「学力を付ける」ということの本質を知れました。
2024/10/20 13:48
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投稿者:広島の中日ファン - この投稿者のレビュー一覧を見る
学校で学ぶことで生徒はどう学力を付けるのか、そもそも「学力を付ける」とは何なのか、という命題を追った1冊です。
当書では今現在行われている学校での授業が、生徒が「学力を付ける」本質といかに乖離しているか、容赦無く指摘しています。さらに、著者らが開発した新たな「学力テスト」を生徒たちに受けさせ、どういった誤答が出たのか、実際の答案をそのまま掲載し、誤答に至った経緯を検証することにかなりの紙幅が充てられています。
そして、誰もが楽しんで学べる授業の確立まで話は進み、実際の授業の様子が生き生きと著されています。なるほど、こうした授業なら全ての生徒が「学力を付ける」本質を得られるな、とその内容に納得できました。大変奥深い内容の書籍です。
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投稿者:キェルケゴ - この投稿者のレビュー一覧を見る
図書館で借りて読んだ本。
以前の子どもにはあった学力が喪失したという話ではなく、もともと学び考えることが嫌いな子が学力そのものを身につけられていないという話。独自の学力テストなどを例に考察されているが、そもそも勉強できるようになるには、やる気とか習慣とか目標といった内面のエネルギーの方が重要だと思う。
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<目次>
第1部 算数ができない、読解ができないという現状から
第1章 小学生と中学生が算数文章題をどう解いているか
第2章 大人たちの誤った認識
第3章 学びの躓きの原因を診断するためテスト
第2部 学力困難の原因を解明する
第4章 数につまずく
第5章 読解につまずく
第6章 思考につまずく
第3部 学ぶ力と意欲の回復への道筋
第7章 学校で育てなければならない力~記号接地と学ぶ意欲
第8章 記号接地を助けるプレイフル・ラーニング
第9章 生成AIの時代の子どもの学びと教育
<内容>
恐ろしい時代になったな、というのが最初の感想。そして高校へも確実にこうした生徒が入ってきてるな、と言う実感。対処法も載っているが、まずは我々大人が、殊に教員が、この事実を知り、どのように考えていかねばならないか、どのような教育をしなければならないか、真剣に考えねばならないだろう。
第1部が状況の紹介。最後にある「たつじんテスト」は、けっこう難しい。第2部の分析は、ちょっと難しいが、実感としてはわかる。第3部は生成AIの話で、ここは年寄りの私には違和感があったが、そういう時代になっていくのだろう。そこに書いてあった「子どもが自分の頭で考えずに、すぐに答えを求めることが習慣になったなら」というフレーズに寒気を感じた。今見ている生徒がそういう傾向にあるからだ。「考えてほしい」。これが私の願いである。
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自分の幼少期の体験、そして現在進行形の子育ての実体験も考えながら楽しめ、かつ悩ませてくれた本だった。今井むつみさんの「言語の本質」は読んでいたので、アブダクションや記号接地の話しはすんなり入る。また、ダニエル・カーネマンの「ファスト・アンド・スロー」も知っているので興味深く読めた。
その前提で、今の教育がそもそも学力の意味を履き違えているのではないかとの指摘は重い。自ら学ぶ力と定義して、果たして意欲を引き出す環境を学校も家庭も提供できているのか、との疑問・自戒が沸いてきた。
知識には「生きた知識」「死んだ知識」があること、子供がどのように認知するかの経路を知ることは実は大人の組織内の合意形成に繋がる話しかもしれない。
とにくくわたし自身の学びが深く、傍に置いてまた読み直したい。あと、作者が広島県教育委員会と始めた「たつじんテスト」は試してみたいなあ。
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子どもの母語習得をみていると、人はみなとてつもない「学ぶ力」を潜在的にもって生まれてきているのに、学校にあがって育っていくうちに次第にそのすごい力を喪失したようになり学力不振や学習性無力感に苛まれる人が多いのはどうしてなのだろう、という思いが著者の出発点。
話を進める上では著者も関わって開発された「たつじんテスト」のデータ(出題内容と小中学生の正答率)が多く引用されており、それを見るだけでもこどもの語彙力や読解力の現実におどろき危機感が増すし、説得力もある(心理実験に精通しているから作問も行き届いていて勉強になる)。教育関係者や小中学生の親だけでなく、子どもにかかわる人はみな目を通しておくべきかと思う。
データそのものも興味深いが、認知科学の知見に基づいた私たちの脳あるいは心の癖や傾向についての解説もわかりやすく、子どもの教育にとどまらず学びがある。
「学力の回復」に関して著者はあくまでも学校教育の中で対応するための手立てを提案しているが、実は学校にあがるまで(就学後でも学校外)の日常生活の中で大人がどう導いたり応じたりするか、というのがかなり大きい気がする。
第I部の「学力「知識」」観について(第2章)や「たつじん」テスト開発の経緯(第3章)はちょっととっつきにくい部分も多いかもしれないので、それぞれの章末のまとめ(←親切設計)に目を通してまずは第II部の具体的な例を読んでから最後に読み返してもいいかもしれない。
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配架場所・貸出状況はこちらからご確認ください。
https://www.cku.ac.jp/CARIN/CARINOPACLINK.HTM?AL=01433929
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2年前に同じ著者の「算数文章題が解けない子どもたち」を読んだ。これはちょっと感動もので、それまでに自分が考えていたことをうまく言い当ててもらっていた。その後、「言語の本質」が大ベストセラーになったが、なんだか買いそびれてしまって、アマノジャクな僕は結局読まずじまいだ。そして本書、いくつかの復習と、いくつかの新たな知見を得た。「遊びから学ぶ」実践例を知ることもできた。以下、最近出会ったいくつかの間違い例について。最初に断っておくが僕が相手をしているのは、中学受験や高校受験に向けて取り組む、まあ学校では上位に入る子どもたちである。それでも、記号接地をし、生きた知識になっていくのには時間がかかる生徒も多い。小4生、これは複数の生徒。分数の計算を習い始めたところ。まだまだ大小関係はよく分かっていない子が多い。「たつじんテスト」の数直線上に数値を入れて行く問題をやらせてみたい。昨日取り組んだ問題。1月ほど前に学習した内容の復習である。分数を小数に直す問題だ。2/5を小数に直す際、2÷5とすべきところを5÷2としている生徒多数。もともと分数を2/5という形で書いていれば間違いが少ないのかもしれない。しかし、日本ではほとんどこういう書き方はしないだろう。読み方も2分の5と間違う可能性が大である。two over five としておけばいいのかもしれないが。この点については本書のP.203でGPT-4の解答例でも間違いが見つかる。気になるところだ。さて本題は、2/5を5÷2=2.5としてしまった生徒は、1を5つに分けたうちの2つ分なのに1より大きくなっているということに気付かずに平気で答えを書いてしまっている。つい逆に割ってしまいました…というのはアリなのだが、そこで、ふん?変だぞ、と気付いてほしい。要するに生きた知識になっていないということなのだろう。カードゲームで遊びながら記号接地に取り組めればいいが、週1回110分の授業ではなかなか難しい。それでも、大半の生徒は2,3ヶ月もすれば普通のこととして使いこなせるようにはなるということを経験的には知っているが、でも怪しいままで先に進んでいってしまう生徒もいるだろう。地道にひとりひとりをしっかり見てこちらが気付いて注意を促し、本人たちにも気付かせるように持って行くしかないのだろう。中1生、方程式の文章題で、連続する3つの整数を真ん中の数をxとして表すという課題であった。ほとんどの生徒がすらっとできる中、2名どうしても書けない生徒がいた。「xより1小さい数と1大きい数をxを使って表してみて」と伝えるがなかなか書けない。仕方なく「小さい方はx―1だよ。じゃあ、大きい方は?」と聞くと、2ⅹと書いた。うーん、どうしたことだろう。続けて説明をしたが、結局時間制限もあり答えを教えてしまった。ここでつまずく生徒をいままで見た記憶がないので、ちょっと戸惑ってしまった。それが生徒の方にも伝わったかもしれない。申し訳ないことをした。・・・これらはどちらも昨日の例である。日々このようなことが起こっている。もっと書きためておけばよかったかもしれない。「毎年ここで間違うよ。まあ1回みんなやってみ。」などと言いながらやる単元は心積もりがあるから良いのだけれど。さて、本書の最後で、学びの効率性についての話がある。僕たちがやっていることは、ものを作っているわけではないのだから、なんか効率的というのは違うような気がする。「個別最適」ということばも、そういう点でちょっと引っかかる。そりゃ、退屈する生徒がいない方がいいし、ついて行けない生徒をほったらかしにはしたくないけれど、だからと言ってひとりひとりに最適な方法でタブレットに向かって、あるいは個別指導で、っていうのは短絡的でなんか違うような気がする。集団の中でないと得られないもの、気付けないものがきっとたくさんあるはず。それに、こういう話をするときにいつも思い出すのは、大村はま先生が言っていたこと。良い授業というのは、できる子もそうでない子も目立たない授業。50人ほどのクラスでも、それぞれがそれぞれの課題をもって一生懸命に取り組んでいる。まあ、それが本当の「個別最適」か。それがICTを活用することで効率的にできるようになるのか。うーん、でもなんか違う気がする。本書にもあったと思うが、クラスの中で教え合ったり、分からないことを分からないと気軽に言える環境をうまくつくれればいいのだろうなあ。
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前作「言語の本質」が面白かったので購入。
記号接地問題、アダプション推論に加えて「スキーマ」という概念が登場。
全国学調の点数=学力と捉える風潮に意を呈するところは賛同ですが、代わりになる指標がどういうものだと授業や施策の評価ができるのかは難しそう。
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出版社(岩波書店)
https://www.iwanami.co.jp/book/b650415.html
本の内容(著者からのメッセージ)、目次、著者略歴
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算数・読解ができないという現状:
小学生と中学生は算数文章題をどう解いているか
大人たちの誤った認識
学びの躓きの原因を診断するためのテスト
学力困難の原因を解明:
数・読解・思考
学ぶ力と意欲の回復への道筋:
学校で育てなければならない力―記号接地と学ぶ意欲:
生成AIと記号接地
子どもはどのように記号接地しているのだろうか?
アブダクション推論とブートストラッピング
自走できる学び手へ
記号接地を助けるプレイフル・ラーニング:
プレイフル・ラーニングの考え方
時間概念の記号接地
分数概念の記号接地
知識を身体化できるのは学び手のみ
生成AIの時代の子どもの学びと教育
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興味深く、一気読み。
赤ちゃんは懇切丁寧に理論を教えてもらわないのに、自らの経験を通じて母語を学ぶ。
学校教育はなぜそのような学びになっていないのか?
とっても面白い視点だと思う。
…部外者としては。
一方で、学校関係者がこのような指摘を受けたら、、、頭抱えるしかないのでは、とも思う。
指摘されていることはいちいち面白い。
文章題に出てきた数字をもれなく使ってとんちんかんな答えを導きだすようすetc.
概念が「接地」していない(身についた知識になっていない)例がこれでもか、と紹介されている。
指摘だけでは無責任だと思ってか(?)、分数や少数概念の「接地」に役立つカードゲームなどの提案もある。
うん、こういうゲームが役に立つ子もいるかもね。
でも、全てをそういう授業にするのは難しそう。
学校教育って、難しい、、、、(ように思うけど、案外当事者たちにとっては、そうでもない、のならいいのですが)
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9月に購入して以来、積ん読になっていた、本書を少しだけ読んでみた。
小中学生の学びの躓きの原因が認知科学によって明らかにされていく。そんなところに原因があったのかという気付きが心地よく読み進められる。
例に取られているのは、小学校の算数が主なようだが、英語の場合はどうなのだろうかと興味を持った。今井氏には、同じ岩波新書から『英語独習法』という著書もあるのだから、そちらにも少し目配りがあってもよかったのでは。英語教育学者の研究も待たれる。
索引はないが、各章の末尾にまとめがあり、詳細な参考文献表や読書案内も付いているので、大変親切なつくりになっている。
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今井氏から毎回新しい気づきを得る。今作は「記号接地」というキーワードであった。なるほど、ドリルで型が身についても、文章題を解けないのは本質を理解できていないからかと。
遊びながら学ぶこと(プレイフルラーニング)が効果的であるということであったが、何年生のどの単元に対してどのようなアプローチが必要で、と考えるとメソッドを確立するのは厳しいと感じた。
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職場で、学力向上のための取り組みを何かやれ、というミッションを受けた若い先生にいろいろ質問されるので、私も勉強するんだけど、公立の中学校でやる「何か」というのは朝自習の時間にみんなに共通の課題に取り組ませるとか、学級で勉強に関して何か目標を立てさせるとか、そういうことしかできない。で、それをやったから学力があがる、なんてことは常識的に考えても起こりえないと私は思う。
だからと言って「公立中学校で学力を上げることは無理」とか言っちゃうと責任の放棄になっちゃう。
私個人としてはちゃんと答えをもっていて、すべての先生が、自分の専門の教科の授業に責任をもって、ちゃんと授業をするのが一番の「学力向上の取り組み」だと思っている。とにかく中学校は、本来の仕事(プロの授業を作ること)以外の仕事が多すぎて、授業がおろそかになっている先生が多い。
さて、本の感想。
本書ではまず、「たつじんテスト」というオリジナルのテストの分析などを通して、学力が身につかない小学生が、いったい何につまづいているのかを解説している。算数の文章題の意味がわかっていなかったり、数直線や分数が全く理解できていなかったり。これは実感として、すごくわかる。私は専門は数学ではないが、他の教科の問題でも、そもそも問題の意味がわかってないよね、意味が分からないからテキトーにしか答えてない、もしくは最初から考えようとしていない、もしくは全く意味がわかっていなかったり、間違って理解しているまま一生懸命考えていて、思考が全く違う方向に行ってる…とか、そういう生徒を日々目の当たりにしているから、すごくわかる。
本書では、そういう子どもが「意味がちゃんと分かる」ように、体験・経験を通して「記号接地」させることが重要だと説明している。
これも私にはすごくよく分かる。というか、私は子育てするときに、そういうことを意識して子供に語りかけてきた。例えば洗濯機に液体洗剤を投入するとき、「0,6杯だから、キャップのこの辺までだよ。半分だと0,5杯だからね」とか。料理や手芸をするときにも算数の概念を使う。子どもが3歳くらいのときから、分数や少数を使う会話は、日常生活で自然と生まれる。
学校でもそういうふうに、生活に結びつけて教えることが大事と。そういのが、「生きた知識」である。概念がわかり、生活から学び、逆に、学んだことが生活に生かされる。いくら社会科で語句を暗記しても、実際に社会参画に生かせなかったらそれは「死んだ知識」だ。
すごくよく分かる。
ここからまた、本の感想じゃなくて愚痴になっちゃうけど、子どものころから親に(大人しくさせるために)スマホの画面をずっと見せられて、暇な時間はずっとゲームのコントローラーを握って育ってきたような中学生は、生活体験が全然ないので、記号接地させるのは難しい。洗剤をキャップの半分まで入れたらそれは「0,5である」ことすらわかっていない中学生が、信じられないくらいたくさんいる。こちらはそれくらいは分かっていることが前提で話を進めるので、もう中学校の授業は成立しない。
こういうのは公立中学校の一教員ではどうにもならないので、もっと政府や、文科省や、子ども家庭庁?やらが、ゲームやデジタル機器が子育てに及ぼす影響について広報するべきだと思う。
↑この頃新書読んだらだいたいこういう結論にしか至らないよ…。
p226
子どもは言語の発達の道筋で、このように、身体で感じてすぐわかる類似性を使って、見てもわからない、抽象的で本質的な類似性に注目して一般化ができるようになる。自分で気づくことができる手がかりを使って具体から抽象へ自分の力で登っていく。これがブートストラッピングである。この変化は一度だけでなく、、発達の過程で何度も繰り返して起こるし、実は、ことばの学習だけでなく、すべての学習で起こることである。
すべての知識の学びにとって、子ども自身で点を面に拡張することは、必要不可欠な過程なのである。
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概念を抽象化して、記号接地し、生きた知識を学ぶことの難しさ、重要性を学んだ。
高校の頃から頭の良い人は共通してこの能力を持っていたなあと、今考えれば思う。高校は時間がなく、効率を求めるあまり、目の前の具体的な部分の知識に捉われ、抽象化して考えることができなかった。それでは死んだ知識も同然で、AIとなんら変わらない。
これに今気づけたことが最高のタイミングと考え、今日からは物事の具体性のみに捉われず、抽象化して考える癖をつけていこうと思う。