紙の本
今や古典となった「権力の歴史書」
2003/03/21 17:16
7人中、7人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:pipi姫 - この投稿者のレビュー一覧を見る
本書は、残虐で華々しい処刑風景から始まる。
1757年、パリの広場で衆人環視のもとに処刑された男の断末魔の描写は、読者の目をそむけさせると同時に釘付けにもする。
「(処刑人は)灼熱したやっとこで、まず(受刑者の)右脚の脹らはぎを、ついで腿を、右腕の上膊の二箇所を、つぎに胸をはさんだ……やっとこのこの懲らしめが終わると、……釜からひしゃくで煮えたぎるどろどろの駅をすくって、それぞれの傷口にたっぷり注いだ。こんどは、細綱でもって、繋駕用の綱を馬と、つぎに、繋駕した馬を腿と脚と腕に沿って四肢と、それぞれ結びつけた。……それぞれの馬は受刑者の四肢のそれぞれをまっすぐに全力をあげて曳いた」
これ以上は恐ろしくて引用できない。知の考古学者フーコーは豊富な資料に基づき、こうした残虐な身体刑の実態を描写していく。
これは猟奇書ではない。フーコーが描こうとしたのは、処罰の歴史であり、人々が権力を内面していく近代史なのだ。
長い長い本にもかかわらず、豊富なエピソードで読者を飽きさせず、身体刑から拘禁刑への変遷を近代ヨーロッパ(主要にフランス)を舞台に書きつづった本書によって、わたしたちは、近代的主体は権力の支配に拝跪することによって確立された事を知る。自ら権力に服従する身体を形成することによって近代的個人は形成されたことをまざまざと見せつけられ、支配の網の目の巧緻さを思い知らされた。
フーコーによれば、中世ヨーロッパでの身体刑の残虐さは、かえって観衆に同情心をあおり、処刑者や権力者への憎しみを生む結果すら招来したという。やがて国家は、身体刑よりも拘禁を、処罰よりも訓育をめざす。それは近代産業社会の要請でもあった。過酷な処罰よりも強固な監視・管理体制によって、支配されることを人々に内面化させたのである。権力は強圧的に禁止・抑圧することから、より狡知に人々を従順な子羊へと飼い慣らすことに戦略を変えたのだ。
その象徴としてフーコーが大きく取り上げたのが、一望監視施設(パノプティコン)である。ベンサムが考案したこのパノプティコンが、拘禁者に対して、規律を内面化する従順な身体を育てたとフーコーは言う。さらに、その監獄的規律・訓練は、産業社会の要請によって、学校・工場・病院・軍隊でも同じように貫かれている。
従来の権力論とは大きく異なり、支配する者とされる者との単純な二元論ではない権力論がここには描かれている。フーコーによれば、権力とは所有されるものではなく、行使されるものだ。
発表当時の1975年には新しい権力論として絶賛された本書も、今や古典とさえいえる。だが、その深い洞察はいつ読んでも新鮮味を失っていない。
ただ一つの不満は、文字の小ささ。1977年の初版以来、版組が変わっていないため、今時の本としては珍しく文字が小さく読みづらい。新潮社さん、なんとかしてほしい! これからも読み継がれるに違いない名著なのだから。
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管理社会、っていうけどどういうこと、に答える一冊
学校教育って何をするということなのか、勉強を教えるという以上に「内面」を監視する
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とりあえずフーコーはこれくらい読んでおこう。とりあえず、後半に行くにつれ、盛り上がる。読みやすいし。
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フーコーで一冊となったら、是非ともお奨めしたい代表作でしょうか。フーコーは「知性と権力」との相関関係にとても敏感な哲学者であると同時に、人間の「快楽」を積極的に評価した人です。この流れの中にバタイユなどもあり、私個人はこの時代のフランス的知性全般にとても惹かれます…
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興奮しながら読める。
けど、訳のせいもあるのかどうしても理解しにくい部分が多い。
フーコークオリティ。
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例のパノプティコンで有名なフーコーの著作だが、これを通して読むと、パノプティコンは「現れるべくして現れた」としか言いようがない。
思想本じゃなくて歴史本だと思う。
処罰の歴史を追うことで、「処罰」と切り離せない「監視」の方法の変遷を追ってる。
「処罰と監視の関係」、そして「監視のエレメンツの分析&ポイントの抽出」、この2点に限って言えば、もっとはるかにわかりやすく体系的にまとめられるだろ。という感想。
フーコーの頭の中ではきちんと体系化されているのが分かるだけに(でなければ歴史を提示するにも、こんなサックリ区切れまい)、もったいない。
でもそれが当時のトレンドだったんだろう。資本論と同じ構成だ。
第一部:第一章
1757年 デミアンの身体刑
約75年後 パリ少年感化院の日課
これらは一例にすぎないが、当時は、懲罰の経済策のすべてが再分配された時代であった。
1.伝統的な裁判にとっては大いなる恥さらしの時代
2.無数の改革案の時代
3.法律と犯罪にかんする新理論
4.道徳もしくは政治の分野での処罰権の新たな正当化
5.旧王令の廃止、慣行の消滅
6.「近代的な」法典の立案もしくは起草
7.刑事裁判にとっての新時代
つまり、身体刑が消滅した。
あったとしても、身体そのものが目的なのではない。
これの重要性は?
この結果
1.処罰行為は準日常的な知覚の領域をはなれて抽象的意識の領域のなかへ入り、
人々はそれの有効性を、それの可視的な強烈さにではなく、それの宿命的な力に
求める。
処罰のぞっとするような光景が、ではなく、処罰されるとの確信が、犯罪を思いとどまらせるはず。
2.裁判は裁判の行使とむすびつく暴力的な部分については公然と責任を負わなくなる。
懲罰の受け止められ方の変化
裁判の役割の(理論上の)変化
刑罰の目的の変化
まとめ
懲罰は、耐え難い感覚の苦しみについての技術から、諸権利停止の経済策へ移行した
あったとしてもそれは、厳格な規則にもとづいて、かつ以前よりはるかに「高次の」目標を目指しつつ、遠まわしに行われる
例)死刑囚に痛みを感じさせずにその生存を奪い取ろう、苦しませないですべての権利
を取り除こう、苦痛をともなわない刑罰を課そう、ということで、従来の死刑執行
人の代わりに、医者や司祭らが登場。
身体よりもむしろ生命
フランス刑法典第三条(1791)
「すべて死刑囚は斬首されるものなり」に込められた意義
①万人にとって平等の死刑
②長時間におよぶ残酷な身体刑に訴えない、かつ一挙に達成される、一死刑囚につき一回かぎりの死刑
③もっぱら死刑囚だけに加えられる懲罰(家族の名誉の毀損を少なく)
↓
19世紀初頭:刑罰の簡略化の時代へ
※ 法律と実際の裁判所の運用のあいだには、歪みがあったので、一概には言えない。
(身体刑は今でもある)
��り物入りで簡略化が行われたために、その死刑執行もまた見世物にされた。
(対策として非公開の形態が取られ、現在に至るが、今も非公開でなければ民は見たいのだろう)マジ?
身体への拘束力について言っても、まだ完全には緩和されていない。
p20下「事実、最も人目につきうる装置という点で監獄は、身体的な苦痛の措置をつねに控えめにしてきた」の意味不明。
では、身体に関与しない懲罰とは、どういうふうなものになるのか。
*
上記の刑罰の苛酷さの緩和は、量的現象として把握されてきた。(それもあるが)
確実なのは、目標の変更。身体→精神
マブリーの原則「懲罰は身体よりもむしろ精神に加えられるべき」
対象の入れかわり(刑罰の実際面の対象の変化)
人々が「重罪」「軽罪」という名称によって客体を裁いているといえるが、それと同時に
情念・本能・異常・不具・不適応・環境の影響・遺伝の影響をも裁いている。
例)けんか沙汰を裁くのと同時に、攻撃的性質を裁く。
人々は、多くの事実の中でたまたま自分が知りえた客体に対することに、偏見も混ぜて、客体を裁く。
例)プラスに働く感情:客体と知り合いである
客体が将来有望である 等々
マイナスに働く感情:客体が奇形である 等々
(しかも「奇形」っつーのはその病状を示す語なのに、それが客体当人を形容する、偏見を含んだ用法で用いられる)
l.1(=影)を裁くのは、
「普通の」市民に、非行者を仕立てることを自らの機能とする懲罰。
刑罰が受刑者の態度によって軽くなりうるという、刑罰の内的な経済策。
刑罰にともなう「保安処分」
↳目的:犯罪者の更生。罰することではない。
犯罪者の精神が、裁かれるのであり、したがって処罰も、精神を相手にしている。
→犯罪人類学者とかが活躍。
彼らは、論理的に上記の市民の偏見とかを示す
中世
裁くことは、①犯罪の認知、②責任主体の認知、③法律の認知
裁判官は、裁判行為しかしない
今
①+殺人とは何か
②+その殺人を生み出した因果関係過程をいかに規定するか、下手人自身のどこに殺人の原因があるか
③+犯人矯正のために適切な処置は何か
犯罪者個人をめぐる判断の総体が、刑事裁判の骨組みのなかに入り込んでいる
ここで出てくるのは、狂気の問題。
狂気と犯罪とは相容れない。
→犯罪主体が狂人だった場合、罪が軽くなったりするのではなく、罪が存立しない。
したがって、狂人との精神鑑定結果が出たら、訴訟手続きは中断される。
しかし、フランス下級裁判所でこのような事見解が
・人は有罪かつ狂人でありうる
・狂人であればあるほど有罪の度合いが少ない
・なるほど有罪であるが、処罰されるよりも閉じ込めて看護されるべき
・明白に病気である以上、危険な有罪者である
p28「服従=主体」の意味不明
*
刑罰制度は、
���法行為を取り締まる一つの手段ではない
社会形態や政治制度や信仰のいかんに応じて、過酷なのか寛大なのか、贖罪をめざすのか謝罪に気を配るのか、個人を追及するのか集団的な責任を指定するのか、それらのどちらかでありうるわけではない
むしろ、「具体的な刑罰制度」分析の必要。
ルーシェとキルヒハイマーは、種々の処罰体制を、それらが影響をうける生産力の諸様式と関連付けた。
第二部:第一章
旧体制下では,違法行為に対する黙許の余地が与えられ,それは社会の作動の一部をなしていた。ところが,18世紀後半に,生産関係・所有関係の変化,資本蓄積の要請によって,違法/適法,追及/黙許の境界の変更が行われ,こうした中で違法行為の重点も財産に移行する。とともに,それを追及しようとする要請が高まる。こういった相互循環的な過程が進行する。10)
このような犯罪の布置,布置についての認識,そしてそれを取り締まろうとする意図のもとで,司法機構の不備が指摘され,その改革が志向される。
以前から王権は中央集権化を進めるが,その機構は不十分なものにとどまった。
裁判の審級が多種多様であり,統一的なピラミッドを構成しない。
またその裁判権が過大であり,自由裁量の余地が大きい。
そしてそれは国王の過大な権力に原因が求められる。
すなわち,国王が裁判官官職を売買する権利を持つことによって,古い制度の上に新しい制度が積み重ねられ,また無能で私利私欲に夢中な裁判官を作り出し,そのうえ,国王の裁判への介入が司法を麻痺させてしまう。こうした機構は上述の事態に対応できないことが認識され,改革が志向される。
「改革の真の目標は,しかも改革のもっとも一般的な文言の表明当初からのその目標は,新しい処罰権を,より公正な原則にもとづいて樹立する点にはそれほど存しているわけではない。
① 罰権の新しい《経済策》を樹立すること,
② 懲罰権のより良い配分を確保すること,
③ 懲罰権が特権的ないくつかの地点に過度に集中したり,相対立する裁判審級のあいだに過度に分割されたりしないようにすること,したがって,
④ 懲罰権が,いたる所で連続的に,しかも社会体の最少単位にまで行使されるような,同質的な回路のなかに,懲罰権が割り当てられるようにすること,
以上の諸点に存している。」 (83-84)
官職の売買,罰金を裁判官が受け取るといった判決の売買の制度の廃止,裁判の王権の専断からの分離,司法と立法の分離,などが主張されるが,その主張の多くはむしろ,司法制度の外にいてそれに反抗する人々というより,司法制度の内部にいる多数の人々によってなされている。彼らによって懲罰権の行使のための新しい戦略が形づくられるのである。
すなわち,
① 「違法行為にたいする抑制と処罰を,社会と共通の外延をもつ,正常な機能にすること,
② より少なく罰するのではなく,よりよく罰すること,
③ 苛酷さを和らげたかたちで処罰することになろうが,しかし一層多くの普遍性と必然性による処罰であること,
④ 処罰する権力を社��体のいっそう奥深く組み込むこと。」(85)
こういった改革者にとって,刑罰は,また刑罰を受ける犯罪者はどのように規定されることになるのか。
かつての刑罰の残酷さが批判される。しかしここで除去されるべきは受刑者のというよりも裁判官・見物人の苦痛であり、「結果的に生じるかもしれないところの精神的無感覚,慣れによって起こる残忍さや、反対に不都合な憐れみ、根拠のとぼしい寛大さ」である。受刑者を《人間的に》取り扱わねばならない理由は、「権力の導く諸結果の必然的な適性化」に存しており、この「《経済的》合理性」が、刑罰の尺度となり、刑罰の技術を定めるべきだとされる (94) 。
処罰する権力を強固にしようと改革者が試みる際に用いられる記号─技術論 semio-tecnique の規則があげられる。①犯罪を思いとどまるに必要な最少量の、②しかも──人々に犯罪を思いとどまらせるのは刑罰の実態より表象なのだから──充分な表象として、刑罰があること。③犯罪を行わなかった人に対する効果を与えるものであること。④犯罪と刑罰は確実に結びついたものとしてあらねばならず、ゆえに訴訟手続き・判決の論拠の公開がなされねばならない。⑤他方、犯罪も万人に有効な手段にもとづいてその現実が確証されねばならず、従って拷問は否定される。⑥そして犯罪を定義し、刑罰を規定する、完全で明白な記号体系 code が作られねばならない。
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いわずとしれたフーコーの代表作。他の主著からすると,本書は後期の著作といえる。私が読んだフーコーは,『これはパイプではない』,『狂気と文化』,『言葉と物』,『言語表現の秩序』,『ピエール・リヴィエールの犯罪』に次いで6冊目。でも皆,薄めのやつだ。本書も主著といわれながら,分量的には薄い方かもしれない。
しかし,後期の著作ということもあり,いわゆるフーコー的議論の多くがそこには含まれている。まずもって,『監獄の誕生』といえば,ベンサムの一望監視方式だ。しかし,そこまでに辿り着く記述が重要なんだろう。とりあえず,目次を示してみよう。
第1部 身体刑
第1章 受刑者の身体
第2章 身体刑の華々しさ
第2部 処 罰
第1章 一般化される処罰
第2章 刑罰のおだやかさ
第3部 規律・訓練
第1章 従順な身体
第2章 良き訓育の手段
第3章 一望監視方式
第4部 監 獄
第1章 「完全で厳格な制度」
第2章 違法行為と非行性
第3章 監禁的なるもの
そう,これまたフーコー的概念である,規律・訓練=ディシプリン=学問分野も本書に含まれます。他にも文中には微視的物理学とか権力の偏在性とか,へたなフーコー解説書よりもコンパクトにフーコー的エッセンスが学べます。冒頭には現代のわたしたちからみると,おぞましいほどの身体刑の記述があります。人々は刑罰という目的で,平気で他人を苦しめながら死に至らしめ,しかもその様子を見世物として楽しむ。人間がそういうむごたらしいことをせずにすむようになったのは,一方で,罪人に限らず,軍隊から始まり,学校教育における規律・訓練。そして一方では,法律の厳格化と監獄施設の発明により,社会全体がおぞましい刑罰を必要としなくなったということ。しかしそれは必ずしも幸せな社会変化ではなく,近年はこの分かりやすい一望監視方式という特定の施設の形状が,社会全体にいきわたり,最新テクノロジーをともなって「監視社会」などといわれるようになっているわけです。
だから逆にある意味では物足りなく感じたりします。私が読んだフーコーの本のなかでは一番読みやすかったし,他の著書はどこかしら解説書などでは説明しきれない複雑な要素を含んでいたが,本書は解説書からはみ出ることはない内容。まあ,でもまだまだ読むべき本はあります。
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2009/
2009/
寺山修司とミシェル・フーコーの対談で話された書物なので登録しておきます。
フーコーは社会での罰についての問題を扱っている。
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未だに何度か読み返す でもなんか完全に理解したと思う瞬間がこない本 いい本の一つの特徴であり 悪い本一つの特徴でもあると思うが もちろんこれは前者の方の
身体と言うものがよりメタに処理される様になった時に、身体が向き合うものが身体でなく抽象的な存在(制度や社会とかいう実体が曖昧なもの)になった時、どのようなことが起こっているかという感じ
若いころは精神病患者のパーソナリティーを扱っていたらしく、それを考えて読むとより奥深い気がした
これを読んでインターネットの管理体制なんかに応用して考えてみるのもおもしろいと思う
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フーコーの代表的作品である本書は歴史学的にも社会史学的にも大きな影響を与えた。まず、監獄のイメージをして欲しい。罪人は常に監視を付けられ、「見られた」状態で生活をする。その中に監獄だけでは展開することのできない社会的視点が広がってくるのである。フーコーの理論は時に哲学的要素が大きいので理解は難しいが、理解したときに社会学の一歩を踏むことができる。
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罪と罰。その罰は本当にその罪にふさわしいのか・・・?
*冒頭から蛇足ですみません。ちょっと説明というか、言い訳です。『悪魔のささやき「オレオレ、オレ」』を読んでいて、ふと思ったのです。
オレオレ詐欺第1号グループと言われる犯罪集団にいた著者。この著者にとっては刑務所暮らしが大変堪えたことから、懲役刑は処罰として働き、また家族もよくサポートしてくれる様子なので、再犯も防止される方向に働いていると思われます。が。
拘束ってそもそも、なぜ、罪に対する罰になっているのでしょう? これって本当に妥当なのかな? 例えば「盗みをしたから閉じ込めとけ」(「悪い子は押し入れ(or土蔵)に入れるぞ!」・・・?)とかって、発想として自然なのかな? その罪に対して、その罰は過不足なく適当なものなんだろうか・・・? なんてことをつらつら考えていたら、とある記事でこの本に目が留まり、「ふむ、この本か・・・?」と思ったのです。
もう少し軽めの本にすべきだったのかもしれませんが、アマゾンでミシェル・フーコーの本の中では「わかりやすい」との評だったのでちょっと挑戦。
という前提で、閑話休題。
『監獄の誕生』、副題「監視と処罰」。
本書の主眼は主に、フランスの18世紀以降の、比較的狭い地域および比較的短いタイムスパンに置かれている。この範囲での、「監獄」というものの成り立ちに関して、膨大な文献を読み解き、深く重厚な考察を行ったものである。
18世紀半ばは「みせしめ」とも言える、過酷な刑罰が主流だった。見世物の性格もあるような、四つ裂き等の公開処罰である。冒頭はその詳細な記述であり、その苛烈さに眉をひそめずにいられない。
わずか3/4世紀後、こうした「みせしめ」刑は陰を潜め、監獄への監禁刑に変わってきている。この間に、残虐な犯罪が少なくなり、罪と刑の乖離が問題になってきたのが一因という。
監獄における監視は、集団の統率という意味では、学校の寄宿舎や軍隊などとも通じるところがある。
功利主義者ベンサム(マイケル・サンデルの著述でも出てきた)が考案したという、一望監視施設(少ない監視者が多くの非拘束者を監視できる設計の施設)は、注目を集め、大きな関心の的となり、議論の対象になったという。
こうした施設はつまり、権力者による非支配者の統率を意味することになる。
処罰という点では、監獄に入った場合、(特にかつては)一度監獄に入った者が一般的な社会生活に戻ることが困難であった。ここから、非行性(犯罪行為)を特殊なものとすること=みせしめとの共通点を見ることが可能である。平たくいえば「あいつは犯罪者」というレッテルを貼る意味があると言えようか。
ただ、禁固・拘束に関しては、最適ではないという意見も古くからあり、犯罪者を拘束するコストは社会全体が負わなかればならないという問題もきちんと解決はされていないようである。
社会が個人を裁くということ。そしてある罪にある罰を与えると決めること。
もう少し、気長に考えていこうと思う。
*頑張って読んではみたが、��みません、我ながらちょっと背伸びをしすぎました。どなたかもう少しふさわしい方の書評が読みたい・・・。
*シニフィアン・シニフィエとか、「音」でだけは覚えていて、ふんふん、学生時代にちびっと囓った(多分、フーコーじゃないと思うけど)のだな(^^;)と我ながら思ったり。
*同じくフーコーの『狂気の歴史』もタイトルだけ見るとおもしろそう、と思うけれど、この本がフーコーの中では読みやすいといわれているのだとすると、ちょっと手を出しにくいなぁ・・・(^^;)
*図書館本だったのですが、別の人の予約が入っていて延長不能。返却期限を気にしながら読むには向かない本だった。ちょっと反省。
この主題、個人的にはまだまだ宿題です。考えてナニが変わるというものでもないのでしょうが。
素人的には、現状、罪に対して妥当な罰が与えられているとはいいにくいだけに、量刑をどうするというときに、別個に定めた「きまり」や「前例」を参考にするしかなくなってしまうんじゃないかという気もします。
そういう意味では「目には目を」の方が「わかりやす」くはあるよな・・・。
次は日本の事例&もう少し軽いものを読んでみたいかなぁ。
お江戸の牢獄あたりでとっつきやすそうなものを探してみるかな・・・?
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記録として残酷な執行について、淡々と書いているところが面白い。たんに「監獄の誕生」の背景を知るというだけでなく、過去の刑務の実際を知る本しても面白い。
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監視と処罰が、権力の行使による支配階級の戦略的立場の総体的効果と表現している視点が面白い。通常は被害者に報いるための罰の先に、自由のはく奪が存在するわけだが、結局それを決定づけるのは権力であり、戦略である。だから罪と罰は表裏一体であり、今も昔も考え方は変わらないのだと気づかされる。
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第2部の途中まで読んで中断していただのが、せっかく途中まで読んだのだからと、自分で今年の「夏休み課題図書」に指定して、少しずつ読み進めてきたが、夏休みも終わり9月に入ってようやく読了。
第3部からがおもしろい。
自分も教育に携わる仕事をしているが、権力は学校の隅々にまで、そして日々そこで仕事をしている自分自身にまで深く浸透している。システムの内部にこれだけ深く食い込んでいると、なかなかそれには抗うことは難しいであろうが、そのことに自覚的であることで、少しは権力的なふるまいから逃れる小道を発見できるかもしれない。
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高校へ入学したばかりのころ、英語の先生が「フーコー」を読みなさい。と盛んに勧めていた。当時はまさにポストモダン全盛期で、浅田彰の「構造と力」が話題になっていたが、読んでも何のことかさっぱりわからず、途方に暮れたことを覚えている。数年前に同書を再読したが、やはり全く理解できなかった。特にその方面の勉強をした訳ではないから当たり前だが。
勧められて以来40年近く経過して初めて手にしたフーコーであるが、最も読みやすいといういわれているだけに完読することはできた。内容は、主に処罰論であり、監獄はそのシンボルというところだろうか。かつては犯罪者に対する刑罰が身体刑があたりまえであったが、王権の衰退とともに死刑を除き身体刑が廃止され、代わりに拘束のうえ労働へと変化した。これを、更生を視野に入れた倫理的要請とみる論に対して、フーコーは新たな権力の現れとみている。多くの事例に裏打ちされた論文であるからなるほどと感じるのだが、本書においては拘束される人々は、客体化された階層としてのみ登場するので、更に理解を深めるためには、他の著書を読む以外なさそうだ。