「音楽は本当に怖い」
2023/07/03 14:44
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投稿者:ふみちゃん - この投稿者のレビュー一覧を見る
岡田氏が言う「音楽は本当に怖い」、これには全くの同感だ、阪神大震災や東日本大震災の時に現場に駆けつけた歌手の歌に「勇気をもらった」「元気がでてきた」という賞賛が渦巻いた、もちろん、すばらしいことなのだが、素晴らしいクラシックの楽曲を宗教に持ち込んだら人はそりゃ簡単に信仰してしまうわなあ
ん、この内容が『入門書』?
2023/08/06 10:36
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投稿者:takuya - この投稿者のレビュー一覧を見る
個性たっぷり、悪く言うと灰汁の強さ満載の御両人による、対談本。既に複数のお方が御指摘の通り、クラシック・ファンとしては、初心者の人が手に取るより、中級篇の書物を開きたいお方に、読み応えの在りそうな内容と言った趣です。映画ファンの私には、MGMやユニヴァーサル等のアメリカの大手映画会社は、誰が作ったかと言ったような、楽しい脱線(音楽関係の内容なので、『転調』ですか)も、在りました。去る4日に御配達いただき、二日をかけてですがほぼ一気に読みきって、しまいました。また、このお二人の対談本、続編を期待しております。
「世界を知る、歴史を知る、人間を知るツール」としてのクラシック音楽
2023/11/12 14:30
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投稿者:kapa - この投稿者のレビュー一覧を見る
かつて「ピアニストになりたい!19世紀もうひとつの音楽史」(2008春秋社)でデビューした新進気鋭の若手岡田暁生氏、今ではクラシック音楽を社会史や思想との関連で論じる音楽学者の第一人者。かたや政治思想研究者でもある片山杜秀氏は、大きな倉庫にも収まりきらないほどの音盤を保有し、古今東西の音楽に通暁した博覧強記の音楽評論家であり、また、NHK-FMのクセツヨ・クラシック音楽番組「クラシックの迷宮」MC。その二人によるクラシック音楽を論じる対談本である。
2人の「詐欺師」-本人たちが音楽批評家をこう揶揄している、が趣くままに、個性的なレトリックを駆使しながら、クラシック音楽を縦横無尽に語り明かす。ひとまずクラシック音楽史の流れ、古楽から、古典派、ロマン派、国民楽派、そしてシュトックハウゼン、ブーレーズ、ミニマル・ミュージックまでの現代音楽を、歯に衣着せぬ物言いで、徹底的に語り尽くし、クラシック音楽と歴史・社会とのかかわりへの視点を知ることができる。
新潮社読書情報誌「波」2023年6月号にも裏話が紹介されているが、2人の関心や好みで脱線もするし、寄り道も始まる。その発散・偏向具合も魅力だ。対談形式なので、その利点を活かした明快・簡潔な語り口は「ごまかさない」という本書タイトルのコンセプトどおり非常に読みやすいのだが、レビューをするとなると、どこから手を付け、どうまとめればよいか難しい。例えば、二人が発する刺激的な比喩や連想、バッハは「怖い」、ワーグナーは「危ない」、ショスタコーヴィチは「軍事オタク」、そして「バッハの音楽と資本主義の精神」「モーツァルトと万葉集」「ベートーヴェンは株式会社社長」「ワーグナーはロマン派のブラックホール」「ニーベルングの指環と資本論」「ショパンの3分とワーグナーの3時間」…が面白いとか、バッハ以前の千年近い西洋音楽の歴史は「古楽」として外され、ベートーヴェン以降の約百年をロマン派と一括りにするのも無理があるという目鱗の視点などテーマはいくつもあるのだ。
ここでは、並行的に読んでいた「二十世紀のクラシック音楽を取り戻す」(ジョン・マウチェリ著、白水社)との関係で、二十世紀のクラシック音楽に絞って見てみよう。両書とも第一次世界大戦、そして冷戦によってクラシック音楽は行き詰った、という史観では一致している。本書もマウチェリと同じく、冷戦下西側資本主義の支援を受けた前衛音楽を批判的に見ている。しかし、映画音楽や亡命音楽家は扱っておらず、ミニマル・ミュージックに焦点を当てている。ただ、両者とも現代音楽は特殊領域ではなく、連綿と続くクラシック音楽である、というとこころは理由こそ違うが同じ見方だ。
こうした二人がたどり着いた「ごまかさない」クラシック音楽は、「世界を知る、歴史を知る、人間を知るツール」であり、かつては政治と宗教に利用されてきたように、その存在意義は「神学的なもの、絶対倫理」を隠していたことだ。クラシック音楽は人間の自由な精神を守る拠り所であり、聴きたいものを右から左に聞き流して楽しむのもいいが、背後にある「絶対倫理」を自覚しないと世界も人間も読み解けない。そうしないとイデオロギーを超えた総動員社会・人工知能が統率する未来社会でそれこそクラシック音楽は終焉してしまう、とこれまでとは違って真面目になる。最後に現代のクラシック音楽のイデオロギー的対立を象徴する音楽として、ベートーヴェンの《第九》、人類は皆兄弟とショスタコーヴィチの《第五》、殲滅と死の音楽を二項対立としているのは、「ごまかさないクラシック音楽」の見事な締めである。
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以前、のだめを許容しない時代遅れの権威主義者に呆れた覚えがあるが、そんな奴がこの本を読んだら、発狂するかな?
まぁ、片山先生の名前でもって、猫またぎになるんだろうけどね。
諸井誠は第九の対抗馬を同じ9番の新世界にしてたけど、第九のアンチはタコ5だ、というのは、判りやすい話ではある。
シルヴェストリの狂気の突撃演奏で、人類愛の幻想なんかぶっ壊せ!
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帯や紹介文には「最強の入門書」と銘打っているが、全く入門書ではない。切り口は、岡田史観と片山思想。ある程度、この2人の著者の本を読んでいない人にとっては敷居が高そうな内容だった。
私は岡田氏の本も数冊、片山氏の本は多く読んでいるが、本書は対談のためもあってだろうが、落としどころ・まとめ方が弱い感を受けた。対談は岡田氏がリード役である。片山氏の得意分野である前衛音楽の部分が一番面白く読めた。
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音楽評論家と音楽学者が繰り広げるクラシック音楽の深い話。
まるで酒を飲み爆笑しながら「あいつはあーだこーだ」と言っているようでとても痛快。
小説に繋がったり、政治に繋がったり、楽器を演奏したりクラシック音楽が好きで聴いているだけでは知り得ないことが満載。
ちょっとダークな部分もあるが、時代背景から仕方ないことも理解できたり。
特にベートーヴェン株式会社が何をどうして作り出したものは何か…是非読んで知ってほしい。
アッセンブリーするだけでなく一つ一つ部品を作る、そんな想像をしながら新しい気持ちで聴きたくなるベートーヴェン。
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クラシック音楽にまつわる入門書や解説書というのは世の中にごまんと溢れていて、当然のごとくそれらの大半は知的興奮を全く与えてくれないレベルのものばかりである。
そんな情況に対して”Nein”を突き詰めるが如く、京都大学人文研におけるクラシック音楽の専門家として高いレベルの分泌活動を続ける岡田暁生と、政治学者としての顔も持ちながらクラシック音楽に対する広範な知識量でも読者を圧倒する片山杜秀という2人がタッグを組んだ本書は、まさに自分が本当に読みたかった入門書・解説書であった。
本書の特徴は、通常の入門書・解説書ではさらっと触れるような点についても、その背景・理由をごまかすことなくクリアに語ろうとするその姿勢にある。もちろん、クリアに語ろうとすれば、そこには一定の解釈やスタンスを取ることからは避けられないが、そうして点からも逃げない点にこそ、個人的には好意を感じたし、博覧強記とも言える2人の語り口の鮮やかさに、改めてクラシック音楽というものの魅力を強く再確認した。
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こちら門外漢、ごまかされているかいないかはさっぱりわからないのだが、二人の識者が本音で語るクラシック音楽とその歴史、という本だと思う。本音であるということはこの二人の考え方がそのまま著されているということで、もちろんこの本に異を唱える人がいるだろうことは想像がつくのだが、素人にはただただ楽しいクラシック音楽解説本であった。ある音楽を好きになるということは入信するようなものだとあったのだが、日頃昔のアニソンばかり聴いている当方にもあてはまるのだろうか?(苦笑)。
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面白かった!!!きちんと音楽史として眺めることで、自分の中にある諸々の言語化を突き付けられ、そうですよね、ハイ…となっていました笑
序章 バッハ以前の一千年はどこに行ったのか
ポスト・ヒューマン時代には…
(片山)そうなると、ベートーヴェン的な音楽は「虚偽」に聴こえてくると思うんです。だって、かつては≪第九≫一曲に「世界」のすべてが入っていて、それを聴いたり演奏したりすればユートピアに至るーというつもりで聴いてこそだった。…しかし幻滅する。ベートーヴェンを聴くこと自体が、バカバカしくなってくる…。(p.36)
(岡田)環境音楽ーたとえば、ひたすらサラサラと流れるせせらぎの音を聴いても、それで世界全体が見渡せることなんてありえないわけです。せせらぎの音もミニマル・ミュージックも、仮に一時間半つづいたとしても、それが世界全体を表していることにはならない。やっぱりフーコーの『言葉と物』の最後がいやでも思い出される。「賭けてもいい、人間は波打ちぎわの砂の表情のように消滅するであろうと」。もしかしたら人間とは、せせらぎの音を聴きながら、人間には到底見渡すことなどかなわない全宇宙を、少しだけ垣間見たような気になるのが精一杯という程度の存在なのかもしれない。この間書くって、中世ヨーロッパ音楽と通じるところがあると思うんですよね(p.38)
(片山)要するに交響曲とは四つの楽章がワンセットとなって何らかの全体性が表現されているのだという考えでしょう。…アダージョ楽章だけを抜粋で聴いていいんだと提案したわけです。まさに全体性の解体であり、ミニマル・ミュージックやアンビエントや古楽につながる雰囲気を感じさせます。『アダージョ・カラヤン』こそは、ポスト・モダン、ポスト・ヒューマンになっていく九〇年代を象徴するCDであり、まさに冷戦終結の象徴でもありました。
第一章 バッハは「音楽の父」か?
バッハ=「神に奉納される音楽」
(岡田)…そして一つの長い物語というよりは、どこからでもランダム再生できるばかりか、聴きおえてもグルリと円形を描いて元に戻る円環のイメージすらある。それは近代のロジックではない。どこからでも始められるし、どこでも終われる。(p.78)
グールドがバッハを演奏する理由、グールドが見ていた未来。バラバラになる人間と音楽…
SF(映画)と音楽!!なんとここでSFの話が盛りだくさんになるとは…やはり繋がっているんですので…
・タルコフスキーの『惑星ソラリス』:≪われ汝に呼ばわる、主イエス・キリストよ≫BWV639
(岡田)…地球の終わり、あるいは人類が死滅したあとの世界のイメージですね。人間がもういないのに流れている音楽。こんな場面で流せる音楽は、確かにバッハ以外には絶対ありえない。(p.80)
(岡田)…例えばグレゴリー・ペックが主演したSF映画『渚にて』や、小松左京の『復活の日』『日本沈没』などにも、バッハがピッタリ合うような気がしていました。…
(片山)ベートーヴェンは、人間の「相手」がいないとうまくいかないでしょう。一人だったら、やはりバッハですね。
(片山)…(『幼年期の終り』)一つの「全体」になったような表現でした。��れ、音楽でいったら、まさにバッハ的なポリフォニーの実現ですよ。それまでモノフォニーで一声部だった音楽が、ポリフォニー=多声部で一つの世界を表現できるようになったのですから。
もう『幼年期の終り』も『渚にて』も大好きなわけで、確かにそこで流れる音楽がどんなものかは考えたことがなかった。バッハ、なのだとすると、私が朝・夜と聞くときにはたった一人、自分と向き合っているのだろうか。。まさに「(岡田)やっぱりバッハの音楽は「本当はこわい」」…
(片山)つまり、個物の相克を乗り越えると、完璧なポリフォニー、そして別々の旋律が同時にからみ合う対位法に行き着く。しかし、そこまで行くには、大きな痛みや犠牲を伴う。…それは、もしかしたら核エネルギーのことかもしれないけど、とにかく人間がやることを全部やってこそ、その先に開けるものがある。これがまさしくバッハの≪マタイ受難曲≫でしょう。みんなで血を流して、ルター的な狂気に駆られて、行くところまで行ったら、進化して違ったものになっちゃう。そういうことまですべて引き受けるのが、たぶんバッハなんです。(p.82)
第二章 ウィーン古典派と音楽の近代
1. ハイドン
(岡田)…イギリスはポピュラー音楽の世界では有力なんですよね。ビートルズとかローリング・ストーンズとかレッド・ツェッペリンとか。対するにクラシック音楽の「本場」のドイツやオーストリアの世界的なロック・グループなんて想像もつかない笑。…ビートルズの旋律やハーモニーは、スコットランド民謡の末裔です。…スコットランド民謡的なものは、クラシック音楽の語法より、ポップスに向いていたのかもしれない。
(片山)ミュージカルが多く生まれるのも、似たような論理かもしれません。(p.92-93)
英語が覇権言語であることも、勿論あるだろうけれど。
2. モーツァルトの浮遊感と根無し草
3. ベートーヴェン
(片山)…ひたすら駆り立てられて、爆発して、それが人間の感情や魂の解放だということになる。しかも愛を貫くことにも関係してくる。熱量が高まると、お見合い結婚じゃなくて、恋愛結婚になる。
⇒そしてそんな女性がブリュンヒルデだと…。やばい、ブリュンヒルデになりたいと思っていた私笑
(片山)…ベートーヴェンを超えるには超人類になるしかない。ベートーヴェンを超える何かがあるとすれば、ワーグナーでもシェーンベルクでもなく、美的・思想的にはスクリャービンかもしれません。(p.130)
・スクリャービンの≪焔に向かって≫、≪プロメテウスー火の詩≫
(片山)…それでも人間はさみしいから、たまにはお酒を飲んで、芝居を見ましょう、音楽を聴きましょう、そうやって、楽しく生きていましょうとなるわけです。…それに見合った文化芸術のキャラクターとして必要だったのは、もうベートーヴェンではなくて、モーツァルトだった。
(岡田)日本の経済力がピークに到達して、もうベートーヴェンのように悩んでがんばる必要がなくなったんだな。…
(片山)…しかし、バブルの崩壊とともにセゾン・グループも解体されてしまい、ポスト・モダンとモーツァルトの時代も過ぎ去ってしまった勘があります。まさに諸行無常の響きありますね。(p.140)
第三章 ロマン派というブラックホール
2. ロマン派と「近代」
(岡田)ロマン派の本質的なところがほぼ出そろったと思います。ポスト・ベートーヴェン世代の悩み、内面への逃避、狂気の演出、フランス革命以来の軍楽隊、「遠くへ行きたい」という欲望と鉄道と観光、植民地支配とエキゾチシズム、ホールの登場、音楽批評の誕生…こうやって考えると、ロマン派ってまったくキメラというか、ごった煮ですね。…ところで、ロマン派を語る際に避けては通れないテーマがあると思うんです。…たとえばワーグナーの≪ニーベルングの指環≫におけるブリュンヒルデとジークフリートのような「命がけの愛」もとい「バカップル」(p.176)
(岡田)人口生産の手段としての愛自体は、いつの時代にもあっただろう。じゃあどうしてロマン派になって、愛があそこまで焦点化されたのか?僕は資本主義が関係してたんじゃないかと思っているんだけど…
(片山)…資本主義が回るためには、とにかく労働力が必要だからです。…新たな労働力として子どももどんどん作ってもらわなければならない。その際に必要になった概念が「愛」ということですね。好き同士になったら、経営者と労働者だろうが、ブルジョワジーと下層労働者だろうが、どんどん子どもを創らせる。そのために生み出されたのが「愛」というイデオロギー装置だった。(p.180)
これは西洋的にはそうなのだけど、日本はやはり万葉集があり源氏物語があり…と考えると、すごく不思議ですね。
(岡田)…「国民楽派」という言葉には、悲哀のようなものも感じてしまうんですよ。「自分たちは二等国ではないぞ」と言うために、地元の民謡などを取り入れた「国民楽派」的な音楽を一生懸命に作るわけですが、でも結局は、ヨーロッパ中央の音楽業界で認められて初めて一人前。ウィーンとかパリとかロンドンとかね。でも彼らは国民楽派をしょせんエキゾチシズムとして消費するだけ。決して「本流」にはなれない。本流にしてもらえない。ものすごいコロニアリズムです…(p.195)
3.ワーグナーのどこがすごいのか
(岡田)…比較的小ぶりの≪タンホイザー≫でさえ、三時間超だから、ほとんど宗教儀式の世界です。洗脳イニシエーションですね。…ちなみにコアなクラシック通には、「長いものこそ本格的だ」と思う心性がありますよね。(p.208)
それな~~~笑という。
(片山)…長らくヨーロッパを支配していたキリスト教文化が崩れていくプロセスの中で、階級の崩壊や流動化が起きる。そうなると、ある種の不安とか刹那主義のような感情がどんどん表に出て、人間の感情が揺れ動くようになる。すでにモーツァルトの音楽などに、そういう不安定な人間の感情が表れていると思います。…ところが、市民社会、労働者社会になると、「愛」によるカムフラージュが必要になってきた。…でも「揺れ動く」ことは、人間としての重要な感情なんだけれど、やっぱりずっと揺れ動いていると、くたびれるんですよ。その果ては、死に至るしかない。そこで今度は、感情をなだめるというか、ごまかす何かが必要になる。あとでまた「揺れ動く」ことになるとしても、とりあえず、一時的な安静を得て、安らぎの中から、また始めてほしい。この揺れ動きと安静の往還を音楽で表現し��のがワーグナーの「三時間文化」ではないでしょうか。で、もう一時的な安らぎだけでいいじゃないかというのが、ショパンの「三分間文化」(p.209-210)
(岡田)宗教無き時代にいかに宗教的恍惚を体験させるか。それがワーグナーだな。
(片山)そして、この長い時間の中で、最終的には神に成り代わって全人性、トータルな一個の人間としての完成が目指されている…マリア様とイエス・キリスト、あるいは幼子イエスの絵が描いてあって、アイドル写真みたいに拝む。こういうアイドル感覚が「三分間」だとすると、そうではなく、聖書を全部読み切ったような全人的な完成、その疑似体験版として、「三時間」の大交響曲や、大ピアノ・ソナタの集中的鑑賞がある。
(岡田)長い難しいものを最後まで読み通すのは、「立派なこと」なんですよ。ワーグナーはそういう教養主義イデオロギーにそのものずばりはまる。あれだけ長くてややこしいのに、あれだけ人気があるというのは、ワーグナーが教養主義者、つまりは俗物に「受ける」コツを知り抜いていたからだと思う(p.212-214)
俗物が私です!!いやーまさにこれっていうか、私だって聖書全部読みました派だもんね、絶対………耳が痛すぎ
マイアベーア!
第四章 クラシック音楽の終焉?
これからのクラシック音楽をどう聴くか
(片山)クラシック音楽が、今更趣味以上の意味はないとも思いたくない。やっぱり世界を知る、歴史を知る、人間を知るツールであってほしいです。
(岡田)「音楽」の背後の頑強なイデオロギー性に無自覚に、グルメよろしく美的にのみ消費する、というのはやっぱり危うい。あまり無邪気に「音楽って、いいですねぇ」とは言いたくない。…その背後にやっぱり神学的なものが隠れているということを忘れたくない。政治的・宗教的・思想的にニュートラルな音楽なんて存在しない。…「ファンになる」とは、その音楽が求めている絶対倫理を受け入れることに等しいんです。…(p.335-336)
(岡田)「クラシックを聴く」とは「近代世界の欺瞞と矛盾を理解する」ことにほかならないのかもしれないですね
引き続き考えながら聞いていきたい。
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クラシック音楽から人、国、歴史を知れること、個人的には好きな近代音楽はベートーヴェンが描いた理想世界とは異なる歪んだ現実社会への反逆を通して各々が出身国や人としての個性を出しているのかもなと思え、興味深かった。
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いわゆるバロック音楽の後から現代音楽までのことを言うクラシック音楽は、西側キリスト教圏の音楽であり、西洋の時代と切っても切り離せないものであった。いわば時代を表したもの、ということを詳細に歯に衣を着せぬ物言いで語りつくしたのが、この対談だ。バッハあたりからシュトックハウゼンぐらいまで、個々に取り上げている。結構下世話な話も。確かにねえ、時代から離れた人間の活動はあり得ないからねえ。どんな音楽も、その背後にはそれぞれの「絶対倫理」がしっかりと張り付いている、なんて言われると、もっともでございます、でもなんか怖い、いやうーんそんなもんかなあ、と思ってしまう。いちいち音楽を聴くのに、その背後の絶対倫理なんて気にしていられるかってもんよ。でも、話としては面白い。それにしても、なんらかの倫理から自由な音楽ってあり得ない?ないよなあ。