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投稿者:ライル - この投稿者のレビュー一覧を見る
様々なテーマを通して、著者自身の実際の体験やエピソードを例に挙げて「人間とはなにか」「組織とはなにか」「マネジメントはなにか」について教養を深めることができた。
「生き方」指南の本
2023/08/20 16:28
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投稿者:キック - この投稿者のレビュー一覧を見る
田坂氏の長年の経験の中で培った「生き方」指南の本。教養の身に付け方ではないので、ご注意を。心の「エゴ」の処し方として、そのエゴを静かに見つめることが肝要と繰り返し主張されているのが印象に残りました。私が感銘を受けた箇所は以下の通りです。「人は必ず死ぬ」「人生は一度しかない」「人生はいつ終わるか分からない」という真実を覚悟を定め直視する。幸運は不運の姿をしてやってくる。苦労の経験がないと共感力は身につかない。困難な課題に突き当たった時、巧みに逃げても次の場所で同じ課題につきあたる。考えて、考えて、考え抜く。
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生き方の視点を縦横無尽なテーマから。
◯三つの深化
・「専門の知」から「生態系の知」へ
・「言語の知」から「体験の知」へ
・「理論の知」から「物語の知」へ
◯「経験」に依拠した社会科学だけでは未来が見えない時代、「想像」に依拠した文学に新たな役割
◯「大我」は「無我」に似たり
エゴを受け入れ、広げる
◯人格育成のために、複数の先達に私淑する
◯「この危機はいつ終わるか」ではなく、「この危機は我々をどう変えるか」をこそ、問うべき
◯「結果」に過ぎないものを「目的」とする誤り
イノベーションを求めない
◯「賢明なもう一人の自分」の存在を自覚する
◯「知の生態系」を築き、自身の思想を持つ上で、専門の垣根、ジャンルの垣根を超える
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田坂先生。
ありがとうございます。
磨くシリーズの次巻、心待ちにしております。
人生で起こること、全て良きこと。
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【ひぐ的2023夏休み課題図書②】
書店で本書を買うか否か?暫く悩んだ。著者→知らない(今思えばアンテナが錆びついてた)。タイトル→ちょっと胡散臭い。買う決め手となったのは、副題の「21世紀の新たな教養とは何か」と、著者;田坂広志さんの多彩な経歴だった。
結果、買って良かった!久しぶりの五つ星(最高評価)☆彡知の巨人ともいうべき知識・情報量と、深くて広い経験に裏付けされた名言・格言の数々。税込1,012円は安過ぎる。他の著書も読んでみよう。
特に響いた言葉↓
「否定も肯定もせず、ただ、静かに見つめる(p44)」
「人生で起こること、すべて良きこと(p330)」
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教養を磨く 宇宙論、歴史観から、話術、人間力まで (光文社新書 1263)
真の「教法」とは、本来、多くの本を読み、様々な知識を学ぶことではなく、そうした読書と知識を通じて、「人間としての生き方」を学び、実践することである。だが、残念ながら、現代の「教養論」においては、しばしば、そうした「生き方」という大切な視点が、見失われてしまっている。
現代においては、この「教養」ということの前提条件、「書物を通じて学んだ、様々な専門分野の、該博な知識」に、 大きな「三つの変化」が起きているからである。では、その「三つの変化」とは、何か。
第一は、「該博な知識」に関する時代の変化である。「該博な知識」だけなら、もはや、人間はAIには絶対に敵わない時代を迎えているのであり、AI革命が、「該博な知識」を持つことの価値を、大きく低下させてしまったのである。
第二は、「書物を通じて」に関する時代の変化である。「活字メディア」である吾物よりも、「マルチメディア」である。映像や動画を通じて情報や知識を手に入れる人々が増えているのである。
第三は、「様々な専門分野」に関する時代の変化である。現代においては、専門分野の難しい本を読まなくとも、テレビの教養将組やドキュメンタリー映画、さらには、動画などを通じて、 専門分野の学びができるようになっている。ときに、漫画やアニメを通じても「深い学び」ができるようになっている。
これらが、現代において、「教養」の前提条件に生じている大きな「三つの変化」であるが、その結果、この「三つの変化」が、これから、「教養」の在り方に、次の「三つの深化」を求めるようになると、筆者は考えている。
第一の深化は、「専門の知」から「生態系の知」への深化である。人間の価値は、様々な専門知識を持っていることではなくなる。では、「知識」が人間の価値でなくなるのであれば、何が価値となるのか。「知の生態系」である。
第二の深化は、「言語の知」から「体験の知」への深化である。映画やテレビや動画は、「実際の体験」ではないが、マルチメディアによる迫力ある「疑似体験」や「仮想体験」が得られるものであり、それは、活字メディアよりも、 圧倒的に視聴覚に訴えてくるものである。
第三の深化は、「理論の知」から「物語の知」への深化である。「言語の知」から「体験の知」への深化が進むにっれ、例えば「人間とは何か」「組織とは何か」「社会とは何か」を学ぶとき、単なる抽象化された「理" 剛」として学ぶよりも、具体的な生きた「エピソード」や「物語」から学ぶことが主流になっていくだろう。
第一部 哲学の究極の問い
社会科学とは、無数の人々の桀まりである一杜会」の過去の変化や発展、進歩や進化の姿を、歴史のスケールやマクロな視点から観察、分析、者察し、そこに何らかの「法則」や「理論」を見出し、その法則や理論から人類社会の未来の変化を見出し、それに、いかに処すべきかを洞察する営みであるとも言える。
人間関係の問題を貞に解決するために求められるのは、やはり、人間の心の「エゴ」に処する力であり、それは、究極、「二つのカ」である。
第一は、「相手のエゴに処するカ」であるが、その力を身につけるためには、まず、「相手のエゴの思いや叫び」を理解する力を身につけなければならない。
しかし、人間関係の問題を真に超えていくためには、この第一のカだけでは、 不十分である。
それが、第二のカ、「自分のエゴに処するカ」であり、この力を、我々は功につけていかなければならない。
ただし、それは、世の中でしばしば安易に語られる、「エゴを捨てる」ことや「我欲を捨てる」ことではない。
その厄介なエゴに、どう処すれば良いのか。その方法は、昔から、ただ一つであるとされている。
否定も肯定もせず、ただ、静かに見つめる。
実は、この扱いにくく、厄介な「エゴ」に処する、もう一つのガ法がある。それは、エゴを「大きく育てる」ことである。
我々が、その「大我」への道を歩むならば、いつか、我々は、 古来語られる、あの言葉が真実であることに気がつくだろう。「大我」は「無我」に似たり。
「私淑」をすると、何が起こるのか。
「似てくる」のである。ある人物の能力や才能を、本気で学ぼうとすると、 自然に、自分の喋り方や仕草、雰囲気が、その人物に似てくるのである。それは, 自分の中から、その人物に似た「性格」や「人格」が引き出されてくると言っても良い。
「学歴的能力」よりも高度な「三つの能力」を員につけることである。
第一が「職業的能力」。これは、書物で学べる「専門的知織」ではなく、経験を通じてしか掴めない「職業的智恵」のことであるが、この能力を身につけていくため亿は、まず 、スキルやテクニック(技術, 技能) を身につけ、加えて、ハートやマインド( 心特・心榊え) と呼ばれるものを身につけ、磨いていかなければならない。
第二が「対人的能力」。もとより、その中核は「コミュニケ—ションカ」であるが、特に、言葉以外の眼差しや表情、仕草や姿勢、空気や雰囲気などを通じてメッセージ交換を行う「非言語的コミュニケーション力」を磨いていかなければならない。
第三が「組織的能力」。特に、これからの高度知識社会では、メンバーの心を支え、人間的成長を支え、その知的創造力を引き出す「心のマネジメント」や「成長のマネジメント」「支援型リーダーシップ」の力を身につけなければならない。
しかし、この「三つの能力」の根本にあるカは、やはり「人間カ」と呼ばれるもの。不思議なことに、この最先端の革命がもたらすものは、懐かしい価値への原点回帰に他ならない。
「死生観」を掴むとは、いかなることか。
それは、人生における三つの真実を直視することである。
「人は、必ず死ぬ」
「人生は、一度しかない」
「人生は、いつ終わるか分からない」
その三つの真実である。
では、なぜ、この三つの真実を直視することが、経営者にとって、 大成への道となるのか。その理由は、その直視によって、我々に、三つの力が
えられるからである。
第一に、人生の「逆境カ」が高まる。
第二に、人生における「使命感」が定まる。
第三に、人生の「時間密度」が高まる。
仏教者の紀野一義師は、若き日に、「明日死ぬ、明日死ぬ、明日自分は死ぬ」と思い定め、その日一日を精一杯に生き切るという修行をした。
もし、我々が、本気で、この「明日死ぬ」の修行をするならば、日々の風景が変わる。そして、人生が、変わる。しかし、我々の弛緩した精神は、それを頭で理解するだけで、決して行じようとはしない。
プロフェッショナルの「奥義」とは何か
一つは、プロフェッショナルが高度な能力を習得するとき、玲につけた個別の技術が、「全体性」を獲得する瞬間があるということ。
もう一つは、その瞬間は、「技術の在り方」ではなく、「心の置き所」と呼ぶべきものを掴んだとき、訪れるということ。
「心の置き所」に目を向けることは、自身の心の中の不安感や恐怖心、 傲慢さや驕りに目を向けることであり、それは、自身の心の中の「小さなエゴ」の姿を直視する、痛苦なプロセスでもあるからである。
それゆえ、心の中に、その「小さなエゴ」を静かに見つめる「賢明なもう一人の自分」が生まれてきたとき、我々は、プロフェッショナルの「奥義」の一端を掴み始める
31歳のときには、生死の境の大病を患い、文字通り、地獄の底を這うような苦渋の体験を与えられた。しかし、そのお陰で、30代という若さで、 揺らがぬ死生観を定めることができ、「いま、この瞬間を生き切る」という生き方と、「いつ死んでも悔いが無い」という覚悟を掴むことができた。
もし、我々の人生が「大いなる何か」に導かれているのであれば、 人生で与えられる様々な出来事には、すべて、深い意味がある。
「解釈力」とは、その意味を考え続ける力に他ならない。
そして、 我々が、この「解釈カ」を身につけ、どこまでも深めていくならぱ、いつか、次のが真実であると感じる日が来るだろう。
人生で起こること、 すべて良きこと。
第二部 科学と宗教の対立を超えて
どのような芸事も「守・破・離」の三つの段階、すなわち、まず基本の型をしっかり覚え、次に、その型を崩していく段階があるが、技を磨くとき、残念ながら、「守」の段階で満足し、 留まってしまう職業人が多い。
しかし、実は、その先の段階にこそ、プロフェッショナルの世界の味わいがあり、真の個性の開花がある。
これら先人の姿が教えているのは、我々人間の誰もが、その心の奥深くに、想像を超えたカを宿しているという事実。
はたして、ピカソは、「創造性」を身につけたいと思っていただろうか。おそらく、ピカソの心の中には、「創造性」という言葉は無かった。
そして、彼の作品の中に人々が感じる「創造性」は、彼にとっては、全身全霊での自己表現の、単なる「結果」にすぎなかった。それは、彼にとって、決して「目的」ではなかった。それが真実であろう。
しかし、それにもかかわらず、我々は、いつも、過ちを犯してしまう。「結果」にすぎないものを、「目的」にしてしまう。
昔から役者の世界では、「良い演技をするためには、役を演じている自分と、それを静かに見つめているもう一人の自分がいる」と語られてきた。
「重い言葉」を語るとき、自分��人間としての「重量感」と「精神のカ」が無ければ、その言菜は相手に届かず、相手の心に粹かない。
それは、あたかも〃砲丸投げ〃に似ている。重い砲丸を投げようと思っても、自分にそれなりの重量と体力が無ければ、砲丸を力強く投げることもできず、遠くに投げることもできないのである。
究極、「言葉の重み」とは、背負ってきた「体験の重み」なのである。
近年、量子脳理論や見子生物学など、最先端の量子科学が、 人間の「意識」の間題に全く新たな光を当てつつあるが、これから、21紀の科学は、 宗教の価値観と版徊をも包摂する「器の大きな知の体系」へと、進化を遂げていくことになるのではないか。
学者としてだけでなく、数多くの心理カウンセリングの経験を積んでこられた河合集雄氏。「謙虚さ」について語られた言葉が、いまも心に残っている。
人間、自分に本当の自信がなければ、謙虚になれないのですよ。
氏は、冒頭の言葉に続き、次の言葉を語った。
人間、本当の強さを身につけていないと、感謝ができないのですよ。
「成長の壁」に突き当たっている人材の多くは、この「我流の落し穴」に陥っているのだが、その根本には、心の中の「頑迷なエゴ」がある。
すなわち、「我流」の「我」とは、「自我」の「我」、「頑ななエゴ」に他ならない。
第三部 「戦略的反射神経」の時代
この第四次産業革命によって必然的に生じる「雇用の喪失」を避けるには、どうすれば良いのか。どうすれば「所得の向上」を実現できるのか。
答えは明白である。
そのためには、労働者の「能力の向上」をこそ図らなければならない。
第一は「マネジメント」の能力である。人間に残される高度な仕事は、メンバ— の成長を支える「成長のマネジメント」や、メンバーの心を支える「心のマネジメント」になっていくだろう。
第二は「ホスピタリティ」の能力。人間に求められるのは、「非言語的コミュニケーション能力」、すなわち、顧客の無言の传に耳を傾け、相手の気持ちを察し、細やかに対応する高度な能力に基づく、極めて洗練されたホスピタリティ能力である。
第三は「クリエイティビティ」と呼ばれる能力。誰もが身につけ、発揮できる創造性とは、 人間集団の中にあって、その集団の「集合知」を活性化させ、その集団から新たなアイデアやコンセプトが生まれてくることを促せる能力、いわゆる「ファシリテーション能力」と呼ばれるものである。
なぜ、「自分に似ている人を、嫌いになる」、もしくは、「嫌いな人は、自分に似ている」ということが起こるのか。
これは、我々人間の心には、「自分の持つ嫌な面を持っている人を見ると、 その人に対する嫌悪感が増幅される」という傾向があるからである。
そのため、「嫌いな人」の嫌いな部分を深く見つめるならば、自分の中にある嫌いな部分と同じであることに気がつく。すなわち、「自分に似ている」ということに気がつくのである。
これを、心理学の言葉で表現するならば、他者への嫌悪の感情は、しばしば、自己嫌悪の投影である。という言葉になる。
昔から語られる「相手の姿は、自分の心の鏡」という言葉は、この���間心理の機微を語った言葉でもある。そして、「他者への嫌悪の感僧は、 しばしば、自己嫌悪の投影である」ということを理解するならば、 我々は、もう一つ大切なことを理解しておく必要がある。自分の中にある欠点を許せないと、同様の欠点を持つ相手を許せない。
日本画の巨匠、 束山魁夷氏。氏は、若い頃、なかなか自らの才能を開花させることができず、世の評価を受けることもできず、苦悩の時代を過ごしていた。
しかし、運命であろうか、氏は太平洋戦争の末期、軍隊に召集され、熊本の地で、爆弾を抱えて敵の戦車に体当たりする特攻隊の訓練を受ける。そうしたある日、氏は、熊本城の天守閣から肥後平野の風景と、 遠く阿蘇の風景を見て、涙が落ちるほどの深い感動を覚える。そして、その感動の中で、東山氏の心には、切なる思いが湧き上がってくる。
「これを、なぜ描かなかったのだろうか。いまはもう、絵を描くという望みはおろか、生きる希望も無くなったというのに、もし万一、再び絵筆をとれる時が来たなら、恐らく、そんな時はもう来ないだろうが、私は、この感動を、 いまの気持ちで描こう」
ジョブズの才能に憧れる人は多いが、死を直視した彼の生き方に学ぶ人は少ない。
なぜなら、死を直視することは、苦痛を伴う営みであり、決して容易なことではないからである。それゆえ、ある文化人類学者は、「人類の文化は、すべて、死を忘れるために生まれてきた」との極言さえ遺している。
いま、「人工知能革命によって生き残れる人、 生き残れない人」といった議論が世の中に溢れているが、その議論の前に我々が定めるべきは、
「人工知能技術」(AI)の本質は「知能拡張技術」(IA) に他ならないという認識であろう
これからの人工知能革命の時代において、我々が定めるべきは、「人間の能力は、最先端の科学技術をもってしても、測り尽くせぬほどの奥深さがある」という、深遠な人間観に他ならない。
「戦略的反射神経」とは、永年の体験から生み出した筆者の造語であるが、目の前の現実が予想外の展開をしたとき、 状況の変化を瞬時に判断し、速やかに戯略を修正しながら、その新事業を前に進めていく能力のことである。それは「論理思考」ではなく「直観判断」の能力であり、「身体感覚」と呼ぶべきものである。
筆者は、この時代に求められる戦略思考を、「波乗りの戦略思号」と呼んでいる。すなわち、サーフィンというスポーツが、刻々と変化する波を、反射神経によって乗りこなしながら、目的の方向に進んでいくものであるように、これからの時代の戦略思考は、「職略的反射神経」による「波乗りの戦略思考」に向かっていく。
戦略思考とは、身体感覚と直観判断を駆使した「最高のアート」である。
人生と仕事において、苦労や困難、失敗や挫折を味わいながらも、この「解釈力」を身につけ、「引き受け」の覚悟を定め、道を歩むとき、いつか、自分に一つの「強さ」が身についていることに気がつく。静かな強さ。それは、「誰かに勝つ」「競争に勝つ」という強さを超えた、人間が、 その人生を通じて身につけていくべき「真の強さ」に他ならない。
「あの最後の挨拶で、社長は、ただ社貝を褒めていただけですね。それが、なぜ、 あれほどの熱気になるのでしょうか? 」
その問いに対して、社長は、和やかな表情を崩さず、笑いながら一言、こう言った。
「いや、 社員を褒めるのも、命懸けですよ!」
筆者は、その一言で、マネジメントにおける、最も大切なことを教えられた。部下を褒めるとき、「タイミング」や「ポイント」などを超え、 最も大切なことがある。それは、どのような「思い」を抱いて褒めるかである。
第四部 「フォース」を使う技法
これから我が国がめざすべき「新しい資本主義」とは、いかなるものか。
そのことを考えるとき、我々が思い起こすべき、大切な言葉がある。
「いかなる問題も、それを作り出した同じ意識によって、解決することはできない」
このアインシュタインの言葉のごとく、「現代の資本主義」を生み出した「現代の経済学」の考え方の延長では、「新たな資本主義」を構想することはできない。
ネット革命以前には、経済活動を「利益迫求を目的とする営利活動」と「社会貢献を目的とする非営利活動」に分けて理解する傾向が強かったが、ネツト革命の進展によって、この利益追求と社会貢献の二つの活動が融合し、マネタリー経济とボランタリー経済が融合した「ハイブリッド経済」と呼ぶべきものが生まれているのである。
人生というものの真実を深く見つめるならば、「いかに密度の濃い人生を生きるか」こそが、大切であろう。それは、なぜか。
我々は、人生の「長さ」は決められない。
しかし、 人生の「密度」は決められる。
それが人生の真実だからである。
人間、いつ死ぬかは、いずれ、天が決めること。
昔から「病上手の死に下手」「病下手の死に上手」という言葉がある。
いつも病気がちの人間が、思いのほか長く生きることもある。全く病気をしない元気な人間が、突如、その人生を終えることもある。そのことを教える言葉である。
一人の人間の「人生の長さ」は、いずれ、天が定めるものであろう。
しかし、「人生の密度」、いま与えられたこの時間を、どれほど密度の濃い時間として生きるかは、人間が決めることができる。我々自身のその時間に処する覚悟によって、「時間の密度」は、どのようにでも変わる。
羽生棋士は、かつて七冠を獲得した直後のテレビでの対談において、若手哲学者に「対局中、どういう心境なのですか? 」と聞かれ、こう答えている。
「ええ、将棋を指していると、ときおり、ふっと『魔境』に人りそうになるのです」
この「魔境」とは、心理学用語で言われる「変性意識状態」のことであり、直観力や洞察力、大局観など、人間の高展な能力が発抑される意識状態のことである。
そして、この「変性意識状態」に入るための一つの道が、ここで述べた「考えて、考えて、考え抜く」という論理思考に徹する技法であるが、もう一つの道が、論理思考の対極にある、座禅や眼想という古来伝えられてきた技法である。
されば、この二つの道を同時に歩むとき、何が起こるか。そのとき、我々の能力に、想像を遥かに超えた変化が起こる。
しばしば、世の中では、「悟り」とは、永い年月の宗教的な修行を経て、���後に到達する永続的な境涯であると思われている。
しかし、そうではない。「悟り」とは、自分の心を静かに見つめる「もう一人の自分」が現れている瞬間を言う。その「覚靜」の状態を言う。
もとより、「党者」と呼ばれるような永年の修行を経た人物は、その「もう一人の自分」が、瞬間ではなく、常時、現れている境涯に達している。
優れた古典とは、一人の人間が、未熟さを抱えながら、どのようにして高き頂きに向かって山道を登っていったかを語ったものである。
そして、我々の胸を打つのは、人間としての未熟さと弱さを抱えながらも、ひたすらに成長を求めて歩み続けた、その姿であり、自身の歩みの遅さに、ときに天を仰ぎ、溜め息をつきながらも、決してその歩みをやめなかった姿であろう。
古典を通じて我々が深く学ぶべきは、登るべき「高き山の頂」だけではない。その頂に向かってどのように歩んでいくか、その「山道の登り方」を学ぶべきであり、山道を登るときの「心の置き所」をこそ、学ぶべきであろう。
我が国において何度か繰り返されてきた「政治ドラマ」、すなわち、「英雄後望論」の心理に基づいた「劇場型政治」と「観客型民主主義」が、結局、 根本的な変革を成し遂げ得なかったことも冷厳な事実であろう。
かつて、ドイツの劇作家、ベルトルト・ブレヒトが、その作品『ガリレイの生涯』の中で、ガリレオ・ガリレイに語らせた営葉が、深く心に響いてくる。
英雄のいない国が、不幸なのではない。
英雄を必要とする国が、不幸なのだ。
「直視は過たない。過つのは判断である」という言葉が正しい警句であることは体験的に分かっている。しかし、いざ、難しい現実の問題を前に、 自身の直観を信じて決めようとすると、情報と分析による判断が邪魔をして、それができない。
なぜ、経営者やリーダーに、志や使命感が求められるのか。
それは、志や使命感を深く抱くとき、自然に心が透明になり、 静まっていくからである。
そして、そのとき「大いなる何か」の声が聞こえてくるからである。直観力とは、その声を聞く力に他ならない。
「知能」とは、「答えの有る問い」に対して、いち早く、正解に辿り若く能力のこと。
「知性」とは、その全く逆の能力、「答えの無い問い」を、間い続ける能力のこと。
答えなど得られぬと分かっていて、 なお、それを問い続ける能力のことである。
そうであるならば、これからの「人工知能」の発達は、我々人間に、さらに深い「知性」を求めることになるのであろう。
「分節化」とは、ある言葉を語った瞬間に、本来一つであった世界を二つに分けてしまう作用である。例えば、 良いと悪い、 正しいと間違い、美しいと醜いなど、二項対立的な言葉のうち、「良い意味」の一方の言葉を語ると、人間の心は、 その対極の言葉を想起する「双極性」を持つため、必ず、もう一方の「悪い意味」の言葉が心に浮かんでしまうのである。
「褒めるマネジメント」が推奨され、部下を褒めることは良いことと思われているが、褒めるときには、こうした「言葉の怖さ」と「心の機微」を深く理解しておくべきであろう。もし我々が、「心の機微」のマネジメン���を適切に実践したいならば、預かる部下の「機」を判断する能力を磨かなければならない。
「人間の心」というものを学ぶための「最高の教材」がある。それは、「自分の心」である。
例えば、成功や失敗、勝利や敗北、順境や逆境、幸運や不運、希望や不安、高揚や落胆、そうした様々な状況において、「自分の心」がどう揺れ動いているかを、 静かに観察すること。
その「内観」の習慣を持つと、「人間は、こうした状況で、こうした心境になるのか」「こうした言葉を言われると、こういう気持ちになるのか」ということを、深く掴むことができる。されば、自分が部下である時代に、様々な状況で、「自分の心」を見つめること。その深い体験知こそが、上司となったとき、「心の機微」のマネジメントを、 素晴らしい形で開花させるだろう
第五部 「ポジティビズム」の時代
この統合的, 超越的な人格が心の中に生まれてくると、3つの意味で、我々の才能と能力は、さらに大きく開花していく。
第一は、 この「賢明なもう一人の目分』が現れてくると、自分の心の中の「エゴ」の働きを静かに見つめることができるようになるため、あまりエゴや感忻に流されることがなくなり、自然に、「対人的能力」が高まり、人間関係が好転していく。
第二に、その結果、エゴや感情に振り回されない静寂な心の状態が生まれてくるため、難しい問題に処するときの「直観カ」が鋭くなっていく。
そして、第三に、その直観力が鋭くなると、人生の様々な岐路において、選択を過たず、「運気」を引き寄せる力が高まっていく。
すなわち、自分の中に「様々な人格」を育てることは、こうした高度な能力を覚醒させることであり、自分の中に眠る「想像を超えた可能性」を開花させていく、究極の技法に他ならない。
真の「ポジティビズム」とは、人生において起こる出来事を「ポジティブな出来事」と「ネガティブな出来事」に、二項対立的に分け、そのポジティブな出来事だけが起こることを望むという心の姿勢ではない。
真の「ポジティビズム」とは、 人生で起こる出来事のすべてに「ボジティブな憲味」があることを信じることである。そして、すべての出来事を糧として、しなやかに成長し、 成熟していくことである。
すなわち、それがいかにネガティブに見える出來事であろうとも、その出来事は、我々が大切な何かを学ぶために与えられた天の配剤であることを信じ、その学びに.正対して取り組む心の姿勢を、真の「ポジティビズム」と呼ぶのであろう。
「不動心」とは、「決して乱れぬ心」のことではない。「不動心」とは、「乱れ続けぬ心」のこと。
すなわち、我々経営者やリーダーに求められる「不動心」とは、どのような危機が起こり、いかなる問題が生じても、「心が微動だにせぬ」という意味での「不動心」ではない。
生身の人間であるかぎり、一瞬、心が大きく揺らぐことがあってもよい。しばし、 心が穏やかならぬ状況に陥ってもよい。その直後、心が戻っていくべき場所を知っていること。それが、経営者やリーダーには、問われる。
筆者は、『成長の技法』という著書において、成長を止める「7つの壁」と、その��を越える「七つの技法」を述べたが、ここでは、その要点を紹介しておこう。
まず、第一が「学歴の壁」。
第二は「経験の壁」
第三は「感情の壁」。
第四は「我流の壁」
第五は「人格の壁」
第六は「エゴの壁」
最後の第七は「他貴の壁」
我々が気づくべき、一つの真実がある。
「死」があるからこそ、「生」が輝く。
そのことに気づいたとき、人生の風景が変わる。
そして、この人生を生き切る、覚悟が定まる。
打撃の奥義を語った、落合氏の見事な解説に、思わず、自分でもそのフォークが打てるように感じてしまった。その錯覚に気がついたからだ。
そして、それが、野球の世界だけでなく、すべてのプロフェッショナルの世界において、我々がいつも陥る「落し穴」であることに、気がついたからである。
永年の体験と厳しい修練を通じてしか掴むことのできない深い「智慧」を、単なる「知識」として学んだだけで、その「智恵」を身につけたと思い込んでしまう。
第六部「神の技術」がもたらすもの
「複雑系」とは何か。その本質を、人類学者、グレゴリー・ベイトソンは、次の淫集で述べている。「復雑なものには、生命が宿る」
すなわち、市場や社会や国家というシステムが、内部での相互連関性を高め、高度に複雑になっていくと、「創発」や「自己組織化」と呼ばれる性質を强めていくため、あたかも「意志」を持った「生き物」のような挙動を示し始めるのである。
そして、 この「複雑系社会」では、 厄介なことに、「バタフライ効果」と呼ばれる現象が頻発するようになる。すなわち、市場や社会や国家というシステムの片隅の「小さなゆらぎ」が、システム全体に「巨大な変化」をもたらすようになるのである。
システムが、 あたかも「意志」を持った「生き物」のように助くため、 人為的に管理し、 制御することが極めて難しくなるのである。この「生命的システム」としての市埸や社会や国家に、どう処していけば良いのか。
その根本的な理由は、欧米の変革論が、基本的に「機械的世界観」と「操作主義」に立脚しているからであり、この予測不能, 制御不能の「生命的システム」である「複雑系社会」に処するには、「生命的世界観」に基づいた深い叡智が求められるのである。
もし、世の中に「創造性のマネジメント」というものがあるならば、その要諦は、ブレーン・ストーミングやアイデア・フラッシュのやり方といった表層的な技法ではなく、自身の中にある「無意識の自己限定」を、いかに取り払うかという「潜住意識のマネジメント」なのであろう。
古今東西、才能に溢れ、創造性に溢れた思想家、学者、芸術家、 発明家、 実業家などの発想法を調べてみると、その多くが、「アイデアが、どこかから降りてくる」という感覚を持ってていたことは、事実である。
フランスの思想家、 ジャック・アタリが語る「合理的利他主義の思想は、我々が「利他的」な行動を取るべきなのは、「自己犠牲」の精神からではなく、その行動が、自分にとっての「利益」になるからであり、「幸せ」に繫がるからである、との思想である
我々は、「完壁主��者」と評されるプロフェッショナルが、もう一つの優れた才能を持っていることに気がつく。
こだわるべき細部と、こだわらなくともよい細部を、見分けるカ。
それこそが、彼らの隠れた才能なのであろう。
しかし、それは、何かの分析力や論理思考などの力ではない。それは、直観力や皮膚感覚と呼ばれる力である。
第七部 思想を紡ぎ出す読書
ネガティブな想念は、人生というものを「二項対立的」に捉えているかぎり、決して無くならないということである。では、「二項対立的」ではない捉え方とは何か。それは、人生のすべての出来事に「深い意味」があると思い定め、その意味を考えることによって、 すべての出来事を受け容れ、肯定することである。
自分の人生が、どれほど逆境や挫折に満ちたものであっても、それでも、それは、自分だけに与えられた、かけがえの無い人生。
その人生のすべてを肯定し、そのすべてを愛する。もし我々が、その覚悟を定め、自分の人生を本当に愛することができたならば、 人生を二つの価値に分ける言葉、幸運と不運、成功と失敗といった言葉も、自然に消えていく。
そして、そのとき、目の前の人生の一瞬一瞬が、静かに輝き始める
我々の生きている宇宙は、量子空間から生まれた無数の宇宙の一つに過ぎず、他にも、数限りない宇宙が存在するという理論。いわば、「ユニバ— ス」ならぬ「マルチバース」が存在するという考えを、 最新の宇宙論は提唱するに至っている。
ただし、 現代の最先端科学が到来しつつある、この理論の最大の問題は、「この理論の真偽を、 我々の生きる宇宙からは確かめようがない」という一点にある。
すなわち、現代科学は、 いま、自らの宇宙の起源について、 原理的に決して答えることのできない「永遠の問い」の前に立ち尽くしているのである。
我々の人生の、本当の「分かれ道」は、どこにあるか。それは、どのような出来事が起こったかに、あるのではない。起こってしまった出来事を、どう解釈するか。その解釈にこそ、ある
人間の「真の強さ」とは何か。
人生において、いかなる出来爭があろうとも、その「解釈」を過たないカ。いかに否定的に見える出来事が起ころうとも、それを肯定的に「解釈」する魂のカ。その「解釈カ」と呼ぶべき力であろう。
では、いかにすれば、我々は、その「解釈カ」を身につけることができるのか。一つの覚悟を定めることである。「人生で起こること、すべて深い意味がある」
では、どうすれば、その「解釈力」を、揺るぎなきものにできるのか。そのためには、一つの覚悟を定めることである。
「自分の人生は、大いなる何かに、導かれている。この否定的に見える出来事も、大いなる何かが、自分を育てようとして与えたものに他ならない」
我々の心の中に「深い問い」があれば、それが強い磁石となって、自然に様々な知識や叡智が集まってくる。そして、一つの生態系を生み出していく。ただし、そのとき大切なことが、二つある。
一つは、「専門の垣根」を超えることである。
もう一つは、「ジャンルの垣根」を超えることである。
現代の「教養主義」の問題が見えてくるだろう。
ただ、様々な分野の書物を数多く読み、該博な知識を身につけることが、教養ではない。
何よりも、自身の中に、容易に答えの得られない「深い間い」を抱くこと。
なぜなら、その「答えの無い問い」を問うカこそが、典の「知性」であり、その「知性」の周りには、自然に、個性的な「知の生態系」が生まれてくるからである。
されば、その「深い知性」に支えられたものこそ、「真の教養」に他ならない。
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答えのない問いを考え続けるのが知性である
神を信じる宗教と、神に近づこうとする科学が相反するものと言う思いがありましたが、科学そのものが宗教の様な存在なのかなと思ったり。
仏教の様にありのままに受け入れる姿勢も、時には必要なのだなと思いました。
専門の知→生態系の知
言語の知→映像の知
理論の知→物語の知
知性とは「答えのない問い」を問う力
人生にはイエスという
エゴに対して
否定も肯定もせず、ただ、静かに見つめる
非言語的コミュニケーションを磨く
人は必ず死ぬということを直視するならば、命あるだけ、有り難いという絶対肯定の姿勢で処することができる
人生で起こることは、すべて良きこと
写真家として最もつらいのは、他の誰かの悲劇で特をしているということだ
「創造性を目指す過ち」
結果に過ぎないものを目的にしてしまう
人間、自分に本当の自身がなければ、謙虚になれないのですよ
自分を愛せない人間は、他人を愛せない
英雄のいない国
英雄のいない国が、不幸なのではない
英雄を必要とする国が、不幸なのだ
フォースを使う技法
直感は過たない
過つのは判断である
直感を閃かせる技法
直感というものは、退路が断たれ、追い詰められた状況で、閃くことが多い
人生で起きること、すべて良きこと
どのような出来事が起こったかに、あるのではない。
起こってしまった出来事を、当解釈するか
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色々と考えさせられる話題が多かったが、可能的自我が私には最もインパクトある新しいことだった。田坂さんの他の本も読んで見ようと思う。
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結論としてはタコツボ化した専門知識を横断的に活用する必要性があるということになるのかと。雑誌連載のエッセイ集で、同じ話が繰り返される部分もあり、やや冗長に感じるところがあった。
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こんな本を読めば教養が身につく的な本とは一線を画す。
Iトピック4ページなのも読みやすい。
他のシリーズも読んでみたい。
『卒業しない試験は追いかけてくる』
身につまされる。
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限りなく5に近い4点。
久々に1つ1つが腑に落ちるエッセイ集。自分と近い思いや判断基準が書かれているから納得してしまう。その思いを言葉にしてもらえたことに感謝しつつ、文章にできない自分の不甲斐なさを反省。
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4ページごとに様々なトピックで語られる本。
この著者の既刊で述べている内容もありますが、再確認も含め色々と付箋ポイントのあった本です。
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田坂さんの最新作。多数本を読ませていただいているが、一つ一つの内容が本質を掴んだものであり、とても腑に落ちる。東大卒と言う学歴に奢ることなく、逆に学歴が高い人が勘違いして仕事で壁にぶち当たる理由など、述べられている。あと最も共感したのは、発生した事象に対しどう解釈するかが大切である事。人生に起きるいずれの出来事も、自分を更に成長させる神様のテストだと解釈して、前むにき過ごして行ける人生を歩んで行きたい。
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初めて読んだ田坂広志氏の著書。何かの書評で参考になると紹介があり手にした新書。この本で再認識したこと。まずは、人生で起こることはすべて良いことであり、それは自分を成長させるために最適なタイミングで出てくるということ。そして、死を意識することで、毎日が輝くということ。自分が年齢とともに成長していくことは、人生の充実感につながる。そのためには、自分から新しいことに挑むか、自分に与えられた難題を解決していくことが必要である。死ぬまで現役。そんな今後の人生へ示唆の富んだ一冊であった。
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教養を磨く
宇宙論、歴史観から、話術、人間力まで
著:田坂広志
紙版
光文社新書 1263
急速に進展する人工知能革命時代に求められる、新たな教養とは何か
時代を読み、生き残るための、指針を提供してくれる書
間違っているのか、正しいのかはわからない。ただ、暗闇をやみくもに歩くよりも、足元だけかもしれないが、明かりをもっていたほうがいいと感じました。
気になったのは、以下です。
■哲学の究極の問い
真の教養とはなにか、多くの本を読み、様々な知識を学ぶことではなく、そうした読書と知識を通じて、人間としての生き方を学び実践することである。
現代において、教養ということの前提条件、書物を通じて学んださまざまな専門分野の該博な知識に、大きな3つの変化が起きている
① 該博な知識に関する時代の変化 AI革命が、該博な知識だけなら、AIにはもう人間はかなわなくなってしまっている
② 書物を通じてに関する時代の変化 活字メディアである書物よりも、マルチメディアである映像や動画を通じて情報を入手できるようになってきた
③ 様々な専門分野に関する時代の変化 難しい本を読まなくても、テレビ番組、映画や、YouTubeなどを通じて専門分野の学びができるようになってきた
3つの深化
① 専門の知、から、生態系への知 への深化 個別の断片ではなく、個性的な思想体系である、知の生態系へ
② 言語の知 から 体験の知 への深化 活字の知から、疑似体験や共感とともにある知へ
③ 理論の知 から 物語の知 への深化 単なる知識から、具体的なエピソードや物語を学ぶことで人間学を学ぶよい方法となる
人生にイエスという
いかに逆境に満ちた人生が与えられようとも
いかに苦労の多い人生が与えられようとも
それでも、それは、ただ一度かぎりの、かけがえの無い、自分の人生
そう、思い定め、その人生を慈しみ
与えられた逆境と苦労を魂の成長の糧として歩むとき
運命という言葉は、いつか
天命ということばに変わっていくのであろう
ビスマルク 愚者は経験に学び、賢者は歴史に学ぶ
過去の歴史が経験したことのない状況に人類が直面している時代において、我々が未来を知るためには
経験に依拠した社会科学には限界があり、
創造に依拠した、文学、特にSF文学が、大きな役割を果たすことになるだろう
創造の力を飛翔させる文学には、21世紀、新たな役割がある
人間のエゴ エゴを処する2つの力
① 相手のエゴに処する力
② 自分のエゴに処する力
否定も肯定もせず、ただ、静かに見つめる
エゴを大きく育てる ⇒ 大我は無我に似たり
才能を開花させるには
その人間の中から、その才能にみあった人格が現れてくることにほかならない
どうしたら、我々は、自分の中に、必要な人格を育てることができるのか
私淑す���こと、優れた人物の真似をすること
学ぶことは真似ぶこと
一流の経営者やリーダは、自分の中に様々な人格をもち、それらを場面と状況に応じてみごとに使い分けている
学歴的能力よりも高度な3つの能力を磨く
① 職業的能力
② 対人的能力
③ 組織的能力 この3つの能力を支えるのは、人間力
死に関する3つの真実
① 人は必ず死ぬ
② 人生は1度しかない
③ 人生は、いつ終わるかわからない
⇒ 死を直視すると3つの力が与えられる
① 逆境力が高まる
② 使命感が定まる
③ 人生の時間密度が高まる
複雑系、複雑なものには生命が宿る
不運の姿をした幸運 人間万事塞翁が馬
人生の幸運と不運は人智ではわからない
いまこの瞬間を生きる⇒いつ死んでも悔いがない
人生で起こること、すべて良きこと
■ 科学と宗教の対立を超えて
共感、書物を読んだだけでは決して身につかない
人生において、自身が、様々な苦労を重ねること
共感力と人間力
うまへた と へたうま
上手そうにみえて実は下手
下手そうにみえて実は上手
守破離 まず、基本の型をしっかり覚え、次にその型を崩していく段階がある
創造性をめざす過ち
結果にすぎないものを、目的にしてしまう
世界には、自然の生態系とともに、心の生態系がある
賢明なもう一人の自分が、自分を見ている
言葉には重みがある、言葉を語るとき、書物で学んだ言葉なのか、自身の体験を通じてつかんだ言葉なのか
謙虚と感謝
自分に本当の自信がなければ謙虚になれない
本当の強さを身につけていないと感謝ができない
我流、プライドと慢心、我流の我とは自我の我、かたくななエゴに他ならない
■戦略的反射神経
AIで決して代替できない3つの能力
① マネジメントの能力 それは管理ではなく、成長のマネジメント、心のマネジメントをいう
② ホスピタリティの能力 非言語的コミュニケーション能力 顧客の声に耳を傾け、相手の気持ちを察する能力
③ クリエイティブの能力 集団知を活性化させ、その集団から新たなアイデアやコンセプトが生まれてくることを促す能力
自分は、自分に似ている人を嫌悪する ⇒ 自分の中にある欠点を許す
結局、自分を愛せない人は、人を愛せない
人生百年時代 体力だけでなく、精神のスタミナの大切さ、タフな精神を鍛える、精神は60を超えても高めることができる
進歩史観 歴史は必ず、人類の進歩に向かって進んでいるという歴史観
透明な感性 すべてを諦め、死を覚悟したとき、静かで透明な心境が訪れる
メメント・モロ 死を想え ラテン語
2つのパラダイム
ロボットとはしょせん機械である
サイボーグとは、人間である
人間の能力は最先端の科学技術をしても、測り尽くせないほどの奥深さがある
無と空を大切��する 自己の内側を見つめる沈黙の時間を持つこと、そのとき我々の精神の深化が始まる
シンクタンクではなくドゥタンク
戦略的反射神経とは、目の前の現実が予想外の展開をしたとき、状況の変化を瞬時に判断し、速やかに戦略を修正しながら、その新事業を前に進めていく能力のこと
自然(じねん)の思想 自然として生きること
静かな強さ すべては自分に原因がある すべてを自分自身の責任として引き受けること
■フォースを使う技法
新しい資本主義
貨幣経済、交換経済、贈与経済
経済として流通するのは貨幣であるが、ボランタリ経済において流通するのは、知識、関係、信頼、評判など目に見えない資本である
マネジメントの道を進める3つの理由
① 人間として成長できる
② 生涯を通じて活躍できる
③ 淘汰の嵐を超えていける
知能と知性
知能とは 答えのある問い、いちはやく正確にたどりつける能力
知性とは、答えのない問い、問い続ける能力
■ポジティビズム
成功者の不思議な偶然
折よく、たまたま、ちょうどその時、ふとしたことから
人生の出来事に、深い意味を感じ取る力
統合的・超越的人格=賢明なもう一人の自分
① 自分の心の中のエゴの動きを静かに見つめることができるので、エゴや感情に流されることがなくなり、人間関係が好転する
② エゴや感情に振り回されない心の状態が生まれ、直観力が鋭くなる
③ 直観力がするどくなると、人生の岐路において、選択を過たず、運気を引き寄せる力が高まる
仏の思想家、ジャック・アタリの提唱する、ポジティビズム:積極主義
楽観主義:オプテイミズム 観客として自分の好きなサッカーチームが勝つだろうと思う
積極主義:ポジティビズム 選手としていま負けていても、必ず勝てると信じ、力を尽くすこと
不動心とは
決して乱れぬ心ではない
乱れ続けぬ心、乱れてもすみやかに平常心にもどることができる心
優秀な人間がつき当たる7つの壁
① 学歴の壁
② 経験の壁
③ 感情の壁
④ 我流の壁
⑤ 人格の壁
⑥ エゴの壁
⑦ 他責の壁
死とは
必ずしも、恐怖や絶望を表すものではない
やすらぎ、救いと考えることもある
エゴはすてなくてもよい
ただ静かに見つめること
心は蛇蝎のごとくなり 親鸞 エゴは決してなくならない
プロはなぜ育たない
本を読めば、楽をして成功を手にいれるという安易な考えをとっていないか
敵は我にあり
■神の技術がもたらすもの
神は細部に宿る
現代は複雑系の知:
摂動敏感性 小さなゆらぎが全体に波及していき予想がつかなくなる
管理不能性 システムがあたかも、意思をもった生物のようにふるまう
これまでの西欧的手段は、機械的世界観
これからは東洋的手段で、生命的世界観
直感とは追い詰められて、もうあとがないという時に閃くことが多い
追い詰められた自分を楽しむ、もう一人の自分を生みだす
アイデアとは、自分という小さな存在が生み出すものではなく、自分を超えた大いなる何かから降りてくるもの
我が業は我が為すにあらず 棟方志功
合理的利他主義
我々が利他的行動をとるのは、自己犠牲の精神からではなく
その行動が自分にとっての利益になるからであり、幸せにつながるから
はじめに 二一世紀に求められる「新たな教養」とは何か
第1部 哲学の究極の問い
第2部 科学と宗教の対立を超えて
第3部 「戦略的反射神経」の時代
第4部 「フォース」を使う技法
第5部 「ポジティビズム」の時代
第6部 「神の技術」がもたらすもの
第7部 思想を紡ぎ出す読書
謝辞
さらに学びを深めたい読者のために
ISBN:9784334046705
。出版社:光文社
。判型:新書
。ページ数:352ページ
。定価:920円(本体)
。発行年月日:2023年07月
。発売日:2023年07月30日第1刷