自然の現象学 : メルロ=ポンティと自然の哲学 みんなのレビュー
- 加国尚志 (著)
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2004/02/25 20:26
自然が自然と問題になるのだ
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投稿者:トッポ - この投稿者のレビュー一覧を見る
メルロ=ポンティの『自然』講義記録が出版されて以来、後期メルロ=ポンティの思惟の裏面が明らかになってきた。とりわけ、晩年の遺著とされる『見えるものと見えないもの』は、実際には書物ではなく、未完の草稿、更には、(単なる)メモの集積であったがために、その意味するところを解読することは、とりもなおさず、解釈者の思惟と恣意との絡み合いによって果たされるしかなかった、とも言える。それが、この講義記録の出版によって、少なくとも、メルロ=ポンティがそうしたメモを書く向こう側で、どのような講義をしていたか、が見えるようになったわけで、誠に慶賀すべきことである(さらに他の講義メモも出版されてきているので、その面での研究は、今後も進展するのであろう)。
この講義記録の解釈が半分を占める本書はしかし、単なるその紹介に終わるものではない。この講義記録を通して、晩年のメルロ=ポンティが志向し思考していたことを、出発点たる『行動の構造』にまで遡り跡づけていく作業を通して、却って、これまであまり表だって議論されてこなかった『行動の構造』そのものの解釈をも革新しているのである。そうすることで、メルロ=ポンティといえばなんたって『知覚の現象学』、という研究状況に、一石を投じたことが、まず第一の意義と言えるのではないか。
次に、この力点の変更を通して、自然科学と哲学との関係を、再度結び直す視点を設定しようとしている、という点が、第二の意義といえるのではないだろうか。考えてみれば、フランス哲学の一つの特徴として、メーヌ・ド・ビラン、ブランシュヴィック、ベルクソン、ヴュイユマンなどにみられるような、科学との親密な関係(だからといって、いい関係とは限らないが)があったのだ。メルロ=ポンティも、いわばその伝統を踏襲しているのだが(『行動の構造』でも『知覚の現象学』でももちろん見て取ることが出来る)、このことを、再度想起させてくれる。その視点から、あるいは少なくとも、そのことも踏まえた上で、『見えるものと見えないもの』へと向かうべきであることを、教えてくれたのである。
この観点からするとき、「肉」というメルロ=ポンティ晩年の鍵概念も、決して神秘的なものとしてではなく解釈することが可能になる、ということを主張する点において、最終章は本書のピークを成す。単に、メルロ=ポンティは当時の自然科学も無視していませんでした、などといった消極的な主張ではなく、まさにそこで進行していた−今もなお進行している−科学の地盤変動は、それが存在論へと写されたときにいかなる意味を持つか、こうした思惟の反映として「肉」の概念を解釈するとき、あるいは別の始元における存在概念が語られることになるのかもしれない。
他にも、著者は、様々な問題に触れながらも、本書内で展開するにはいたらなかった諸問題が数多く残されている。著者の、今後の思惟活動を刮目して待ちたいと思う。
なお、四つ星としたのは、編集上、誤植が結構あり、注の付け位置の問題と思われるもの、なども散見されたためである(初版に依る)。
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