っている自分自身であるという自己認識を伴う発言をできずにいたということになるだろうか?自己認識を失いながら語り続けることからは、哲学的に、言語学的に、心理学的に、どういった帰結が得られるだろうか? 私はいったいあのころ、誰の話をどのようにしていたのだろう?」
(三木那由他『言葉の展望台』より『「私」のいない言葉』講談社)
この、問いかけをみて、まずは自分について問わなければならない、というこの主題の切実さが三木那由他さんの哲学のあり方なのかもしれない、などと思ったのでした。
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地球っこさんのレビューを見せていただき、是非読んでみたいと思った一冊。
すごい。。。
言葉、会話を分析・哲学するって。
こんな分野があるなんて、考えたこともなかった。
最初は頭をフル回転させながら、なんとか食いついていくかんじだったのが、カムアウトされたところぐらいから、すごく作者の意図することが理解出来るようになった。
そもそも一般向けに分りやすくエッセイと解説の間ぐらい というのがコンセプト。
しかし この人たちの頭の中はどうなっているのだろう。
会話を哲学するって・・・
次に読もうと思っている「会話を哲学する コミュニケーションとマニピュレーション 」は準備済み。
次も楽しみです。。
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言葉の持つ両義性(どころが多義性)は私も好物なので、イルカさんや地球っこさんのレビューで知らさせれて本書を手に取った。
1番読み応えあったのはプロローグ「コミニュケーション的暴力としての意味の占有」なのだけど、それは地球っこさんが紹介しているので、その他の「気づき」について書く。
私が言葉に敏感になるのは、多くは二つの場面。ひとつは、政治的言語である。もうひとつは、映画や小説で使われる言葉である。
政治的言語から。
吉村大阪知事の「ガラスの天井」誤用発言。政治的公の場でのLGBTQ+の人々への差別発言。誠実な謝罪とはどういうものか?等の考察が興味深い。
多くの場合、「公」は力的には私たちよりも上だ。認識のすれ違いも、影響力があることから問題を発生させる。
ビックリしたのは、トランスジェンダーの著者が、差別発言の正否もわかり、経験も積んでいるのに、それについて考え始めた途端に帰りの電車で涙ぐんでしまったということである。慣れたはずなのに、シュミレートすると過去の辛さが蘇ってしまい、子供の様に泣いてしまったらしい。差別発言のもたらす影響に、まだ私は想像力が不足しているのかもしれない。
「誠実な謝罪」だとわかるのは、ホントにつくづく難しい。いや、政治家の謝罪はわかりやすいですよ。彼らの謝罪は悉く誠実ではない、という意味ではわかりやすい。でも例えば(最近のニュースを観て)子供を死なせてしまった母親の裁判所での謝罪というのは、非常にわかりにくかった。
是非とも三木さんに、安倍語録のひとつひとつを、哲学的に分析して、一つの本をとして公刊してもらいたい。きっと売れると思う。
「マンスプレイニング」という哲学用語も紹介される。私的に訳せば「マウント取り」。相手が無知であるということを前提として話される説明、とのことだが、私の作品批評がそれにならないだろうか?と自問する。私は作品は政治的発言と同じ公のものだと思っているから、陰口と違って作者が目の前にいなくても悪口は言えると思っている。辛口に批判する時には必ず根拠を上げてするようにしている。でも、そういう批判をすると、離れていく人もいるようだ。私は一方的に批判しているつもりはない。聞いている人に反論してもらいたいと思っている。でも、そもそも相手がそれを言えないような空気感を感じていたら‥‥等々いろいろ考えた。
ドラマの台詞として。
あるドラマの台詞のやりとりを著者は例示する。2人は、実は言葉と気持ちは正反対のことを言い合っている、という例である。数日前、映画「キングメーカー大統領を作った男」で、全く同じような台詞のやりとりがあったのを観た。わかりやすく書こうと思ったけど、重大なネタバレになるので省略します。ともかく、これこそ映画だと思った。(俳優の演技力は必要だけれども)気持ちとは裏腹の台詞のやりとりがあった方が、間違いなく名作に近づくだろう。
反対に全く同じ台詞を繰り返すのに、毎回意味が違うということも起こるという。この前「ちょこっと京都に住んでみた」というドラマ(木村文乃主演Amazonプライム)を観た時に、近���正臣が「知らんけど」という台詞を毎回言うのだけど、意味が少しづつズレていった。
言葉は言葉だけでは伝わらない。
力関係、場面設定、それぞれの歴史、等々が関係する。
著者は、本書の中で、まるで時代劇の決め台詞のように「仮にも言語とコミニュケーションの哲学者を名乗る身だ」と言って、哲学的意見を開陳する。そして、‥‥ここをもっと深掘りすれば、現代の哲学界に新しい光を当てられるかもしれない、というような意味のことをしばしば書いている。実は、それが正直鬱陶しかった。一般読者を対象にするエッセイとしては、そういう哲学者としての野心は、少なくとも私には要らない。‥‥最後だけ辛口にしてみました。
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コミュニケーションである言葉や会話を哲学者が哲学の面から分析している書籍。哲学を用いた内容になると、言葉遊びのように思えてしまう。色々と分析、説明しているがそもそも用いられている単語もよくわからず、それを駆使して記されているので益々わからないといった感じ。
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普段の言葉のやりとりは、単なるコミュニケーションの手段ではなく、人間関係を構築するための重要な土台。そしてそこには意識/無意識にかかわらず、さまざまな意味が込められている。その人が発した言葉から心理を推測するのは容易ではない。
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言語哲学に興味が湧いてくる本
コミュニケーションそのものを考えられる本
日々の何気ないコミュニケーションをする中で、コミュニケーションとはいったい何かというもの考えさせられる。コミュニケーションはただの記号の情報交換ではないということはなんとなく同意してきたが、おそらく私はそれが一体何なのかということについて理解していない。私は言語学(英語学)ついてはある程度学んできた自負はあるが、それは主にある言語の特有の表現方法に関わるものがほとんどであり、文字からどのように理解できるかがメインであった。そのため、この本で紹介されている話し手にとっての意味とは何か、聞き手にとっての意味とは何かといった、言葉として必ずしも現れないものについて深く考察しないと解決しない事象についてはさして考えてはこなかった。
身近な例から哲学の知見を援用して本質に迫っていく構成になっており、スリリングであった。ときに話の展開についていけなくなることもあるが、それもそれでおもしろいと思える本であった。
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謝罪は決して何かの終わりや決着ではない。謝って解決するのではない。むしろ、謝罪は新しい始まり。 自分が後悔しているということをはっきりと相手とのあいだの約束事とし、その約束事に身を委ねて生きることを、謝罪は告げている。
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著者の日常から、そこで起きた疑問や喜怒哀楽を言語哲学を通して"気持ち"の謎を解明していく。
哲学は難しそうと思いつつ理解のための道具(補助輪のイメージ)として使っていくエッセイ。
もう「ただの言葉」とは言えない。
「謝罪の懐疑論」が今の悩み(反省しているのかどうかわからない人を相手にする)を理解するのに役立った。
言語哲学を通して見た日常の中にある疑問、言葉は「言っただけ」ではなく発話したこと自体にも意味がある。
言霊(言うことにより願望として捉えられる)とかを連想するけれども、霊的なモノではなく哲学の視点で解説してくれて面白い。
著者の疑問、自身の気持ちについて解き明かそうとする。日々、思い出せないくらい流してしまっている疑問に対して向き合える気持ちになる。
参考となった本も読みたい、もうちょっと知りたくなる本。
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何気ない言葉のやりとりを楽しんだり、ときに深く傷ついたりする「日常の私」と、言葉やコミュニケーションを専門に研究する「哲学者の私」。
ふたつの視点を併せ持つ著者が、日々の生活のなかで感じた疑問やモヤモヤの正体を探っていく。
友人との会話やアニメ・ゲームといったごく身近な事柄から哲学的思索が広がっていくので、自分のことと照らし合わせて実感しながら読み進められた。
・「意味の占有」という現象
わたしたちの日常では、言葉の意味は話し手ではなく場の支配者に決められてしまう。
そのためマイノリティの人が自分の意図通りに言葉を伝えるのはきわめて困難。
・誠実な謝罪とは
「ご不快な思いをさせてしまい…」という謝罪が不誠実に見えるのは、具体的に今後どういった行為を避け、どのように行動していくかの約束がなされていないから。
曖昧な物言いにより、「これより具体的なことはわかりません」と暗に伝えることになっている。
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エッセイとしては難しい部分もあったが、とても興味深かった。コミュニケーションは本当に多様なもので、哲学ではカバーしきれない部分もあることがよくわかった。
そのカバーしきれない絡まった部分を、三木さんは丁寧に解きほぐして考えている。コミュニケーションにおいて、心的な関わりを占める割合は高い。なのに、コミュニケーションだけでは人の本心はわからないことが多い。少しでも考えてコミュニケーションをとっていこうと思う本だった。
また、自分もセクシャルマイノリティの当事者なので、気持ちの部分で語られる「哲学と私のあいだで」「『私』のいない言葉」はとても実感を感じながら読んだ。少しでも、(性に関することに限らず)多くのマイノリティが過ごしやすい社会になればと思う。