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20240930読了
なぜこんなことが?
リアリティ、ということでは、こんなリアリティに欠けた話はないだろう。そもそも、なぜ、主人公はせむしの男を招き入れたのであろう。
また、あれほど主人公につきまとっていたせむしの男はあっけなく、別の男に寝返ったのであろう。
最初の結婚の時はあっけなく引き下がった男がなぜ、今回に限ってはこのような陰湿なことをするのであろうか?
なぜ、最後の戦いがあたかも試合のような状況を呈したのであろうか?
さっぱり訳が分からない。
全くもってこんなことがあるだろうか?
しかし、少なくとも作者の心のなかにはまごうことなく存在感を持って顕出した世界なのだ。
そして、そのように考えてくると、まさしくこうとしか成り得なかったようにも思うのだ。愛とは、究極の形ではすれ違うことしかできない、ということなのか?
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「愛されるもの」の立場と「愛するもの」の立場。
両者の立場が移り変わりながら、その哀しさと憎しみが描かれた物語。
登場人物たちは、みな異様で素直に共感することはできず、ゆえに、箱の中の出来事を見ているような感覚になる。
けれど、そこで繰り広げられている愛憎は、「愛」の難しさ、他者を理解することの困難さを語っている。
哀しいけど、涙がでたり、胸が激しくしめつけられたりするわけではない。
ただ、淡々とした哀しみだけが残る。
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訳者違いの再読。
再読って初めてかも知れない。
でもよかった。
時に人物の気持ちが分からない。
でも人ってそんなもんじゃないかと思う。
全てが合理的で他から見て分かりやすくて…みたいな人なんていない。
それぞれに葛藤やら鬱屈やら抱えてどうにかこうにかつじつまを合わせたり、合わなくなってぐちゃぐちゃになったりしながら生きている。
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とても不思議で、一切の救いのない物語。
巨躯で訴訟好きの女性、ミス・アミーリア。圧倒的な人間嫌いのアミーリアに対し、突然出現し、一途な愛を受けることになった病的に小さなカズン・ライモン。この二人が始めたカフェが、町全体を活気づけ、奇跡のような平和をもたらした頃に現れる、前科者で過去に10日間だけミス・アミーリアと結婚していた、マーヴィン・メイシー。
この三者の、愛の一方通行を描きながら、その愛の行き着く先を示す。
マッカラーズの小説に出てくる登場人物は、皆、どこか普通ではない。
普通ではないのだけれども、普通ではないなりに、皆、不思議と歯車が噛み合っている。
そしてその噛み合い具合がとても心地よく、「心は孤独な狩人」などは、それが作品を希代の大傑作たらしめている。
本作は、噛み合わない。全然噛み合わない。
なので、登場人物の普通でなさが際立つ。異様さが際立つ。
神話的なニュアンスさえ感じられるほど異質。
ただ、その異質さは読むことを拒絶するかというと、そういう類いのものでもない。
むしろ引き込まれる。異質さが魅力になっている。
中盤くらいから、明らかに本作が絶望に向かっていることがわかる。
わかっているにもかかわらず、目が離せない。
物語自体の魅力はもちろん、それを語る文章の美しさもある。
マッカラーズは、普通ではない人の、普通ではない行動を実に見事に描写する。
これはひとえに、天才の所業なのだろう。
本作は中編程度で短く、そして山本容子氏の銅版画が挿絵(背景画)となっており、さながら大人の絵本という感じに仕上がっている。
そして大人の絵本というにふさわしい内容。
異様だし、絶望だけど、読みやすい。
この美しい絶望は、マッカラーズのファンでなくても、味わってみて欲しい。
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哀しいカフェのバラード
著者:カーソン・マッカラーズ
訳者:村上春樹
銅版画:山本容子
発行:2024年9月25日
新潮社
村上春樹が翻訳をして、山本容子が銅版画を描いている。まあ、これだけでも売れそう。1951年に書かれた名作らしいけど、村上春樹の翻訳ってどうなんだろう。これまで、レイモンド・チャンドラー以外であまり面白いと感じたものはなかった。今回も、うーん・・・って感じ。
長身で骨格と筋肉は男性並、腕力も強い女性、ひどい内斜視のアミーリアが主人公。彼女は父親から町のメインストリート(といってもわずか100メートル)にある建物を引き継いだ。元々は飼料や肥料、粉や嗅ぎ煙草などを販売する雑貨屋だったが、彼女はそこにカフェを開いた。また、3キロ離れた沼地に、郡で一番美味しいお酒をつくる醸造所を持っていて、自分で酒を造っている。最初はその建物で販売のみをしていたが、ある時、酒を買いにきた町の男たちに無料でつまみを出し、それまで許していなかった建物内での飲酒を許した。その日をきっかけに、そこはカフェになった。
彼女は19歳の時、ある男に好きになられた。その男は、町で一番の悪で、機械修理工をする22歳、マーヴィン・メイシー。アミーリアの前では、何も言えなくなっておとなしい。2年間、告白できなかったが、ついに結婚をすることになった。町の人たちは、なぜ彼女がそんな男と結婚などしたのか理解が出来なかった。
新婚生活に入ったが、彼女は初夜を許さなかった。夜になると寝室から降りてきてオフィスで仕事を始める。マーヴィンはプライドを傷つけられる。そして、最後はアミーリアに殴り飛ばされ、追い出される。結婚生活はわずか10日間だった。彼はその後、何軒かで銀行強盗をはたらき、人を殺して刑務所に。
アミーリアのもとには、ある日、小さなせむしの男が現れた。話を聞くと、アミーリアの母親は、その男ライモンの母親と腹違いの姉妹になるという(ライモンの母親が姉)。つまり、カズン・ライモンというわけである。カズン・ライモンはミス・アミーリアの家に住み着いた。そして、小さな体で人気者になり、彼の希望によって店には自動ピアノが設置された。
カフェは賑わった。ミス・アミーリアはカズン・ライモンを愛していた。しかし、彼女にとって不吉な情報が耳に入ってきた。マーヴィンが仮出所したという。彼は町に戻り、子共の頃に世話になった里親の家に勝手に上がり込む。そして、カフェにもやってきて、ミス・アミーリアと睨み合いつつ話すことなく、暫くすると帰って行くが、やがてなぜだかアミーリアの家(カフェの建物の2階)に住み着く。寝室が2つあり、一つはカズン・ライモン、もう一つはマーヴィンが使用。ミス・アミーリアは今のソファで寝なければいけなくなったが、体が大きいのではみ出してしまう。
カズン・ライモンは、マーヴィンの虜になり、彼の後を常について回った。奇妙な三角関係のスタート。
やがて、対決の日を迎える。アミーリアとマーヴィンが殴り合って対決する日だった。町の人たちが、そして遠方から車に乗った人々が、カフェに集まった。お互い���強烈なパンチが入ったところからスタート。両者、ふらつく。そして、殴り合いが進むと、レスリングに。この町では決着はレスリングでつかる。どうやらアミーリアが勝ちそうな雰囲気になった。マーヴィンの首をしめている。このままでは・・・というところで、カウンターの上に乗って見ていた小さなせむし男のライモンが、信じられないような距離を飛んでそこに覆い被さって助太刀をする。形勢は逆転し、マーヴィンの勝ち。
マーヴィンは店中を破壊し、奪い、去って行った。そして、カズン・ライモンも去って行った。カフェは再開することなく、ミス・アミーリアは外から板を打ち付けさせた。近くの店もなくなり、すっかりうらぶれた町となった。その建物は、時々2階の窓があいて、性別不明の内斜視の人間が外を覗く。
この小説で、主要な3人に会話がほとんどない。一体、この3人に何があったのか、何が起きたのか、町の人々同様に、我々読者にも分からないことばかり。最後の訳者あとがきを読んでも、同じようなことが書かれているが、村上春樹氏は欠落した人間ばかりだが、そこにあるのは愛で、愛が絡んだ展開なんだという。マーヴィンとカズン・ライアンには同性愛的要素もあるのだろうという。そして、「せむし」という表現についても、古典だからと使用に理解を求める記述もあった。
ミス・アミーリア・エヴァンズ:カフェの経営者
ライモン・ウイリス:カズン・ライモン、繁盛の功労者、せむし男
ファニー・ジェサップ:せむし男の母
マーサー:ファニーと腹違いの妹、アミーリアの母?
スタンピー・マクフェイル:赤ら顔の職工人
ミセス・マクフェイル:鼻にイボのあるお節介ばあさん
レイニー家の双子:
ヘンリー・メイシー:恥ずかしがり屋で臆病、
マーリー・ライアン:アミーリアがせむし男を殺したという噂の張本人、「三日マラリア」
ヘンリー・フォード・クリンプ:
ロッサー・クライン:
レイナー・スミス:頭のおかしな隠者
ジェフ:黒人の料理人、
モリス・ファインスタイン:ユダヤ人、引っ越した、なよなよした男の喩えに、
<19歳の時代>
マーヴィン・メイシー:機械修理工、邪悪だったが22歳の時にアミーリアを愛した
ヘンリー・メイシー:その弟
ミス・メアリ・ヘイル:彼ら兄弟を子供の頃に引き取った善人
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タイトルで「哀しい」と言ってしまっているので、出オチしているようなのってどうかな?と思いつつ読んだ。杞憂でした。こんな余韻の話は初めてかも。あとがきで村上春樹さんも書いていたけれど、登場人物のどれにも共感できなくて、突き放されたような印象を受けた。でも、それがよかった。どうにもできない渦に巻き込まれていくような、不条理を目の当たりにするような、少しだけ心地よい虚脱感も感じながら一気に読み終えた。
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3.7 奇妙な設定の話だが、不思議と惹きつけられた。人が惹き合うのに理由はいらない。惹き合う関係はあっけなく終わってしまう。人生は悲しみに満ちている。
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読みたかったカーソン・マッカラーズの『悲しき酒場の唄』が
村上訳で読める日が来るとは!
それも山本容子さんとの素敵な物語絵本になって
なんという話しなの!
という感想に尽きます
全てが変わっている
春樹さんはこの中編小説をできれば他の短編と合わせずに一冊の独立した本にしたかったという
それも絵をつけた一冊に。
となるともう 私たちも山本容子さんしか浮かばない。カポーティの本たちと同じように。
それにしても、江國香織さんも書いておられるように、こんなに描いてしまっていいの?ミス・アミーリアを、カズン・ライモンを?
と思わずにはいられない。
けれど…このあまりにも新鮮?斬新?な物語だからこそ、いいのだ。
「いいのだ、とこれを読んで私は納得した。ひらかれるというのはたぶん、通路ができるということなのだろう。その通路から、小説世界そのものが迫ってくる。この小説の持つ閉鎖性もわかりにくさも、閉鎖的なままわかりにくいまま、肌のすぐそばまで迫ってくる」
のだ。
『波 2024/10』より
江國さんのおかげでそう思えました。
マッカラーズといえば、南部の裕福でない白人と黒人との関わりみたいなものをあったかく描くイメージ
今作も小間使いで料理人のジェフが美味そうな肉を焼いていた。
旧作を読んだ先輩から、「え?カフェ?酒場というイメージよ」と聞いていたので、古い書庫から旧版を引っ張り出して比べるも、
酒場です。カフェの意味が日本とはちがうので原文のタイトルもcafeですし、春樹さんと山本容子さんの本には カフェ が合っているのでは…
名前の発音の違い、"せむし"という言葉をあえてつかってるところなど違いもありますが、それぞれですね。
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1917年にアメリカ南部に生まれ、23歳で小説家デビューした天才少女、アルコール依存症などで50歳で亡くなられた著者の1951年出版の作品。
村上春樹さんによる訳者あとがきで使われていた「異様性」という言葉がまさにピッタリな、いろんな異様性を背負う登場人物。
山本容子さんの銅版画がさらに印象強く人物像を浮かび上がらせる。
人間の、なめらかじゃない部分、なだらかじゃない部分、が強調されるような、特質。
見た目だけじゃなくて、個性的な性質。
ミス・アミーリアと呼ばれる、カフェ、の店主であり、それ以上にこの物語の中心となっている、アミリア・エヴァンズ。
「せむし」と称される、カズン・ライオン。登場時から不吉不穏。
_自分と世の中のすべての事柄との間に、生き生きとした結びつきを即座に打ち立てられる本能だ。
かつてミス・アミーリアが結婚した、マーヴィン・メイシー、初めから、この男がこの物語で問題を起こすことが記されている。
といいながらも、彼は後半まで実際には登場しない。
でも、彼の不在が彼が忘れ去られていることを全く意味せず、口にされることなく主人公やその他の人々、そしてその町の記憶のなかに強く残っている。
_…カフェの陽気な賑わいにとっての不吉な通奏低音としてそこにあった
読者にとってもこの通奏低音が初めから流されている。
村上春樹さんの訳者あとがきでは、同性愛の関係が語られているとも読み取られている。
小説を介して、一般の言葉で語られないものを描く。
それとは対照的にも、この物語の始まりと終わりに、囚人労働者の歓びある唄声が一瞬流される。
上手くいっているときがオチではない物語を語ること。
なんだろう、結局人は死ぬから?それでも生まれて死ぬまでの間に、
カフェでの賑わいのように、思い返すと人生の一瞬のようでいて実際に5年ぐらい平穏に続いていたりする、かけがえのない時間があって、
結局人と人はすべてを分かり合うことはできないし、いつか別れることになることも多いけれども、
だからといって知り合わなければよかった、というわけではない、なにか分かち合える時間と場所の重みがあったりする。
バラードという一つの物語の奏で方、かなー。
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詩情溢れるメルヘン。そして残酷なラブ・ストーリー。
タイトルに“ballad”とあるとおり、人々が口伝えに繰り返し語り継いできたドラマに耳を傾けているかのよう。
冒頭でいきなり悲劇の結末は明かされる。
うらぶれた田舎町に住む、吝嗇で癖が強いが一目置かれてもいる人物であるミス・アミーリアに起きた、これまた風変わりな愛の行方と破局の物語だ。
なにもないいつもの夕方、訪ねてきたよそ者との出会いによってミス・アミーリアが変わり、その熱が生む磁場に引き寄せられるように町の住民も変わっていき、物語には幸福と高揚感が満ちてくる。
しかしそれと同時に、きっとなにかが起きるに違いないというカタストロフィの予感と緊張感がじわじわと張り詰めてゆく。
そして不幸の種が蒔かれる。ここからは、どのように悲劇が起きるのかというクライマックスに向けてギュッと引き込まれてゆく。
そして結末の驚きと、あっけなくもたらされた崩壊に、しばし茫然となる。
ここに寓意や教訓はあるだろうか?
カーソン・マッカラーズは作中で、“愛とは二人の共同体験であるが、二人にとって同等の体験ではない”と、愛の非対称性を語る。
“愛するものは孤独であり愛することは苦痛であっても、ほとんどの人は「愛するもの」になりたがる”
“あけすけに言わせてもらえるなら、「愛されるもの」の立場に置かれることは多くの人にとって、深く秘密めいた意味合いにおいて、耐えがたいことなのだ。愛されるものは、愛するものを恐れ憎むが、それには最もな理由がある。なぜなら、愛するものは愛する相手を剥き出しの裸にしようと、永遠に試み続けるからだ。愛するものは愛する相手とのあらゆる関係性を切望する。たとえその経験が本人に苦痛しかもたらさないとしてもだ。”
そう、「愛されるもの」が与えられた愛を裏切り、自らを望みのない「愛するもの」へと駆り立ててゆく心理は、決して奇妙なものではないだろう。
幸せと愛が、必ずしも同じ意味ではないということは、誰しもが知ることなのだから。
Cafeを、酒場ではなくカフェと村上春樹さんは訳した。ミス・アミーリアの店は、飲んで人生を一時忘れる場所ではなく、集まって人生に意味があると人々が誇りを取り戻せる場所だった。
オシャレというよりも、老若男女が集う温かく明かりが灯る場所という雰囲気には、“カフェ”が似合うように感じた。
奇妙な愛の行方以上に、カフェの終焉によって町と人びとが再び退屈で無意味な日常へ沈んでいく様に感傷的な余韻が滲んでくる。
アメリカ南部のさびれゆく町そのものが主人公のようにも、感じてくる物語だ。
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村上春樹氏の訳というので、初めてマッカラン氏の作品を読んでみました。
なんというか話自体は救いようのないようなものですが、村上春樹氏があとがきで書かれているように、「愛」を真摯に求める心の有り様であり、マッカラーズ自身の孤独な魂の反映なのかなと思うのでした。
主な登場人物3人の深い欠落と矛盾に苦しみながらも必死でもがいてる姿は、現代でも、世界のどこにいても同じなんだと感じ入ることが出来ました。
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初めて読んだ作家。何とも不思議な作品。どこにも救いかない終わり。それでも、不思議と印象に残る作品だった。
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図書館で借りて読み始めたが、前に短篇集か何かで読んだ作品だった。再読。
ひどくうらぶれた町の紹介からはじまる。その町には男勝りでなんでもこなすミス・アミーリアが住んでいた。そこに親族だと自称するせむしの男がやって来て、一緒にカフェを開く。カフェは町に活気をもたらし、人付き合いが悪く攻撃的なアミーリアもせむしの男と仲良く暮らす。アミーリアとせむしの男にはちょっと独特な愛があるように見える。しかし物語は、アミーリアのかつての夫が以前アミーリアから受けた仕打ちの復讐のために現れ、あろうことか、せむしの男に好かれてしまう。結局、アミーリアはメイシーとせむしの男にすべてを破壊され、町はまたカフェがなくなり、淋しい町に戻る。他者に向ける愛がことごとく皆、うまくいかない哀しい物語。銅版画が個人的にイメージしやすくてよかった。
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◼️ カーソン・マッカラーズ
「哀しいカフェのバラード」村上春樹訳
救いのない物語。異質な浮揚感と喪失。単純なようでいて一筋縄ではいかないのがまた小説。
昔観た映画、デンマーク出身ラース・フォン・トリアー監督の「ダンサー・イン・ザ・ダーク」はミュージカル出演を夢見る母親が、幼い息子の眼の治療費に貯めていたお金を盗んだ隣人を殺してしまうというストーリー。カンヌの最高賞パルム・ドールに輝き、アイスランドの歌姫ビョークが主演、歌ったことで話題を呼んだ。強い印象の作品ではあったが、「あまりに暗い」「救いがない!」との声も多数あったと記憶している。
この小説はそこまで大掛かりとは言えないけれど、救いのないまま取り残されてしまった、今の感覚はなんだろう、と読了時しばし茫然とした。
アメリカの田舎、わずか100ヤードのメインストリート、紡績工場に教会だけの町、鉄道駅もバス停も遠い。188cmの巨躯、内斜視、とげとげしい表情、訴訟好きー、醸造所を持ち、雑貨店を営む独身の女、ミス・アミーリアの元にいとこと名乗るせむしの小男、ライモンがやって来る。どういうわけかミス・アミーリアはカズン・ライモンに優しくし、一緒に暮らし始める。男女の仲、というわけでもないようだ。ミス・アミーリアは明るくなり、店をカフェにし、毎晩繁盛する。
ある日、ミス・アミーリアとかつて結婚したはいいが、純愛の心を持っていたにもかかわらず指一本触れさせてもらえず叩き出されたことを怨みに思っている元夫で、強盗の罪で服役していたマーヴィン・メーシーが出所し、町に戻って来るー。
物語の冒頭で成り行きはおおむね仄めかされている。アミーリアやカズン・ライモンのキャラと暮らしの編み込み。描き方はなんとなくこれもアメリカ、という感じがする。そこはかとなく、遠回しに何かの雰囲気を出すことだったり、風変わりも人間の業でよくあることだと受け止める傾向があったり。
アミーリアが上機嫌になり、なんらかの幸福感に浸るのは見てて少し愛おしくなる。だがしかしけれども、登場人物はみなちょっとクセや偏りのある、読み手がまっすぐ愛せない人間像だ。だから上昇の場面が際立つのかなと思う。
落下した時にはそのギャップが目立つ。起承転結の転、は冒頭に暗示された元夫の登場だけでなく、カズン・ライモンの行動にある。そして決着方法も派手で奇抜というか・・その後は悲惨。意外で極端な成り行きと救いのなさに、どう消化していいのか分からなくなる。
映画にしろ、小説にしろ、筋が通ってなくとも何かを残せれば成功、とは思っている。強い印象、画面や表現の美しさや色彩、可愛さ、虚しさ、嫌さ加減。「ダンサー・イン・ザ・ダーク」ではタイトルのダークに関連した仕掛け、ビョークの歌声、幕切れの虚しさがあった。しかしさほどのスケールの大きさはないこの小説は立ち止まるだけ。小説だから「なぜ?」を含んだストーリー展開ができる。普通でない方が心に残る。人物像と暮らしの編み込みは興味深い。
この立ち止まってしまう感、なにか深みがある気がすると思い返すのがこの話の特徴かも知れない���