安土往還記(新潮文庫)
著者 辻邦生
争乱渦巻く戦国時代、宣教師を送りとどけるために渡来した外国の船員を語り手とし、争乱のさ中にあっても、純粋にこの世の道理を求め、自己に課した掟に一貫して忠実であろうとする“...
安土往還記(新潮文庫)
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商品説明
争乱渦巻く戦国時代、宣教師を送りとどけるために渡来した外国の船員を語り手とし、争乱のさ中にあっても、純粋にこの世の道理を求め、自己に課した掟に一貫して忠実であろうとする“尾張の大殿(シニョーレ)”織田信長の心と行動を描く。ゆたかな想像力と抑制のきいたストイックな文体で信長一代の栄華を鮮やかに定着させ、生の高貴さを追究した長編。文部省芸術選奨新人賞を受けた力作。(解説・饗庭孝男)
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寡黙のなかの友情
2011/06/06 23:22
8人中、8人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:テレキャットスター - この投稿者のレビュー一覧を見る
戦国時代、宣教師とともに来日したジェノバ出身の航海士。本書は、彼による書簡という体裁をとった小説だ。
航海士は、日本で「尾張の大殿(シニョーレ)」こと織田信長と出会う。そして、信長の「事が成る」ことを追求する姿勢に共感を覚える。「事が成る」とは「自分の選んだ仕事において、完璧さの極限」への到達であり、それを目指すことが信長の行動原則だったという。
そのようにストイックな姿勢は家臣から理解されず、信長は日々孤独感を強めていく。そんな折、命を賭して危険な航海に乗り出し、日本へやって来た宣教師たちと出会う。「事が成る」ために命をも賭ける。その姿勢に、信長は共感を覚える。
本書では、それを「寡黙のなかの友情」と評する。いわく「孤独になるにしたがって——各人が虚無の闇のなかに立ちはだかるにしたがって——より一層深く結ばれてゆくといった種類の共感」だそうだ。ヴァリニャーノ巡察使が帰国する際に、信長が催すセレモニーはそれを体現しており、感動的だった。
この「寡黙のなかの友情」という概念こそが、本書で得た一番の収穫かもしれない。身近な友だちが少なくても、「事が成る」ために日々努力していれば、どこかに共感してくれる人、友情を感じてくれる人がいるかもしれない。もしかしたら、ジェノバあたりに。遠いなぁ……!
本当に見てきた話のように面白い
2020/10/27 21:35
1人中、1人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:UMA1001 - この投稿者のレビュー一覧を見る
面白いですね。すごくわかりやすくて理解しやすい。
孤独な絶対の探求者の肖像
2011/06/15 00:49
7人中、7人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:桃屋五郎左衛門 - この投稿者のレビュー一覧を見る
この作品は、辻邦生の他の作品にしばしば見られる、ある人物の生についての証言という形式となっている。証言者は室町末期に宣教師について日本に渡ってきたジェノヴァ出身の水夫であり、彼は京都や安土の教区で宣教師たちの補佐をする傍ら、「尾張の大殿(シニョーレ)」に軍事顧問のような立場で接する。そしてこの小説はそこで見聞したことを故郷の友人に書き送った手紙という体裁となっている。むろん南仏の蔵書家の書庫から発見されたというこの書簡は作者・辻邦生による創作であり、巻末の改題によればフロイスやロドリゲスらの文書や『信長公記』などを題材として、それらを作者独自の視点で再構成して書かれている。(そのことは手近なところでは岩波文庫のルイス・フロイス『ヨーロッパ文化と日本文化』などで確かめることができる。)
そして何よりユニークな点は、この書簡の書き手である話者をスペインのコンキスタドールに従ってメキシコに渡った経験もある、技術者に徹した世俗の人間としたことであり、しかも話者が書簡を送る友人がマキャベッリを容易に想起させる「フィレンツェ、ヴェネツィア、ナポリ公国における政体比較研究」なる書物の著者とした点だろうか。ここに描かれているのは合理主義的な精神の持ち主の共感に満ちた眼差しによって捉えられた合理主義的精神を徹底する政治家の肖像となる。
すなわちここに描かれた「尾張の大殿」は「自分の選んだ仕事において完璧さの極限に達しようとする意志」の持ち主であり、「力の作用の場において力によって勝つ」という政治的原則のもとにあらゆる戦略を組織し、異常なまでの好奇心と探究心をもって「この世における道理」に執着する。そしてフロイスやオルガンティノら、「信じるもののために危険をおかし、死と隣りあって生きて」きた者へは友愛と信頼を寄せ、わけても巡察使ヴァリニャーノに対しては、「仕事のなかに自分のすべてを燃焼させ、自己の極限に生きようとしている」者同士の「寡黙のなかの友情」を結ぶ。
しかし、その一方で己れに課した「事が成る」ための不断の克己と緊張、そして「理にかなう」方法の徹底を周囲に対しても過酷なまでに要求することで諸将との間の距離が広がり、次第に孤独の影を深めていく。「明徹な理知」によって「事物の理法」を見抜く眼をもつ一方で人間の弱さに対する愛情をも併せもつ「明智殿」との対比を通じて「大殿」の孤影を色濃く描き出していく。
そうして深い信頼と共感を寄せられながら「孤独な虚空へとのぼりつめる」ことを要求されつづけることに疲弊した「明智殿」の謀叛によって、この「理法の王国」が音もなく崩れ去ったことへの衝撃とそれに続く無為の十年が語られて話者の証言は締めくくられる。言うまでもなく、「尾張の大殿」によってほぼ完成されようとしていた「理法の王国」の崩壊とは話者にとっても「大殿」を通じて実現しようとした理想の挫折を意味する。
この孤独な絶対の探求者によって安土の城下に出現したつかの間の祝祭空間がこの作品のクライマックスとなる。闇の中に無数の松明によって浮かび上がる壮麗な安土城とやはり松明を掲げて疾走する黒装束の騎馬武者たちの奔流。そして彼らと同じいでたちで馬を駆り、ヴァリニャーノに別れの挨拶をする「大殿」。このとき合理主義的な精神を徹底することによって絶対の探求者となった「尾張の大殿」の相貌は、作者・辻邦生がしばしば主人公とした芸術家たちの相貌に近似する。
信長像に見る絶対的な孤独
2011/06/04 08:23
7人中、7人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:analog純 - この投稿者のレビュー一覧を見る
近代日本文学の小説を、ごそごそと読み始めてはや四半世紀を越えました。
そのせいで、まだ一度も読んだことのない作家で、読めばきっと凄いんだろうなと思う人は、近代日本文学史に限っては、何となく少なくなってきたような気がします。
(いえ、それは間違いで、本当はまだまだいっぱいいらっしゃるのだという気も、一方では少ししているんですが。)
さてそんな私にとって、少なくなった(?)「読めばきっと凄いんだろーな作家」の一人が、この辻邦生氏でありました。
この度初めて読みまして、えらいもんですねー、やはり思っていた通りでありました。
というのも、別に私の直感力が優れているとかいうことではなくて(当たり前だ)、要するに「以前よりかねがねお噂をお聞きいたしておりまして」状態であったからですね。
それともう一つ挙げれば、文学史上の位置づけが、ほぼ「一匹狼」状態であるということも、私の「カン」の発動理由ではあります。
こういう文学史上の一匹狼作家というのは、やはり結構凄いんですね。
なぜかと言うに、そもそも文学史なんかを書こうと思うような方は、まー、それをすっきり整理したいと思ってなさるのに違いないんですね。
その整理の「視点」が極めて独自のもので、そしてとても「整理能力」の優れたものならば申し分ないと言うことで、きっとお考えなんですよね。
で、文学史上の作家と作品をグルーピングしていって、てきぱきときちんと戸棚にしまっていきます。
ところがここに、どーにもどこに入れていいのか迷うやっかいな作家や作品が残ったりするんですね、これが。
いっそ、なかったことにして棄てちゃえとも思うんですが、「文学史家的良心」がそれも許さず、仕方なく整理しきれない作家として「一匹狼」が残る、という寸法であります。
だからそんな作家や作品は、独創性と質の高さにおいて看過できないものであると、そういう論理であります。(うーん、我ながら実に優れた論理展開ですね。)
というわけで、私はこの度、凄く面白い小説を読みました。
何が凄いかと言えば、この小説が、織田信長をモデルとし彼の「仕事」、それは評価されるものもされないものも含めて、その「意味」と「動機」を分析していくというテーマ、そしてそのテーマをしっかりと支えていく丁寧かつ的確な表現力、つまりは「本格小説」としての凄さ、ということでありましょうか。
例えば信長の行動原則を、筆者はこのように書きます。
(文中では信長は、「大殿」と呼ばれ「シニョーレ」とルビがされています。語り手はポルトガル人であります。)
-----------------
とすれば、大殿が聖域を焼却して僧俗男女を一人残らず殺害したことも、北方軍団を壊滅させその総帥の首を冷然と見つめることも、ただ一つの原則――すなわち反対勢力を無に至らしめ、力の対立を完全に解消すること――を、数学的な明晰さによって押し進めたにすぎない。大殿にとっては、この原則に純粋に忠実であることが――歯を食いしばってもこの原則をつらぬきとおすことが――それだけが、彼の人間的な意味でもあり、精神の尊厳をまもる所以でもあったのだ。
-----------------
信長をこのような人物と設定して歴史を書き直すわけですね。そしてその試みは、かなり説得力のあるものと、私には映りました。
ただ、このような行動原則を持つ者が、圧倒的な孤独によって精神を蝕まれないわけにはいきません。
作品終盤に宣教師のヴァリニャーニという人物が現れ、信長の内面との類似を語る人物として描かれますが、作品としては、このあたりから少し求心力に欠けていくような気がいたしました。信長の孤独の説明としては、やや観念的ではなかったか、と。
つまり、終盤に描かれる信長像は、それほどまでに日々孤独の業火に焼かれようとしている姿であり、その絶対的な孤独感は、本能寺で殺されることが、ひょっとすれば彼にとって救いではなかったかと思ってしまうくらいであります。
もちろんこれは、一読者としての私の思いつきにすぎないのですが、そんな風に思うほど出口のない孤独感が描かれていることについて、二十世紀に生きていた筆者にどんな人間認識があったのか。
それはさて、さらに別の作品を手にとってからのこととなりましょうけれど……。
信長像の清冽さが印象的
2003/06/01 10:21
1人中、1人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:萬寿生 - この投稿者のレビュー一覧を見る
「背教者ユリアヌス」、「西行花伝」についで、辻邦生の作品を読むのは3作めである。後期の長篇には在って、この作品には無いものがあるような気がする。それが何かは言い表せられないが。しかし、 辻邦生の作品にある、高貴さ、気品というものがこの作品にも感じられる。イタリア人のポルトガル傭兵から見た、織田信長が描かれているが、信長像の清冽さが印象的である。作者が表現したかったものが、明確に伝わってくる。著者の他の作品も読みたくなる。
織田信長像
2023/10/06 23:34
0人中、0人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:エムチャン - この投稿者のレビュー一覧を見る
織田信長というと、戦国時代の最中、天下統一を一度は成し遂げるも、明智光秀によって志し半ばで……というのは、日本人の見方。これは、異国人から見た織田信長像です。冷酷だとか、うつけ、変人とも言われた信長ですが……。