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電子書籍

村上春樹論  『海辺のカフカ』を精読する みんなのレビュー

  • 著:小森陽一
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みんなのレビュー3件

みんなの評価2.6

評価内訳

  • 星 5 (0件)
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3 件中 1 件~ 3 件を表示

戦後民主主義を貶める処刑小説なのか、でも説教評論になってはいけません。

8人中、7人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

投稿者:栗山光司 - この投稿者のレビュー一覧を見る

 最初に結論があったのか、小説家と文芸評論家の全く違った振る舞いを改めて再確認した本書でした。小説は読む行為のプロセスにある。『海辺のカフカ』も例外ではない、徹底した戦後民主主義者で護憲を死守しようとする小森陽一の強い思いはわかる。
 でもこれでは小森陽一のベットサイズにはみ出た『海辺のカフカ』を外科の名医が綺麗に切り取って村上春樹を論じてしまったという、作家にとって小森陽一の春樹であって、「ボクじゃぁない」と言いたくなるでしょうね、
 でも、春樹さんはヤスケンさんの春樹原稿流出事件で声をあげても文芸批評に関しては黙して語らない人だから、こんな見事な分析批評に当の本人がどう思っているのか、一読者として勝手な想像をするしかないですね。
 僕は小森陽一の徹底した論理の積み重ねで、しかもテクスト『海辺のカフカ』の文脈に逆らわないで、葉脈に沿ってというか、筋に沿ってというか、無理をしないで、村上春樹を深く切り裂いて行く手際に感動すら覚えました。シンメトリックな美しさで最初から迷いのない解剖手順が決まっているのだ。その悩みのなさ、不動の信念はリスペクト出来るが、解剖される作家は腹立たしいと思う。
 「ボクでない別のヤツ」の批評だと思っても、その論述の仕方は当の作家を間違いなく追いつめると思う(まあ、作家自身が読めばの話ですが…)、でも僕はひょっとして、逃げ場のないように作家を追いつめながら最終的にはウルトラ技で、どうしようもなく政治を語ろうとしないかに見える作家をひょっとして肯定するような結語になるのではないかとへそ曲がりの想像をしましたが、(というのはこのような分析の彼方に、だから村上春樹を認めるということが論述出来るかも知れないと思ったからです)やはり、小森さんの政治的メッセージは不動のもので揺らぎがない。
 「歴史認識が空虚であってもかまわないという許し」は<癒し>につながらない、確かに『海辺のカフカ』では声高に政治的メッセージを発信しているわけでない、それが隠されている、だからこそ質が悪いと小森さんは感じているのでしょう。「忘却」で癒されるほど人間はタフであるはずがない、捏造されたものであれ、新しく偽造されたものであれ、「記憶」の枠でしか、人間の営みは救いも癒しもないと思う。小森さんが弾劾する村上春樹の「記憶喪失装置」の救いは救いでなく認知障害者的<癒し>でしかないであろう、小説家としてはそこまでしか書けない、それでいいのではないかと思う。
 時として<癒し>が歴史を、記憶を忘却する認知障害的なものとして現れるかも知れない、それを読みとるだけでもこの小説の圧倒的な存在価値を認めるのは過大に過ぎるだろうか、僕はそのような読解の後で、読み手の一人一人が読みとればいいと思う。反面教師としてでも、又は春樹さんの文脈に沿って読者に投げ出されたものなのです。
 評論は自由なものではないのかも知れない、メッセージが要請される。しかし、小説は自由なものなのです。常にベットからはみ出る。だから面白いのです。どうも小森さんは説教過多の気味がありますね、しかし、小森さんの分析は夏季講習を受講したかのような充実感がありますが、多少、第五章の「『海辺のカフカ』と戦後日本社会」には閉口しました。残念なことに説教になっているのです。説教では人は動きません。
歩行と記憶

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完膚無き批判

5人中、5人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

投稿者:けんいち - この投稿者のレビュー一覧を見る

「『海辺のカフカ』が受け入れられた国々には、二〇〇一年「九・一一」以後、ある共通した社会的な精神的病理が広がっており、それに対する〈救い〉〈救済〉〈癒し〉をもたらす商品として『海辺のカフカ』が消費されており、そのことを〈善きこと〉として受け入れるわけにはいかない、というのが本書を貫く立場です。」

上のようにして本書の問題設定を提示する小森陽一による、村上春樹『海辺のカフカ』精読は、文学者(文芸評論家?)としてのアイデンティティを賭けたかのような私怨/義憤に基づき、粘り強く、かつ鋭利に展開されていく。本書の議論を営利というのは他でもない。それが、精神分析的な知見や、いささか性急な歴史的政治的文脈の導入による批評だからなのでは決してなく、隠喩をはじめとしてイメージによって何事かを描き、そのことによって多くの読者を得てしまう『海辺のカフカ』を、徹底して言葉の具体的な分析に基づいた批評であるからに他ならない。

従って、本書は、『海辺のカフカ』という小説への批判であると同時に、村上春樹という作家への批判でもあり、さらには、『海辺のカフカ』を微温的に受容し顕揚してしまう読者、そのような生産・流通・受容を成立させる現代日本の社会構造やメンタリティまでもが厳しく批判されていく。

ということは、本書は、『海辺のカフカ』精読であると同時に、それをある集約点として現代日本の文化的徴候を論じる枠組みを執っていることになる。それが、村上春樹の隠喩とどのように異なるのか、それは読者が決めることだとしても、その「結論ありき」で一気に進められる行論には、村上春樹『海辺のカフカ』とはまた別種の「危険性」を感じもするのは、(この書評の)筆者の杞憂にすぎないのだろうか?

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彼の関心から考えた場合予想できる議論なのだろうが...

6人中、5人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

投稿者:まぎぃ - この投稿者のレビュー一覧を見る

うがった読み方、酷い誤読と思ってしまった。

私が『海辺のカフカ』を読んだのは数年前だから、細かい話をよく覚えているとはいえない。でも小森氏がしつこく繰り返す、暴力が<いたしかたのないこと>として許容されているというのは一体どこから来た発想?

私は『海辺のカフカ』から別に<癒し>は得なかったから、小森氏が想定している読者ではないけど...むしろこの小説の終わり方は、(父親の殺人事件など)身に覚えのないことについても責任をとるということだと思ったんだけど?
いま文庫版下巻の終わりの方を見てみたら:

‘「君はこれからどうするつもりなんだい?」と大島さんは質問する。
「東京に戻ろうと思います」と僕は言う。
「東京に戻ってどうする?」
「まず警察に行って、これまでの事情を説明します。[...]」
「逃げまわっていても、どこにも行けない」
「たぶん」と僕は言う。
「君は成長したみたいだ」と彼は言う。
僕は首を振る。僕にはなにも言えない。[...]
「いつ東京に帰る?」
「今からもう帰ろうと思います」
「夕方まで待たないか?図書館を閉めてから、僕の車で駅まで送ってあげるよ」
僕は少し考えてから首を振る。「ありがとう。でもたぶん、今すぐ出ていったほうがいいと思うんです」
大島さんはうなずく。’
(pp. 518-519, 521)

これって身に覚えのないことについても責任をとらなきゃいけないってことじゃないの?とりあえず、起きてしまったことをただ<いたしかたのないこと>として放っては(許容しては)いないと思うんだけど...

それから一番わからないのは、小森氏はちらほらとポスト構造主義的キーワードを登場させ、フーコーやデリダの名まで出しているのに、というかそもそもフロイトやラカンの主体理解に拠っているらしいのに、そこからの議論がまったく正反対の方向に向かっているように感じられるところ。

私は精神分析は不勉強だけど、そういう、言語によってsplitされた主体というものを問題視するのが彼らの議論じゃないの?フーコーやデリダでも、他者から分割された自己(≒主体)を問題視するのがまず出発点だよね?確かに私自身はデリダとともに‘主体’に留まる考え方なのだけど、でもその‘主体’は、デカルト的、近代的な、小森氏のいう‘自分を連続的かつ統一的に把握する’(p. 50)主体や、‘自らの行動を合理的な思考と判断において内省する統一的な自我’(p. 175)ではないよ?だいたい‘自我’と‘自己’は違うし!
しかもラカンや晩年のフーコーの議論からはふつう、言語による分割を超えた、言説やrelational powerに取り込まれない主体が、思考されると思うけど??

小森氏の議論は言語至上主義に感じられる。別に意見は異なって構わないけど、それならなんでラカンやフーコーやデリダを持ち出すのかな...私にはこっちの方が、小森氏が村上氏を非難する上で多用する表現である‘流用’に思えて仕方ない。

村上氏や、河合隼雄氏(が関わっていた箱庭療法)の考え方はそれとは違って、言語による二項対立、二者択一的表現を超えたところに可能性を見出そうとしてるのだと、私は理解している。『海辺のカフカ』の、やはり最終章には:

‘「ことばで説明してもそこにあるものを正しく伝えることはできないから。」’
(p. 509)

小森氏は村上氏を批判しようとして、この小説は‘二者択一不可避な状況設定をし’ている(p. 172)と書くが...私には小森氏の方がよほど、善悪とか、言葉と視覚的イメージとか、「民主主義的パーソナリティ」と「権威主義的パーソナリティ」とかの二項対立を駆使した議論を展開していると、思えてしまった。

因みに。私も村上作品の登場人物には共感できないことが多い。私が女性だからか、セクシュアルなことにお固いタイプだからかはわからないが。だから別に彼のファンとして小森氏を批判しているのではない(と、自分では思う)。戦争や学園紛争は彼の作品にずっと通奏低音のように横たわってるし、そこを論じるのは大切なことだと思う。
でも、団塊の世代の女性を母として育った私としては(笑)、彼らの‘限界’は‘父親の世代の「戦後」の欺瞞を批判しつつも、戦前戦中の戦争責任までは問わな’かった(p. 242)ことにあるというより、戦前戦中の‘右向け右’が学園紛争では‘左向け左’になっただけで、結局構造的に同じだったところにあるという理解なのダ。

そして私は、村上氏自身はこの小説で自分の属する団塊の世代を‘自己批判’してると、思ったんだよね...

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