抽象的な文書ですが、意図はつたわります。
2023/12/02 17:26
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投稿者:広島の中日ファン - この投稿者のレビュー一覧を見る
体育哲学を専門とする著者が、生徒の立場に立ちながら、体育嫌いについて細かく分析する1冊です。
哲学が入っているからか、文章が抽象的で理解に時間を有するでしょう。ですが、著者の言いたいこと、意図は文章をしっかり読めば伝わります。私も体育は苦手だったので。
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強制、みんなからの視線、叱責、うまく身体を動かさせない恥ずかしさ、思い起こせば体育がきらいになる要素はこれほどまであったんだなと再確認。私自身も得意競技の時は「楽しみ!」でしたがそれ以外は憂鬱でした。これからの体育を考えたい人や体育嫌いにおすすめ。
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自分は体育の研究をしているつもりでいるが、この題名の視点を深く考えてこなかったことにまず驚いた。
好きにならなくてもいいとは思っていたけど、じゃあ体育って何?やる意味ある?その答えは明確になっていなかった。しかし、この本を読む中である光が差した。それは、体と心は繋がっているということ。
体育はスポーツでもなく、部活でもなく、軍隊訓練でもない。体育の本質は体だ。体を使って考えて、体をさらして、体でコミュニケーションして、体を変えていく。それが体育でしかできない。
これだ!と思った。体育は嫌いになってもいい、体は嫌いにならないでほしい。そのために何ができる?まずは、強制と矯正をやめることだ。そして、選択肢を広げてあげることだ。
思い返せば、自分も体育好きじゃなかったなという発見が驚きであり、人間の思考ってそんなモンだなという諦めもあった。内容にそれほどの深さはないが、思考をとことん深めてくれるきっかけになった一冊。
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「体育がきらい」というテーマは、SNSなどでもときどき話題になるが、だいたい「きらいだった」の発散で終わってしまいがち。でも、体育という教科がきらいだという感情は、そのまま運動(体を動かすこと)そのものやスポーツ競技への嫌悪なのだろうか? なぜ体育にいい感情が持てなくなったのだろうか?
ということでその「体育がきらい」をていねいに腑分けしていくと、人前でやるはずかしさや規律の厳しさ、教師像、運動部・体育会のイメージ、勝利を目指さなければならないスポーツという文化、「運動」の狭い捉え方…などさまざまな理由が考えられることがわかってくる。
スポーツ哲学が専門の著者によるこの本では、自分の(生徒として教師としての)体験や現場で見聞きしてきたことに加えて、さまざまなデータや「体操→体練→体育」の来し方なども紹介しつつ、体育そのものを好きになる必要はないけれど、自分のからだが変わり世界が(ゆたかに)変わっていく可能性を前向きにとらえて、からだにもっと意識を向けるさまざまな場のひとつとして体育をとらえてほしいというあたりに着地する。
どの章もていねいに掘り下げれば本がもう一冊かけてしまいそうな内容で、なかでも終盤に出てきた「運動」「からだの使い方」というのはスポーツ競技種目に特化したものだけでなく、ただ歩く、とか、ものを持ち上げるといった日常にも関係しているというあたりをもっと深掘りできるとよかったと思うが、プリマー新書としてはさまざまな「体育がきらい」をひとまずリセットするだけでせいいっぱいか。
十年ほど前からダンスが必修になって、規律一辺倒だった教師たちの多くも困惑した、という話など興味深かった。
これからはこういうことを学んだり考えたりした体育の先生が現場に増えていって、学校体育の世界も変わっていくことを祈るばかり。
帯(背面):
「体育なんて好きにならなくてもいい」のです。もっとも重要なことは、みなさんが多様な他者とともに、自分自身のからだで、賢く、幸せに生きていくことです。そのためにも、たとえ体育の授業や先生、運動部やスポーツが嫌いになったとしても、みなさん自身のからだだけは、どうか嫌いにならないでください。(「おわりに」より)
***
私の場合、身体が小さく運動能力も劣っていた小学校時代の「体育大きらい(ずる休みするほど)」から、中学で持久力だけはあることに気がついて多少の自信を得て、高校では理屈を学ぶことで跳び箱が飛べるようになった。運動部に入らなければ人ではないという雰囲気だった中学で苦し紛れに選んだダンス部では習っていたバレエ(身体が硬くて下手だったので習い事自体は苦痛だった)の経験が生き、思ったとおりに体を動かすための柔軟運動や基礎ステップの練習が楽しくなり、大学の体育では4年間ジャズダンスで体を動かし続けた。体育が好きではないけれど、結果として体育を通して涵養されるべき能力や感覚はまあまあ得ておとなになれたと思う。
人の体も能力も十人十色なので、「こうすればだれでも完璧」なマニュアルは作れないまでも、体育という教科をもっと個々自身の身体の発見につながるカリキュラムにできないものかとはずっと思っていた。学校教育の中で苦手意識や劣等感を植え付けられてしまうと、この長寿(&デジタル)社会ですこやかに生きていくために必要な運動習慣を身につけることもできなくなりかねない。体育だけでなく、音楽や美術などの芸術もそうだが、原始的な意味や歴史を学びつつ、生涯にわたってつきあっていくための土台を作る場だという認識が重要な気がする。すると技能テストで評価をするということ自体を疑わなければならなくなると思う。
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体育が嫌い、運動が嫌いな人だけでなく好きな人も含めて多くの人に読んで欲しい良書。
「からだが私である」という言葉はまさに、と思いました。
とてもおすすめです。
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体育は「からだ」という唯一無二でかけがえないと同時に逃げられない要素に注目せざるを得ないものである。
体育嫌いが増えている一方での有償のスポーツジムやフィットネスクラブの流行は、自らのからだを扱う(管理する)術を伝えられていない体育の敗北である。
体育における規律とはからだのコントロールで、それを指導する役割を持つ体育科の特権が、体育教師による生徒指導とつながっている可能性がある。
部員全員で学校名入りのチームジャージを着ることの誇らしさと、そこから得られてしまう「特別な存在」であるという自負の危険性がある。
文化としてのスポーツなのに「運動部」とされ、部活に無所属なのに帰宅「部」とされるように、運動部の特別性を強制性がある。
運動によって体が変わり、その結果として私が変わる。
全力を求められ競争性があるスポーツに対し、体の使い方や動かし方を含む体育や運動は本来異なるものである。しかし、現状の体育の授業ではあまりにスポーツに偏っている。
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僕は体育がきらいだった。SNSの出現で、体育がきらいだった、という人が意見を表明し、ああやっぱりみんなきらいだったのね、という人が増えているそうだ。
だが、その「きらい」とは何なのか。体育を教える側の立場から見た、「きらい」を探る本。
僕が体育がきらいだった小学校、中学校の時代に、このような本と出会えていれば、体育はきらいにならなかった可能性が高い。
学校教育で体育を小中高、大学までやっておきながら、人々はジムやフィットネスなどでパーソナルトレーナーをつけてまで、自らのからだを整えようとする。体育ではそういうことを学べなかったのだ。著者はこれを「体育の敗北」と呼ぶ。
しかし、体育がきらい、にはいくつかのレイヤーがある。
運動がきらい 命令口調の体育教師がきらい みんなの前で恥ずかしい思いをさせられるからきらい
僕もそれら全てに当てはまると言えば当てはまるけれど、一番納得がいったのは、体育が規律の強制をしてきたのでは、というくだりだ。
例えば、体育座りというものは、手も足も自ら固定させることで、子どもたちの自由を自ら縛るというものである、ということで、ハッとした。
僕が体育きらいなのは、そう、規律の強制に他ならない。
そういうことに気づかない人もいるわけなので、体育ぎらいは豊かな感性を持っているのでは、とも著者はいう。そうか〜、俺豊かか〜などと悦に入りながらも、さらに、体育とスポーツの違いなどにも突入していく。
今は、僕らの頃より少しは変わっているはずだけど、規律だとか、(代替戦争のような)スポーツだとかではなく、「自分のからだをしり、よりよく付き合っていく」ということに、もっと学校教育は特化したらいいのに。
学校では、歩き方も立ち方も、規律以外のために教わったことなど一度もなかった。
それを理解して授業にのぞめば、体育も楽しかったのかもしれない。
そういう後悔も残るが、とても良い本だった。
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「待ちに待った運動会の日が来た」
運動会の作文といえば、こう書き始めるのが定番?だった昭和の小学生。
運動が得意でなくても、そういう反応をしなければ、子供らしさがないと言われた。
そんなわけないとはおくびにも出せず、高校生くらいになってから、「本当は運動会の日は雨が降ればいいのにと思っていた」という文章を子供向け読み物の中で見て、そんなこと言ってもいいんだ⁉︎、、そうだよねー!と、とても共感した日を思い出す。
実際、1989年の調査では、小学生は、好きな教科第一位は体育76.2%、嫌いな教科では、体育は最下位の第八位と答えていたそうです。(P 20 )
「体育がきらい」というタイトルに、そんなこと堂々と言える時代になったんだなー、と手に取りました。
令和の現在、2021年調査では、小学生にとっての体育は、好きな教科としては算数(20.0%)に次ぐ二位(17.8%)とはいえ、嫌いな教科としても、算数(24.6%)、国語(19.4%)に次ぐ堂々第三位(7.7%)だそうです(第四位は社会3.9%)。体育は、2013年以降、不動の嫌い第三位なのだとか。(P19)
みんなホンネを出せるようになったんだなー、と感慨。
体育の授業が変わったわけじゃない、SNSの影響だそうです。
本書では、「体育は公開処刑」とか、「なんで跳び箱飛ばなきゃダメなんですか」「なんで踊らないといけないの」とか、体育嫌いが思うことをひとつひとつ取り上げてくれる。
体育が求める「規律」、体育とほぼ同義と考えられている、運動部、スポーツ、といった観点を取り上げて、それらと体育の関係や、実はそれらは体育の本質じゃないと語った上での最終章、結局体育って何なん?という問いに対する筆者からの一つの答え、私は、結構、気に入りました(笑)。
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タイトルを見て素通り出来ず購入しました。
体育なんて大嫌いです。
中学生の時、体育の教育実習生が来ました。
持久走でした。
周回遅れで最後にゴールすべく真面目に走っていた私に、実習生は「がんばれよー」と呑気に声をかけました。普通にゴールした同級生も和やかに談笑中。
私がゴールすれば授業は終わり、
みんな早く終わって着替えて帰りたかったんでしょう。分かりますよ。分かりますけどね。
私はサボっていたわけじゃなく、
必死に走っても遅いんです。惨めでした。
私に採点させてくれるなら、こんな奴に合格点はやらない、体育の教師になんかならないでくれ。
と思ったのはもう40年以上前。
先生になられたのか、他の職業に就かれたかは知りません。私の様な体育嫌いを増産するだけの教師として人生を過ごされてなければいいなと思います。
バスケットの授業の時、教師はバスケ部の生徒に指導を振りました。興味もなかったのでルールも知らず、見様見真似で動いたら「はいファール!」と高らかに叫ばれて固まりました。何がいけなかったのか、どう直せばいいのか、何も分からないまま試合がありました。ボールが来ない様にひたすら逃げ回りました。
バスケットボールが人気スポーツなのは知っています。でも私はこの授業以来、バスケットボールに何の関心も持てません。今この瞬間に世界からバスケが消えても私の人生には1ミリも影響がない。
体育の授業がなければ、私は今ほど運動する事に嫌悪感を持たずにすんだのではないかと思う事はしょっちゅうあります。体育とスポーツとは違う、という主張には同意します。保健体育を必修とするなら、教えるべきは、自分が健康に生涯を過ごすために自分の身体をどう扱うかという事でしょう。それは性教育にもつながる事の様に思います。寝方、緩め方。そんな事、習ったことないけど、身体を労わる、身体の声を聞くためには、スポーツの技能なんぞよりよっぽど伝えなければならない事の様に思えます。
体育嫌いなんで、便乗して語りました。
大人になってよかった事のひとつが、体育の授業が無くなった事だと心から思います。
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感想
「体育がきらい」について知りたくて読んだ。体育や体育教師のイメージなど、改めて考え直してみるとすごくおもしろかった。一人に一つしかない大切な「からだ」をあつかう保健体育の教科としての意義や、教師が知らずに生み出していたのかもしれない「体育ぎらい」について、心に留めておきたいと思った。
はじめに
10 「体育」なんて好きにならなくてもいい
17 体育の「嫌い」と「好き」の「あいだ」にも、そのような豊かなヴァリエーションやグラデーションがある
第1章「体育ぎらい」のリアル
19 2021年8月小学生 体育は好きな教科2位 嫌いな教科3位
1989年 好きな教科1位 嫌いな教科8位
嫌いな割合 男子10.7% 女子16.5% 小6女子30.5%
28 SNSにより「体育ぎらい」が印象づけられた 稲垣諭 SNSは、社会の苦しみの現
実を変えてしまった。(中略)そのように苦しむ主体や克明な記述が増えることは、同時にそれを目にする人の中で苦しみの自己認知・追体験が行われることでもあります。
31 からだの「かけがえのなさ」「かえられなさ」
39 日本の体育は、子ども一人に対して10年以上の時間を費やしています。それにもかかわらず、彼らが大人になり、いざ自らの健康を意識し始めたとき、一体何を、どうすればよいかがわからない とりあえずジム 体育の敗北
42 「体育ぎらい」と「運動ぎらい」
第2章 体育の授業がきらい「規律と恥ずかしさ」
56 体育=体操だった
60 「公開処刑」
62 恥ずかしさの誕生 サルトル 鍵孔の例 他者に見られていることを自覚することによって恥ずかしさを感じる
第3章 体育の先生がきらい「怖くても、ユルくても」
83 怖そう 体育の先生と暴力
85 偉そう 生徒指導という役割
体育の先生は軍人っぽい 体育の先生はスポーツのコーチっぽい
99 「ユルイ」先生は、まだ「体育が嫌い」ではない人にとっては、体育を好きになる可能性を摘み取る存在になり得る
105 体育を好きにさせることは、あくまでも手段として意味しかない。人が何かを好きになるという出来事は、他者が簡単にコントロールできる性質のものでは、そもそもない。
第4章 運動部がきらい「体育教師らしさの故郷」
129 体育の授業はレベルの低い運動部なのか
第5章 スポーツがきらい「残酷ですばらしい文化」
144 競争しなきゃダメなのか
153 スポーツは人を育てる・・・とは限らない
155 スポーツは一つの文化(でしかない)
166 生涯スポーツと言われても・・・生涯音楽や生涯美術はない
第6章 そもそも運動がきらい「だからこそ、からだに還る」
177「運動=スポーツ」という幻想
184 できるようになる=身体技法の獲得
187 階段かエレベーターかからだが選んでいる
190 運動ができるようになることは、決してスポーツがうまくなることだけを意味しているわけでなく、私たち自身の経験できる世界を豊かにすること
195 からだが変わるとは私が変わること
199 力を入れるだけでなく抜くことも大事
207「からだを豊かに変えていくこと」としての本当の「体育」は、もっと自由で、もっと面白く、そして、きっとすばらしいもの
あとがき
211「からだ」は嫌いにならないで!
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部活動はオマケですよー。
でも、部活動をメインにしないと居場所を保てない体育教員がほとんどなのも実情。
そもそも、専門にしている競技ごとに教員を採用して、その部活動があるところに人を配置しているのって、おかしい。他の教科でそんなことやってる??
つまりは、採用のシステムが歪んでいるということ。
部活動が体育教員のアイデンティティなり存在意義なりを支える主要な教育活動になっちゃってる。
でも。
部活動はオマケですよー。
と、大事なことなので、2回書いてみる。
体育の原義に立ち返って体育の授業を実施するには、まず各県の高体連なり、スポーツ庁なりが、部活動からオリンピアンを吸い上げる仕組みを諦めないとダメだってこと。
ごく一部のスーパー優秀な先生は別として、大半を占めるふつーの先生と本書に挙げられている残念な先生が大半を占めるのが現状。これに沿った採用システムに変えないと、体育ぎらいは増えても減らない。
あ、体育が一体、どこを目指す教科なのかってことは、内田樹先生の本を読んだ方が腑に落ちます。
『武道的思考』とか、能や合気道について触れている文章の中で、この本に書いてあることは網羅されてました。なので、ほぼ予想通りに話は展開しました。面白いのはいろんなダメ体育教員が紹介されているところ。あー、いたなー、と思いながら読みました。
あと、壮行式は運動部相手にしかやらなかった、たしか。いろいろ理屈はあるらしいけど。まずもって母校の応援団がバンカラなので野球部と剣道部専用の応援歌はあったけど、吹奏楽部とか演劇部専用の応援歌があるという学校は、寡聞にして知らず。いやなヒエラルキー。兵士と銃後の守り的な分業がまーだ居座ってる。何せ、体育は軍事教練を母体にして育った教科だから、なかなかその体質を変えられないらしい。マネといえば女子だし。『彼女は頭が悪いから』を併せ読みすると、不快指数が爆上がりすること間違いなし。とはいえ、軍事教練的鋳型ハメ目的教科が母体という観点から行けば、国語も似たようなものだけど。こちらは井上ひさしの『国語元年』に詳しい。
ということで、読みやすさならば本書ですが、哲学的な深みと広がりならうっちーです。
私は体育は好きでも嫌いでもない。中学では運動部、高校では文化部、大学ではその両方やったけど、自分の体との付き合い方を本気で学んだのは社会人になって体を壊してからでした。
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プリマー新書のなかでも特に柔らかい文体。話の進み方はゆっくりで少々冗長にも感じるが、子どもたちにとって親しみやすい文体であることは評価できる。
授業、教師、運動部、スポーツ、運動そのものに要素を分解しながら分析する。個人的には本当に体を動かすのが苦手な人についてはアプローチ不足のように感じたけれど、少数派なので触れられていなくてもやむを得ない。
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朝、余裕がある時に、音読でちびりちびりと読んできました。体育。もう小学生の時から嫌いでした。試合での勝ちにこだわる同級生、戦犯探しに夢中になる彼ら、そして中学で入った運動部の意味のわからない上下関係、異常に厳しい体育教師。すべて体育が嫌いになるには十分な要因でした。本書のおかげで、少しは蒙を開けましたが、体育的なものからは引き続き遠ざかろうと思います。一人でやる散歩や軽いランニングには最近抵抗がなくなってきましたが、それはとても良いことだな、と実感できました。著者のような体育教師が増えて、すこしでも体育教育がマシになりますように。
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学校での体育が勝ったり競ったりを主眼におく「スポーツ」に偏っていることが強調され、そのため「体育嫌い」が増えているのではないか。精神はからだによって左右されるのだから、からだが変わると世界の受けとめも変わるはず、一生付き合っていかなければならないこのからだを嫌いになることだけはしたくない。体育ももっとひとりひとりが自身のからだを尊重できるように、自由で気楽なものでいいはずだ。以上のような主張を、主に児童・生徒に対してであろうか、やさしく語りかけている。多くの保健体育の教師にも読んでもらいたいなと思った。動くのが大好きな私が体育はあまり好きでなかったのは教師のせい。それが証明された気分。
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体育が嫌いな人集まれ!
小学校の時は体育が嫌いだった。けれど、中学校ではそれほど悪くなく、高校では嫌いではない科目だった。それを漠然と部活動によって体力がついて、授業についていけるようになったからだと考えていた。まさにその漠然と考えていた部分を支えるような話だった。
著者は「体育」が何であるのかを、何をしているのか(スポーツ)、誰が関わっているのか(体育教師)というように分解しながら、「体育ぎらい」は何が嫌いなのかを説明している。強制される雰囲気、権威的なもの、勝つこととできない者への残酷さ、スポーツというものが持つ性格と、すべての人に必要な「からだ」への認識。
何をどうしてよいのかわからなかったし、自分が戦力にならないと責められた小学校の体育。どのように身体が動くのかを説明されて、あまり試合はなくて、ストレッチなども多くて、とにかく身体を動かす習慣が大切とされた中学校・高校の体育。走るのが速い子やそのスポーツが得意な子のスーパープレイをみんなでわいわい応援する雰囲気なのも楽しかった。
飛行機に乗れば空が飛べて、新幹線に乗れば時速300kmを超えて移動できる世界で、棒高跳びの高さへの挑戦や、100m決勝にワクワクする。スポーツが文化だというのなら、色々なものを削ぎ落として、自分の身体が動く不思議、練習するともっと動きがよくなる不思議を楽しむ「体育」になってほしい。それにはこの本をたくさんの体育教師志望者に読んでもらう必要がある。