断腸亭日乗 二　大正十五―昭和三年

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以下は「断腸亭日乗」マイ読書日記なり。

R06/12/17 曇りて風厳し　1日ファミレスに篭りぬ

大正１５年正月元旦、街燈の光あかるさに、裏町の児女夜を日につぎて羽根つくなり。軒の燈火の薄暗かりし吾等幼時の正月にくらべて、世のさま変わりたるは、是にても思知らるゝなり。
←日乗によって、その時代のさまざまな風俗が明らかになる。また魅力のひとつなり。

正月１２日、桜川の女訪ひ来りし
←この後延々と女＝お富との昨年末からの馴れ初めを語りぬ。正月ここまで3度会っている。そもそもわたしの記憶ではこの10年で女が3度変わっている。3人ともほとんど商売女である。お富は32歳、見かけは24歳。顔立ちが好みだったらしい。それだけらしい。「人間いくつになっても色欲は絶ち難きもの」ホンマそう。ただ、彼女には一切の文化的素養はなく、荷風への変な欲は無いものの、なんか将来的には不安。

3月２６日、快晴の空午後に至りて俄かにくもり雪紛々として降り来たれり。日暮雪やみ月出しが寒気厳冬のごとし。
３月３１日、巌谷小波より荷風産まれし時の古暦を贈らる。産まれし時は、水曜日、大陰暦十月二十日庚申（かのえさる）と始めて知れり。
←（この日に生まれたものは盗人の性格があるとされるので）「品行の不良なること怪しむに足らず。呵呵」と苦笑せり。古暦のそういう見方もあるのか！わたしは？

4月2日、烈風。塵烟濛濛。深夜雨。
４月３日、雨降りて風寒し。桜花未開かず。
４月９日、近巷の桜桃凡て花開く。
←今の気候より必ず20日はずれている。1月頃は毎日お富に会っていたのに、この2ヶ月全く記述なし。4.27やっと共に晩餐をなす。

6月16日、児島惟謙の伝記を恵贈せらる。
←惟謙は、往年の大津事件（ロシア皇太子襲撃事件）の被告を、「死刑にせよ」との政府の要望に対し「法に則り無期懲役に処」した判事である。それを肯定的に日記に書くことで、荷風の思いが知れる。

7月12日、雨。午下に晴る。烏森より高架線にて上野に往く。秋葉ケ原に停車場あり、之をアキハバラ駅と呼ぶ。鉄道省の役人には田舎漢多しと見えたり。高田の馬場もタカダと濁りて訓む。
←と、書いているということは、本来の読み方は「アキハガハラ」「タカタ」なのか？しかし、この役人の読み方が後世「正式な読み方」になろうとは、荷風先生、今は思っていない。

9月16日、曇りて風なし。残暑全く去る。
←残暑去るの早！羨ましい。
９月２３日、細雨糠（ぬか）のごとし。
９月２４日、秋分なり。霖雨（←ながあめ）晩に晴る。
9月25日、溽暑（←蒸し暑さ）甚し。
9月26日、曇りて風なく静かなる秋の日となりぬ。
←うーむ、知らない表現ばっかり。勉強になります。

10月１０日、売笑婦を眼にする。震災前後から築地赤阪辺りの待合カフェにて、蓄音機にあわせて酒席で裸体で踊り祝義を10-15円とり、枕代は20-30円とっていたと書く（荷風は熟知している）。待合の手数料を引くと、女の手にするのは10-5円なり。
←これらの女を苦々しく見ている。女優の舞踏も西洋風に落ちていると苦々���い。やがてこれらの関心が「濹東綺譚」の玉ノ井に向かっていくのだろうか。

R07/01/10天気牢晴。寒気凛冽なり。湯たんぽを脚元に、達磨のように着膨れて、久しぶりに荷風を紐解く。

10月11月はたびたび「お久さ」なる者来訪し、或いは一泊する。新しい女か。

11月20日晴れて暖なり。
現今市中に流行するカッフェーなるものの状況を見るに、巴里のカッフェーに似て其の実は決して然らざる処、恰（あたかも）吾社会百般の事西洋文明を模倣せんとして到底よくすること能わざるものと相似たり。カッフェーの婢は日々通勤すれども、給料を受けず、客の纏頭にて衣食の道を立つ。されば窃に売色を以て業となすは言ふを俟たざる所なれども、世の風評新聞記者の脅迫を恐れて、酔客の誘いに応ぜざるが如き態度をなす。云々。
←カフェー（新たな売春制度）は、大正15年が流行の始めだったらしい。そして荷風は意外にも否定的だった。

12月14日
夜銀座を往くに号外売頻に街上を走るを見る。聖上崩御の時近きを報じるものなるべし。（略）今の世において我が国天子の崩御を国民に知らしむるに当たって、飲食糞尿の如何を公表するの必要ありや。
←荷風の天皇観は、庶民のそれに近い。

12月20日
初めて火災を間近に見る。「巡査の粗暴にして又臨機応変の才智なきことに驚く。（略）恐るべきは道を警しめ遮る巡査なり。

R07/01/12 トンド焼き、ぜんざい胃にもたれて食欲なし。日暮寒気の凛冽、例年の比にあらず。

「自伝」（執筆時期不詳）間に挟む。なれども、文章は簡潔にして達観しており、明治期における知識人上流家庭の息子にして、やがて都会に疲れて崩れてゆく知的青年の半生が見事に描かれている。

R07/01/14風止みて暖なり。用事ありて岡山市街に赴く序でに、図書を返し借受る算段なすも、振替休日なり。予約書物遠くなりぬ。

昭和二年　荷風年四十九　
正月元旦快晴、九時ごろに夢より覚めたり。直に枕頭の瓦斯炉に火を点しショコラを煮る、これを啜って朝餉に代ること、築地僑居以来十年変わることなし。
←ショコラとはココアのことか。フランス式だったのか？現代のおせちが一回も出てこないのは、当時の東京は皆そうだったのだろうか？

3月22日 好晴、窓外の瑞香開く。晩餐の後小石川原町阿部氏の病院を訪ひ電気治療を試む。
←産婦人科、ラジウム科、レントンゲン科の医者らしい。どういう治療か、見当つかない。49歳の荷風、「余命いくばくもなき（略）願わくは今一年生き延びたし」という心境らしく、この治療もその一環の気がする。荷風にあと30年生きますよ、と囁きたい。

4月25日 よく晴れたり、終日家にあり、門外に玄米ぱむと呼び歩く物売の声聞ゆ、震災の後玄米麺麭を売り歩く者多かりしが一時中絶しこの頃再び売り歩くなり、又去年あたりより盲人の納豆売十二三歳なる小娘に手を引かせ市兵衛町より飯倉中ノ町辺を朝夕売り歩く、冬の雨降りしきる夕暮などには其の声殊にかなしく聞ゆるなり
←ふと挟み込まれる、この手の文章に荷風の視点がある。また、貴重なる昭和初めの風俗なり。納豆売り！

6月21日 改造社社長山本某氏と「現代日本文学全集」所謂円本に「永井荷風集」を出すことで契約の手付金一万五千円を払うことを約す。
←森田草平や馴染みの女まで繰り出して、永井荷風と契約に結びつける山本某の情熱もさることながら、一円本のために数万円作家に払う（其の頃は印税とかなかったのか？）、昭和初期の景気の良さに、少し意外な感を持った。

７月６日午後驟雨雷鳴、夜に文士辻順（辻潤・思想家・一時伊藤野枝と同棲）と称する者余に対して暴行をなさんとす、倉皇として逃れ帰る、
←辻潤、Wikiには、意外と長々と説明されているが、結局どんな人物だったかは不明。暴行の理由も不明。この時期は、震災時の伊藤野枝殺害の余波で荒れていたらしい。単なる「言いがかり」の可能性は高い。この頃まで、「戦争」の影は一切ないけど、ちょっと前に政党壮志同士の泥酔喧嘩を見たり、この事件だったりで、なんとなく不穏な空気が流れ出していたのかもしれない。

７月９日晴れて風涼し、
弘福寺に赴き森先生（森鴎外）の墓を掃ふ、（略）墓前に手向けたる花に大なる名刺さがりてありし故に之を見るに慶應義塾大学部教授与謝野寛とあり、（略）肩書付の名刺を置くは売名の心去らざるが故なり、古狐の奸策さてもさても悪むべきなり、
←荷風はこういう「潔癖症」なところあり。これが老齢に至れば「頑固ジジイ」となる。

７月30日夜十二時前強震あり。
８月８日是日正午すこし前地大に震ふ。
←これ、関東大震災の余震だろうか。震災からの復興の東京が折々に荷風は書いているが、今は失われている記憶の中に、約10年経ってこれほどの余震があったことを、私たちは知りたい。だんだんと南海トラフ大震災が近づいている今だからこそ。（そのあと、昭和3年正月元旦に正に「強震」あり。その後度々強震の記述あり。昨年正月、誰も昭和2年正月地震の事語らざる。かくも人は忘れる生き物なり）

８月２４日 残暑忍ぶべからず、山中の清涼を思ふこと恰も蕩子の前夜別れたる情婦を思慕するものに似たり。
←この前約1週間、荷風は軽井沢に避暑旅行に行っている。ホテル宿泊だから、それなりに散財している。この残暑の感想などは、正に荷風しか書けないものだろう。

９月17日　夜お歌と神田を歩み遂にその家に宿す。
←初めてお歌のことが出てくる。歳21歳。「壺中庵」に囲う。
９月２８日 かねてよりの馴染みのお久が門前で待っていた。窮乏していると、金をせびり130円を渡す。
10月８日 お久来たりて５００円をせびる。「今まで心づかざりしかど実に恐るべき毒婦なり」「凡て自家の経験を誇りて之をたのむは誤りのもとなり、慎むべし慎むべし」１２日遂には.警察沙汰にしてしまう。11月８日、噂に今はカフッェーに勤め、情夫がいて、浅草公園の無頼漢にてこれまでも度々お久を玉に使い金銭をゆすってきたらしい。「黙阿弥の白波物を見るが如し」
←荷風はお久の正体を完全に見誤っていた。同時にお歌と付き合い出す。正しく蕩子なり。お久の情夫は、その後3月ごろまで度々荷風宅を訪ねるが、荷風は一度も会っていない。遂には弁護士を雇うて対応したらしく、ぴたっとこなくなる。正真正銘毒婦・毒夫だった。

１２月１５日 実弟貞二郎亡くなる。
１２月21日　原稿を見てくれという見知らぬ男の要求絶えず。来春50歳を迎えるにあたり、売文の事はやめようと決意する。
←三人兄弟のうち、この弟とは仲が良かったよし。その後4日ほどは、日記も短くなりぬ。筆を断つ決意も其の影響か。

12月31日
除夜の鐘鳴り止みし時、お歌の帰るを送りて門外に出でて見るに、上弦の月は既に没し淡烟蒼茫として四隣の樹木を籠めたり、家に入り沐浴して後本年この日の日誌書き畢れば、夜は早くも四更を過ぎたり。
←今は使わない漢字があるので、其の儘真似は良くないが、文章は美しい。

R07/01/15風吹き狂いて寒気甚だし。やっと取り戻したポッカリ空いた午後。ファミレスに籠ぬ。

昭和3年戊辰年　荷風年五十
正月二日
正月の墓参り。これだけは毎年欠かさず。

２月５日
お歌について、つらつらと述べる。「この女、芸者せしものには似ず正直にて深切なり」お久に騙されたばかりなのに、お歌に誑（たぶら）かされているのではないか？という懸念は読者としては消えないけれども、お歌のような「斯の如き妾気質の女も珍し」と荷風評価である。「かかる女は生来気心弱く意地張り少なく、人中に出でてさまざまなる辛き目を見むよりは生涯日かげの身にてよければ情深き人をたよりて唯安らかに穏やかなる日を送らむことを望むなり」「是文化の爛熟せる国ならでは見られぬものなり」
←物凄い保守主義、男の身勝手、と今では多くの男が言いそうではあるが、昭和3年なのである。これは荷風が悪いのだろうか？とも思って仕舞う。結局、荷風はお歌に家を買ってやり、囲っている。更には店を買い、彼女のいうままに連れ込み喫茶の店商売をさせている。お久とは、全然違って信頼にたる女だったのだろうが、何だかなあ、という気分にはなる。

２月17日
どうやら選挙運動が大いに盛り上がっているらしい（初の普通選挙？）。郵送される封書は凡て「選挙運動勧告文」。近所の板塀並びに我が家にも「候補者の姓名肖像を印刷したる紙片」貼られる。荷風は直ちに剥がしたらしいが、「（警察干渉厳しき時に）運動員ぞろぞろ引き続けて個別訪問」は「大いに喜ぶべきことなり」と言っている。
←荷風は政治は嫌いだが、権力に楯突くのは応援したいという立場なのだろうか。

4月８日本年彼岸すぎてより風却て寒かりしが、昨夜始めて暮春らしき暖気に近隣の桜花一時に満開となれり。
←相変わらず、小学校入学式の日に満開となるのが、温暖化前の日本だったのだな。

この日面会を求めてきた青年は「無産黒色連盟上原豊三」の名刺をおきて去る。実際にあったアナーキストの組織らしい。壺井繁治襲撃事件などを起こしている。こういう輩がいるから、治安維持法が民衆に認められてしまった面もあったかもしれない。「たまたま売文の資（財）を得るや凶悪なる結社の党人日々来たりて之を奪い去らむとす」その後、違う人間で共産党、無産党員なるものが「物乞い」にきたらしい。
←荷風は辟易している。円本で儲けているから貰えるだろうという輩らしい。
・一方、6月には、暴力団のゆすりたかりを描写する。「名を忠君愛国に借りて掠奪を専業となす結社今の世には甚だ多し」「今の世は実に乱世と云うべし」
←維��の頃と同じと表現してある。

１２月１０日
「浮奢は之を信ぜざるも夜半の鐘声は聞きて心耳澄ますにたるべし」「耶蘇の教義は之を信ぜざるも伊太利の古画と古刹とは芸術を愛玩する者誰か之をみて感激せざらむや」
←荷風は凡ゆる権威を排す。

１２月３１日
荷風の独自の「矜持」を延々と語りぬ。長いので、ここに書き写さぬが、荷風の思想の中心なるべし。

今回の日記も五千字を超えぬ。御読了万謝。（三）は又春頃刊行予定なる由。その頃又日記を再開せしむ。