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時間の正体 デジャブ・因果論・量子論 みんなのレビュー

  • 郡司ペギオ‐幸夫 (著)
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みんなのレビュー3件

みんなの評価4.3

評価内訳

  • 星 5 (1件)
  • 星 4 (1件)
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  • 星 1 (0件)
3 件中 1 件~ 3 件を表示

ちかんのショータイム

5人中、4人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

投稿者:(全角の大文字の) CUSTOMER - この投稿者のレビュー一覧を見る

丹念に精読しました。その上でコメント(質問)しています。(BK1で買ったのでBK1にコメントを書きます。BK1は送料が安く梱包が丁寧なので気に入ってます。)

特殊相対性理論のスペースライクな領域を「分からなさ」に結びつけるなら、当然、ミンコフスキー空間が絶対空間であることへの不満は起こる。本書ではそこに“欺瞞”という強い言葉が使われている。一方で、一般相対性理論が特殊相対性理論の貼り合わと考えられる部分に、もう一つ別種の分からなさ(積分定数のような不定さ)が現れているはずだが、それについてはむしろ肯定的に利用され、リーマン空間が絶対空間であることへの不満は表明されていない。

クリプキのプラス・クワスの議論を割り算に置き換えて、「未体験の自然数を既知で有限な自然数で割ると、余りは自然数の有限集合の元になる」、「未体験の自然数を有限の具体的な自然数6で割ると、余りは0~5のどれかで一つになる」などと言い換えることはできない。マルコポーロは前者の言いかえを目論んでいるところがあるが、同時に、「割り算の余りに注目し“た”こと自体」に注目するこで、余りを一意に指定可能であるという前提に絡めとられる問題を回避していると受け取れるのではないでしょうか。

さいころを振ってある目が出る確率を計算するとき、さいころとさいころを取り巻く状況が公平であることを前提にする。なのに実際に目の前である目が出たとき(私は)その前提を守れない。ついつい室温や微風などの影響を詮索してしまう。この詮索を頑なに禁じる量子論に、そういう意味での素朴な個物化の過程は期待できない。ここに、「無限次元線形空間のヒルベルト空間への限定は、トレース公式が成り立つための十分条件である」(→『ハイゼンベルク形式による量子力学 (1980年)』(H.S.グリーン著))を結びるとき、循環性を導入して使うという戦略をとらざるを得ないのではないかと思います

以上に関して具体的に2つ指摘をさせていただきたいと思います。

まず一つ目は、テレポーテーションのタイプとトークンの分別・混同のところで和積と積和の差の部分が著者によって消されていることです。著者は、著者の言う意味での「内部限定」―――スペースライクな領域のようなあらかじめ用意したものを見ないことにすること―――を、マルコポーロが「内的」と表現したことについて、「自己欺瞞があると言わざるを得ない」と評している。しかし、量子論的な不定さを「内部限定」として表現することでタイプとトークンの分別・混同の不可避性を持ち込んでいる部分は、著者も同じことをしていると言わざるを得ないのではないでしょうか。

二つ目は、だからマルコポーロは内部限定をある種の『特解』として扱うことを含めて『内的』と表現しているのではないのでしょうか。マルコポーロの力点は、「内部限定」をある種の『特解』として位置づけ、「一般解が存在するかどうか」という問題を通して媒質(→相対論が否定した媒質)の均一性がFreeになるという形で点概念を拡大するところにあると思います。そして彼の落としどころは、「拡げられた点が外側の構造を引きずらないと“仮定”するとき、その点の“中身”が決定できない」ということを示すことだと思います。つまり内部限定を「(一般・特殊の)一般」の不定さの中に引きずり込んでしまうこと(→測度の加法性によって)を含めて『内的』と呼んでいるのだと思います。こういった構造が『内的』の表現であるばかりではなく、すべての表現がこのようにならざるを得ないということをも射程に入れた話ではないかと思います。(「特定の方程式」ではなく「特別解」を考えることで何かを押さえ込んでいるのかどうかがわかりませんでした。「交換関係で閉じた無限小変換の集合は連続変換群と同値」(Lie Algebras in Particle Physics (Howard Georgi))や、『微積分の根底をさぐる(稲葉三男, 1991) 』の最後の(たった)数ページに書いてある、積分定数の不定さの小さな問題を思い出しました。)

最後に、これは上とは直接はあまり関係ありませんが、「2割・8割」の話は、離散化してさらに近似を導入して、「2個くらい・8個くらい」としないと、「マダとモウ」の酒瓶の話とは同列に語りにくくないでしょうか。「8個くらい」は「少なくとも7個以下」という意味になりますが、「ならば6個は8個くらいか?」という問いが出てきます。このグレーな1個(=7個-6個)がある場合に交渉の対象になるという形で制度が浮かび上がり、それが酒瓶に結びつけることができるからです。


勉強になりました。ありがとうございました。

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紙と紙の間

5人中、3人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

投稿者:わたなべ - この投稿者のレビュー一覧を見る

一部では天才とか電波とか大思想家とかトンデモとかいろいろ毀誉褒貶喧しく言われている理論生物学者(というカテゴリー自体がもはや怪しい)の最新著作。ごく大雑把にまとめると、時間を、時間を構成する出来事の系列とその解釈の系列という風に二つの系列の相互作用と考える理念的概念的モデルを提出し、その関係構造を数学的記述でもって「論証」していき、さらに脳科学、認知科学の「実験」で前記理念モデルを実在的な対象としても扱う、というもの。あいかわらず頻出する科学的、数学的記述が、はたしてどの程度「証明」としてその「理論」に貢献するものなのかが非常に疑わしい飛躍の多い文章で、一番近しい印象を受けるのはやはり柄谷行人だ。しかしここで夥しく提示される「例」の一貫した潜在モチーフが、個と全体(「私」と「世界」)の相互関係にあり、それが「対象と表象の二重関係(構造)」として展開されるのが、哲学というよりもむしろ断然芸術に近い議論だと思わせられる所以だと思った。素朴な批判もいいが、むしろ何故このような思考が要請されるのか?を論じた文章が読んでみたい。たとえば樫村晴香氏はどういうふうに分析されるだろうか。それにしても本書で一貫して考察されている時間の議論に現象学がまったく参照されていないのはやはり驚きだ。

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「時間論」について、かなりの上級者なら本書を「批判する」楽しみがあるはず。

4人中、3人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

投稿者:反形而上学者 - この投稿者のレビュー一覧を見る

本書が昨年出てからというもの、特にその反応というのは、アカデミズムの側からも、読者サイドからも、目だったものは無い。
扱っているテーマが「時間論」であるだけに、もう少し大きな反応がってしかるべきだとも思ったのだが、私自身、本書を読んでみてその反応の薄さに「納得」してしまった。
本書における郡司氏の展開は、マルコポーロとマクタガートという二人の学者による「時間論」を中心にその論は進められていく。
そして、P54~P55において、著者は「マルコポーロの時間論」(マルコポーロは物理学者であり、ある論理構造―時間の意味論の抽出をする)と「マクタガートの時間論」(マクタガートは哲学者であり、出来事の順序系列を〈B系列〉、過去・現在・未来という時間様相の順序を〈A系列〉と呼び、最終的には〈時間は存在しない〉と結論づけた)とはまた別な視点を明らかにしていく旨を宣言する。
しかし、本書における基本的な考察は、マクタガートにそのほとんどを依存し、マルコポーロはそれほど重要な位置を与えられずに考察は進んでいく。
私が本書を読んでいて、非常に気になったのが、本書の読みにくさ、と言うより、一貫して貫かれている「退屈さ」との闘いであった。もっと簡単に言おう、正直「読んでいてちっとも楽しくない」のである。
それはもう最初の郡司氏によるデジャヴ体験の例自体からして不自然であること、通常ならばデジャヴ(既視感)といえば、初めて来た所なのに前にも来たような感じがする、ということが最良の例と言えるが、郡司氏はそうならない。テレビを見ながら、ふと窓の外のいるはずもないような隣家の屋上に人影を見る、ということがデジャヴの例になる?という何とも理解し難いことを例にするのだ。そして、「幽体離脱」という現象がさもあるかのように、手術中の患者に起こった幽体離脱の例を説明していくのだが、これは多くの科学者によって、意識が薄れていっても、最後までしぶとく働く感覚器官は「聴覚」であることが明らかになっており、「幽体離脱」とは、「聴覚」が最後まで働き、脳内の情報処理において、「聴覚映像」を作ってしまう可能性ということが非常に高いという報告がなされえいることからも、郡司氏の指摘が科学者としての慎重さを欠いているということが伺われる。
そして、最後に至るまで、〈A系列〉と〈B系列〉の対比を様々な図で何度も言い換えるのだが、これがまた「演奏曲」のごとくで特別な発展には至らない。
何度も肩透かしをくいながら「量子論」の話しと「時間論」を絡めてくるのだが、テンソル(多重線型代数)の簡単な式を導入して、それらについて説明するのだが、それもやはり「変奏曲」に過ぎず、更には「因果論者」を「タイプ」、「宿命論者」を「トークン」というように言語哲学のようなことを言い出すが、これも特に大きな展開は見せない。
結局、郡司氏にとっての「時間の正体」とは何なのであろう。最後もフェードアウトするような終わり方をするので、私には不満ばかりが残ってしまった。
郡司氏は科学者なのだから、こういう結論が極めて曖昧な本を執筆してはいけないと思うのは私だけではないであろう。
久しぶりに読後、床に叩きつけた本であったことを追記しておこう・・・。

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