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ドキュマン
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  • カテゴリ:一般 大学生・院生
  • 発行年月:1974
  • 出版社: 二見書房
  • サイズ:20cm/286p 図版32p
  • 利用対象:一般 大学生・院生
  • ISBN:4-576-00027-6
  • 国内送料無料

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ドキュマン (ジョルジュ・バタイユ著作集)

著者 ジョルジュ・バタイユ (著),片山 正樹 (訳)

ドキュマン (ジョルジュ・バタイユ著作集)

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紙の本

唯物論と奴隷的理性

2001/02/27 22:26

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投稿者:オリオン - この投稿者のレビュー一覧を見る


 バタイユは、自ら編集長をつとめた雑誌『ドキュマン』にいくつかのエッセイを寄せている。そのいずれも極めて興味深いものばかりなのだが、ここでは「低俗唯物論とグノーシス主義」と題する文章を紹介したい。(私はそこに、バタイユの思想の原点あるいは源泉ともいえる「香り」をかいだ。)

 バタイユはまず、ヘーゲル哲学が非常に古い形而上学的概念を出発点にしていること、それもキリスト教紀元の初期において、とりわけグノーシス派の人々が発展させた概念を出発点にしているように思われると述べ、この「驢馬の頭を戴いた神」を信仰するグノーシス主義の思想は、今日でも非常に重要な価値をもつはずだと指摘している。

 バタイユによれば、宗教としてのグノーシス派のライトモチーフは、自主的な永遠の存在をもつ積極的な原理としての「質料[マティエール]の概念」にほかならない。この概念は「闇の概念」であり「悪の概念」でもある。(光の不在としての闇ではなく、その不在によって姿を現わす怪物的なものとしての闇。善の不在としての悪ではなく、むしろ創造的行為としての悪。)

 グノーシス派のこのような二元論は、質料と悪とを高次の原理が堕落したものと見なす傾向の強かった一元論的なギリシア精神と、真っ向から対立するものであった。もっとも、グノーシス派の内部には、ときにはイスラエルの神と同一視される呪われた忌まわしい創造神を、ギリシア的な至上神から「発現」したものとする教義もあったのだが、バタイユにいわせれば、それは一時凌ぎの必要に応えたものにすぎず、グノーシス派独特の形而上学的思弁と神話的悪夢において露呈しているのは、後世の黒魔術にもつながる「極悪非道な力についての激烈かつ獣的な固定観念」にほかならない。

 グノーシス教徒と(グノーシス主義の最後にして最大の宗教的形態ともいわれる)マニ教の信徒たちの精神活動の至上の目的は、絶えることなく「善と完成」であった。しかし、ここでいう善は、もとより悪に対する高次の権威やギリシア的な高次の原理・聖性をいうものではない。彼らの思考を決定づけうるのはただ「悪への不安な譲歩」だけであって、たとえ暗々裡であったにせよ彼らは理想主義的な観点とはきっぱりと縁を切っていたのであり、自らの生に悪の創造的行為の影響を見ていたのである。

 バタイユは最後に、グノーシス派の思想の現代的意味をめぐって次のように指摘している。(これはこのエッセイの中で最も重要な位置をしめるものだと思う。)──グノーシス派がもちだすこのような「心理的プロセス」は、現今の唯物論とさして異なるところはない。

 ただし、バタイユがいう唯物論は、存在と理性を(高次の原理にではなく)「低次の質料」に服従させるもの、すなわち「存在論を含まぬ唯物論」であり「質料を即自的事物とせぬ唯物論」のことだ。また「低次の質料」とは、現存する私という存在とその存在を武装させる理性とに借りものの権威を与える高次の原理の埒外にあるもの、あるいは自我と観念の外に存在しているもの、いいかえれば「人間の理想的渇望の外部にあって無縁のもの」を意味している。

 バタイユは続けて次のように書いている。──そのような低次のもの(どんな場合であっても何らかの権威の猿真似をし得ないもの・まさに質料と呼ぶべきもの)にこそ、私は全面的に服従しているのであって、もしこれとは逆に、私の理性が私の言明したことの限界になるとすれば、私の理性によって限定された質料は、たちどころに一つの高次の原理という価値を帯びてしまうだろう。そしてその原理とは、権威を笠に着て語るために、「奴隷的」理性が自らの上に喜んで据えるはずのものにほかならない。

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