サイト内検索

詳細検索

ヘルプ

セーフサーチについて

性的・暴力的に過激な表現が含まれる作品の表示を調整できる機能です。
ご利用当初は「セーフサーチ」が「ON」に設定されており、性的・暴力的に過激な表現が含まれる作品の表示が制限されています。
全ての作品を表示するためには「OFF」にしてご覧ください。
※セーフサーチを「OFF」にすると、アダルト認証ページで「はい」を選択した状態になります。
※セーフサーチを「OFF」から「ON」に戻すと、次ページの表示もしくはページ更新後に認証が入ります。

最大50%OFFクーポン(~8/27)

修正:新規会員30%OFFクーポン(~7/31)

電子書籍

意識とはなにか ――〈私〉を生成する脳 みんなのレビュー

  • 茂木健一郎 (著)
予約購入について
  • 「予約購入する」をクリックすると予約が完了します。
  • ご予約いただいた商品は発売日にダウンロード可能となります。
  • ご購入金額は、発売日にお客様のクレジットカードにご請求されます。
  • 商品の発売日は変更となる可能性がございますので、予めご了承ください。

みんなのレビュー6件

みんなの評価4.2

評価内訳

  • 星 5 (2件)
  • 星 4 (4件)
  • 星 3 (0件)
  • 星 2 (0件)
  • 星 1 (0件)
6 件中 1 件~ 6 件を表示

「難しい問題」を考えてみようよ

5人中、5人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

投稿者:濱本 昇 - この投稿者のレビュー一覧を見る

皆さんは、著者茂木健一郎をご存知であろうか?NHK「プロフェッショナル」の司会者と言えば、知っている人も多いであろう。彼の本職は、脳科学者である。脳という内なる宇宙に科学の目で捕らえようとする学問である。本書は、脳という宇宙に「意識」というとてつもない謎の世界に光を当てた書である。
さて、「意識」とは、一体何であろうか?彼は、「難しい問題」と「やさしい問題」というキーワードで論を進める。彼が幼い時に、「ただいま」という何気ない言葉に、異様な疑問を持ったという。「ただいま」と言う音の綴りが持つ意味、それ自体に幼いながらに、疑問が生じたのである。こういう幼児体験を大切にする事は重要であると思う。彼は、幼いながらに「難しい問題」に気付いたのである。
ニュートンは、リンゴが木から落ちるのを見て万有引力の法則を発見したが、「リンゴは、落ちるが、何故、月は地上に落ちないのか?」という誰もが当たり前として処置する問題に疑問を持って研究した。こういう当たり前の事を当たり前と思わない思考が、新たな文化を生むのである。我々は、いちいち、「難しい問題」として捉えないで、普通の生活を送っている。「ふり」をするのである。人間誰しも、「難しい問題」に気付く要素を持っているが、皆が気付かない「ふり」をして生活している。いちいち、言葉の持つ深い意味を考えていたら、日常生活は、送れないからである。しかし、私は思う。たまには、「難しい問題」を考えて見ましょうよ。「我思う、故に我有り」の意味を考えて見ましょうよ。
著者は、意識に「クオリア」という言葉を当てて、論を進める。我々は、「ギラギラ」「キラキラ」「ピカピカ」というクオリアは、知っているが、それを言葉説明しようと思えば、非常に困難である。また、「赤」というクオリアが何故、「赤」を理解するのか?等、非常に面白い、着眼だと思った。
本書には、最後に参考文献が多く紹介されていた。「意識」という問題に、少なからず興味を持ったので、少し読んでみようと思う。

このレビューは役に立ちましたか? はい いいえ

報告する

私の脳が、私であることの不思議を、どうしても知りたかったのだ。

0人中、0人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

投稿者:綾瀬良太 - この投稿者のレビュー一覧を見る

 どうして脳という物質に、意識が生まれるのか。心とはどこにあり、どのように誕生するのか−。茂木さんも、そのことに没頭したのであろう。
 自分だけが感知する質感(クオリア)は、なぜ生まれるのか。それを問うことは、「私は何?」と自問することだ。
 茂木さんは説明する。「私の心の中で感じられるクオリアも、脳の中のダイナミックな神経機構を通して生成されてくる」と。だとすれば、私が見たもの、聴いたもの、触ったもの、味わったもの、嗅いだもの、映画、小説、舞台、自然、人工物、他人の言動、テレビなどすべてが、脳の中でミックスされ、ぐるぐるとかき回され、私だけの「意識」が生成されたということになる。それが私の意識であり、茂木さんの意識であるらしい。そしてその意識が、神経細胞の接続のふるまいによって、「考える」ことをしたり、記憶したり、話をしたりするわけだ。
 よーし、ここまではわかったきたぞ。と、私の脳が話しかける。いや、意識する。意識は、見ることや、聴くことや、触ることを含んで成り立つ。これは難易度の高いアクロバティックなことを、平気でこなしているわけだ。
 噂には聴いていたが、すごいじゃないか、脳は。
 「意識とはなにか」を読み進めれば、「意識とはなにか」と考える自分に出会う。その答えは、茂木さんとは異なるかもしれない。経験が異なり、言葉の定義が異なれば、やむをえない。それでも、意識に迫るアプローチは、大いに学べた。と、私の意識が喜んでいる。
 茂木さんは脳科学と言語学、コンピュータの垣根をとっぱらい、独自の目線で、人類の永遠の課題に取り組んでいる。私も自分なりに、自分のモノサシで考えてみた。そうだ、私の脳が、私であることの不思議を、どうしても知りたかったのだ。

このレビューは役に立ちましたか? はい いいえ

報告する

意識という、「難問」へのスプリングボード

3人中、3人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

投稿者:半久 - この投稿者のレビュー一覧を見る

1
柔和な眼差しの本だ。
シンプルで情報量はさほど多くはない。専門用語も控えめである。
しかし、薄っぺらではない。詰め込むばかりで整理が行き届かない本に比べて、シンプルと感じるだけで、これぐらいが適当なのだろう。
本書の起結を、一本の道路に譬えてみる。
参考文献からの引用部が僅かしかない。他者(よそ)の知見は要所要所で引かれているのだが、文章に「自然」に組み込まれているので、流れを阻害しない。
交通標識や信号や枝道のないフリーウエイ。終着点への快適な運転。
しかし、本書は構成上、「快適な運転」をサポートする仕組みを提供しているだけ。終点まですっ飛ばすこともできる。が、多くの読者は途中下車して空を見上げ、遠くの山嶺を眺めるであろう。何度となく。
かけがえのない、私に固有のクオリア(ユニークな質感)の意味をかみしめながら。
2
著者は脳科学の専門家であるから、バリバリ理系の本かと思ったらそれほどでもなかった。
むしろ、言語哲学的な要素の色濃い本である。機能主義という「やさしい問題」は、プラグマティックな言語の道具主義と対応しているのだろう。そう思いながら読んだ。
この「やさしい問題」と、《クオリアや〈私〉をめぐる「むずかしい問題」》との対比的往還についての考察が、本書の大きな読みどころだろう。終盤に、一定の方向性が示される。
3
著者は、私がぐだぐだと断片的に考えてきたことを、精緻に、または違った角度からも綴っている。やっぱ、頭のいい人は違うよなあ〜、と感心しきり。
《私たちは、常に何らかの「ふり」をして生きている。》
そうそう。私は、人間というのは何らかの「役割」を演じている存在だと思っているから、よく分かる。別名、「RPG的人間」。
ただ、「役割」という言葉は狭く固定的な意味合いが強いから、著者の「ふり」のほうがよさそう。
「ふり」をするということは、過激に換言するなら、「ウソ」をついているということでもあると思う。
つまり、「私たちは、常に何らかのウソをついて生きている。」。だからこそ、人間はコミュニケーションを通じて「共通理解」を得ることができる。
「ウソ」をついてない自分とは、主観的なクオリアを感じている時の自分。そのクオリアを、「そっくりそのまま」他者に投げ与えることはできない。そこで、人間は様々な表現形式(「ウソ」を綴るもの)を生み出してきたとも言える。代表的なものが言語。
私はいくら文章を書いても、「自分の言いたいことを表現し切れてない」という思いが、常に頭にある。
その思いすら、こうやって言葉で伝えるほか術はないのだけれど、どの文章においてもどれだけ書き直そうが、完全に満足したことは一度もない。いつも、もどかしい思いがつきまとっている。
たぶん、クオリアを感じている自分「のみ」が本当の自分だからなのだろう。そう思えば、少しだけではあるが、もやもやが晴れた気がする。
だから茂木さん、ありがとう!
以上のような敷衍の仕方は、著者に「違う」と言われてしまうかもしれませんが。
4
ピンとこなかったのは「心の考古学」(いや、半分ぐらいは納得したのだが)。
幼少期の、まあ、誰にでもありそうな体験を引き出して一般化・普遍化しようとしているが、「どうとでもとれる」解釈の域を出ていない気がした。
5
著者はポストモダンと科学主義との対立について、それぞれの問題点に触れながら、どちらにも一方的に軍配を上げることはしない。その態度には好感が持てる。
しかし、両者に欠けるものをどう埋め合わせ、融合、あるいは調停、あるいは止揚、あるいは革新、あるいは超越するのか。
その問題意識は認めるが、目指すところ、ついぞ見ぬ地平は、気の遠くなるほどの彼方にあると思われる。

著者と「私たち」の旅は、まだ始まったばかりだ。

このレビューは役に立ちましたか? はい いいえ

報告する

ぼくの目に映る真っ赤な夕焼けは、何でこんなにも綺麗に見えて、心を揺さぶるのだろう?という謎。

2人中、2人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

投稿者:緑龍館 - この投稿者のレビュー一覧を見る

 「クオリア」という言葉があります。柔らかく手触りのいいヴェルヴェットの深い赤、天高く抜けるような秋のまぶしい青空、− 客観化して他の人と共有できない、「私」が心の中で感じているユニークな「質感」を意味する、心理学や認知科学の用語ですが、人間の意識する思考や感覚は、全てこのクオリアから成り立っていると言えるそうです。脳科学や認知科学は、現在最も大きな注目を集め、また最も大きく動いている科学分野のひとつですが、このクオリアの正体、「意識」の正体という肝心かなめのものに対しては、その成り立ちからメカニズムなど、何ひとつ分かってはいません。なぜ、りんごの赤はりんごの赤なのか、なぜ、砂糖の甘さは砂糖の甘さとしてこのように感じられるのか?これはどのように私の脳の中で形成されて、それに何の意味があるのか?これら全てを感じる「私」という存在はどのようにして生じたのか?
 脳科学の研究者である著者は、この本の中でこのクオリアの謎、<あるもの>が<あるもの>であるということは、どのように成り立っているのか、このクオリアを感じ、これによって動いている「こころ」、「意識」とは何なのか、という大きすぎる疑問に対して正面から相対しています。内容は分野で言えば、大脳生理学から、発達心理学、コミュニケーション理論、それに哲学まで様々なフィールドを網羅していますが、主題自体が(ある意味で)非常に身近なものであるため論法もかなり親しみ易く、幅広い分野の専門知識を駆使した綿密な論理構成、とかでは全然無く、方法論も何もかも全然確立されていない分野である為、とにかく何か手がかりはないかと各分野を渉猟している、という感じで、その意味でも中々面白い本です。<あるもの>を<あるもの>として認識し感じることができると言う謎(ぼくの目に映る真っ赤な夕焼けは、何でこんなにも綺麗に見えて、心を揺さぶるのだろう?)、そしてこの謎は考えれば考えるほど切りが無い「むずかしい問題」であるにも拘わらず、日常生活の中でぼくたちは、考える必要も無い「やさしい問題」として扱い、易々と処理が出来てしまっているということ。生物としての行動の原理が、「刺激」と「反応」にあるのなら、意識やクオリアというものがなぜ必要なのか。日常の中ですべてを「やさしい問題」として処理できるのに、なぜぼくたちはこれを「むずかしい問題」として捉える能力を有しているのか。加えて、この主体としての自意識自体がひとつの連続的な統合されたものではなく、状況や関係に応じてそのときごとに異なる、あるいは新たなパーソナリティーが生み出されるものである、という人間の本質に対する認識。
 最後に著者は、このような脈絡から「自意識」とクオリアの生成に対して、中々面白いひとつの「仮説」を提示しています。
 神経細胞の活動パターンによって惹起される「こころ」というシステムにとっては(コンピュータのアルゴリズムとは根本的に異なるシステムである為)、「あるもの」が「あるもの」を保証する概念である「記号」のようなものを安定して存在させることは、本来無理があるのではないだろうか。あらゆるものが絶えず変化するこの世界において、同じく絶えず変化し生成され続ける「私」というシステムが、対象たる存在や「私自身」の同一性を維持するための手段が、「自意識」であり「私が感じるクオリア」であるのではないだろうか。
 この説でいくと、人間以外のある程度複雑な神経系をもつ生物も、「自意識」や「クオリア」を感じているのかも知れません。
→緑龍館別館 Book of Days

このレビューは役に立ちましたか? はい いいえ

報告する

「質感」は脳科学でとらえられるのか

2人中、2人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

投稿者:後藤和智 - この投稿者のレビュー一覧を見る

 昨今の「若者論」の大流行に紛れる形で、「脳」がブームである。しかし、現在の「脳」ブームは、器質主義的な側面が極めて強く、片付けられない女性は脳に異常があるとか、他の教科はできるのに算数だけできないのは脳の障害だとか、さらには今の若い奴は脳が異常になっているからあんな恥知らずになるのだ、とかいった疑似科学までが横行している。この中でも特に器質主義的色合いが強い「ゲーム脳」理論の提唱者は、その疑似科学性が多くの研究者、臨床家、評論家から指摘されているのに、そのブームは一向に衰退することなく、とうとう『ITに殺される子どもたち』なる続編まで刊行され、講演では「フリーターはゲーム脳である」とまで言っている始末だという。もう、堕ちるところまで堕ちちゃいなさい。
 本書の著者、茂木健一郎氏は、そのような器質主義的な「脳」ブームに関しては一貫して批判的である。最近になって、脳科学の「成果」が次々と発表されているが、そのような器質主義的アプローチは遠からず限界に達する、とも説いている。そのような動向への対抗概念、というわけでもないかもしれないが、既存の脳科学の理論で説明できない、それぞれの個人が感じる「質感」を説明する概念として著者が提唱するのが「クオリア」である。
 我々は朝に目を覚ますと、それまでの睡眠の世界から、さまざまな質感を感じる「クオリア」の世界に移行する。目を覚ましたときに目に入ってくる太陽の光。朝食のトーストの歯ざわり。服を袖に通すときの布の感触。全てが「クオリア」である。
 本書が問題にする「質感」すなわち「クオリア」はこれにはとどまらない。それ以外にも、普段何気なく使っている言葉が持つ独特の「質感」や、ミラーニューロン発見の衝撃、「本来の自分」ではない「振り」をすることや、時間経過と他者の関係を経て変わっていく「自分」など、さまざまなことが脳科学とのつながりで語られる。市川伸一『考えることの科学』(中公新書)のような認知心理学の本と読み比べてみると面白いかもしれない。
 しかし、疑問が生じる点も少なくない。著者は「星を眺めるAと、Aの脳を観察するB」の思考実験を例に出し、《Bさんにとって、Aさんの脳の1000億のニューロンの活動をすべて見渡せたとしても、そこに、どのようなクオリアが生み出されているのか、直接的には明らかではない》(159頁)と書いているが、それならなぜ脳科学が出るのか、という疑問も残る。ある現象に関して、それを感じる人の「クオリア」が一つ一つ違うのであれば、どうして脳科学的アプローチを行う必然性があるのだろうか、とも思う。しかし、本書は、そのような不自然さでさえも、著者の持つ類稀なる完成がつむぎだす論理が本書によって生まれる疑問も含めて読者を未知の世界へと包み込んでくれる。
 この著者は、最近になって「仮想」という世界に踏み込んでいるようだ。最新刊『脳と仮想』(新潮社)では、「サンタクロースは実在するのか」という疑問から、「クオリア」を超えた「仮想」について、さまざまな文学や事象をテキストにして挑んでいる。この本はまだ読んでいる途中なのだが、例えば同書の第5章ではゲームを切り口に「仮想」と「現実」に関して興味深い考察を行っている。「クオリア」や「仮想」が実現するであろう脳科学の新しい分野が持つ可能性に期待は高まる。

このレビューは役に立ちましたか? はい いいえ

報告する

脳科学でもない、認知科学でもない、哲学でもない奇妙な中間領域

0人中、0人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

投稿者:オリオン - この投稿者のレビュー一覧を見る

 『脳とクオリア』以来、茂木さんの新刊はすべて読んできた。最近は啓蒙書ばかり書いていて、脳と心の関係は「難しい問題」だという以上の情報がない。もっと最先端の、茂木さん自身が痺れるほど脳を酷使して日夜考え続けているテーマを噛み砕いて判りやすくかつスリリングに書いてほしい。と、読み手は気楽に勝手なことを思う。本書も一見、啓蒙書の装いをもって世に出た。でもこの本には、うっかり読むと見逃してしまうほど平易な言葉でもって、近い将来のブレイクスルーを予感させる二つの大切なことが書かれている。

 その一は、クオリア(私たちの意識の中で、〈あるもの〉がまさに〈あるもの〉としてあること=同一性を支える基本的性質)や〈私〉が〈私〉であることや言葉の意味をめぐる「むずかしい問題」(個物の起源の問題)と機能主義的アプローチで解決できる「やさしい問題」とが実は表裏一体であること。その二は、個物(〈あるもの〉が〈あるもの〉であること)は常に生成し続けることによって支えられていて、私たちの意識(クオリアに充ちた主観的体験)は、物質界で普遍的に見られる「個物の背後の生成のプロセス」の延長線上にとらえられるものであること。「同一性の起源を、その生成の過程において問う」ことがないかぎり、心と脳の関係をめぐる「むずかしい問題」は解けそうもないこと。

 茂木さんはここで、存在を生成の相においてみる立場、つまり西洋中世の普遍論争における「実在論」の立場に立っている(実在論者にとって個物をどうとらえるかは「むずかしい問題」だが、唯名論者にとっては「やさしい問題」だ)。まえがきに記された「脳科学でもない、認知科学でもない、哲学でもない奇妙な中間領域」という言葉は、まさに新しい「脳科学」という個物を生成する突破口が開かれる場所を告知している。

 余録。木田元『反哲学史』に書かれていること。プラトンのイデア論に発した形而上学的思考様式は、アリストテレスによる「質料─形相」図式の「可能態[デュナミス]─現実態[エネルゲイア]」図式への組み替えを経て、その後、キリスト教の教義体系の整備と組み合わされた「プラトン‐アウグスティヌス主義」と「アリストテレス‐トマス主義」の二つの流れとなり、西洋文化形成の指導原理(イデオロギー)の役割を果たしてきた。たとえば、デカルトは前者の系列に属している。そこから生まれたのが数学的・機械論的自然観(精神=理性によって洞察される量的自然)で、後者の系列に由来する生物主義的・有機体的自然観(肉体的感覚器官に与えられる質的自然)と対比される。

 してみると、クオリア(感覚質)に着目する茂木氏の「脳科学」は後者の系列に属する「質的自然学」を志向している、などとと言うことができるのだろうか。あるいは、茂木氏の脳科学の理論的な出発点をなしたエルンスト・マッハの「現象学的物理学」や「感性的要素一元論」は後者の系列に属する、などと言うこともできるだろうか。

 いまひとつ書いておくと、プラトンは『ティマイオス』で「存在(イデア・形相)─コーラ(場所)─生成(質料)」の図式を示している。ここに出てくる謎めいた「コーラ」の概念──ハイデガーが『形而上学入門』で「そこでそれが生成するそこ、媒介、生成するものがそこへと自己を形成し入れるもの、生成するものが、生成してしまうと次にはそこから抜け出るもの」と説明し、中沢新一氏が『精霊の王』で「胞衣」にたとえたもの──は脳科学のブレイクスルーを促す可能性を孕んでいるのではないか。

このレビューは役に立ちましたか? はい いいえ

報告する

6 件中 1 件~ 6 件を表示
×

hontoからおトクな情報をお届けします!

割引きクーポンや人気の特集ページ、ほしい本の値下げ情報などをプッシュ通知でいち早くお届けします。