デンデラ(新潮文庫)
著者 佐藤友哉
斎藤カユは見知らぬ場所で目醒めた。姥捨ての風習に従い、雪深い『お山』から極楽浄土へ旅立つつもりだったのだが。そこはデンデラ。『村』に棄てられた五十人以上の女により、三十年...
デンデラ(新潮文庫)
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商品説明
斎藤カユは見知らぬ場所で目醒めた。姥捨ての風習に従い、雪深い『お山』から極楽浄土へ旅立つつもりだったのだが。そこはデンデラ。『村』に棄てられた五十人以上の女により、三十年の歳月をかけて秘かに作りあげられた共同体だった。やがて老婆たちは、猛り狂った巨大な雌羆との対決を迫られる――。生と死が絡み合い、螺旋を描く。あなたが未だ見たことのないアナザーワールド。(解説・法月綸太郎)
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転倒の仕掛けが導く生と死の問題
2011/07/19 13:10
2人中、2人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:ががんぼ - この投稿者のレビュー一覧を見る
最近、浅丘ルリ子主演で映画化されて(人物のイメージがだいぶ違うのだが)話題になった機会に読んでみた。
日本各地に残る姥捨て伝説。70歳になった主人公の斎藤カユも、山に捨てられて、そのまま死んで極楽浄土にいけるものと思い込んでいた。だがふと気がつくと、老婆たちの集団に囲まれている。なんととうに死んだはずの老婆たちが、死ぬことを拒否して、デンデラなるコミュニティを作り上げていたのであった。
カユは思いがけない成り行きを拒みつつも老婆たちと共同生活をすることになるが、やがて彼女らが自分たちを捨てた村への復讐を計画していること、また一方には、デンデラの存続だけを願ってこれと対立する一派があることが明らかになってくる。が、そうしているうちに熊の襲撃を受けることになり、さらには疫病らしきものの被害も出る中、生き抜くための壮絶な戦いが始まる。
というわけでアクションの多い派手な物語である。それがまた、人間としては老婆たちだけで展開するという捻りも面白い。
読み進めながら、ときに黒澤明の『七人の侍』を、ときにゴールディングの『蝿の王』を連想した。だが、前者は強大な敵を前に集団が力を合わせる話であり、後者は困難な状況下で集団が内部から崩壊する話で、いわば方向性は逆である。どうやらそうした相反する印象を同時に呼び起こすのがこの小説の特長なのだ。法月綸太郎の巧緻な解説(見事なものである)にもいうように、語りは「です・ます」体でお伽話のようだし、老婆たちの様子も現実離れしているのだが、それでも全体にきわめてリアルと感じられる迫力があるのは、我々のコミュニティにいつでも起こり得る問題、状況が、巧みに取り込まれているからだろう。
何といっても、姥捨ての風習を転倒してみせた設定が斬新である。
生きていることが当たり前の状況なら、人は死について考えることも、生を突き詰めることもあるまい。死の危険、不安、恐怖に直面して初めて、死を問い始め、同時に生を振り返るのだろう。ここでは、姥捨ての制度により死ぬことがある意味当たり前の状況である。それを受け入れさえすれば、主人公のカユがそうであったように、生とか死とか考えることはない。だが死が待っているはずの場所にデンデラがあり、当然の前提が崩されたとき、主人公のカユは死ぬこと=生きることの意味を、あらためて考え始めることになる。そして生きていることに慣れた頃には、生への脅威としての熊が現れるのである。
その熊も、敵というより、やはり生きていかねばならぬ仲間として対等の地位を与えられている。要するに話はけっして単純ではない。
問題の複雑さに照応するように結末もやや曖昧なものだが、その方向性にははっきりしたものがあると思う。熊の襲撃の描写など、相当生々しく残虐とも見える一方、そこには同時に生と死をめぐる何かしら大きなものが感じられる。最後には一種清々しい感動を覚えた。
老女たちの、「生」の重さと「死」の重さ
2011/06/24 15:19
2人中、2人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:mieko - この投稿者のレビュー一覧を見る
1983年にカンヌ国際映画祭パルムドールを受賞した『楢山節考』という映画がありました。「楢山節考のその後」を描いた映画「デンデラ」が2011年6月に公開されますが、本書はその原作です。
70歳になり「お山参り」と称して山に捨てられた老人たち、その中でも老女だけが集まって「デンデラ」という村を作り、そこで生きていた、という話です。現実にはとうていあり得ない設定ですが、手に汗握る展開で、読み始めたらずんずん読み進んでしまいます。
このデンデラを牛耳っているのは30年前に「お山参り」をした三ツ屋メイ(つまり100歳)。そのメイが30年間の間、次々に「お山参り」に来る老女だけを助けて、50人の老女ばかりの村を作り上げました。そこには自分たちを捨てた村を恨んで村に復讐しようという「襲撃派」と、デンデラで平和に暮らしたいという「穏健派」の二大勢力が生まれていました。50人が集まって一応小さな集落のようになっているとはいえ、極寒の雪山に、お山参りのときに着ていた白装束という軽装。日々の食べ物を調達するのも一苦労。飢えと寒さと体の衰弱という三重苦と隣り合わせの毎日です。
そんな折、飢えて冬眠に入れなかった熊の親子が、デンデラを襲います。ろくな武器もなく熊に立ち向かうも次々と殺され食われる老女たち。巨大な雌熊と老女50人の戦いは、目を覆うばかりの悲惨さです。70歳を超えた老女たちが次々に熊に襲われて死んでいくという話に、何を見出せばいいのでしょうか。「生き延びた老女たち」なのか「死に損なった老女たち」なのか……。
「楢山節考」を読んで、ある種の洗脳とはいえ、「お山参り」を極楽浄土への道だと信じ、崇高な魂を持って「お山」へ入って行った老女の凛とした姿に感動していただけに、『デンデラ』の主人公・斎藤カユの「なんで助けたんだっ!」という怒りには納得するものがありました。しかし「死にたくない」と思う老女がいたとしても、それもまた納得できます。
極貧であるために命を間引かなければ村が存続していけないという厳しい状況の中で、生きることが正しいのか、死ぬことが正しいのか、答えを出すのは村人にとっては勇気がいることだと思います。しかし、老女たち本人にとってはどうなのでしょうか。生き続けることは幸せなのか、それとも死ぬことが幸せなのか。
それにしても、「デンデラ」というコミュニティーの在り方は、ヴェルヌの『二年間の休暇(十五少年漂流記)』やゴールディングの『蠅の王』、そしてディカプリオ主演の映画『ザ・ビーチ』を思い出しました。この3作品は、人間の、正義と理性と本能とのはざまで揺れる人間模様を描いていて、世の中から切り離された空間で得た経験を、登場人物たちはその後の人生に活かしていくだろうと想像できるけれど、「デンデラ」は老女ばかりが集まった集団を描いているので、この経験を将来に生かすという未来がない。もしあるとすれば、熊に追われて村に戻ったであろう主人公・斎藤カユを、村人がどのように受け入れるかによって「お山参り」という慣わしを今後どう考えるか、という未来があるかもしれません。
『デンデラ』の会話
2018/01/28 18:11
0人中、0人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:シロップ - この投稿者のレビュー一覧を見る
「解説」で、法月綸太郎さんは『デンデラ』の成り立ちについて次のように説明しています。「信州の姥棄て山伝説を下敷きにした深沢七郎「楢山節考」と、「三毛別羆事件」(大正四年十二月、北海道手塩山麓の開拓村で、巨大羆が六人の男女を殺害した事件)に取材した吉村昭のノンフィクション『羆嵐』がドッキングしたサバイバル小説ということになるだろう」。
僕は、ここに、大江健三郎さんの『芽むしり仔撃ち』も加えたいです。『デンデラ』の老婆たちの会話を読んでいるうちに、だんだん『芽むしり仔撃ち』の非行少年たちのそれにきこえてくるという錯覚に陥りました。つまり、老婆たちの会話を若い男たちのものとして読んでいる自分がいました。『デンデラ』の世界に「男」を持ち込んでしまうのはよろしくないかも知れませんが、『芽むしり仔撃ち』を連想してしまいました。なぜかは分かりませんが、文学を読む時、そういうことも起こり得ると理解しておきます。
『デンデラ』の老婆たちの会話を拾い読みするのはとても面白いです。やってみて下さい。
なお、昨今、野生の危険生物・外来生物をとりあげたテレビ番組をよく目にします。それらはどれも、動物たちと人間の生活エリアの境界が曖昧になってきていることに対して 警鐘を鳴らしています。このような状況の中で再び注目されているのか、「三毛別羆事件」はその凄惨さやインパクトの度合いにおいて、類似の事件とは比べものにならないでしょう。一度きいたら誰もが忘れられません。
そんな事件を、『デンデラ』では「楢山節考の続編(?)」という設定とぶつけています。もうそれを聞いただけでも読む前から「面白いに決まっているだろ」と思ってしまいました。
もちろん、作品によっては「これだけ面白い設定なら内容はもっと面白くないとだめだよね」という意見を読後にもってしまうこともあるでしょう。しかし、このような意見に『デンデラ』は当たらないと思います。最後まで、楽しんで読めました。