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電子書籍

新・現代思想講義 ナショナリズムは悪なのか みんなのレビュー

  • 萱野稔人 (著)
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みんなのレビュー3件

みんなの評価4.0

評価内訳

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紙の本

ナショナリズムは悪なのか 新・現代思想講義

左翼やポスモダ論者はこの著者と闘論できるだろうか?

6人中、5人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

投稿者:T.コージ - この投稿者のレビュー一覧を見る

 ポスモダから左翼まで日本の人文科学や論者においてメジャーな“国家やナショナリズム=悪”という認識を著者はラジカルに批判し、同時にそれが原理としては見事な資本主義論にもなっている。DG(ドゥルーズ=ガタリ)による認識を追認しつつ展開され、国家と資本主義を相互に外在的なもの(対立するもの)とする立場と国家と資本主義は内在的な関係でトータルな構造(社会構造)として歴史的に発展してきたとする著者の立場に二分される。

 アイデンティティのシェーマに没入していく(しかない)ウヨクと市場が国家を超えると考えるグローバリストというまったく異なる両者が同じ観点から裁断されている。
 ベネディクト・アンダーソンの『想像の共同体』やネグリ=ハートの『マルチチュード』なども仔細に検討されその限界が指摘される。フーコーの研究者でもある著者はポイントでフーコーも援用しDGとのマッチングで説得力を発揮している。

 ドゥルーズ=ガタリを援用しながらナショナリズムを正常な国民国家へと最適化することが説かれるが、これは徹底した経済学的な認識よってはじめて可能になった観点だろう。それも流行の数理オタク的な経済学ではない。国家と世界の連関を前提とした構造を把握した上で、またパノプティコンの必然を説きながら道徳的な善悪の判断を排して、鋭い思索が展開されているのだ。著者と水野和夫の対談『超マクロ展望 世界経済の真実』を併読すると世界経済からバブル、日本の可能性までが論じられていてリアルに日本がおかれている現況がわかる。


 パリ大学で学んだ著者はそのような環境(国家と政府の峻別が当然だという欧米の認識)で思索したということは無視できない。著者からみれば日本のポスモダや左翼のオカシナ国家批判も、そのオカシサの原因について考察してみなければならないハズなのだ。たとえば吉本隆明の『共同幻想論』はこのオカシサ(欧米との違い)について深く考察したほぼ唯一のものであり英語や仏語への翻訳をフーコーが希望したことは重く受けとめられるべきだし、これに関して「どうにもわからない大きな愛というか意志みたいなもの」を「国家の成立」の要因だと語る(『世界認識の方法』)フーコーの指摘に留意すべきだろう。


 ナショナリズムの正当性あるいは正統?なナショナリズムを主張する著者だが、その限界もそこにある。それは著者がポスモダ論者に批判されるような点ではなく、著者の主張そのものにあるのだ。それは著者自身が認めているとおりに国家と法と暴力の関係がトートロジーになっていることが前提とされていることだ。
 法と暴力の起源が不問のまま国家の必然的な条件とされてしまっている。多くの学問や研究が法の生成や暴力の必然を問うているので、それを活かした考察があればもっと深い探究が可能ではないか? 暴力とは意味不明のままに他者を圧殺できることであり、「言語の共通性」を国家の前提とする著者の立場ではそもそも言語では意味不明の暴力を問うことはできない。そういった欧米的な認識の限界と闘ったフーコーは国家の(意味不明な)成立要件を「どうにもわからない大きな愛というか意志みたいなもの」というところまで追い詰めることができている。心的現象論的にはこの「愛」を「自愛」と再定義すれば、あとは論理学的な探究をするだけなのだ。結論を言ってしまえば自愛(自己に対する対幻想・全面肯定)が遠隔化して対称的な展開をし、他者を(意味不明なまま)ジャッジする(できる)ステージでは国家が成立しうる…ということだ。各ステージでのストッパーとして倫理や道徳があるが、それは著者も認めているとおり、そして吉本理論では常識としてそれこそ意味はない。マテリアルとテクノロジー以外にモノゴトを左右するものはなく、倫理や道徳はある特定の段階とTPOでの法未然のものにすぎないからだ。

基本的に重要な留意点がいくつかある。
・国家や政府、ナショナリズムという概念の区別が曖昧な日本(アジア)と国家と政府が完全に峻別される欧米とは全く違うということ。(歴史的な発展段階の違い?)
・著者は欧米におけるナショナリズムの概念だけに依拠している。
・著者が依拠するドゥールーズ=ガタリがマルクスと精神分析(ラカン)に大きな影響を受けていてトータルではマルキストであること。特にガタリは共産主義者(党員)であり、日本へ非正規雇用者の実態などを視察にもきている本物の左翼の活動家でもある。
・フーコーの国家への認識は不完全だが“自愛”をキーワードにすれば国家やナショナリズムに届く可能性をもっており、欧米思想のなかでいちばん鋭いものになっている(吉本隆明との対談『世界認識の方法』を参照)。

P176
ネグリ=ハートの<帝国>論のまちがいは、
決定における「形式」と「内容」を混同しているところにある。

 これは端的にネグリ=ハートのマルクス読解が未熟なことを示している。著者は資本論を特集するある誌面で“自分の方法は資本論と同じだ”というようなことを述べているが、それが納得できる鋭い指摘になっている。ドゥールーズ=ガタリあるいはラカン的なものを参照しているならば、ジジェク(マルクス×ラカン)のようなものも参考文献として日本のポスモダ論者とガチに対峙できるのではないか。「新・現代思想講義」というサブタイトルを掲げるならばそういったアプローチもほしかった。

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ナショナリズムは悪なのか 新・現代思想講義

田沼時代や寛政の改革を連想しながら読了

4人中、4人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

投稿者:saihikarunogo - この投稿者のレビュー一覧を見る

日本国内で貧富の格差が広まることを問題視し、その解決を図ろうとするならば、日本が国民国家であることを肯定して(ナショナリズム)議論を始めなければならない、なぜなら、日本国内と外国とを比較したなら、むしろ、貧富の格差は縮まっているのだから、地球規模で考える(グローバリズム)場合は、日本国内で貧富の格差が広まることは問題ではないのだから……。

というような話から始まっている。続いて、

>ナショナリズムとは、第一義的には、政治的な単位と民族的な単位とが一致しなければならないと主張する一つの政治的原理である。

という定義が紹介されている。これはむかし、歴史の教科書で習った、「民族自決」と同じじゃないのか?と思ったが、違うようだ。ナショナリズムの成立には、民族よりも、共通の言語のほうが、重要らしい。

ある国の人々が自分たちは同じ国の国民であると自覚するのに必要な条件は、共通の言語で新聞を読み、国会で議論し、法律を定め、国家に暴力(軍事力、武力、警察力)の合法的な行使を委ねていることである。たとえ複数の民族が存在しても、共通の言語を使って政治をしていれば、あるいは、たとえ複数の言語が存在しても、翻訳や通訳を介して共通の言語を使っているのと同じ状態で政治をしていれば、一つの国民国家たりうる。そのような、一つの国語を持つ国民国家が成立したのは、18世紀末からで、それは、資本主義の成長と同時である。国民国家は資本主義を成長させるために必要な制度だった。

資本主義が成長する前には、「国民国家」は存在しない。「国民国家」が成立する前の国家が基盤としていたのは、農耕社会である。それは身分制度によって人々の差異を明確化し固定化することが必要とされていた。国家は君主と一体視され、犯罪は君主の権威に挑戦するものとされ、残酷な刑罰が見世物としておこなわれた。「国民国家」では、人口が流動化すること、人々が農村を出て工場など様々な職場で働くこと、そのために全員が職業訓練の前提となる初等教育を受け、規律を身につけること、などが求められる。刑罰は残酷な見世物ではなくなり、社会の秩序を守るために、国家が国民から委ねられた権力を行使するものとなった。

というようなことが、書いてある。時代小説好きの私としては、国民国家の成立が18世紀末から、という点に非常に興味を覚えている。それは、アメリカ合衆国が独立し、フランス革命が起こった時代だが、一方、日本では、田沼時代、続いて、松平定信の寛政の改革がおこなわれた時代だ。その頃には、日本全国の都市に寺子屋があった。話し言葉は方言でも、全国の町人が共通の言語を読み書きできた。

江戸時代後半は、北海道でとれる産物が、廻船によって九州まで運ばれ、清へ輸出された。その北海道の産物を集める商人たちは、アイヌから収奪し、搾取した。これって、植民地に似ている気もするけど、商人たちは、廻船によって人も物も流通している蝦夷地まで含めて一つの我が国である、と意識することはなかっただろうか? 田沼意次は蝦夷地の開拓とともに、日本国民全員に税をかけることを構想した。実現していたら、それこそ、国民国家への第一歩、ではなかっただろうか?

松平定信はそれを阻止したが、彼が長谷川平蔵の進言を取り入れて設置したという石川島人足寄場は、むしろ、資本主義的流れに沿うものではなかっただろうか?地方から江戸に入ってくる無宿ものを集めて職業訓練と読み書きそろばん道徳の教育を施した。私は、つい、それを、アメリカ合衆国の公共図書館と比較してしまう。地方から都市に流入する若者や、新来の移民を、優秀な労働者に、穏健な市民にするため、公共政策として、図書館を整備した。江戸の人足寄場は、当時、世界的に見ても画期的な、犯罪者の更生をめざした刑務所と評価されているらしいが、アメリカのように市民が自由に自発的に知識を求めて行く図書館とは異なるものの、期待された社会的機能には、似たものがある。

国民国家の成立と資本主義の成長は18世紀末の世界的な現象であって、東洋の島国日本の宰相松平定信も、時代の流れにどんなに逆らいたくても、小舟一艘だけでも流れに乗せざるを得なかった。

日本の戊辰戦争と明治維新は、アメリカ合衆国の南北戦争と、時代も近いし、同じ武器も使われているし、資本主義の成長と国民国家の成立をより一層、一段と進めた、という点でも、とてもよく似ていると思う。南部が奴隷労働に頼る農業中心の社会だった、南北戦争前のアメリカ合衆国が、日本を開国させるのに成功したのは、ちょうど、両方の国の成長度に、通じる部分があったからではないかと、私は思ってしまう。通常言われるように、ペリーの軍事的威嚇に屈した、という面もあったにしても、日本の商業や海運業の成長も、開国を必要とするところまで、達していたのではないか。

今の時代は、グローバリズムこそが文字通り世界的な潮流であって、それに乗るべきなのかもしれない。でも、あまりに急流だと、大勢が溺れてしまう。だから、流れに逆らうもの(この場合、ナショナリズム?)も、必要なのだ。松平定信は田沼意次とその一派を徹底的に弾圧粛清したが、今の時代はそういうやりかたではなく、いわば定信も意次も一緒に船に乗せて、舵取りしていかなければならないのだろう。

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ナショナリズムは悪なのか 新・現代思想講義

ナショナリズムの再定義

4人中、3人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

投稿者:24wacky - この投稿者のレビュー一覧を見る

本書は、ナショナリズムと国家の関係、共同体の関係、ネーションの関係について、新書の体裁としては可能な限り明瞭な理論化をはかった内容となっている。そのなかで「排外的」「国家主義的」というイメージが定着している「ナショナリズム」という言葉が吟味される。興味深いのはその議論において、かつて「反復帰論」を展開した沖縄の知識人新川明、川満信一について触れている点だ。国家の暴力があらわになる沖縄の現状を考えることと、それは見事にシンクロしている。

著者はまず、ナショナリズムについて基本的な認識を確認している。それはアーネスト・ゲルナーの《ナショナリズムとは、第一義的には、政治的な単位と民族的な単位とが一致しなければならないと主張する一つの政治的原理である。》(『ネーションとナショナリズム』)という定義である。たとえばある民族が独立を勝ち取った場合、その政治的単位は単一なもの、すなわち国家となる。あるいは、既にある国が国民国家としてあるならば、「国家は国民の生活に責任をもたなくてはならない」という考えが自明なものとなる。ナショナリズムとは第一義的に、統治の枠組みとなる人間集団の単位をめぐる政治的原理であり、そうであるがゆえに国家の問題から切り離すことはできない。

ナショナリズムとネーション。この2つの言葉の使い分けはどうだろう?著者は述べる。

こうしたナショナリズムの限定性は、国民を意味する「ネーション」という言葉そのものに内在している。「ネーション(nation)」の語源は、「生まれ」を意味するラテン語のnatioである。ここから「ネーション」は生まれ、つまり血縁や生活習慣をともにした人間の集合、という意味になった。こうした「生まれ」の限定を「われわれ」の核に据えることで、ナショナリズムは普遍性を開きつつ制限するという二重の働きをもつのである。
 ネーションが「国民」とも「民族」とも訳される理由もここにある。ネーションは、国家の主役だという点が強調されれば「国民」と訳されることになるし、生まれにもとづいたアイデンティティが強調されれば「民族」と訳されることになるからだ。(31ページ)

「ナショナリズムは普遍性を開きつつ制限するという二重の働きをもつ」という重要な指摘をした上で、著者みずからはナショナリズムを支持するとし、その理由を、「国家は国民の生活を保障すべき」というナショナリズムの原理が機能しなくなればなるほど、ナショナリズムは逆にアイデンティティを活性化させてしまうからだと述べる。たとえば労働市場がグローバル化し国内格差が広がれば広がるほど、国内では「日本人」というアイデンティティが強調されるようになる。その例として、赤木智弘の「「丸山真男」をひっぱたきたい」に代表される日本の若者の排外的な右傾化を挙げる。

このような傾向に対し、日本の人文思想系の知識人は「排外的だ」といって斬り捨てるだけで、まともに相対していない、なぜならば彼ら知識人はナショナリズムを道徳的な問題としてのみ扱おうとするからだと著者は批判する。排外的にヒステリー化するその要因をみることなく、その条件を放置し、ただキレイゴトで済まそうとしていると。

「第三章 国家をなくすことはできるか? ――国家を否定する運動がナショナリズムに近づくという逆説」では、タイトル通り国家廃棄論者が批判され、国家をなくすことがいかに困難かが語られる。そのために前半では沖縄の詩人・思想家である川満信一の「琉球共和社会憲法C私(試)案」が大きくとりあげられる。萱野は沖縄の歴史的経験に対峙する川満が「国家なき社会」を求める切実さをじゅうぶん認めたうえで、それでもやはり国家を廃絶することは困難であると結論づけている。本書ではそのことを理論的に吟味すると同時に、「琉球共和社会憲法」に同調する西川長夫や上野千鶴子ら本土の知識人の姿勢を、裏返しの植民地主義ではないかと厳しく批判することに紙数が費やされる。

私は著者が繰り返し強調している国家の廃絶は困難であるという考えに同意する。そのうえでなお、国家の揚棄を探求したい。沖縄にある「現実」が私にそう強いるからだ。

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