頼ること 平等なこと 大切だ
2025/01/13 22:51
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投稿者:清高 - この投稿者のレビュー一覧を見る
1.内容
新自由主義が世界を席巻し、自己責任論の影響が強い。それは「『強い』主体としての人間」(p.6)を前提としているもので、いわば「『強い責任』」(同)である。しかし、それだけでは、「『責任のある者』」と「『責任のない者』」(ともにp.43)の分断を招いたり、命令通りに責任を果たすと無責任になる一方で自分で考えて命令に従わない場合の方が責任ある行動になるという矛盾も生じ、不都合である。そこで戸谷洋志は、ハンス・ヨナス等の哲学者の見解をヒントとして「『弱い責任』」を提唱する。その責任を認めると、分断ではなく連帯を旨とするので、妥当な結果を生み出す場合が多いと思われる。
2.評価
(1)自己責任論もそうだが、従前の思想は、たしかに「『強い』主体の個人」を前提としているものが多く、例えば経済学も「合理的人間」を想定して理論を形成する。しかし、それでは不都合な部分も多いので、行動経済学という学問が興っている。それと似たようなものであり、行動経済学同様一理ある考えである。
(2)本書で挙げられている事例に関して言えば、結論は穏当である。一人で子育てする親がつぶれないように社会保障等に頼ることや、差別を否定し平等を肯定するくだりは、大抵の読者を納得させられるものと思われる。もちろん、ヒト限定なのか、という非難はあり得るし、ヒトは生命を殺して生きるものなので、「すべての生命に対して哀悼可能性を認めるべき」(p.184)としたらどのように生きるべきかについて本書では示されていないが、他者に頼るべきときは頼ることや、社会保障(という思想)の重要性がわかる点を重視して、5点とする。
自己責任論による社会の破壊が見えてきているのだろうか
2025/01/04 23:18
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投稿者:雑多な本読み - この投稿者のレビュー一覧を見る
自己責任論という意味不明なことばが独り歩きしている。新自由主義というイデオロギーの一端を表現しているといわれる。今だけ、金だけ、自分だけともいわれる。自己責任とどう関係するのだろうか。本書は一人で子どもを育てているところから始まる。仕事と家事及び育児に取り組むのは、他人に迷惑をかけたくないという意識があり、無理がたたってよけいに多くの人に迷惑をかけてしまうという想定である。強い責任の結果の無責任という。自己責任論に立つ、本人が選択しているという強制かもしれない。もう一つの選択肢は、最初から周囲の人に協力を求め、安定的な生活で子育てをするという「弱い責任」を提示する。自己責任論は一つの人間観を前提としていることは間違いない。近代的自我とも違う、強い主体を想定しており、知らず知らずのうちに刷り込まれてきたといえるだろう。本書の目次を見ると、
はじめに
第1章 自己責任論の構造
第2章 孤独と全体主義
第3章 中動態と意志
第4章 傷つきやすさへの配慮
第5章 ケアの連帯
第6章 想像力と哀悼可能性
終 章 新しい社会保障のために
おわりに となっている。
以上のように展開されている。自己責任論はイギリスのサッチャー首相が代表的な論者として紹介され、社会というものは存在せず、個人やせいぜい家族ぐらいしか認めない極端な例であろう。そのサッチャーですら、認知症が現れ、人の世話になっている。金さえ用意していればいいという問題ではなかろうに。元気な時しか考えないというのも問題であろう。生まれた時は、家族だけでなく多くの人の世話になり、高齢になれば多くの人の世話になることは明らかだろう。また、責任、責任というが誰に対してとるものか不明な点も指摘する。第2章のナチスドイツの自己責任論、ユダヤ人虐殺にも通ずるところがある。もちろん、現代の自己責任論とは文脈が違うと指摘するが、結果は通ずるところがあるという。能動態と受動態という点も、中動態の紹介、ケアの思想と広がっていく。哲学的な思索が不足している現代の人間に必要な書である。一読されたい。
「強い責任」と「弱い責任」の社会。
2024/11/01 09:03
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投稿者:おじゃもんくん - この投稿者のレビュー一覧を見る
前書き部分で、「次のような場面の想像」とあり。
幼い子供を育てていて、仕事と家事と育児をすべて一人で担っていて。
睡眠時間を削り働き続けて、ある日体調に異変を感じたとして。
あなたならどうすると言う問いがあり。
無理を続けて働き、どこかでダウンするか。
誰かを頼るのか。
現在の日本社会は、「自己責任」(「強い責任」)の声が高く。
ひとり親家庭は、産んだのも・その状況を生み出したのも「自分の責任」となっている。
その「自己責任論」に作者は、大きな疑問を感じて「弱い責任」を提言している。
誰かに助けを求めるのは「無責任」じゃないし。
人に頼ることが「後ろめたくない社会」が本来では無いのか。
新自由主義を下支えする思想として、国家に導入されてきた自己責任論。
人々を分断して孤立させ、誰かに責任を押し付ける社会。
この状況への流れを、本書では丁寧に解説して未来を模索している。
ハンス・ヨナスとエブァ・フェダー・キティとジュディス・バトラーの、三人の哲学者の言葉を手掛かりに。
「利他」の礎となる「弱い責任」の理論を構築されています。
しかしこの社会、このまま「自己責任論」が進むと。
かなり苦しい未来が待っている事でしょう。
なかなか、勉強になる一冊でした。
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メモ→ https://x.com/nobushiromasaki/status/1828208752417525812?s=46&t=z75bb9jRqQkzTbvnO6hSdw
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感想
すべて自分で抱え込まない。最初は周りに助けを求めるのは難しいかもしれない。だけど私は周りを助けている。そう思えば少しは頼りやすくなる。
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責任の定義を見つめ直し、誰のための責任なのかを改めて問いかけることで、現代の自己責任論に疑問を投じることから本書はスタートする。そして、責任の対象者のケアを目的とした「弱い責任」を定義し、その対象者およびその責任を全うするにはどうすればいいかを述べるといった内容。
過去の哲学者の言葉を引用したり、ナチス政権下の異常な状況下での活動を反面教師にしたりして、自分の論説に導いてる形式で難しさはありましたが、結論はシンプルだったかなと思います。まぁ結論としては「みんなで思い合って助け合いましょう」くらいなのですが、少しまどろっこしかったかなと思いました。正直、概念の提唱は分かるのですが、howの部分がないと理想論に過ぎないよなぁっていうのが個人的な感想です。
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私には難しい内容でしたが、とても勉強になりました。
強い責任には、自己責任論があり、社会構造や生きづらい理由を知ることができました。
必要なとき気軽に頼ることのできる社会を目指したいと思います。
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※何度もアプリが落ち、書きかけの感想が消えてしまった。TAKE3でようやく、別のメモに書き溜めてから投稿するように変更した。(かなり熱く語っていたのだが、だいぶクールダウンした感想になってしまった)
強い責任と弱い責任を対比し、責任とは誰がとるものなのか?という話は一瞬で終わり、そもそも能動的と受動的だけでは語れないというところから國分功一郎さんの中動態の概念を引用し、前半の強い責任パートが終わる。
後半の弱い責任パートから、面白く一気に読んだ。(と言いつつ、ところどころ、ページを閉じて連想したくなる場面もあった)
第4章の傷つきやすさへの責任では、勝手な誤読連想として、亡き父を思い出した。
自分が小学生の時、母方の祖母がなくなったことを知らされ、号泣するわたしを、普段は自由人で子どもっぽい行動の目立つ父が強く抱きしめてくれた感覚を思い出した。
自分より、支えなければならない存在を前に、守ろうと動いた故の行動だったのだと思う。
大人になった自分も、守るべき人や、助けを必要とする人の存在に気づいたら、安心させてあげられるよう行動したいと思っている。これは、贈与のようなものなのだと思う。助けられたことのある人、或いは、助ける行為をみてその美しさに賛同したことのある人がリレーのような形で広がる文化なのだと。
第6章では、哀悼可能性というキーワードが出てきた。
この概念はとてもわかりやすく、ささった。
一方で、自分が普段から「リスペクト」という言葉で語っているものと近しいとも思った。
また、「父権主義」の話で感じたのは、「マウンティング」である。
今回の本での「頼る」について、読み始めは、子どもを持つ親、中でもシングルマザーや複数の子どもを育てるワーキングマザーを想像しながら読んでいた。
1人で背負わせてはいけない、社会で支えていこう、と。
その文脈は大いにあるが、父権主義の文脈あたりでは、所謂マウンティングやハラスメント被害に合いやすい立場について想像させられた。
要は、「自己防衛」が「相手を傷つけていい存在」とみなす理由となるのであれば、広義では戦争はなくならないし、狭義では後輩いびりや足の引っ張り合い等も起こり続けるのでは、ということである。
そして、悲しいことに、「自己防衛」自体が人間の本能的な欲求ながら、その感情を整理して、あらゆるものに対して「哀悼可能性」を持つことは、簡単ではないだろう。
この本が、届いて欲しい人にこそ、届くに時間がかかるかもしれない。(救われる必要のある人が手に取る方が多いかもしれない)
とはいえ、人の行動や思考、思想を変えていくのは、ひとりひとりの行動であると思うので、自分が自分の周りからでも、助けの必要な人に気づいて、話しかけていくことを続けていく。
その贈与で、伝播していくことを祈るばかり。
最後に、
第2章で引用されていた、ハンナ•アレントの「自分と語り合うよりも前にまず友と語り合って話題となっていることを吟味するのであり、その後で、他人とだけでなく自��自身とも対話をすることができるのだ」
の部分がとても気に入っている。
友と語り合うことで視野が広がるだけでなく、どのように問いをつくって深めていくかも学べる(学び合える)ということである。
そして、友とセッションのように新たな視点を見つけられたように、自分で自分の声を探しにいけるようになるのかもしれない。
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助けを求めることは「無責任」ではない。
新自由主義を下支えする思想として日本に導入された「自己責任論」。しかしこれは人々を分断し、孤立させる。
誰かに責任を押し付けるのではなく、別の誰かに頼ったり、引き継いだりすることで責任が全うされる社会へ。
「利他」の礎となる「弱い責任」の理論を構築する。
・国民は経済システムを成り立たせるための手段として、自己責任を課せられている
・そもそも自己責任という概念が、他者への責任転嫁を含意している
・能動態、受動態、中動態
・たとえ中動態になされた行為であっても、それをあとから能動的な行為として事後的に修正してしまう(意思の事後遡及的成立)
・責任とは「傷つきやすい他者」への気遣いであり、憂慮である。
・自分の利害関係を超えて愛しているわけでもない他者に対して、それでもその他者を守らなければならないと思えるときにこそ、人間は自らの自由を発揮している
・哀悼可能性の認知は常に差別におちいる可能性を有している。あるとき、ある条件が重なると「この人は傷ついても仕方がない」と思う。しかしそれは差別であり、不正であり、暴力なのだ
・弱い責任における「保証」と「信頼」の実践
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講談社ポットキャストから書籍情報を入手。
普段何気なく使ってしまう「自己責任」という言葉が持つ暴力性について考えるきっかけとなった。
中動態に関する章は些か専門性が高く、少々異質な感覚はあるものの、全体として非常にまとまりのある内容。
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本書の要点をまとめれば「弱い主体が連帯し、他者を気遣うこと」となる。
新自由主義が蔓延し、人々の心の中までつかんでしまった現代において、そしてその集大成ともいえるトランプ復権が現実になってしまった時代にあって、強さとか責任という高所からのマジックワードを根本から見つめ直さないといけない。そのためには本書が重要な手掛かりになる。
「強い責任」が称揚される社会とは、ナチスドイツにみられるように、実はシステムに好都合で、実は無責任で無思考な、危ない社会だ。だから「弱い責任」へと目を向けるべきだ。
それは、目の前の傷つきやすい他者に対して、守る力を持つ者が引き受ける気遣い(ヨナスの思想)であり、ケアの主体同士の連帯である(キティの思想)。そして傷つきやすい人とは、原理的にはすべての人なのだ(バトラーの思想)。さらに、責任を果たすことと頼ることは両立する(p198)という。
締めくくりの言葉が熱い。
『どんな未来が待ち受けているのだとしても、「私」は大丈夫であり、その未来を生き抜くことができる――そう子どもたちが信じられる世界を維持することが、大人の責任である。そしてその責任は、責任の主体同士の連帯によって大人たちが互いに連携し、互いを頼り合うことによって、はじめて成立するのである。」(p201~202)
弱さとは、希望だ。実に面白い本。
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社会人ですが体が弱くて、すぐに体調を崩してお休みをいただき周りの方に迷惑をかけることが多いので、他者を頼ることなく自律的に生きる強い主体を前提とした責任概念「強い責任」にはほど遠い所にいます。
責任を果たすことと、頼ることは完全に両立するという本書の主張は生きる上でとてもありがたく心の支えになる考えです。さっと読んだので理解が及んでない部分もあるので、繰り返し読んでみたい一冊です。
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「ケアの倫理」に関してキティに関する言及があり、一読してみた。「自己責任論」への言及より、その背景に「強い責任」があり、それに対置するものとして「弱い責任」について説明するために、中動態、キティ、おそらく著者の専門であるヨナス、そしてバトラーを用いて説明。最後に著者がまとめているが、「弱い責任とは、自分自身も傷つきやすさを抱えた『弱い』主体が、連帯しながら、他者の傷付きやすさを想像し、それを気遣うことである。そうした責任を果たすために、私たちは誰かを、何かを頼らざるをえない。責任を果たすことと、多雨よることは、完全に両立する」。若い哲学者で具体例も分かりやすい。今後の著者の活躍に期待したい。
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アーレントの見捨てられると思考能力を失ってしまう話からの展開とヨハスの責任の代理可能性が印象に残った。弱いことが未来の可能性を開くものだと感じれた。
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現代哲学を非常に実学として使った本。新自由主義を正当化する理論として使われる自己責任論。そこから導き出される個人主義、差別、思考停止の全体主義化。まさに、欧米の右傾化や日本の自己責任論に潜む危うさをわかりやすく、日々の思考にも活用できるレベルで説明してくれている。
シンプルに 責任とは誰が負うべきかでなく、誰に対して何に対して負うべきかといえ対象に目線を移さねばならない というメッセージは響く。
自分もヒヤリとすることがあり、また辟易とさせられる政治や経団連、組織の論理などにも当てはまる。
この本を読むかどうかは 終わりに を読んでみて、より深く知りたいと思うかで決められると良いだろう。
そしてここでも中動態。このテーマで責任を述べた國分巧一郎さんはまさに引用される数半端ないな。