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「国語」の近代史 帝国日本と国語学者たち みんなのレビュー

  • 安田敏朗 (著)
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紙の本

「国語」の近代史 帝国日本と国語学者たち

テーマは面白いが著者の力量が伴わない

12人中、11人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

投稿者:越知 - この投稿者のレビュー一覧を見る

 著者の名は以前見た記憶があった。中公新書ラクレから4年前に出た『論争・英語が公用語になる日』に文章を寄せていたのだ。しかしその時は、多数の論者の中でもこの人のは飛び抜けてつまらないなと感じ、そのために名前を覚えていたくらいだから、今回もテーマ自体は面白そうに思われたものの、一抹の不安があった。そして読んでみて、その不安が的中してしまったのである。
 最初の「はじめに」からしてつまずいてしまった。こう書かれているのである。
 「ことばは個人によって相当に異なる。『わたし』とまったく同じ語彙を持ち、使用法もまったく同じ人など存在しない。そうした(…)個別ばらばらなことばを、ひとつの存在としてみなしていくことには無理がある。しかし、『国語』という名詞があるということは、そうした無理が行われた証拠である。」
 冗談ではない。そんなことを言うなら、あらゆる林檎は一つ一つ微妙に大きさや形が違っているから、「林檎」という名詞でくくることもできない、ということになる。そうなればそもそも言語を使用すること自体が不可能になるだろう。著者がこういうトンデモな論法を持ち出すのは、実は「国語」という言葉に含まれる国家制度的なものやイデオロギーを撃ちたいからなのだが、冷静に考えてみれば、著者が中立的な言葉として推奨したがっている「日本語」という名詞にしたって同じ理由から「無理が行われた証拠である」と言えてしまうではないか。
 一事が万事である。こうした無理な論法や軽率なものいいはこの本全体を貫徹しており、テーマ自体は興味深いし、材料もかなりたくさん集めているのに、扱い方や切り方がまずいために、さっぱり面白さが出てこないのである。著者はやたらと「国家」という単語を使い、そこから近代日本において形成された日本語、そしてそれを支えてきた学問(国語学)や学者(国語学者)のイデオロギー性や政治性を浮き上がらせようとする。しかし意図の方が先行しすぎ、資料をじっくり読み込んだり時代状況を吟味したりといった作業をなおざりにしているために、主張に説得力が出てこない。
 首をかしげる箇所は多いが、具体例を二つだけ挙げる。明治期に刊行された『日本軍人用文』という軍人用の文章作成規範書を著者はとりあげて、親への手紙文も載っていることを指摘し、「軍隊という物理的な力で管理される組織内にはたらく、また別の暴力でもある」と書く(42ページ)。しかし、用文集にならって手紙を書くのは軍人でなくともやっていたことであり、現在の義務教育でも同様の例はあるはずだ。軍隊の用文集だからと言って「暴力」という大げさな言葉を持ち出す著者の態度は、逆にその幼さと無知をさらけ出していると言える。
 また、方言研究においては離島などに昔の中央の言葉が残っている例があるとされたことを取り上げて、それは国語の歴史をさかのぼるために必要とされたから国家制度の政策としての側面があったのだ、と著者は言う(50ページ)。しかし学問の立場からすれば国語の歴史をたどろうとするのは当たり前のことであって、問題は方言に昔の中央の言葉が残っているという見方と方法論とが正しいかどうかということのはずである。ところが著者は肝心要のそこのところにはまったく触れていない。これでは国語のイデオロギーを撃つという著者の意図は空回りに終わってしまう。
 最後に。近代的な「国語」はたしかに国家のためにも形成されたかもしれない。しかし同時に自由民権運動などの武器にもなったのである。そうした両義性を無視した研究は、所詮は十分な説得性を持ち得ないプロパガンダに終わるしかないだろう。

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