紙の本
悟りの時間としての存在
2001/08/07 07:20
5人中、5人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:アルケー - この投稿者のレビュー一覧を見る
『存在と時間』に予告されながら書かれなかった未刊部の再構築ないし補完の書である。一つは、『現象学の根本諸問題』(創文社)からの構成と、もう一つは、これら二書にも書かれていない、まったく編著者の推測でなされた構成との、二つの再構成からなっている。
今、編著者と言ったが、普通ならば著者のはずであるが、木田元編著となっている。これは日本で編纂されたハイデガー著『存在と時間』であるという意味であろうか。「未刊部を再構成するという無茶なことをやってしまった」と言いながら「自分では、ハイデガーの考えていたことからそれほど大きくはずれていないと思っている」と言っているので、無茶だが間違っていない、考えていることは確かだ。しかも自分よりも「納得がいくようなら、いつでも私の試みは撤回するつもりでいる」と挑発していることからも、編著者の姿勢がうかがえる。してみると、決して無茶なことをやったわけではないのだ。
批評をするためには、批評する側に対象との比較を可能にするだけの一定の基準とか尺度とがなければならない。それで編著者の言うことを信頼した上で、この書を書評するしかすべがないことを承知しつつ、印象に残った箇所を取り上げていくことにする。
編者によると、『存在と時間』の「本論」と「歴史的考察」が本来の再構成となる。そのとき、『根本問題』が有効な手段となると言う。
「本論」で編者のいわんとするところは「本来的時間」と「非本来的時間」の区別にある。それは、簡単にいえば、「超俗的時間」と「世俗的時間」の違いに帰着する。「超俗的時間」は瞬間的に捉えられる時間であり、キルケゴールの非連続的時間に類似する。時間を非連続的に捉えるかぎり、西洋哲学に連綿と流れる時間論とは折り合わない。言ってみれば、それは「悟りの時間」であって、日常の時間ではない。これはハイデガーの思想に貴族主義的、特権的意識がその背景にあることを物語っている。
「歴史的考察」(伝統的存在論の解体作業)では、『根本問題』から、カント、デカルト、スコラ哲学、アリストテレス、プラトンを取り上げて論じ、それらはみなという存在概念を基底として成立したものであると規定する。それに対するもう一つの存在概念、という存在概念を提出し、この概念はギリシア語のないしであり、フォアゾクラティカーに代表される。これは日本語の「自然」につうじ、洗練されたアニミスティックな自然観だとし、ハイデガーはニーチェから引き継いだと編者は言う。「被制作性」と「自然」との対立だが、価値評価はなされていない。
終章で、アリストテレスとプラトンの位置づけに関して貴重なことを言っている。「アリストテレスが始原における存在の思索にふたたび近づいたということを意味しはしない。エネルゲイアと存在の始原の本質とのあいだにはイデアが立ちはだかっているのである。」(p.226)
この書の面白さはハイデガーそのものの面白さよりも哲学史家としてのハイデガーに焦点が当てられているところにあって、その分量も全体の5分の2ほどになる。
ところで、カントの「レアール」という用語に対して、「実在的」という訳語は不適切だとし、「事象内容を示す」とすべきだと言う。「カテゴリー表」のうち、質のRealitaetを「実在性」、様相のDasein(=Wirklichkeit現実性)も「実在性」と解し訳すのは誤りだとして、内外のカント研究を批判嘲笑する。だが、「事象内容」-「否定性」-「制限性」という全体的位置づけから考えると、「事象内容」の矛盾対当が「否定性」というのはどうであろうか。カント研究者からの反論を待ちたい。
紙の本
第一部第三篇はどうして書かれなかったのか
2002/09/15 14:04
1人中、0人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:音羽ふらと - この投稿者のレビュー一覧を見る
木田元によれば、1927年に公刊されたハイデガーの『存在と時間』、これは当初考えられていた構想の三分の一しか掲載されていないという。既刊部分の『存在と時間』では、周知のごとく「現存在」の分析、つまり人間の在り方の分析がおこなわれている。未刊のところは、存在論の歴史をカント、デカルト、古代ギリシア哲学へと遡っていく予定だった。
その折り返し点に構想されていたのが、ハイデガーがちょうどそこから筆を折った『存在と時間』第一部第三篇「時間と存在」だ。ハイデガーはここから書けなくなったという。それはなぜか、についての謎解きが本書である。
なお、この筆折りとハイデガーの「転回」が深く関わっている。
カントの定立作用とハイデガーの存在了解、主観性とのかかわりにおいて、なにがどう違うのかという問いを抱くようになったわたしのようなものには、まことに興味深い一冊となった。ハイデガー自身が、『ヒューマニズム書簡』のなかで、次のように言っていると本書で引用されている。
「『存在と時間』において<企投>と呼ばれていたものが、表象しつつ定立することだと解されるならば、企投は主観性のしわざだと受けとられ、<存在了解>が<世界内存在>の<実在論的分析>の領界内でもっぱら考えられうるようには、つまり存在の明るみへの脱自的な関係としては考えられないであろう。主観性を放棄するこうした別の思索を遂行しなおし、それを真に遂行するということは、たしかに『存在と時間』の公刊に際して第一部の第三篇「時間と存在」がとどめおかれたということによって困難になった。……ここで全体が転回するのである。問題の第三篇がとどめおかれたのは、思索がこの転回を思うように十分なかたちで語ることができず、こうして形而上学の用語の助けでは切りぬけらなかったからである。」(22−23頁)
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20世紀を代表する哲学書「存在と時間」は、第一部しか書かれなかった未完の書。その書かれなかった第二部の内容をその後のハイデガーの著作・講義録から推測・再構築しようとする、未だ無かった試み。これは、ハイデガー研究50年の木田元先生こそです。難解そうに見えて、実に明快かつ読みやすい本なので、哲学初心者でも挑戦する価値アリ。これぞ学問!!
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未完にして失敗に終わった「存在と時間」に対し筆者は、ハイデガーを何世紀に一人という哲学史家と評価し、彼の分析を共有しながら西洋哲学史全般からの見取り図から未完に終わった部分の再構築を試みる。あまりに精密かつ専門的なので理解できないところも多いが、かつてアリストテレスが再構築されて哲学史の礎となったのを再現するような興奮がある。
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ハイデガーの『存在と時間』の未刊部分を構築するという意図で書かれた本。著者は、『現象学の根本問題』などの講義録を渉猟し、この時期のハイデガーの企図を推測している。
著者のハイデガー解釈がすばらしいことはもちろん認める。だが、これまでさまざまなところで著者が論じてきたことからの、大きな発展が見られるわけではない。とりわけ、『わたしの哲学入門』(新書館)との重複が目立ちすぎる。
『わたしの哲学入門』はあくまで「哲学入門」という位置づけであり、ハイデガーの「存在の歴史」の構想を紹介することで、西洋哲学の主要問題を読者に分かりやすく提示することが目的であるのに対して、本書はあくまでもハイデガーの思想そのものを論じているといわれてしまえば、それ以上文句はつけにくいのだが、どうにも納得がいかない。
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これから何度目かの通読をしようと思う。頭の中をすっきりさせて、自分のフィールドに集中するためだ。渡部昇一先生のいうところの「古典」となりつつある同著をしっかり自分のものとしたい。
この後、木田元先生の「反哲学入門」を再読し、和辻哲郎著「人間の学としての倫理学」や「アリストテレス倫理学入門」J.O.アームソン著に取り掛かりたい。
どうも社会的排除や社会的包摂という概念を理解し、実践するには哲学における倫理学の理解が不可欠だと思うからだ。当然、社会学の知識も動員しなければならないので、しっかりと時間をかけて取り組みたい。
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まだ分からない。まだ分からないけれど、ようやく存在とその周辺の時間性がかすめるようになってきた。もう少しだ、もう少し
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ハイデガーの「存在と時間」の未刊部を、その他のハイデガーの多くの資料から再構成しようとこころみた本。
その昔読もうとして、まったく歯が立ちませんでしたが、著者・木田元さんの「反哲学入門」を経て、ようやく読み切ることができました。
「存在と時間」の再構成となっていますが、そのようなわくわくするようなこころみを軸に、ハイデガーがなにを考え、何をしようとしたのかを追っていくのがとても楽しい本でした。
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本格的な哲学の話にはまったく疎く用語や概念・論理が頭に入ってこず、日本語を読んでいるとは思えない歯痒さの中で一応読み終えた。最後迄字面を追えたことで良しとしよう。木田元はわかり易く書いているが、概要を纏めてコメントするまでには理解できていない。しかし諦めるつもりはなく、哲学と仏教は読書活動の最終領域として読力と思考力が続く限り追求していく。このハイデガーの『存在と時間』、本質的な問題であることがわかってきたので「ぶつかり稽古」のように読み続ける。
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そもそも大著「存在と時間」が未完だったとは…
というそもそもの驚きのところから読み始めた。本来予定されていた目次に目を通すだけでもわくわくしてくる。
だけど何回読んでもすべてはわからない。
存在の帰結が有限な時間性にあるとしよう。
では現存在が時間的動物になったのはいつからだろう。
近代以前のキリストの教えの中では死後の復活があり、当時はそこまで時間的動物である必要があっただろうか。
など際限なく思考を広げさせてもらった。
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ハイデガーの『存在と時間』は二十世紀最大の哲学書として名高いが、これが実は未完であることはあまり知られていないのではないだろうか。
ハイデガーが目指したのはあくまでも「存在とは何か」という問いであった。しかるにその存在を了解しているはずの人間――現存在――を準備作業として分析しているうちに、『存在と時間』は慌しく幕を閉じてしまう。長い前置きの後に待っていたはずの本論を、ハイデガーが書き継ぐことはついになかった。
そのことによって『存在と時間』に代表されるハイデガーの前期思想を実存主義と呼ぶことが多いが、それはおかしいと木田は指摘する。『存在と時間』を書き始めたとき、ハイデガーの頭の中ではすでに後半部の存在論が出来上がっていたはずである。否むしろ後半部が完成していたからこそ、その準備としての前半部を書くことができたのだろう。思索の順序と著述の順序が逆転しているのであり、書き終えた部分だけを拾い上げて実存主義と命名するのは不当である。そして木田はハイデガー研究家としての豊富な知識と洞察力を駆使して、あろうことか『存在と時間』の未完部分を再構成してしまう。
木田によればハイデガーが企てていたのは「存在」概念を覆すことであった。西洋哲学全体は非本来的な時間性に基づく通俗的存在概念(存在=被制作性)を基底として形成されてきた。西洋文化の行き詰まりを打開するためには、ニーチェを起源とするあらたな存在概念(存在=生成)を構成するしかない。しかしながらその試みは、人間中心主義的な文化を人間中心主義的なやり方で克服するという自己矛盾を含んでおり、だからこそ『存在と時間』は挫折したのだと木田は分析する。
「実存は本質に先立つ」とサルトルは言った。それは「本質存在(エッセンティア)が事実存在(エクシステンティア)に先行する」と言ってきたプラトン以来の形而上学的命題の逆転であった。しかし最大の問題は本質存在(デアル)と事実存在(ガアル)がなぜ分岐したのかということである。その分岐と共に、すなわち存在(ガアル)に対する驚きと共に、哲学が始まったのだ。そうハイデガーは考えていたと木田は敷衍する。
個人的に興味深かったのは、世界内存在という概念は生物学に起源があるという解説の中で、シグナルとシンボルの違いについて触れられている点であった。動物はシグナルは理解するがシンボルは理解できない。シンボル機能とは関係を関係づけるメタ構造化機能であり、言語を扱う人間のみがその能力を持っているという。ハイデガーに興味のない読者には退屈かも知れないが、優れた研究書としてお薦めしたい一冊である。