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  • みんなの評価 5つ星のうち 4.5 8件
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  • カテゴリ:一般
  • 発売日:2009/05/01
  • 出版社: 平凡社
  • レーベル: 平凡社新書
  • サイズ:18cm/293p
  • 利用対象:一般
  • ISBN:978-4-582-85458-9
新書

紙の本

『罪と罰』ノート (平凡社新書)

著者 亀山 郁夫 (著)

人を殺すことはなぜ許されないのか、ラスコーリニコフはこの物語の後、ひとりの人間として甦ることができるのか。人間存在の根源についてどこまでも考え抜いた作家ドストエフスキー究...

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『罪と罰』ノート (平凡社新書)

税込 858 7pt

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商品説明

人を殺すことはなぜ許されないのか、ラスコーリニコフはこの物語の後、ひとりの人間として甦ることができるのか。人間存在の根源についてどこまでも考え抜いた作家ドストエフスキー究極の主題に挑む。【「TRC MARC」の商品解説】

著者紹介

亀山 郁夫

略歴
〈亀山郁夫〉1949年生まれ。東京外国語大学学長。著書に「『悪霊』神になりたかった男」「『カラマーゾフの兄弟』続編を空想する」「ドストエフスキー」など。

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みんなのレビュー8件

みんなの評価4.5

評価内訳

  • 星 5 (5件)
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紙の本

光文社文庫『罪と罰』3分冊には巻末に訳者の解説があってそれは理解を深めるのに大いに役に立った。しかし本著はむしろ私の理解を混乱させた。しかし読む価値はあった。

2009/08/10 00:19

9人中、5人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

投稿者:よっちゃん - この投稿者のレビュー一覧を見る

亀山郁夫氏の著書ではじめに読んだのは『「悪霊」神になりたかった男』だった。亀山氏の個性が語る神のイメージには、信仰心を持たない私にとって曖昧さがなく、つまりわかりやすく、共感できたところで『悪霊』の理解が進んだのだと思っている。
『「悪霊」神になりたかった男』の一節、9.11のツインタワー崩壊をテレビで見ていた氏は「『悪霊』の一節に思いをはせ、『神は死んだ』と感じ、テレビを見ているわれわれ全員が神になった、という奇妙な錯覚に囚われたものだった。」と述懐している。
われわれ全員が神になったとは?
「世界を単に見る対象として突き放す神のまなざし、そして傲慢さこそ被造物たる人間がもっとも恐れるべきことであり、テロリズムの罪の深さは実はテロリストではなくテロルの恐ろしさをテレビの画面越しに見ている私たちにあるのではないか」と述べている。
氏のイメージする神。人間の営みに悲哀の感情を持たず、突き放して黙過する傲慢な存在なのかと自分なりに解釈し、神になりたかったスタヴローギンを理解したのだった。
読むものがどのように神をイメージするか。ドストエフスキーのメッセージの受け止め方が大きくぶれることになる………。
今般光文社文庫で亀山訳の『罪と罰』にチャレンジするには本著『「罪と罰」ノート』を片手に分析的に読むのもまた読書の楽しみ方の一つではないだろうか。
『罪と罰』の舞台、ペテルブルグという都市がまず解説されている。西欧の合理主義文明への開放の扉として建設された人工の都市。ロシアの伝統文化に背を向け、ひたすらヨーロッパを模倣する為政者の狂気。身分制度から解放された自由な農民が流浪の民となって押し寄せてきた都市。絶望的な貧困。犯罪と売春とアル中。悪循環から抜け出せない人々に蔓延する閉塞感、精神のゆがみ、そして醸成される狂気。
亀山郁夫はラスコーリニコフの犯罪には漂流する現代日本を重ね合わせたらいかがですかと、誘いをしている。このたくらみにまんまと乗ろうではないか。
「『罪と罰』を事前の物語として読むか、事後の物語として読むか、で根本から意味が変わる」と言う氏の指摘にもハッとさせられた。言われてみれば前回読んだときには法の正義と神の真理に背を向けたラスコーリニコフがどうして立ち直れるのか(事後の物語)に関心があって、なぜ人殺しをしたのか(事前の物語)については単純に、彼の犯罪論であるナポレオン主義と片付けていた。本著ではむしろ事前の物語=犯罪の動機にウェイトを置いた詳細な分析と解説がなされている。
第一にドストエフスキー研究家たちの所論を分析している。
第二に前記したようなロシアの政治・経済・社会等環境について。そこから生まれているさまざまな反体制の思想について。宗教観について。
第三にラスコーリニコフの生活環境と鬱病について。そして家族愛について。
第四に氏はドストエフスキー自身がラスコーリニコフになにを託そうとしているかを推定する。このためにドストエフスキーの半生をつまびらかにたどり、この作品に投影された彼の内心の風景を絵解きしなければならなかった。さらには完成された最終稿の前段階にあったドストエフスキーの二つの草稿や編集者等とのやりとりからも氏は絞り込むような類推をする。
私にはラスコーリニコフの犯罪動機は複雑極まりなく重なり合ったものでこれだと断定できるシロモノではないという印象が残る。
次に第五だがこれは氏の独創的なあるいは冒険的なアプローチがあった。この著述の眼目はむしろこの第五の視点に他ならない

実は2005年に刊行された氏の著作『「悪霊」神になりたかった男』の中で『罪と罰』について氏が自信を持って解説することはできない心境を語る次のようなくだりがある。
「『罪と罰』は19世紀の小説とはとても思えない現代的なテーマで満たされ、私たちの深層に息づく様々な矛盾を照らし出しています。………。今の私にはそうした彼の(ラスコーリニコフの)若々しい思いあがりや、追い詰められた心境や、一人の娼婦をとおして得られる愛の世界にシンクロし、それについて何かを語るという勇気が出てこないのです。」

時を経て今、現代日本人である氏はそのまま「ラスコーリニコフに同期する」ことに、それを不可能と感じながらも、あえてチャレンジしたのではないだろうか。
殺人者が「だれでもいいから殺したかった」と供述する不可解な事件が社会現象化しているのが現代であり、この現代からラスコーリニコフを見つめる。こんなことを氏は書いているわけではないのだが、私には亀山郁夫の脳裏にはこのイメージがあったに違いないと思われるのである。

そして第五の視点から導き出したラスコーリニコフの犯行動機(「究極の動機」)を「純粋意志」と結論付けている。だが、私には理解できない。
ラスコーリニコフがソーニャに五つの犯行の動機を告白するくだりだがその中で「ぼくはただ殺したかったのだ、自分のために殺したんだ」というセリフがいちばん近いのだと指摘し、「棺のような屋根裏部屋の内側であえてとどまりつづけることでラスコーリニコフは自分の憎悪がおのずから蓄積され、発酵することを待っていたことになる。動機は思想のなかにではなく、意志力そのものに潜んでいた。『あえて、する』(要するに一歩踏み出すという意志力)という行為そのもののなかに潜んでいたといってよい。」
とこう説明されても私にはわからないのである。
巻末の「あとがき」で著者は「それこそ(純粋意志)は大地の深みに入り込もうとする人間の素朴な心をどこまでも疎外する傲慢さだった。」と述べている一節にむしろわかりやすさがあるのだが、これを本文に書けなかったのはなぜか。

ラスコーリニコフの犯罪動機には神の存在あるいは不存在が大きくかかわることになる。
「『罪と罰』の理解は神を信じる立場と信じない立場とでは百八十度異なる」と氏は語っている。ドストエフスキー自身はどういう立場で神と向きあっていたのか?さらに解説者である亀山郁夫氏自身は神をどういう存在として捉えているのだろうか?ラスコーリニコフの神は氏が『悪霊』でイメージした神とは違ってきているように思われた。ところが亀山郁夫氏が今観念している神について、読者が理解できるところまで語ることができてはいない。

本著にはこれまでの『罪と罰』解説本とはまるで異質なところがある。あえて極論を申し上げる。「だれでもいいから殺したかった」犯罪者が群れる現代日本。著者はラスコーリニコフを、時空を超えたこの日本に立たせたのだ。どこか類似性があることを感じていた著者は、今の日本でラスコーリニコフの犯罪は成立するだろうかと著者自身に問いかけたのだ。本著は『罪と罰』を解説することを通じて、病める現代日本、そのさまよえる精神構造の深層を探ろうとしているものである。未完成なままに(私にはそう思われる)発表されているこの若々しいアプローチがすばらしい。

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紙の本

新訳の訳者・亀山郁夫による、「新書」とは到底思えない、というより「新書」であるがゆに密度の高さを感じさせる『罪と罰』論

2009/06/30 21:20

5人中、3人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

投稿者:本を読むひと - この投稿者のレビュー一覧を見る

 『罪と罰』のような世界的名作になると夥しい種類の訳があり、また長い批評の歴史がある。たとえば今から百年以上も前に、北村透谷は英文からの邦訳を読んで、そこに当時の日本における物語のスタンダードとは全く異なる、作品の核心を見抜いている。勧善懲悪的なものの跋扈のなかで、重訳の壁を貫いて読まれるべきものは読まれた。
 『罪と罰』にかぎらないが、大まかに言えば作品追究には批評的なものと研究的なものがあり、透谷のものは前者だ。また外国の文献を参考にしているが、小林秀雄のものも日本有数の『罪と罰』批評であろう。
 これまで刊行された、『罪と罰』のみを論じた単行本では、かつて読んだことのある江川卓の『謎とき「罪と罰」』以外に多くのものがあるのを今回、知った。特に清水正の『ドストエフスキー「罪と罰」の世界』(初版は江川の本と同じ1986年)は、新版で500ページもある大部の本である。専門のロシア文学者ではないものの、清水の本をめくるとロシア語の引用が目につく。
 新訳の訳者による本書は、徹底的にロシア語本文および現在の世界水準にあるだろう研究を(ウェブサイトまで含めて)読み、考えうるかぎりの重要な問題点を、明らかにしようとした『罪と罰』研究である。江川本にも言及しているが、さらにそれを推し進めたものと言えよう。
 著者には徹底した『罪と罰』論の企図がなくはなかったと思う。《『罪と罰』の深奥に読者を導くには、おそらく何百ページにもわたる熱い思いが必要になるだろう》と記しているからだが、続いて《しかしたとえそれを実現できても、小説の「圧倒的なリアリティ」に同期し、全身でこれを受けとめることのできる若い読者の理解の深さに追いつくことはできない》とも記し、「研究」にとどまらない『罪と罰』熱をみずから確認している。
 本書のなかの次のような言葉は、私の関心を強くそそる。
 《『罪と罰』を満たしている圧倒的なリアリティと、本書はある意味でほとんど接点をもたないといってよいかもしれない。》
 《ラスコーリニコフの殺意に同化できる読者もいれば、できない読者もいる。同化できる、できないの前に、そのリアリティを全身で受けとめてしまう読者もいる。たとえば、かつて十代半ば近くに『罪と罰』を読んだわたしがその例だった。》
 《じつのところ、今回の翻訳の作業のなかで、わたしは、主人公ラスコーリニコフに同期するという若い時代の経験を甦らせることができなかった。》
 私は著者がこの『罪と罰』論において、若き日の、人が読めばそれなりに興味深いだろう作品から受けた読後感などを記さなかったのを正解だったと思う。というのは、「圧倒的なリアリティ」と著者が呼ぶ、『罪と罰』が人にもたらした何かは、そのような回顧的叙述によって簡単に把握できないがゆえに、そう呼びたくなるものだからだ。
 簡単に書くことができはするものの、真剣に書こうとすれば、その核心への到達しがたさが分かるものとして、若き日のドストエフスキー、若き日の『罪と罰』がある。
 また著者は、これも新書である『ドストエフスキー/謎とちから』(07年)の「あとがき」で、《それこそ命がけの読み込みでなければ、ドストエフスキーの読解に新しい世界は開けない》、《徹底した読み込みをとおして生まれてくるドストエフスキーの世界は、創作ノートや、書簡などをとおして彼自身が語っている世界とも大きく異なる》といい、また《どのようなかたちであれ、仮説を提示できなければ、話は先に進まない》と記している。アカデミズムのなかにいながら、そこから捻り抜けようとする著者の強い姿勢が感じられる。
 このドストエフスキー文学全体を俯瞰する著作が、新書の分量におさまりきらない著者の6回にわたるアカデミズムにおける最終講義を、新書用に新たに口述したものだというのも面白い。短いスペースのなかで、どれだけ貴重なことを語りうるかの実践のようだ。
 『罪と罰』論の本書も同じで、ここには『罪と罰』のエッセンスがある。ただし新訳巻末の解説と内容がだぶっていることを言い添えておきたい。この新書が貴重な著作であることを認めつつ、内容のだぶりが気になる人には購入を薦められない。『罪と罰』の新訳に親しみ(まだ3巻目が残っているが)、さらにこれから他のドストエフスキーに挑もうとする人には、同じ著者による前記の『ドストエフスキー/謎とちから』が面白いと考える。
 とはいえ、『罪と罰』を全く評価しない人もいる。ナボコフは、『アンナ・カレーニナ』についての素晴らしい分析を披露している書物のなかで、『罪と罰』に関し、殺人者と娼婦を一緒に並べていると批判する。《キリスト教の神を信じる人たちが理解しているところによれば、キリスト教の神はすでに千九百年前から売春婦を赦している。一方、殺人者は何よりもまず医者の診察を受けなければならない。両者は全く異なるレベルの存在である。》
 実は今回、久しぶりに、この小説を読み返す前まで、私はナボコフの考えに半分くらいは傾いていたことを告白する。現在、ナボコフへの傾きは極端に減じたが、それでもほんの少しまだ、その人物設定その他におけるリアリティのなさが意識のどこかにひっかかっている。だがそれは亀山郁夫のいう、過去に私も確かに生きた「圧倒的なリアリティ」を、その訳文のなかに、新たな気持ちをもって嗅ごうとすることと背反はしない。

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2011/05/28 17:08

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2012/04/21 22:59

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2013/01/28 14:27

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2013/09/21 13:16

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2014/02/21 10:32

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2014/04/09 22:50

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