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とげ抜き 新巣鴨地蔵縁起
  • みんなの評価 5つ星のうち 4.7 7件
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  • カテゴリ:一般
  • 発行年月:2007.6
  • 出版社: 講談社
  • サイズ:20cm/288p
  • 利用対象:一般
  • ISBN:978-4-06-213944-1
  • 国内送料無料

紙の本

とげ抜き 新巣鴨地蔵縁起

著者 伊藤 比呂美 (著)

この苦が、あの苦が、すべて抜けていきますように。「群像」連載時より大反響の長篇詩遂に刊行。【「BOOK」データベースの商品解説】【萩原朔太郎賞(第15回)】【紫式部文学賞...

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とげ抜き 新巣鴨地蔵縁起

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商品説明

この苦が、あの苦が、すべて抜けていきますように。「群像」連載時より大反響の長篇詩遂に刊行。【「BOOK」データベースの商品解説】

【萩原朔太郎賞(第15回)】【紫式部文学賞(第18回)】母の苦、父の苦、夫の苦、子供の苦…でもなによりも「私の苦」。女であることのしんどさを愛と毒にみちた“生きた言葉”で解放する。『群像』連載の長篇詩の単行本化。【「TRC MARC」の商品解説】

著者紹介

伊藤 比呂美

略歴
〈伊藤比呂美〉1955年東京生まれ。青山学院大学文学部卒業。詩人、作家。99年「ラニーニャ」で野間文芸新人賞、2006年「河原荒草」で高見順賞を受賞。ほかの著書に「伊藤ふきげん製作所」など。

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みんなのレビュー7件

みんなの評価4.7

評価内訳

  • 星 5 (5件)
  • 星 4 (1件)
  • 星 3 (1件)
  • 星 2 (0件)
  • 星 1 (0件)

紙の本

生きることと声/文字

2008/01/02 09:27

4人中、4人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

投稿者:けんいち - この投稿者のレビュー一覧を見る

だから、「エクリチュール」といっていいのだと思う。これは、散文詩かも知れないし、小説のように見えるかも知れないし、あるいは詩だというならばそれを否定することも難しい。しかし、そうした呼び名の争いは些事にすぎない。それを些事とみなし、それでいて書かれたものそのものに向き合い、その素晴らしさを体感するために、もう40年にはなるだろうか、「エクエリチュール」という概念が世に広められたのだ。こうしたカタカナを毛嫌いするには当たらないし、それを新奇なものという火とは、昭和30年代の白黒TVを新奇なものと呼んで怖れているのと変わらぬアナクロニズムに陥っているだけのこと。伊藤比呂美のこの作品を「エクエリチュール」と呼ぶことには、もう1つ、貴重な、しかしそれでいて困難には違いないメリットが伴う。それは、この「エクエリチュール」のもたらすリアリティ、生きることそのものを描出したかのようなリアリティに関わる。ともすると、この作品から、読者は「生の声」を聞いたような感覚に襲われはしまいか。もちろん、作品評価としては肯定的な意味で。その肉声の生々しさがもたらす洞察、あるいは深みといったものが、ここには確かにある。ただし、「ここ」とは、声ではないのだった。それは書かれたもの、つまりは「エクエリチュール」であり文字なのだ。もちろん、凡百の言語芸術もまた、文字で書かれながら、風景や内面やなにやかやを表していきはするが、それは近代に培われた慣習的制度のなせるわざ、その恩恵にすぎない。それに反して、ここでは、制度にもたれることのない自律した言葉の連なりが「エクエリチュール」を構成している。にもかかわらず、徹底して文字として物質化されていながら、それは声を喚起する。それも、強く、声を喚起する。こうした事態、こうした不可思議な事態を生起させる「エクエリチュール」こそが、近代にあって「芸術」というものなのだろう。それも、制度としてのそれではなく、「エクエリチュール」それ自体が「芸術」であるという意味に於いて。

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紙の本

空のみぢんに散らばる声が

2007/09/23 19:03

2人中、2人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

投稿者:[ M ] - この投稿者のレビュー一覧を見る

本書は「群像」二〇〇六年二月号から二〇〇七年四月号まで掲載された、伊藤比呂美の長篇詩である。
小説に似ているが小説ではない。では詩であるかというと詩ではない。あるいは詩でもあり小説でもある。分類するならば散文詩にあたるのだろうが、はたして分類する必要があるのかどうか。
 たしかなこと、それは、ここには「語り」があるということ。


 です・ます調の敬体は、作者に口を使わせ、読者に耳を使わせる。作者を語り手にし、読者を聴き手にさせる。だから語り手と聴き手を繋ぐ絆は文章ではなく声である。
 語り手「伊藤」の紡ぐ言葉は生々しい苦痛に満ちている。これは冗語で、痛みとは生々しいものだ。母の苦、父の苦、夫の苦、妻としてのわたしの苦、娘たちの苦、詩人の苦、友人の苦、友人の母の苦、語り手をとりまくあらゆる苦が、語りに託され言葉として運ばれ、聴き手の神経に直接触れる。
 苦しみと死、それは生の言葉である。語りのなかの言葉は苦しみ、かつ生き、日本とカリフォルニアを往来する「伊藤」のように、今作が詩と小説のはざまにあるように、引用される中也の詩のように、「ゆあーん ゆよーん」(「サーカス」)とゆれうごく。
 園芸家との一幕、「伊藤」は一見、死に対して突き放すかのような態度を見せる。


《(……)いくつ枯らしたかわからない、これももう抜いてやらないと、といって園芸家は、干からびたシャクヤクの死骸を、わたしに見せました。
 気にしませんよ、植物は、とわたしがいいました。
 気にしませんよね、植物は、園芸家がうなずきました。
 植物にとっての「死ぬ」は「死なない」で「死なない」は「生きる」なんですもの、とわたしはさらにいいました。》(149頁)


 植物の死生と人間の死生とのちがいを確認しているのではない。「気にしませんよね、植物は」。だけど人間は気にしてしまう。このいわば執着が、人間にとっての「死ぬ」は「死なない」で「死なない」は「生きる」なんですもの、と語ろうとするその口を阻むのだろうか。
 語り手は、「詩をかくというのは、執着以外の何ものでもありません」(247頁)と言う。ここには確たるわたしが在る。「とげ抜き地蔵」がわたしの、わたしたち家族の不幸の身代わりになる。わたしたちの災厄を、苦を、抜いてくれる。
 だが、どうしてわたし以外のものがわたしの代わりとなれるだろうか。そして代わりになれないのであれば、わたしのとげは抜かれない。この逆説のブランコが、ふたたび「ゆやゆよん」とゆれうごく。
 それでも語り手は、どうしようもなく信じている。


《(……)わたしは信じる、「とげ抜き」の「みがわり」を、
 わたしは信じて、そして認識する、自分は、
 この巨大な存在とひとつとなり、ちらばった、このみぢんの存在である(……)》(286頁)


 おまえはアニミストだとユダヤ人の夫は鼻を鳴らすが、「このみぢんの存在である」わたしのモチーフは全篇を貫いている。各章の末尾には、「……から声をお借りしました」と声の出典が明記されている。中原中也、宮沢賢治、古事記、梁塵秘抄、ダコタ・ファニング、大島弓子など、さまざまな声。多くの声。それらの声が、「伊藤」の口を通して語られる。だからこのとき語り手は、こういってよければ巫女的存在である。器としての存在。とすれば、「わたし」はどこにいるのか。
 娘たちの声が「わたし」をゆさぶる。笑い声が、叫び声が、金切り声が、歓声が。「また揺るぎました。わたしのここに在るという自覚まで揺るぎました」(288頁)。
 確たるわたしが揺らぐ。「ゆやゆよん」。なぜなら語り手である「わたし」もまた、聴き手である読者同様、娘たちの声の聴き手にほかならないからだ。「このからだそらのみぢんにちらばれ。」(「春と修羅」)
 語り手である「わたし」の聴いた声。それは、生の声である。


《つまりかれらは、声を嗄らして叫んでおりました。生きてる、生きてる、生きてる、生きてる、と。生きてる、生きてる、生きてる、生きてる、と。》(288頁)

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2007/07/31 18:13

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2010/09/20 01:31

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2011/12/10 22:14

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2017/05/29 11:09

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2012/10/23 15:17

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