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紙の本
「同時代読者」とは何か
2001/12/20 23:36
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投稿者:メル - この投稿者のレビュー一覧を見る
この『漱石文学全注釈』のシリーズは、上段に本文があり下段に詳細な注釈があるという体裁で、注釈を読みながら本文を読めるので非常におもしろい。また、この注釈も注釈者(=研究者)による個性がはっきりと表れている。つまりどのように小説を読んでいるのか、その方法論が見えてくる。
『こころ』の注釈者は、近代文学研究者の藤井淑禎氏である。藤井氏の研究方法は、その小説の書かれた時代の読者が一体どのように読んだのか、ということを再現してみようというものだ。それを藤井氏は「同時代小説としての…」という言い方をしている。《ボクの言う「同時代小説としての」は、強いて言えば、「あの時代ならではの」とか、「あの時代の空気をたっぷりと吸い、かつあの時代特有の匂いをぷんぷんさせている」とかいったような意味なのである。「あの時代」とはもちろん、『心』なら『心』が書かれ読まれた時代のことだ。》
したがって、本書の注釈には、夥しい数の「同時代の」書物が登場する。これらの書物と小説『こころ』を並べている。そして「同時代の」書物を『こころ』読解の手助けとしているのである。小説の「内部」のみの閉じられた解釈に対して、小説の「外部」を導きいれた開かれた解釈と言ってよいだろう。《Kの気持ちの推移と自殺の決意を、先生に対する思いやりのなさや自己本位の振る舞いへの自責の念から説明する論は従来からもあるが、それらは作品内部に閉じこもっての一解釈に過ぎず、これに対して本注釈では、同時代資料を参照することによって同時代の地平上でのその行為の意味を見定めた上で結論を出している点が、根本的に異なっている。》
藤井氏は、作品「内部」に閉じこもった解釈を恣意的なものと見なして批判している。しかしながら、釈然としないのは、一体藤井氏の想定する「同時代の」「読者」がいかなるものかということだ。本書の注釈に出て来る書物をすべて読んでいた「同時代の」読者がいたのだろうかと疑問に思うし、「同時代性」を踏まえていない読みは、正しくないといった雰囲気があり、それも納得できない。そもそも、作品「内部」に依った読みでも、「外部」の資料を根拠付けにした読みでも、同じ解釈が可能であるということはいかなる意味を持つのか(「外部」の資料を用いた論は、科学的であるということだろうか)。
さて、『こころ』本文を読んで私が感じたの次のようなことだ。それは、「K」が自殺した時、先生が残された遺書を見て、そこに自分のことが書かれていないかを確認する場面で、その後、何も書かれていなくて遺書を元に戻す場面が、ある種のリアルなものを感じて気持ちが悪かった。《私は顫へる手で、手紙を巻き収めて、再び封の中へ入れました。私はわざとそれを皆なの眼に着くやうに、元の通り机の上に置きました。さうして振り返つて、襖に迸つてゐる血潮を始めて見たのです。》
「わざと」という言葉が、リアルさを感じさせる。なにより、この時の先生の行動を見てみると、まずはじめに「K」の横たわる姿を見て次に机の上の手紙を見ている。血を見るのは最後だ。『こころ』という小説では、先生は結構、「血」とか「心臓」に関する言葉を使っている。それが、全編を貫いている肉体の生々しさと関係していると思う。「血」に拘っていると言ってもおかしくない。その先生が、「K」に関してのみ、この「血」を後回しにしていることが分かる。このことをどのように解釈するのか、というところが『こころ』の面白さだろう。