サイト内検索

詳細検索

ヘルプ

セーフサーチについて

性的・暴力的に過激な表現が含まれる作品の表示を調整できる機能です。
ご利用当初は「セーフサーチ」が「ON」に設定されており、性的・暴力的に過激な表現が含まれる作品の表示が制限されています。
全ての作品を表示するためには「OFF」にしてご覧ください。
※セーフサーチを「OFF」にすると、アダルト認証ページで「はい」を選択した状態になります。
※セーフサーチを「OFF」から「ON」に戻すと、次ページの表示もしくはページ更新後に認証が入ります。

⑤[4日間限定バナー]12月度:コミック ポイント30倍(~12/14)

[CPあり]2017年年間ランキング【ランキングTOP】(~12/14)

電子書籍

なぜ教育論争は不毛なのか 学力論争を超えて みんなのレビュー

  • 苅谷剛彦 (著)
予約購入について
  • 「予約購入する」をクリックすると予約が完了します。
  • ご予約いただいた商品は発売日にダウンロード可能となります。
  • ご購入金額は、発売日にお客様のクレジットカードにご請求されます。
  • 商品の発売日は変更となる可能性がございますので、予めご了承ください。

みんなのレビュー5件

みんなの評価5.0

評価内訳

  • 星 5 (3件)
  • 星 4 (1件)
  • 星 3 (0件)
  • 星 2 (0件)
  • 星 1 (0件)
5 件中 1 件~ 5 件を表示

紙の本

なぜ教育論争は不毛なのか 学力論争を超えて

「ゆくえ」,「危機」,「幻想」,そして「不毛」

8人中、6人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

投稿者:BCKT - この投稿者のレビュー一覧を見る

序 教育の論じ方を変える
第1部 学力低下論争の次に来るもの
第2部 なぜ教育論争は不毛なのか―メディア篇
第3部 なぜ教育論争は不毛なのか―行政・政治篇
終章 隠された「新しい対立軸」をあぶり出す

 
 著者は1955年(東京)生まれ。東大卒後,大学院(教育学部)で修士号,ノースウェスタン大学でPh.D(社会学)取得後,同大で客員講師。放送教育開発センターを経て,東大勤務(教授)。『大衆教育社会のゆくえ』(95年),『階層化日本と教育危機』(01年,サントリー学芸賞と大佛次郎論壇賞を同時受賞),『教育改革の幻想』(02年)。本書は48歳時の作品。



 経年的に題名だけを追っていくと彼の教育に対する姿勢の変遷が分かる。つまり,教育の「ゆくえ」,「危機」,「幻想」ときて,本書の「不毛」。この「ゆくえ」はひらがなで書いてはいるが,“迷走”と読むべきだろうから,苅谷は現代日本教育の「ゆくえ」(迷走)を憂慮し,「危機」を言いたて,ついにその改革が「幻想」だと見抜き,改革論議が「不毛」と言い放ったと言える。起承転結(!?) 本書は,第1部の一部「もう学力論争は終わった」(中井浩一との対談)と終章(書き下ろし)以外は全て,『毎日新聞』『読売新聞』『論座』などの既出(記事)雑文を編纂したもの。学力低下論争との「決別」の書であり,これで一応の手仕舞いとする著者の態度を象徴する編集である。“起承転結”という私の一言まとめもあながちギャグだけではない(と思う)。

 
 しかし,彼の『階層化日本と教育危機』まで本当に教育統計を用いた本格的研究はなかったのだろうか? もしそうなら,驚かされる。いかに教育社会学が経済学的ウィリアム・ぺティ以前であったかが偲ばれる。経済学は経済実態にあんま効果を持たないが(持つのは経済制度の創出・改変に向けられた政府政策),教育学はそれ以下だったんだね。


 少なくとも苅谷は,自主的思考重視の寺脇研とは反対で,知力重視の齊藤孝,斉藤兆史,榊原英資,和田秀樹らの側に属すると思う。しかし,社会的なインフラとしての教育を考えており,保護者の経済格差がその子供たちの学習格差につながってはならないという強い思いが明白だ。宮台真司は「苅谷の立論は、経済決定論的であり、受験する側=児童・生徒の『動機付け』への考察が全く欠如しているとして批判している」らしいが(Wikipedia),宮台さん,なんで東大出てるのに,地方大学の研究者が地方新聞で書きそうな頭の悪そうな発言したんですか? それとも,Wikipediaに記事書いた人の要約が悪いのかなぁ。苅谷の姿勢は学者として至極当然で,人格的な正義さえ感じられる。


 いろいろ叩かれて悔しい思いをしたんだろうけど,バカに味方する奴なんかいません。自信を持って社会科学的手法で日本の教育をドンドン検証し尽してください。応援しているぞ。(1148字)

このレビューは役に立ちましたか? はい いいえ

報告する

紙の本

なぜ教育論争は不毛なのか 学力論争を超えて

学校とは知識を詰め込む場所である

8人中、6人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

投稿者:塩津計 - この投稿者のレビュー一覧を見る

教育論議が不毛だという。教育論議が迷走していると
いう。なぜなのか。原因は何なのか。答えは簡単。
学校に多くを求めすぎている。実現不可能な要求を
学校の求めすぎているからに過ぎない。

そもそも学校とは「知識を教えてもらう場所」だった。
明治の中期頃までは学校と寺子屋がまだまだ並存して
いたのだ。江戸時代、庶民の教育は寺子屋という
「学習塾」に任されていた。藩校に通える武士の子は
極々少数だった。それが何時の頃からか学校は知識を
教えてもらう場所ではなくなってしまった。むしろ
「知育偏重」と知識を詰め込む事自体が「悪」だみたい
な議論がはばをきかせるようになった。苅谷さんは
これを教育界を支配した左翼の主張が原因だとして
いる。「知識を詰め込み人材を育成する事は教育の
資本家への従属を意味する」というサヨクのヨタ話
が猛威を振るった結果、学校は「知識を教えてもらう
場所」から「人格を形成する場所」にバージョンアップ
してしまう。しかし100人、1000人の子どもをどう
やってみんな人格者に仕立てられようか。どうして
子育てを放棄した崩壊家庭の代わりを教員が勤められ
ようか。教員にはそんな能力は基本的に備わっていない。
だいたい日本人の過半は出来そこないで自分の人格
すら怪しいのに、どうして赤の他人を人格者に出来
ようぞ。しかし学校への要求はエスカレートする
一方だ。スポーツを振興せよというのもそのひとつだ
ろう。気晴らしの運動ならいざしらず、県大会だ
インターハイだって、お前ら厚かましくないか。
そんなスポーツ選手を学校でただで育成してもらおう
なんて虫が良すぎないか。スポーツしたけりゃカネ
払ってクラブ組織(地元のコミュニティの)でやれや。
だいたい教員の給料が低すぎる。今時教師になるのは
国内の一流企業にも外資系企業にもいけない根暗な
人間ばかりじゃないか。そんな連中にどうして教育が
出来ようぞ。しかし日本は立派な国である。柔軟な
国である。サヨクによって公教育が壊されても
「学習塾」「私立の中高一貫校」というのがちゃんと
立ち上がって崩壊した教育を補って余りある状態に
なっている。日本って捨てたもんじゃないね。

このレビューは役に立ちましたか? はい いいえ

報告する

紙の本

なぜ教育論争は不毛なのか 学力論争を超えて

これからの教育をどうすべきかを考える絶好の本

2人中、2人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

投稿者:のりたか - この投稿者のレビュー一覧を見る

本来、公教育の場である。「学校」とは何をすべき場所なのでしょうか。また、何を求められる場所なのでしょうか。このような根本の問いを考える暇もないくらい、学校現場は、今、大きく混乱しています。それは、教育政策が迷走して、一方では「基礎・基本を重視せよ」といい、一方では「学習指導要領は最低基準にすぎないから、発展的な内容も教えてよい」と、相矛盾するような課題が突きつけられているからです。この本(というより著者苅谷さん)の考え方は、そのような問題がどこにあるのかをただ論じるのではなく、「ではどうすべきなのか」「どう考えるべきなのか」を提起しているところに大きな特徴があります。今の教育問題を憂う人には必読の書でしょう。

このレビューは役に立ちましたか? はい いいえ

報告する

紙の本

なぜ教育論争は不毛なのか 学力論争を超えて

教育論争の問題整理。

6人中、5人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

投稿者:銀の皿 - この投稿者のレビュー一覧を見る

 情報は多いはずなのだが、流されたり騙されたりしがちな現代。生き抜くための知恵、力はどうやれば身につくのか。その第一歩として教育はどうなのか、と常に気にはなるのだが、教育、とくに日本の制度についてはよく知らないことが多いと感じていた。
 先日のBCKTさんの書評に触発され、この本を読んだ。日本の教育の動向について、この一冊は確かによくまとめられている。2003年時点での著者自身のまとめのような本であるが、数年後の今読んでも問題点を知るには充分なものと感じられた。
 前半はインタビュー形式で1999年から2002年までをまとめてあり、後半は2003年時点の問題を著者が雑誌などに書いた文章が中心。著者は「分析・解析」を重視し、対立軸などの言葉を使って論点の階層の違いなどをあぶりだす。自分の疑問が随分すっきりした、というのが正直な読後感想である。「格差」や「自己責任」といった教育だけに留まらない問題について、簡潔な問題整理をしてくれた。
 BCKTさんの書評に「 しかし,彼の『階層化日本と教育危機』まで本当に教育統計を用いた本格的研究はなかったのだろうか? もしそうなら,驚かされる。」とあったが、これは同感である。文系の学問の方法は理系のそれとはまだ随分乖離しているのか、との印象であった。

 冒頭に戻るが、現代をしっかり生き抜くため、どんな「個人」である必要があるのか、そのためにはどこまでを「教育」に求めることができるのか。民主主義の社会は「誰でもが自ら判断し、責任をとれる力」があることを前提としている。しかし現実の個人は簡単で明確な答えを求めてしまう(そのあたりの心境が122ページあたりのインタビュアーの言葉にも現れていて興味深い)。民主主義社会を選ぶかぎり、自分で判断し、責任に踏みとどまれる力をつける教育が全員にいきわたるようでなくてはならないだろう。それをどう実行していくか。
 問題点はこの本である程度把握することができると思う。ここからは自分で考えねばならない。さて、それだけの力をどうやってつくるか。・・堂々めぐりに陥らないよう、まずは何かを始めることが肝要、か。

このレビューは役に立ちましたか? はい いいえ

報告する

紙の本

なぜ教育論争は不毛なのか 学力論争を超えて

編集者コメント

0人中、0人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

投稿者:担当編集者 - この投稿者のレビュー一覧を見る

「実は、今回の「学力低下」論争の渦中で、従来の対立軸を無効化し、そこに隠された現実を露わにしようとして闘ってきたと思われる論者が一人いる。苅谷剛彦である。(中略)私は、苅谷を宮台真司等と同じく、「壊し屋」(クラッシャー)だと考えている。転換期にはまず、古い建物を壊すことが必要になるのではないか」(中井浩一編『論争・学力崩壊2003』序章より)

「ゆとり」か「詰め込み」か——いつまで二項対立の愚を繰り返すのか? いつまで「左右対立」の図式に乗るのか? 観念論や「べき論」を排し、データに基づく実証的政策科学を志す、まったく新しい教育論。
 学力低下論争の渦中で、いち早く不平等社会化に警鐘を鳴らしつつ、新しい対立軸を露わにしようとしてきた著者が、いま教育の論じ方を変える。

『論争・学力崩壊2003』(中公新書ラクレ)と連動企画。

このレビューは役に立ちましたか? はい いいえ

報告する

5 件中 1 件~ 5 件を表示