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明治維新 1858-1881 みんなのレビュー

  • 著:坂野潤治, 著:大野健一
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みんなのレビュー3件

みんなの評価4.3

評価内訳

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3 件中 1 件~ 3 件を表示

紙の本明治維新 1858−1881

2010/06/28 09:35

近代日本史だけでなく、発展途上国問題に関心のある人もぜひ何度も読み返したい本

10人中、10人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

投稿者:サトケン - この投稿者のレビュー一覧を見る

 『明治維新 1858-1881』。実にシンプルなタイトルである。サブタイトルがないので、注目されることもなく埋もれてしまうのではないかと心配だ。
 しかし、内容はきわめて斬新だ。何よりも明治維新をみる視点が斬新である。内容的には埋もれるどころか、ロングセラーになりうる本だといえよう。

 本書は日本人のためだけに書かれたものではない、ということが重要だ。英語版に先行して、この日本語版が出版されたという。明治維新はもちろん日本人自身の歴史ではあるが、日本語使用者にしか理解できない日本史特有の歴史用語を、開発経済学の用語で言い換えることによって。国際比較という観点からみた明治維新を記述することが可能となった。
 開発経済学の立場からみた「明治維新モデル」が、果たしてアジア・アフリカの発展途上国にとって、いったいどこまで参考になるのか、あるいは参考にはならないのかという問題意識のもとに始められた、日本近代政治史の重鎮との共同研究の成果である。
 最新の研究成果を縦横に駆使して、非常に明晰な文体で書かれた政治経済史である。

 本書の構成を紹介しておこう。

 第一部「明治維新の柔構造」
  明治維新というモデル、柔構造の多重性、明治維新の指導者たち、政策と政局のダイナミズム
 第二部 改革諸藩を比較する
  越前藩の柔構造、土佐藩の柔構造、長州藩の柔構造、西南戦争と柔構造、薩摩藩改革派の多様性と団結、薩摩武士の同志的結合、柔構造の近現代
 第三部 江戸社会-飛躍への準備
  日本社会の累積的発展、近代化の前提条件、幕末期の政治競争とナショナリズム

 本書のキーワードは「柔構造」である。柔構造というと、私はかつて一世を風靡したエコノミスト竹内宏の『柔構造の日本経済』を思い出すが、幕末の「改革諸藩」を「改革諸藩」たらしめた特徴が、この柔構造の組織体であったという指摘は非常に示唆に富んでいる。
 変革の行動単位であった改革諸藩においては、かつて強調されてきたような下級武士による革命というよりも、強い経済力に裏打ちされた軍事力をともなう「藩」を行動主体として、機を見るに敏な藩主と実力本位で登用された下級武士たちとの連携プレイがうまく機能していたことが強調されている。プレイヤーたちそれぞれの、状況の急変に応じて、悪くいえばいい加減、よくいえば融通無碍(ゆうづうむげ)な行動による離合集散や合従連衡を繰り返しながらも、大きな政治改革を破綻させることなく、最後まで遂行させる原動力になった。著者によれば、これは日本近現代史においては以後みられぬことだけに、驚嘆すべき歴史的事象なのである。
 とくに、変革の主体であった政治エリートたちの人物に焦点をあてており、彼らのあいだで交わされた書簡の内容を見ることで、いかなる情報共有が行われていたかの記述は興味深い。とくに「基本的価値観を共有した多様な意見の柔構造」であった薩摩藩の事例がきわめて興味深い。

 明治維新を可能にした経済的、知的インフラ要素についての本書の記述を読むと、この時点において、植民地となることなく、日本人が自らの手で政治変革を実行しえたことは、世界史的な意義をもつ出来事であったことが十分に理解されるのである。
 中国でも、朝鮮(韓国)でも、明治維新のインパクトがいかに大きなものであったかは、中国史家の岡田英弘などが以前から指摘しているとおりである。毛澤東だけでなく、 ケ小平もつねに明治維新を意識していたのである。現代でも、アジア・アフリカの発展途上国では、「明治維新」は十分にモデルたり得るだろう。ただし、モデルとしての普遍性、特殊性について十分に分析したうえでの検証が必要だろう。

 最近の新書本では珍しい、読み応えのある一冊である。
 近代日本史に関心のある人だけでなく、発展途上国問題に関心のある人もぜひ一読、いや再読、三読したいものである。

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紙の本明治維新 1858−1881

2011/02/15 17:46

開国・近代化を保証するもの

4人中、4人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

投稿者:hisao - この投稿者のレビュー一覧を見る

1858年 日米修好条約を皮切りに蘭露英仏との通商条約が相次いで調印された
1881年 “明治14年政変”を機に憲法制定・議会開設・産業民営化に向かっての路線が確定
1858年以前を開国以前、1858-1881年を“開国の衝撃を受けての変革期”、1881年以降を実践期とする
1858年日米修好条約締結は別として、1881年の年号は私ども素人にはちょっと馴染みの薄い年号である
1868年(明治元年)、1872年(廃藩置県)1877年(西南戦争終結)でもなく1889年(憲法発布)でもなく
大隈重信敗れ伊藤博文・井上薫らにより憲法制定・国会開設への工程に決着を見た1881年を維新“変革”の終了とされている点、まずもって著者のユニークな視点が有る
“ここで云う“変革”とは開国のインパクトに対応するために政治体制を再編し、国家目標を立て直し、
 その具体的内容、優先順位、工程表及び実施者につき合意決定する過程をさす“
日本は“明治維新”によって圧倒的な欧米圧力に対峙しながらも政治的独立を守り、社会を西欧化・近代化する事で逸早く欧米列強にキャッチアップ出来た
近代化と云うよりも極めて短期間に“富国強兵”を実現できたことは奇跡的驚異であり、中国・朝鮮等東アジア諸国の羨望の的にもなった
明治時代が“排他的・強権的な藩閥政権”による経済・軍事の近代化であったとする通説がある
著者は反論する
明治の変革は(第2次世界大戦後の東アジア諸国に見られた強権的近代化)=“東アジア型開発独裁”によるものでない
では日本が明治維新で“開国”・“近代化”に成功した理由は何か
著者はその秘密を国家目標が“富国強兵”“公儀輿論”二つに軸足を持っていた事に求める
二つの軸足をめぐって苛烈な“権力闘争”が戦われたが、紆余曲折を経ながらも国家全体としてバランスのとれた近代化路線を引く事が出来たとするのである
“富国強兵”路線の裏に“公儀輿論=明治デモクラシー”あり
2つ或いは4つの国家目標が拮抗する柔軟性、それを可能にした変革リーダー達の柔軟な戦略、幕末“藩”組織の合従連衡
著者は日本の変革主体がこの様な柔らかな“構造”を持っていた事が近代化を成功裏に導いたと考える
その視線は柔らかい社会的・精神的構造から硬質的な構造に陥った昭和の歴史への反省であり、昨今情報遮断・反政府に対する弾圧を繰り返しながら“近代化”を勝ち取ろうとしている“独裁国家”に対する警鐘である

さて 著者による維新変革主体の構造分析である
明治革命主体の圧倒的部分は士族(サムライ)であるが、変革に向けての人材育成・ネットワーク形成の孵化器の役割を果たした有力藩主の役割を大きく評価する(特に島津久光・松平春嶽・山内容堂らは封建商社の設置についても封建議会の準備においても強いリーダーシップを発揮した)
もとは旧制度の枠内に有った下級藩士や雄藩藩主が幕藩体制の外圧に対する軍事的無力・保守性に国家崩壊の危機を認識、権力闘争の中で覚醒して行ったと云う所だろうか
旧体制に帰する公卿、幕府学者、在野学者、豪商、豪農等や一般大衆の政治的貢献は余り評価していない
著者は明治日本の国際統合が成功した理由は、それが国際社会への受動的な“組み込まれ”ではなく、能動的な“翻訳的適応”として実行されたからだとする
翻訳的適応=“既存のシステムの担い手が、西欧文化=文明の各要素を自らの世界観のなかで読み換えて理解し、既存の制度をずらしながらもその原理を維持し、それに対応=適応してきた”
能動的“翻訳的対応”はどの様にして成し遂げられたか?
黒船来航と云う外的ショックを前に、幕末変革勢力の戦略は公儀輿論と富国強兵(現代風に云えば日本が民主主義を導入する事で経済大国・軍事大国になる事)だった
この目標は政争の過程で四つの目標、四つの勢力を形成する
憲法制定(木戸派)、議会創設(板垣派)、殖産興業(大久保派)、対外進出(西郷派)
特徴的な事は、これらの国家目標が同時並立的に追及された事、諸藩の合従連衡(例えば薩長同盟や薩土盟約)連携の組み換えの中で追求された事又リーダーたちによる目標の優先順位の自由な変更の下に追及された事である(良く云えば状況適応悪く云えば状況に応じてブレまくったかも知れない)
一つの目標の挫折は他の目標推進でカバー、一つの勢力の突出は他の連合で封じ込めると云う“柔構造”によって達成された
“柔構造”故に政治闘争は長期の内乱突入、その隙に乗じて外国勢力の介入と支配を招くと云った事態を回避できた

では何故日本は“柔構造”を持ちえたか?
1. 日本と西欧が広大なユーラシア大陸の東と西両端に位置する地理的条件に注目、大陸から遠すぎも近すぎもしない絶妙な距離が先進文明の吸収及び侵略と破壊からの防衛と云う2つの目的に極めて有利な条件を提供してきたとする(梅棹理論)
2. 両者に見られる封建制(土地に対する権益の授受を媒介とする主従関係)は地方勢力の割拠の下に政治経済力の底上げを可能にし、近代的工場制工業の成立にとっての前段階を提供した
江戸時代は決して閉鎖的硬直的な社会ではなく、市場経済・手工業の発展により近代的条件が徐々に醸成されつつあった
そこにもって外圧を契機とする徳川政権の軍事的無力露呈、更に外交的・政治的・経済的失策である
旧来の幕藩体制や身分秩序に縛られない政治闘争を許容する社会的環境はすでに生み出されていたのだ
3. 日本は外的要素の吸収と内的転換の繰り返す事で累積的重層的な社会構造を作り上げて来た
古い要素と新しい要素の柔軟な共存させながら、民族的アイデンティティを保持できた(翻訳的適応)
良く云えば柔軟性・包容性・プラグマティズム、悪く云えば原理の欠如・節操の無さ・雑種性
このような条件のもとに
4. 諸藩士の上下の交流、有力藩間の左右の交流による協力関係が形成されていた
5. 遠心的政治闘争は、支配階級の一部を構成する下級武士及び知識階級である豪農、豪商、在村知識人らが広く共有するにいたった民間ナショナリズムと云う求心的な精神基盤の中で進行したため、最後の一線を踏み越えることなく国家利益を目的に競われた

更に著者は変革期においては組織が“柔構造”である事の“強み”を五大藩の比較分析によって立証する
ここまで来ると薩摩藩は何故強かったか?越前藩・佐賀藩は何故弱かったかの下世話話のようにも思えた
寺田屋騒動、薩会同盟、薩土同盟、薩長同盟、西南戦争等を乗り越えて権力を握った薩摩の同志的団結に“公儀輿論”が有ったのだろうか
確かに“可変”しても“安定”している”柔軟な“運動体が強いのは当然だが、著者の云う”明治デモクラシー”が、それを保証したと云えるのか、何とは無しに割り切れない
ぶれても、分裂しても国家や組織の求心を保証するものは何か?
近代史そして開発経済学の練達の著作を前にして、思いは巡る

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紙の本明治維新 1858−1881

2014/05/05 03:48

指導者たち

0人中、0人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

投稿者:ぽんぽん - この投稿者のレビュー一覧を見る

坂野潤治(政治史)と大野健一(経済史)の共著

まえがきとあとがきを、読めばわかるけど
明治維新という近代化過程での
指導者たちの動きを描いている

日本の近代化にみえる独自性として
主要な指導者たちには
以下の2点が共通している
複数の国家目標
目標を標榜するグループ間の協力関係
(「柔構造」と呼んでいる)

図式的に言えば
前者は開発独裁の硬直性
後者は途上国の不安定性
と比較できる

2点の独自性に依って
「複数目標を同時に達成する能力、
内外ショックへの適応力、
政権の持続性」
を発揮し、近代化を達成したようだ

日本の近代化の独自性として
「柔構造」を見出し提示している
これは、分かり易くて、
しかも、興味深い

※明治維新を
英米仏露の革命と比較してみると
面白いかもしれない

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