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みんなのレビュー4件

みんなの評価4.0

評価内訳

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4 件中 1 件~ 4 件を表示

紙の本

文明の内なる衝突 テロ後の世界を考える

赦しえないものへの赦しへ—資本主義を超えて

1人中、1人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

投稿者:野崎武司 - この投稿者のレビュー一覧を見る

 この本は、イスラム原理主義が資本主義の逆説的産物であり、本来のイスラム教とは無縁であることを、一貫して主張している。これは最後まで多面的に語られる。

 資本主義(柄谷=大澤の再三提示する広義の資本主義)は、絶えざる普遍化を志向するのであり、それはフーコーの言う生権力をも生み出したという。それは善人も悪人もなくあらゆる形式の生(特定の資格を満たした人民ではなくすべての人口)をも、妥当なものとして捕捉するような、権力の最も普遍化した形態である。すべての生に「生きよ!」と命じる生権力は、その普遍化の極限で逆説的に転回し、自らの内部に「内部/外部」の差異を再参入させ、かえって、生きてはならない外部(人間にあらざるもの)を生み出してしまう(理念的博愛主義者の人間嫌い:ナチスにとってのユダヤ)。生権力が極端な殺す権力に反転する逆説は、資本主義の極端な普遍化への指向性に由来するという(ビンラディンは元来トップクラスの資本家の家系にあった。いわばアルカイダはアメリカの秘めた欲望の一つの現われ)。

 ここにあって伝統主義、近代的正義論、多文化主義もまるで機能しないカオスが目前にある。こうした資本主義の帰結を突き抜ける原理は、「赦しえないものへの赦し」である。受動的に存在するだけで他者の贈与を触媒する人間の原権利(深刻な病者はかえって他者の能動性を引き付ける)。その存在の深部に触れる時、WTCもバーミヤンの仏像も自らを恥じて崩れ落ちたと直感される。そんな啓示的な直感に基づいた「赦し」こそが、共に変容しうる可能性を媒介とした、奇跡的な真の普遍性を導くという。こうした「赦し」こそ、キリスト教やイスラム教という世界宗教の成立原理ではないか? 今あたらしい世界宗教の誕生が待望されているのか?

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紙の本

文明の内なる衝突 テロ後の世界を考える

必要なのはイラクへの派兵か?今こそ読んでほしい一冊

1人中、1人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

投稿者:pipi姫 - この投稿者のレビュー一覧を見る

 「9.11」から2年が過ぎ、日本国の首相は自衛隊をイラクに派兵することを決めた。9.11以降、さまざまな言説がテロをめぐって繰り広げられ、反戦も好戦も論議が入り乱れた。
「テロ」に対する有効な手立てがないままに左派は反戦を言いつづけたが、そこに漂う無力感は否定できなかった。それはなぜか。われわれは「テロ」をどのように捉えるべきなのか。この問いに答えるのが本書である。

 著者は冒頭、現在の社会哲学を三つの相互に対立する潮流に分けて整理し、それらを「社会哲学の三幅対(さんぷくつい)」と呼ぶ。簡単に言えば、前近代・近代・ポストモダンというこの三つの思想潮流は、実はいずれもが弁証法的に循環せざるをえない構造をもっているという。そして、その三つとも今回の「テロ」に有効な判断を提供できない。

 序章でこのように問題提起と整理をしたあと、大澤氏はイスラム教とキリスト教−資本主義の類似点と相違点を具体的に挙げていく。氏にいわせれば、資本主義も広義の宗教である。そして、イスラム教は実は資本主義に反するような教義を持つ宗教ではなく、むしろキリスト教の方が資本主義に反するような教義を持つ。ではなぜキリスト教が資本主義により親和的に働き、有利となったのか?

 この謎を解いていくくだりは大変興味深く、おもしろい。必然的に話は大きく抽象的になり、また一方より深く個人の内面へと降りていき、「恥」をキーワードに「他者」論を展開していく。少々茫漠とした話が繰り広げられ、それはそれでおもしろいのだが、一体どこへ着地するのだろうという不安もまた読みながら抱いてしまう。

 本書冒頭のわかりやすさが最後まで持続すればいうことなしだったが、明晰さが多少濁る部分があり(それだけ立てられた問いへの答えも答え方も難しいということだろう)、その分だけ★ひとつ減らしておくが、お奨めの書であることは間違いない。終章に大澤氏は、社会哲学の三幅対を乗り越え、イスラムと資本主義の対立を止揚する方途とその希望の道筋を語っている。亡国の首相に読ませたい。

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紙の本

文明の内なる衝突 テロ後の世界を考える

忘れやすい夢

0人中、0人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

投稿者:オリオン - この投稿者のレビュー一覧を見る


 大澤氏が本書の最終節で、大澤社会学の「方法」ともいうべきメタレベルでの言説分析(というより諸言説の編集)と論理的逆説の摘出、つまり社会的事象や出来事をめぐる原理的で抽象的な考察を駆使して到達した具体的な実践(9.11テロに対してなされなければならなかったこと)が「アフガニスタンへの徹底した大規模な(経済)援助」、すなわち抗争しあうすべてのグループへの無差別絶対で無償の贈与であった。

 いわく、イスラームの正義の原点にあるのは交換における公正の感覚なのだが、それはキリスト教‐資本主義においても同断である。しかし、前者が交換を価値体系(等価性を評価する体系)の中心部においてのみ活用するのに対して、後者はその境界部において交換を活用し、このことによって剰余価値を発生させる。両者の違いは、ユダヤ‐キリスト教が交換の原理に反する原罪の観念を教義の中心に据えていたことだ。原罪とは交換に先行する返済義務のことで、原罪の観念は交換の関係を搾取の関係へと質的に転換させる潜勢力をもっていた。

 まさにこの点においてイスラーム原理主義(実はそれ自身、資本主義の産物でありその補完物でしかない)は資本主義と対立するのだが、それが等価性の原理への忠実な回帰をめざすものである限り不徹底である。イスラームの教義において神の人間への最初の贈与が交換関係に起因する義務に規定されない無条件なものであったこと、そして喜捨とはこの最初の神の贈与を反復するものであると解釈できることを踏まえるならば、イスラームの原理を自己超過的に徹底し、搾取の関係とは反対側で、つまり贈与の側で等価的な交換関係を否定に導いていくべきだったのだ。

 ここで、標準的な等価交換に対して原罪の観念とはシンメトリカルな位置を占めるものとして大澤氏がもちだすのが「本源的な恥の観念」である。つまり「誰もが、単に存在しているということだけで、自らにとってポジティヴな何かを(他者に)してもらえる権利を有している」という交換に先行する原権利であり、「何ら善いことを行っていないのに、初めから赦されている」という観念である。

《われわれは、「普遍性」が不可能であるということ、それは偽装的なものでしかないということ、このことを何度も強調してきた。だが、実は、もし赦しが、ここに論じたような、私と他者のアイデンティティの根本的な変容を必然的に伴うとするならば、その赦しの瞬間にのみ、奇跡的に〈普遍性〉が到来する。私と他者は、何かであることにおいては一致してはいない。私と他者が共通にそれであるところの「普遍的な同一性」はどこにもない。両者がともに認める善や正義を探ろうとしても、見つかるまい。両者に共通しているのは、どちらも変容しうるということ、どちらも「何かであること」を根本から否定し、無化することができるということである。こうした徹底した否定性において、両者は共通しているのだ。》

 ──大澤氏は「あとがき」で、「あの出来事」は忘れやすい夢のようなもので、忘れないための最も効果的な方法はそれをできるだけ早く言葉にしてしまうことだと書いている。本書の大半が費やされた論理的、抽象的な考察(というより諸言説の編集)にはいつものスリリングさや華麗さがあまり感じられず、どこか吃音めいたところがあって、それ自体忘れやすい夢のような印象しか残らず、最終節での「実践的」な議論とのつながりもぎくしゃくしている。むしろ最後の文章から叙述を始めればよかったのではないかと思うが、それは一つの夢を見終えたばかりの読者の仕事なのかもしれない。

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紙の本

文明の内なる衝突 テロ後の世界を考える

思想レベルから迫る対米テロ

0人中、0人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

投稿者:森岡正博 - この投稿者のレビュー一覧を見る

 対米テロ事件から、1年が経過した。ブッシュ政権は、イラクに対する先制攻撃を計画しているようだ。テロ事件を逆手にとって、世界の警察官の役割を、極限まで押し進めようとしているように見える。「テロ事件の犠牲者のことを考えよ」という大義名分のもと、世界を米国好みの姿へと着々と改造しようとしている感がある。
 本書は、対米テロ事件について、思想のレベルから迫った斬新な試みである。いままで海外の知識人からの発言が目立ったが、大澤さんによるユニークな分析は、日本発の言論として、きわめて注目に値するものだ。
 ブッシュ政権は、テロリストは海外に潜んでいると強調する。しかしながら、多くの米国人の心理のなかには、「テロリストたちは米国の外側にいるのではなく、米国の内側、すなわち自分たちの身のまわりにこっそりと隠れて溢れているのではないか」という不安が存在する。あらん限り遠くにいるはずの敵が、実は、われわれ自身のすぐ身近に深く浸透しているという感覚。このことの意味を、大澤さんは、繰り返し確かめようとする。
 米国は警察権力として肥大しているが、その捜査先は、アフガニスタンやイラクだけではなく、ほかならぬ米国本土の、日常生活の隅々にまで伸ばされる。つまり、米国のセキュリティ水準を上昇させることによって、米国の自由や民主主義そのものが浸食されるのだ。このような罠に、いま米国は落ちようとしている。
 大澤さんは、米国とイスラム過激派との戦いを、宗教の次元にまでさかのぼって分析する。米国が象徴しているのは、現代の資本主義であり、資本主義の運動の根本には、たえず繰り返される「キリストの殺害」という出来事が刻み込まれている。
 ところが、イスラム教は、そのような宗教観とはまったく異質である。イスラム教においては、神は人間の次元からキリスト教以上に徹底的に切り離されており、それは資本主義の運動を支える源泉とはならない。テロは、「資本主義の運動」と「宗教」が交差する場所から自発的に発生するのだという大澤さんの仮説は、十分検討に値する。

初出:信濃毎日新聞

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