編集しきれない巨人
2016/11/29 21:25
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投稿者:るしあ - この投稿者のレビュー一覧を見る
この巨人をどう「編集」されるのか、興味を持って読みました。なにか1つの空海像が浮かび上がるというよりも、容易に解明しきれない大きさを知ったということでしょうか。こんな人物が平安初期の日本に存在したこと、その与えた影響の大きさを、さまざまな角度から見せてもらいました。うまく把握しきれないが、空海は面白い!
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高野山奥の院は、まだ訪れていない。今度、帰省のおり、足を延ばしてみようとおもった。数年前、延暦寺を訪れた折、一人の眼光炯炯とした僧をみたのであるが、空海とはあのような人物であったのであろうか。
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(単行本 - 2005/12)
新品: ¥ 2,100 (税込)
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次に読む本…と吟味せずにとりあえずひっつかんできた。
読み始めるとあまりにも久し振り過ぎて内容を忘れていた(汗)。
もう一度最初から読み始めることに。
…で、読み直して「前回は全然読めてなかったわ。。」というのに気付いた。。文を目で追ってるだけというか。内容が頭に入ってなかった。でも、ジャレド・ダイヤモンド読み終わった今はちょっと楽。
がんばって読み進めてみましょー。
+ + +
読み始め。2009.01.02.
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母なる空海・父なる宗教
宗教は「父なるもの」と「母なるもの」の交代と抗争と共存の歴史である。父性的なヒエラルキーと母性的なネットワークの織りあわせであり、アニマとアニムスの相剋であり、左脳性と右脳性の交錯と統合の歴史でもある。どんな歴史のどんな組織にもそういう傾向はあるが、とりわけ宗教には父性的な統率力と母性的な包容力が必要だったのであろう。
空海は「父なる大師」と「母なる空海」を発揮した比類ない密教文化の体現者であった。彼の総合的な成果に「母国」「母国語」についての探究や「母型」「母体」「分母」についての思索を強く感じるあらだ(つまり、女性としたの母とは限らず、母国や母なる大地というときの、その祖国に属するものの分母感覚のようなものである)。彼には「母なる日本」を先駆的に構築したいという意図があったのではないかと考えるようになった。
もっと端的に言うなら、体系化がすこぶる苦手な日本の宗教文化や思想文化のなかで、空海ははじめてマザープログラムの確立を試みた嚆矢(こうし)であったとも言いたい。
なぜ、本書を書いたのか、それは仏教と密教の流れをアジアの流れに組み込み、そこに生命の流れと意識の流れを刳(く)り貫いて、それらの流れの重なりを空海自身の夢として描きたかったからだ。つまり、これらを通して意識と言語の流体哲学のようなものを書きたかった。同時に、阪神大震災やオウム真理教の事件を体験し、今日における、現在の社会文化的な視点でいう、空海や密教、仏教とは何かを考えさせられていた。この痛ましい事件について、社会的矛盾を反映した病理の露呈というつまらない議論もはびこったが、社会病理のなかった時代や社会などあったためしがない。しかし、その後の9.11に見る聖戦についても十分に議論されないのはなぜだろうか。
そもそも仏教が「意識の制御」を必要としたか、考える必要がある。仏教はこの「意識の制御」を発端させた初期の思索や活動の様式に期限を持つ。意識の制御とは、放っておけば心が痛むほどつらくなるような「意識の傾向」が芽生えたということである。これは、紀元前十世紀よりも前の人間に芽生えた過剰意識だが、今日の新宗教問題にもイスラム教にも当てはまる。仏教はなぜそのような自らの内側に辛い意識(仏陀のいう「一切皆苦」)に気づいたのか、そこには仏教の原郷であるインドの気候風土が関与する。
太陽が照りつける乾燥した砂漠では、歩き続けることこそが生きることである。下手に休めば、飢餓と病苦と死が待っている。砂漠の選択者にとって、右へ行くか、左へ行くかはその先にオアシスがあるか死が待っているかの必至の選択である。こういう過酷な風土では、右・左へ行くかおw決定するのは絶対的な一人のリーダーでなければならない。むろんあれこれの議論があったって構わないけど、最後の決定はただ一人の絶対的リーダーの決断であってほしい。それが間違ったr、それでもしょうがない。つまり神は一人であってほしいのだ。これが、砂漠の民の中で生まれた一神教の発端だ。議論の末の決定は唯一者でなくてはならず、唯一者の決定はたとえそれがまちがっていても従わなければならない。ここ���は強大な決定権を持つ「父」がいる。その系譜の末裔として、イスラム過激派もパレスチナをめぐるアラブゲリラとイスラエルの激闘もある。
一方、鬱蒼としたアジアの森林では歩きすぎることが迷うことであるから、右へ行くか左へ行くかという判断も単一的なものではない、森林では東に獣が、西にはキノコが、南に獰猛な部落が、北には行く手を阻む大滝があるかもしれない。森林にはありとあらゆる情報を周囲に含んでいる。こういうところでは、むしろいったん止まって熟慮するほうがよい。実際にも森林を襲う雨季は人々を一所に閉じ込め、よんどころない熟慮に向かわせた。結論は一つではないかもしれない。時期により、経験の異なるグループにより、目的によって結論や行動は変わってくる。そのため、議論もある程度多い方がいい。知識は分散された方がよく、一点集中はかえってリスクが高い。「乾季には歩き、湿季には座る」という活動様式、認識様式が生まれていった。この地域では、砂漠とは対照的に情報は四方に多様多彩に待つ。すなわち、アジアの森と河は多神多仏的なのである。議論と経験を分散させ、討議の仕組みこそが教理となるべきだった。問答様式こそが結論を生む様式になりえたのである。
こうして、ヒンドゥ=ブディズムは、多神多仏になっていった。アジアの宗教では、結論を示すリーダーは何人もいる。経験や知識に基づいて問題ごとに解決者が必要になる。猛獣やキノコに詳しいもの、小麦や米を撒いて収穫を得る経験と知識を持つもの、洪水を予知して治水に取り組むものなど・・。コミュニティではむしろこれをくみあわせることが重要だった。密教の曼陀羅はまさにこうした組み合わせの表象である。経験と知識が多様であるなら、原因と結果の関係も一通りではないと考えるべきだった。
単一のロゴスや単一のリーダーが尊崇されるのではなく、組み合わせのイコンや複数のリーダーシップの共存を許す期間やシステムが宗教の統括者となった。しかし、議論や問答を重視し、複数のリーダーを許容するということは、裏を返せば唯一絶対的な物の欠如を意味し、状況と事態の多様性に常に迷わされるということに他ならない。
この迷いは必ずしもネガティブなものではない。それどころか、この「迷い」をポジティブに転換することをこそ哲人たちは施策したのだ。「われわれは迷うものである」という目覚めの存在だ。かくしてここに、「輪廻」や「業」という想定、また「一切皆苦」や「縁起」の発想が発達していったのである。
意識を制御するとは、結局、意識を同様させる言語を制御することである。迷妄が迷妄をよぶような堂々めぐりの言葉の使いようをいったん中断し、せめて意識がまぎれないような言葉だけを唱えることがいい。子供が気に入った遊びに夢中になるとき、うたのようなつぶやきをつづけるようなものだ。
宗教には二つの方針がいつも対立したり併存したりしている。ひとつは、専門的に限定した言語体系をつくってしまうことでありもうひとつは(禅が特徴的だが)本質的なことは言葉ではいい表せない(不立文字)とすることだ。坐法瞑想型から文字によって経典が編まれるようになったことで、いったんは教理の厳格な体系化が進んだ。中央機構��安定する一方で、周辺部に繕いきれないズレが生じ、ここに密教的法がが滑り込んだ。そして空海は、この言語と不立文字を自在に横断する稀有な宗教者だった。
【重要】
宗教の(言葉ではいい表せないような)本質を、そこで使われている言語構造に即して解明しようとしたからである。
→私自身は、不立文字の本質世界を遊ぶことを好みながら、「経営」及び「日本」の言語構造に即して伝えんとしている
※宗教的動向に変更が加わる時にはグローバリゼーションとローカリゼーションの正当性が正面からぶつかっている。いまのイスラム社会もアラブ社会もそういう時期である
※カルト集団の議論について
宗教的動向では、一人一人の信者の「魂の枯渇」ではなく、リーダーやリーダー群が枯渇と救済をどのような認識や行動に変換しようとしているかということにある。ドイツ語の「ゲマインハイト」英語の「コモンズ(commons)」の語根は「メイ(mei)」という交換や交流の意味を持つ言葉である。ゲマインハイトやコモンズのイメージは、一人ひとりが異なった生き方をしているのに、そこに交換や交流が起こって共通の活動空間を作っているという意味にある。私は最初期の宗教とはこのようなゲマインハイトやコモンズであったと思う。
しかし、宗教はしだいに施設をつくり、その中に反コモンズ的な共同体(コミュニティ)を創ろうとした。宗教に投じた人々にとって、その共同体が枯渇と救済の織りどころになったからである(中世の修道院や禅林)。そこに宗教の本質的なコモンズがあるとみなして、似たような宗教的共同体をめざすと、本来の宗教性を逸脱する装置が機能しかねない。もともと枯渇と救済の関係を受容することは汎用性の高いものであるのだが、それなら「癒し」は自由に世の中に波及しなければならないのに、それが閉じた共同体への参入に限定されるからである。
1.共同生活化している、2.異質な敵を想定している、3.リーダーが自己の神格化をつねに標ぼうしている・・こうなると、宗教ファシズムの色彩さえつ用なる。このようなカルト教団の持つ問題は、顧問図の取り違えによりおこる。異なった生活環境にある者たちが、共通の「神の家」を持つなら、そこにコモンズはあるが、唯一の教義をそこに所属する全員が活動形態をそろえて実践するために「神の家」があるなら、それはコモンズではない。
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2013.09.04
「夫れ仏法遥かに非ず。心中にして即ち近し。
真如外に非ず。身を捨てて何んか求めん。
迷悟我に在れば、発心すれば即ち至る。
明暗、他に非(あら)ざれば、信修すれば、忽ちに証す。
哀れなるかな、哀れなるかな、長眠の子。
苦しいかな、痛いかな、狂酔の人。
痛狂は酔わざるを笑い、酷睡は覚者を嘲る。」
(般若心経秘鍵)
2013.09.03
即身成仏頌(P233)
1.六大無碍(がい)にして常に瑜伽なり・・・体
2.四種曼荼おのおの離れず・・・相
3.三密加持すれば速疾に顕わる・・・用
4.重重帝網なる即身と名づく・・・無碍
5.法然に薩般若を具足して・・・法仏
6.心数心王刹塵に過ぎたり・・・無数
7.各五智無際智を具す・・・輪円
8.円鏡力の故に実覚地なり・・・成仏
2012.08.31
「生命が生命を食べる矛盾」・・・
生命の矛盾を知ることが、生命史に絶望をすることではなく、生命史に潜む可能生を発見することでなければならないはずなのだ。(P246)
2012.08.27
密教では、「要素」か「働き」かという二分法で議論してはだめだと書いているわけです。 by Matsuoka ・・・・(・_・?)
2012.08.25
Satoriよりも、心。五蘊、空海・・・・(・_・?)
2011.05.26
空海はいろいろな観点から学びたいけど・・・。
まずは華厳との関係から読んでみるとどうなる?
生命の海か〜。
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古今東西の知識を動因し、縦横無尽に語られる空海像。只ただ圧倒されるばかりでした。これほどまでに知識を有する氏がすごいのか、当時の知を吸収し尽くした空海がすごいのか、はたまたその両方か。
様々に鏤められた情報を収斂させることが結局出来ませんでしたが、
次回読んだときには納得できるようにしたいと思います。「想像力と因果律の宥和」深すぎて分かりませんでした。
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五大に皆響きあり、六塵ことごとく文字なり。
生まれ生まれ生まれ生まれて生の始めに暗く、
死に死に死に死んで死の終わりに冥し。
この本を40歳で書いた松岡正剛、とんでもない人ですね。
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松岡正剛が空海を解く、というところの興味で読み始めました。
比較的我慢して読んでいましたが、やはり力尽きた。正直歯がたたない。
「書いてあることがわからない」というと書き手が悪いみたいなのですが、読む上で前提とする教養がアタシに無さ過ぎた、と、そういうことです。頭のネジのはじけ飛ぶ音がしました。
20年くらいしたら戻ってくることでしょう。
わからないなりに「面白いことが書いてあるんだろうなぁ」という予感はするので。
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ただ大日の徳を大日の恵光を、なお高く、なお速く、人々にもたらすしかないとおもっていた…そしてもうひとつ、そこには何か壮絶な空と悲の超越があったともおもわれた。空海には密教者がひとしく阿修羅を食った者たちの系譜であったことがわかっていた。
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読了
空海からここまで話を広げられますか
さすがです
この広さが最初に読めたことが、これから深入りしようとする自分にはうってつけでした
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「遊」は、70年代後半〜80年代前半くらいによく読んでいて、いろいろな影響を受けた。
なかでも、自然科学と仏教とか、日本的なものを繋ぐというか、相互に包含しあうみたいな視点は、すごいな〜と思っていた。
その後、私自身の関心が違う方向にむいて、「遊」や松岡正剛さんの本もあまり読まなくなった。
この「空海の夢」は、わたしの興味が違う方
向に向かっていた時期に出たもので、リアルタイムではこういう本が出ていること自体知らなかった。
最近、「日本とはなんだろう?」という問いがあらためて立ち上がってきていて、そんななかで、何となく読んでみた。
そんな感じで読んだんだけど、この本は、松岡正剛さんの「主著」とでもいうべきものだったみたいで、本人のこの本に対する思いも強いみたい。
なるほど、「遊」で扱われていた仏教って、インドの仏教の経典というより、日本の仏教、しかも道元とか親鸞というよりは、密教という感じだったからな〜。そして、密教といえば、やっぱ空海となる。
その「空海」を、複雑系科学やホワイトヘッドなどの議論も借りながら、現代的な意味を読みとっていく感じ。
なるほど、議論だけど、なんせ「空海」についての知識がほとんどないので、やはりわからないことが多かったかな。
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どの本だったか、暫く前に松岡さんの仏教はぺジミスティックな宗教との言葉に虚を突かれた。確かに仏陀はぺジミストだったなと納得しつつ、松岡さんの語る仏教に興味を持った。
後で文庫があることに気付いたが、新版のあとがきをあるから、こちらが良かったんだと思う。
しかしながらというか、やっぱり歯が立たなかった。華厳経から密教に至る処が一番の重要ポイントだと思うんだが、全く理解の外だった。
高野山の寺院や仏様とか、天川村の修験者が歩いた道を想い出したりしながら読んだ。仏像や曼荼羅ってマジナイの助けみたいなものとも思っていたんだけど、理論と一体になったものとか、山が与えるものとか、身体性とか理解までに至らない。
いつか再挑戦しようかな。うん。