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2023/09/04 11:28
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投稿者:ふみちゃん - この投稿者のレビュー一覧を見る
「100分de名著」(NHK Eテレ)は私の大好きな番組の一つ、この番組を観てから「面白そうだから読んできた」という作品も多い、大江健三郎「燃えあがる緑の木」ガンジーの「獄中からの記憶」
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メモ→ https://twitter.com/nobushiromasaki/status/1664555091700109313?s=46&t=z75bb9jRqQkzTbvnO6hSdw
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大好きな番組である100分で名著の裏側を描いたもの、最初は興味を持って読み進めたが、後半あたりからプロデューサーの持論展開が激しく残念でした
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100分で名著の関連書籍は他にも触れた記憶があるが
最近はで過去の内容を振り返る際も、名著と解説者の比重に関して後者のそれが個人的に増してきた感覚で楽しんでいる。
名著の定義については本著にも、読書キャンペーンの書店配布リーフレットにも多々提示されていたが
今の自分にとっては「多様な読み方を、時代を越えて見出しうるもの」といったところだろうか。
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「100分de名著」は好きな番組で、今まで見えていた世界が全く違って見えたり、世界を見る目の解像度がグンと上がることに、いつもワクワクしています。タイムリーな内容にビックリすることも多いのですが、1年以上前から準備しているとあり、名著の言葉の持つ力やそれを読み解く方々の眼力に脱帽です。
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感情は主観的で知性は客観的であるという普通の見解には誤謬がある。むしろその逆が一層真理に近い。感情は多くの場合客観的なもの、社会的なものであり、知性こそ主観的なもの、人格的なものである。(「人生論ノート」三木清著、新潮文庫)
普通に読むと逆ではないかと思ってしまう。なぜなら感情なんて個人のものなのだから主観的に決まっているし、知性は客観的なことについて言及する能力のはずだ。ここには、三木らしいレトリックがある。この言葉のいいかえの部分に注目してみよう。
客観的なもの=社会的なもの。主観的なもの=人格的なもの。このように三木による定義づけよにって文章を読みかえていくと、本当の意味がわかってくる。感情が社会的なものというのは、自分ならではの純粋な感情ではなくて、たとえば、他人がこの番組が面白いといえばなんとなく自分も面白そうだと思ったり、グルメサイトの口コミで多数の人がおいしいと書き込んでいれば、なんとなくそのレストランの料理をおいしく感じてしまう。感情というのはこんなふうにたやすく煽られたり、空気によって左右されたりするものだ。三木は、これを「社会化されている」「客観」と表現しているのだ。
しかし、知性は違う。社会やその場の空気に左右されず、きちんと自己の基準で良否を吟味し判断できるのが知性。だからこそ、三木は知性こそが主観的なものであり、人格的なものであると述べているのだ。
「感情を煽ることは容易だが、知性を煽ることはできない」
岸見さんは三木の知性に対する考えを一言に凝縮してこう表現してくれた。私たちは、ともすると、周囲の空気に流されてしまい、自分で考えることをやめてしまいがちだ。三木は、こうした状況を「精神のオートマティズム」と名付けて鋭く批判した。
若松さんとの打ち合わせの中で、特に印象的だったのが、「西田哲学は決して日常を離れた思想的営為ではない」というポイントだった。「純粋経験」などというと、日常を離れた悟りの境地のようなものであり、私たち凡人には関係のない高尚な概念だと思いがちだ。だが、若松さんは、たとえば、料理をするとき、掃除をするときなど、私たちの生活の中にも「純粋経験」はあるという。絵画を鑑賞するような事例がわかりやすいだろう。私たちは、美術館で絵画を鑑賞するとき、パッと見てよくわからない場合は、まずキャプションから読もうとする。その解説を見て絵画を解釈しわかった気になろうとするわけだ。
西田であれば、これは「美の体験」ではないというだろう。私たちは、事前に得た知識や、好き嫌いといった嗜好、慣れや習慣などを通して、事物を見たり体験したりしがちだ。だが、幾重にも重ねた色眼鏡を通してものを見てしまうがゆえ、「そのもの自体」を見ていないと西田はいう。「純粋経験」とは、こうした色眼鏡を一つひとつ取り外して「じかに観る」ということなのだ。自分と対象の間にフィルターを置かず、その体験そのものに身を浸してみること。そうすることで、私たちは世界の本質にもっと近づけるというのだ。
五十代も半ば近くになると、周囲の知人・友人たちも、部長やそれ以上のクラスの管理���を担っていることが多い。彼らの多くが、今、厳しい問題に向き合っているのだ。大きな企業ほど「大企業病」とでもいうべき病に苦しんでいる。
代表的な病は、管理部門の行き過ぎた肥大化である。知人・友人には、書籍やWEBメディア、映像などのコンテンツを制作する人や、学術界で働いている人が多い。だから、五十代で管理職といっても、フロントラインで働いている人が多いのだ。彼らと飲みにいくと真っ先に愚痴が出るのは、報告書や提出書類のたぐいがびっくりするくらい多いこと。このご時世、企業や研究機関への世間からの視線は厳しい。「コンプライアンスの順守」の名のもとに、それらに忙殺されて、肝心の学術研究や、コンテンツ制作に手が回らないことが多いというのだ。それに伴って、そうした報告書類を管理・処理する管理部門がどんどん大きくなっているという。実際に商品やコンテンツを作り、お金を稼ぐために最前線で戦っている彼らがそのことに注力できず、雑務に追われて疲弊してしまうという皮肉な現象……。まことに本末転倒なことが起こってるのだ。
それに追い打ちをかけるのが、全く現場のことを知ろうとしないトップや部門リーダーが、思いつきのような形で進めようとする「改革」という名の現場崩壊。それを支えているのは、たとえ現場のためにならない改革と分かっていても、自らの保身のために忖度しまくり、指令をそのまま説明もなくおろしてくるイエスマンの側近たち。
目先の成果が上がれば上に対してのよい報告の類になるから、勢い、短期的な成果ねらいの派手な商品や企画だけが尊ばれ、これまで企業や研究機関として大切に育ててきた、公共的な価値が高く、長期的なスパンでしか結果の出ない大事な仕事が次々に滅ぼされていく。結果、長らくその企業の商品やコンテンツを愛してきた人々が離れていってしまうのだ。
同世代のサラリーマンや研究者たちが直面している悩み、苦しみは、こんなふうにほぼ共通している。これは、今、日本全体を覆っている暗雲なのかもしれない。
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★名著の
・名著は現代を読む教科書である
・名著の予知能力とは、時代に向き合うことで生まれる普遍性
・囲い込みと資本によるコモンの解体
ex 天然水が商品化されるプロセス
・世界を変えるのは、認識か、行為か
三島由紀夫
・敵と共に生きる覚悟こそリベラリズム。野放図な自由ではない。オルテガ
熱狂を疑え
・社会学は、あなたのせいじゃないと言い続ける学問。岸政彦
・純粋経験
行為そのものになりきること。西田幾多郎
・諦めることは分断
答えが出ることは偏見
だから問い続けることが大切
・ペスト
ためらうこと。白黒つけすぎないこと。
内田樹
・スピノザ
「形」エイドスではなく、「力」コナトゥスを見るアナロジー。
意志への抵抗
欲望形成支援
体験の知
・ボーヴォワール
老いは我々を不意に捉える
講演で20分間沈黙した晩年のゲーテ
・ルボン
群衆は論理ではなくイメージ、幻想で物事を捉える
=広告
主語で語れ
★100分で名著の使命は「戦争をなくすこと」
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「難読名著の読み方」
自分は伊集院光のファンどころかやや崇拝しているところがある。
100分de名著のプロデューサーの手による著作で、番組で紹介された名著の背景など語られているが、冒頭の「ハムレット」の件だけでも読む価値はあると、個人的には思う。
ここでは伊集院が碩学の専門家をうならせる解釈を提示する。これを著者は「無知との遭遇」と表現していた。
伊集院はクイズ番組でも活躍しているが、高学歴の他プレイヤーに比べると、必ずしも博識とはいえない。ではなぜシャープな解釈が可能となるのか。
おそらく高度な内容を生活実感と結びつけられる地頭の良さによる物なのだろうと思う。
これは彼のバックボーンである落語(「初代」三遊亭楽大)のスキルやライフワークたるラジオへの情熱も関わっているのだろう。
経験の全てで文章を解釈するというのは、「難しい本を読むためには」(山口尚/ちくまプリマー新書)にも通じるものがあったと思う。
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とても中身が濃かった。名著から教えられること、今の時代だからこそ教えられることや学ぶべきことがたくさんあると思った。予知能力‥まさに。
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秋満さんはNHK Eテレ「100分de名著」プロデューサー。
「名著は現代を読む教科書である」現代の何が問題か、私はどう考え行動すべきか。しばしば自分の間違いを指摘され、考えを改める必要性を感じつつ読了。付箋だらけ!
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名著の予知能力 (幻冬舎新書 689)
「名窘」というものがもつ本質の一端である。この本に取り組むまでは、まだ漠とした感触でしかなかったが、はっきりと像が結ばれた。
「名著の予知能力」
そうか。私が日々戦慄をもって名著から感じ取っている力とは、「予知能力」ではなかったか。
いや、「予知能力」といいきってしまうとミスリードかもしれない。予知しているカのように見えるのは、先人たちが自らの直観を研ぎ澄まし、人間や社会の本質をつかみとろうとあがき続けたからこそ、獲得できた普遍性があるからだ。そして、人間の本質は、時代が名が流れても全く変わっていない。普遍性を獲得した名著は、繰り返される人間の愚かさや過ち、蛮行、憎悪のうねり、社会の歪みを炙り出してくれるのだ。
「予知能力」は、非日常な超能力だけを示す言葉ではない。誰もが少なからず使っている「未来を予見する能力」でもあるだろう。この解像度を上げていけば、自分がどうあるべきか、社会はどうあるべきかも見えてくるはずだ。名著にはそれを与えてくれる力が確かにある。これは私が今、身をもって感じていることだ。
第一章 それはテロリズムから始まった
科学によって創造されたものが、予期せぬ結果を導く。進歩は破局と不可分である。「批評理論人門」
「名著は現代を読む教科書である」
優生思想などに悪用され評判が悪いダーウィンだが、 実際読んでみると優生思想とは真逆で、生物の多様性の大切さを緻密な論理の積み重ねによって明らかにしていく、実にスリリングな
書物であることがわかった。
沼野さんの解説の中で、最も心に刻まれたのは、「ソラリス」という作品に「絶対的な他者と向き合うことの大切さ」というメッセージが込められているという指摘だった。
あらためて思う。「名著の予知能力」は、天から降ってきたような起常能力などではない。
著者が、世界の不条理と、人々を覆う憎悪と、人間存在を底から突き動かす闇と、社会にはびこる暴力や悪と、真向から向き合い、もがき、あがき、苦しみぬきながら、作品を紡いでいくからこそ、結果的に得られる「普遍性」のことなのだ。その「普遍性」があたかも現代の状況を予知しているかのように見えるのだろう。
マルクスは、空虚な希望を喧伝し何の根拠もないのにその実現への期待を煽るルイ・ボナパルトのこうした手法を「ナポレオン幻想」という概念で明らかにした。自分を「全ての階級の代表者」に見せかけて支持基盤を短期間で一挙に拡大していく巧妙な詐術のメカニズムを、暴き出していったのだ。
内田さんのいう通り、これは超一級のジャーナリストの筆ではないか。マルクスというと、がちがちな理論家というお堅いイメージだったが、正直この本にはぶっ飛んだ。今、まさに現在進行形で起こりつつある歴史的な事件について、さまざまな概念装置を駆使して、現象の裏にある明快な構造を見せてくれる。まさに「概念」の力を思い知らせてくれた。
高度な集中力が働いているとき、 不思議なことに、連鎖的につながっていくように幸運な出来事が起こる���とがある。あるいは逆なのかもしれない。集中力が高まっているからこそ、 一見関連性のないような出来事の間に、必然としか思えないような快連件を見出せるのかもしれない。年に1度あるかどうかの稀な体験だが、このときの私は間違いなく連鎖的な出来事の波に乗っていた。
第二章 名著を人生と接続する
「相手のことをきちんと知ろうともせずに、自分に都合のよいレッテルを貼りつけて、つるし上げる」「マイノリティの大たちの生き方や価値観を一切認めようとしない」「少しでも違う意見の人を敵とみなして徹底的に排除しようとする」「本来は非常に複雑でグラデーションでしか表現できない現実を、敵か味方かの二色で塗りつぶしてしまう」
ネットの世界炎上とか、現実社会での排外的な風潮などを見るにつけ、モンゴメリが描こうとした豊かな世界とは正反対のことが、あまりにも横行しているのではないかと危惧する日々が今も続く。
「赤毛のアン」から、私たちは、異なる価値観や個性を認め合い、尊重し合っていくためには何が必要かを学んでいかなければならない。
河合隼雄の素晴らしさは臨床心理学者としての専門性にだけあるのではない。河合の著作は、一つの「幸福論」としても読むことができるのだ。この発見によって、河合の著作が、私の人生にぐっと「接続」したような思いがした。私がこれまで困難にぶつかるたびに、無意識にやってきた読み方はこういうことではなかったか。
河合の文章は、一見、心理療法家向けに書かれているような少し専門的な著作でさえ、私たちの日常の人間関係や心との向き合い方に貴重な示唆を与えてくれるのだ。そして、その言葉の数々は、私たち一人ひとりがどうしたら「幸福」へ近づくことができるかというテーマにつながっている。
フルートのよい音色が「音のない音」に支えられているように、人間の幸福が深いりみをもつためには、その裏側で「深い悲しみ」によって支えられていなければならない。でなければ、その幸福は浅薄になってしまうというのである。ここには、河合隼雄が長年にわたって続けた洞察の一つの結論がある。それは、私たちが幸福を考える上で決して忘れてはならない「理」だと、私は心に刻んでいる。
名著には, 一見専門書と思えるようなものでも、 自分自身の人生と接続するような「フック」が必ずある。そして、そのフックによって名著が人生と接続されるとき、何かが変わり始める。
最後に 河合の幸招論が凝縮したその一文を引用して、この節を終わろうと思う。
幸福ということが、どれほど素晴らしく、あるいは輝かしく見えるとしてもそれが深い悲しみによって支えられていない限り、浮ついたものでしかない、ということを協調したい。恐らく大切なのはそんな悲しみのほうなのであろう。
平野さんの解説が秀逸だったのは、「金閣寺」には、三烏山紀夫の戦後体験が色濃く反映しているという指摘だ。戦前戦中の教育によって、三島は、天皇は絶対的な存在であり、国のために自らの命を捧げることが夏実の生き方だという思想に、身も心も染め抜かれていた。だが終戦が全てを変える。天皇は「人間宣言」し、 戦前戦中的価値観は全否定、民主主義の世の中へと激変��たのだ。
三島は、必死で戦後の世界に適応しようとするが、若き门に染め抜かれた思想からはそう簡単に脱却できない(というか、それは自らの血肉の一部とさえなっているものだ) 。戦時戦中の価値観、天皇を中心とする絶対的なものが、忽然と目の前に立ちはだかり、どうしても戦後という平板で退屈な世界にはなじめないという苦悩にさいなまれたのではないだろうか。
「命閣寺」は、いわば、物語の中でそうした矛盾にけりをつけ、戦後を新たに生き直す覚悟を込めて書いた作品とも読めるのだ。そんな視点で読むと、主人公・溝口は、三島の分身とも見えてくる。
この組織を辞めるという「行為」によって「会社人間」になってしまった自分をリセットするか、あるいは、組織に新しい価値を見出すという「認識の変化」によって、組織の中で生き直すことを考えるのか。ぎりぎりのせめぎあいの中で思索していたとき、ある出来事が起こった。
ある被爆者に取材交渉をしていたときのことだ。被爆者への差別もまだ根強く残っている中だったので、「取材したことやインタビューを放送しても大丈夫か」ということを念押しで確認した。断られても仕方がないとも思っていた。ところが、その人は、「平和のためになるんだったらむしろお願いして出させてもらいたいくらいです。原爆投下のような悲劇は二度と繰り返されてはなりませんから」と、力強く応えてくれたのである。
私は、このとき心の底から思った。「組織の論理ではなく、彼女のような人たちのために番組を作ろう」と。「組織のほうではなく、視聴者のほうを向いて仕事をする」という大きな価値観の軸を深く意識することができるようになったのだ。この経験は、 私をとても自由にしてくれた。いわば、「認識」を変え、その上で「行為」をよい方向に変えることができた。
最終的に、ヤマザキさんは、「砂の女」には、「自由とは何か」に対する正解が仆き込まれているわけではなく、人間を俯瞰的な眼からとらえた「視察日記」のようなもので、希望や絶望を読者に感じてもらうために書かれたものではないと結論づけた。この解説は、非常に納得のいくものだった。
第三章 全体主義に抗して
「也界最大の悪は、平凡な人間が行う悪なのです。そんな人には動機もなく、信念も邪心も悪魔的な意睬もない。人間であることを拒絶した者なのです, そしてこの現象を、 私は『悪の凡価さ』と名付けました」
映画「ハンナ・アーレント」の中で、学生たちを前にして、 毅然とした演説を行うアーレン卜の言葉。もちろん脚本家の手は入っているのだろうが、 彼女が著書「全体主義の起原」や「エルサレムのアイヒマン」で伝えたかったメッセージの一つが凝縮しているように思う。
私たちは、「悪」を見つめるとき、「それは自分には一切関係のないことだ」「悪をなしている人間はそもそもが極悪非道な人間だ。糾弾してやろう」と思い込み、一方的につるし上げることで、実は、安心しようとしているのではないだろうか? そう考えるとき、私自身にもアイヒマン的な部分があるのではないかと恐ろしくなってくる。
アーレントによれば、全体主義は、専制や独裁制の変種でもなければ、野蛮への回帰���もない。二十世紀に初めて姿を現した全く新しい政治体制だという。その生成は、国民国家の成立と没落、崩壊の歴史と軌を一にしている
国民国家成立時に、同質性・求心性を高めるために働く異分子排除のメカ二ズム「反ユダヤ主義」と、絶えざる膨張を求める帝国主義のもとで生み出される「自民族第一主義」のつの潮流が 十九世紀後半のヨー ロッパで大きく育っていく。
全体主義は、成熟し文明化した西欧社会を外から脅かす「野蛮」などではなく、もともと西欧近代が潜在的に抱えていた矛盾が現れてきただけなのだ。そして、この現象を支えている根が、私たち大衆一人ひとりの内側にこそ存在しているということも鋭く指摘する。
アーレントは、どんな批判にさらされても、その知的な誠実さを貫き通した。彼女は、古くからの友人のほとんどを「エルサレムのアイヒマン」出版を機に失った。どんなに孤立しても「考え続ける」という武器を決して手放すことがなかったアーレントの生き方、姿勢こそ、私たちが一番学ばなければならないことではないか
ハヴェルによれば、二十世紀後半に入り、全体主義は、消費社会の価値観と緊密に結びつく形で「ポスト全体主義」という新たな段階を迎えたという。強圧的な独裁ではなく、『精神的・倫理的な高潔さと引き換えにしてでも、物質的な安定を犠牲にしたくない」という人々の欲望につけこむ形で、高度な監視システムと個人の生を複雑に縛るソフトなイデオロギーをいきわたらせる社会体制。そこでは、市民たちは、 相互監視と忖按によって互いに従順になるように手を差し伸べあうことになる。
中島さんによれば、オルテガは、大衆は「みんなと同じ」だと感じることに、苦痛を覚えないどころか、それを快楽として生きている存在だと分析する。— 九世紀後半以降、急激な産業化や大量消費社会の波に洗われ、自らのコミュニティや足埸となる埸所を見失い、根無し草のように浮遊を続けることを余儀なくされたのが大衆という存在だ。
その結果、他者の動向に細心の注意を払わずにはいられなくなった大衆は、世界の複雑さや困難さに耐えられず、進んで一色に染まり始める。みんなと違う人、みんなと同じように考えない人は、排除される危険性にさらされ、差異や秀抜さをもった人たちも大衆たちの同質化の波に呑み込まれていく。
今の時代は、SNSなどの影響もあって常に熱狂しがちだ。ある事件が起こると、ざあっと一つのことに群がり、 時間がたつとあっという間に忘れてしまう。為政者たちは、そんな状況を利用しているのだ。そんな熱狂に翻弄される社会、熱狂を煽る為政者たちを、冷静に見つめて疑いなさいと、中島さんは西部さんに繰り返しいわれたそうだ。
三木が一貫して重視しているのは「知性」の力だ。もちろん感情や情念のようなものを三木が軽視しているわけではない。そういうものも大切にしつつも、彼はぎりぎりまで知性を駆使してみようと訴えている。たとえば以下のような文言。
感情は主観的で知性は客観的であるという普通の見解には誤謬がある。むしろその逆が一層真理に近い。感情は多くの場合客観的なもの、社会的なものであり、知性こそ主観的なもの、人格的なものである。
たとえば、 他人がこの番組が面白いといえば、なんとなく自分も面白そうだと思ったり、グルメサイトの口コミで多数の人がおいしいと書き込んでいれば、なんとなくそのレストランの料理をおいしく感じてしまう。感情というのはこんな風にたやすく煽られたり、空気によって左右されたりするものだ。三木は、これを「社会化されている」「客観」と表現しているのだ。
「感情を煽ることは容易だが、知性を炯ることはできない」
岸見さんは三木の知性に対する考えを一言に凝縮してこう表現してくれた。私たちは、ともすると、周囲の空気に流されてしまい、自分で考えることをやめてしまいがちだ。三木は、こうした状況を「精神のオ— トマティズム」と名付けて鋭く批判した。
第四章 発想の大転換
河合隼雄さんは「関連づけ」の天才だ。河合さんは、異質なもの同上の間に類似性を見出す術が凄い。だから私は河合さんの本を異質なテーマ同上の接着剤に使う。対する中井久夫さんは「徴候読み」の天才。河合さんとは逆に、中井さんは、普通は気づくことができない微細な差異を震えるような感性で感知する。類似した本の中から異なるテーマを見つけ出すのにうってつけだ。
私たちは、事前に得た知識や、好き嫌いといった嗜好、慣れや習慣などを通して、事物を見たり体験したりしがちだ。だが、幾重にも重ねた色眼鏡を通してものを見てしまうがゆえに、「そのもの自体」を見ていないと西田はいう。「純粋経験」とは、こうした色眼鏡を一つひとつ取り外し「じかに観る」ということなのだ。自分と対象の間にフィルターを置かず、 その体験そのものに身を浸してみること。そうすることで、私たちは世界の本質にもっと近づけるというのだ。
私にとっての本棚は、常に成長し続ける大樹のようなものだ。枝それぞれが思わぬ方向に伸び続け、互いに絡み合い、驚くべき樹形を形成していく。出会うはずのないものが出会い、自分の脳内だけからでは決してひっぱり出せないアイデアが生み出されていく。きっと考えているのは、私ではなく、本棚なのだ。
一年半ほど前、ご縁があって尊敬する故・吉本隆明さんの書斎にある本栅を見せていただく機会に恵まれた。恍惚の瞬間だった。そして、それは見事な大樹だった。枝ぶりを見ていくだけでも連想が連想を呼び興奮した。きっと、吉本さんも、そのときどきの興味に応じて本棚を編集し続けたに違いない。本棚はかくありたい。
第五章 名著のイメージを刷新する
鴻巣さんはご自身のことを「全身翻訳家」と呼んでいるが、全身で作品に没入し、最深部まで潜ってその細部を味わい尽くし、再び水面に浮上してきて、私たちが表面的にしか読めていなかった、作品の深部にある「宝物」を届けてくれる。私は、そんなイメージで鴻巣さんのお仕事を眺めている。だからこそ、常識を揺さぶるような「新たな角度」を提示できるのだ。「風と共に去りぬ」の解説には、そんな「宝物」がたくさんちりばめられていた。
小松左京という名前から、多くの人が「日本沈没」を思い浮かべ、スケールの大きなパニック小説などを手掛ける1/5ドエンターテインメント作家だと思われる人も多いかもしれない。だが、私の中では、物語の形をとえいながら、哲学的な思考を深めていく、戦後有数の大思想家というべき存在だった。
SFという文学の奥深い可能性について、番組テキストではこんな風に語られている。
世界の存在理由、宇宙の存立構造を解き明かすことで個々の実存の意味を定める、という古来「神話類」が果たしてきた役割を、近現代において担ってきたのはなのです。元来、広義の文学は神話説話や宗教叙事詩を含み、かかる機能性を具備していたのですが、近代文学の成立とともに「神話類」が駆逐されてしまいます。近代において「神話類」が退場した後の空位を、「サイエンス」やテクノロジーのリアリティを用いながら占めていったのがSFだったのです
「ちっぽけな人間として無限に問い続けよ」
それが小松左京が私たちに遺してくれた遺言ではなかったか?小松は、かつて文学についてこんな風なことを言っていた。
人間は、文学、物語というものをどうして編み出したのか。やはり何か人間性の大きな肯定が、 文学を志すものの基本的な心構えの中に要るだろうと思うんだね。
小松は、何度もこうした挫折にぶっかりながらも、心の底の底には、「人間性への圧倒的な肯定」が脈打っていたのではないか。
植木さんの中では「釈迦から法飛経から日蓮へ」という流れが、根的において、はっきりと通底しているようだ。それら全ての思想は「あらゆるいのちの絶対的平等性」という思想的水脈でつながっているという画期的な視点だった。
日蓮は、生と死が生命の二つのあり方であると考えた。波が生まれたり消えたりしても波そのものがなくならないのと同じように、人間はあるときは生きているというあり方をとり、あるときは死というあり方をとるだけで、その人の「生命本体」は一貫していると日蓮はいう。
第6章 時代を見つめるレンズの解像度を上げる
あまりにも鮮烈な言葉に講師の小説家, 小野正嗣さんは、「伊集院さん、もう一回いってください」と思わずお願いをした。そこに重ねるように伊集院さんは語ってくれた。
「『諦める』ということは、『この人のことをもう知らなくていい』ということなので、完全な分断だと思うんです。そして、『答えが出た』ということは、そこで」偏見』が完成することだと思う。だから、一番大切なことは、『問い続ける』ことで、『よかれと思っていったことがもしかしたら傷つけているかもしれない。じゃあ、こういういい方をしたらどうなんだろうか』と思い続け、自分をバージョンアップし続けることではないでしょうか」
「自分が善であることを疑わず、自分の外側に悪の存在を想定して、その悪と戦うことが自分の存在を正当化すると考えるような思考のパターン」こそ、当時の私が陥っていた罠だった。
この現実には完全に正しいことも完全な間違いもない。それなのに、この世界を褂と悪、白と黒に塗り分け、自分を正義の側に检き、邪悪な存在を「外側」につくり出して糾弾をし続ける精神のありよう。それこそが「ペスト」という象徴を使って、カミュが指し示そうとしたことだったのだと気づいた。そして、自戒を込めて思うのだが、「ペスト」が暗示したこのような精神のありようは、今、世界やこの国にも蔓延している。
喫緊の問題として、「新自由祝儀」の影響下で、私たちが陥っている「自己責任論」「エビデンス至上主義」「効率第一主義」といった新自由主義マインドセットをなんとか解体し、そこから抜け出す方法を模索したい。そんなことをずっと考え続けていた。
ヒントを与えてくれたのは、十七世紀の哲学。スピノザ「エチカ」だった。この^ 学の解像度をぐっと上げてくれたのが、哲学者の國分功一郎さんである。
スピノザは、本質を「カ」と見ることでこれまでとは違った見方を提示するのだ。人間もそうした視点でとらえると、あらかじめ決められた「形としての本質」を目指すのではなく、それぞれの特性に合った「カ」の伸ばし方を貯えるべきだという発想に変わっていく。スピノザの哲学によって、本質を「カ」として見る大きな可能性に気づかされた。
國分さんは、現代は「意志という神話」に縛られてしまっている、という。これは、「人間は意志次第でどんな行動も決定できる」という神話だ。いわゆる「自己責任論」の一種だ。
何もないところに「自由意志」が立ち上がって全てを決めたのではないのだ。「意志」というものは、数多くあるさまざまなファクターのたかだか些細な一つにすぎない。それを絶対視すると人間の行為のありかたを見誤ってしまう。こうした観点がスピノザの哲学から導きだされるのだ。
こうした見方は、現在、精神医療の最前線でも大きな注目を集めている。たとえば「アルコ—ル依存症」などの症例に対して、意志が弱いから断酒の意志を強くもたせようといつた「意志形成支援」というアプローチから、さまざまな原因のからみあいをきちんと見つめ、それを解きほぐしていき、よい方向へと欲望を立ち上げることで症状を緩和していこうとする「欲望形成支援」という新たなアプローチへ、ベクトルを変えていこう
という動きも現れているとのこと。
スピノザの哲学に則っていうならば、体験自体が明々白々と真実性を語るような知のあり方が、近代科学的エビデンスや数値的情報の一方で、確かにありうるのだ。スピノザの皙学を読み解いていくと、近代が切り捨ててきた「体験という知」のあり方が浮かび上がってくる。そうした知のあり方は、デカルトに発する、「数値」「データ」といった他者と共有できる根拠のみを真理の判定基準とした知のあり方を決して否定するものではない。ただ、私たちが選んだ近代が、知の対象とはできないものについて、スピノザは、新たな真理の判定基準を提示してくれているのだと思う。
第七章 メディアの足元を見つめ直す
社会全体が「単純化」「わかりやすさ」のみに覆われ、またたく間に染め上げられていくことの恐怖。だが、これは全く他人事ではない。テレビ番組が日常的に行っている手法は、ル・ボンが分析した「単純化の論理」と酷似しているという。
さまざまな社会問題について、専門家と称する人物が登場し、大切なポイントを、ごく短い言葉で箇条書きにしてボードで示す。このポイントは議論の入り口であるべきで、本来ならここから議論を始めていく出発点のはずだ。ところが、多くのケースで、「なるほど! 」「わかりやすい! 」という雛壇芸人たちのリアクションを拾って番組は終了していく。この箇条書きがゴール地点になってしまっているわけだ。砂鉄さんは、今、自分たちの目の前にある「わかりやすさ」というのは、議論を閉じる方向の「わかりやすさ」になってしまっているのではないかと指摘していた。
ル・ボンは、群衆心理が為政者や新聞・雑慈等のメディアによってたやすく扇動されてしまうことにも警告を発する。政治家やメディアは、しばしば、粘緻な静理などを打ち捨て、「断言」「反復」「感染」という手法を使って、群衆に「紋切り型のイメ ージ」のみを流布していくという。
インターネットをはじめとしたメディア全般にいえることだが、少しでも異なる意見を語ると「敵対勢力」として罵倒され排除されるという風潮が蔓延している。断言と反復による「敵—味方の単純図式」の感染だ。こうした現代の状況が「群衆心理」によって分析された事例とほとんど重なりあう。
著者のリップマンによれば、私たち人間は外界の情報をそのまま受け入れていないという。
あまりにも情報が多く複雑な世界を、自分たちがもっている既存の枠組みを使って整序し、単純化してとらえているというのだ。
「疑似環境」や「也論」は、通常は実体のないふわふわしたものであり、寄せては返す波のように移ろいやすく不安定なものだ。しかし、これを一定の形に固定化するものがあるという。それが「ステレオタイプ」だ。
読者のステレオタイプにある程度応えるような記事でなければ新閒は売れないし、時間的・空間的な制約の中では、記が内容をある程度図式化(それも記苫たちがもつステレオタイプに応じて) しなければ、新聞経営は回っていかない、というわけだ。
終章 名著の未来
本当に面白い番組は深夜番組の中にあると誰かがいっていた。その番組に人気が出て、ゴールデンタイムに昇格した瞬間つまらなくなるとも。最大公約数の人たちに視てもらうという「スケール」を目指すことで、 切り立つようなエッジがそがれていき、誰にでもわかるような凡庸なセンスが番組全体を覆い始める。安定して視聴率を稼げる番組は、判で押したように型にはまってしまうという。
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タイトルと目次見た段階でのある程度の推測は「結局歴史は繰り返すっていうか、人類は学習しないから同じ事や同じ失敗やらかすから、それが名著に予言として現れてるんだろうな」みたいな先入観で読み始めた。
まあその予想としては概ね外れてるとは思わないけど、基本的に「プロデューサー目線の100分de名著」をやってる。
端的にはそういうことだけど、それがつまらないかといえば流石に裏方でもエンターテイナーだなぁと。
中でも「赤毛のアン」「アルプスの少女ハイジ」「ピノッキオの冒険」は、見下してる訳じゃないけど多分今後手に取らなかった部類の本だと思うが、俄然読みたくなった。
てか、この番組面白そうだなぁ。配信か本で読んでみようかな。
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金閣寺も、華氏451度も、星の王子さまも、砂の器も…
100de名著のプロデューサーが企画の舞台裏を話す本
読んで強烈に思った。やっぱりわらしべ長者だ
行き当たりばったりでも、目の前のことを頑張ってたらなんとなく道は拓けるんやなと思った
良い本だったな
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感想
歴史は繰り返す。細部は変化しているが核の部分はずっと同じ。名著はそこを撃ち抜く。小説だろうと哲学書だろうと。ヒントはそこにある。