紙の本
目に見える分かりやすい「かしこさ」
2000/10/24 22:17
2人中、1人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:katokt - この投稿者のレビュー一覧を見る
うーん、つくづく頭よくみせたいもんだね、ってこの人の本を読むと思う。こういう本はちょっとでも古くなると読めなくなったりするのに、まだ読める場所があるもの。ちなみに読める場所は、「差異化のパラノイア」「スキゾカルチャーの到来」「本物の日本銀行券は偽物だった」「ツマミ食い読書術」「あとがき」かな。まあそれ以外はふーんって感じで読み流しましょう。詳しくは
紙の本
ミーハーカルチャー
2002/07/26 21:52
3人中、2人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:あさの - この投稿者のレビュー一覧を見る
いや、ごめんなさい。
もちろん、哲学はミーハーするもんじゃございません。
ええ、お固いものですし、頭悪い子は覗いちゃだめですよね。
だけど、この年、この本が出た時、猫も杓子も、『ポストモダン』『ポスト構造主義』でしたのよ。
みんなが『アイデンティティ』について語り、『パラノ』だの『スキゾ』だの、街角で、唾とばしながら叫んでました。
ええ、わたしもかくゆうその一人。
ちゃんとドゥルーズ読んだことあるの?といわれたら、『ノウ』と一言困ったようにほほを歪めて肩をすくめてしまうのですけども。
でも、彼──浅田彰──はいいました。『青少年よ、逃げろ』。
そしてわたしたちは『逃げた』のです。
パラノな世界にさよならです。
わたしたちは逃げ続けました。つみたてるなんて真っ平。ほら、ここに新しい道がある。
だからわたしたちはバブルの崩壊も、終身雇用制のぐらつきも、『なにそれ?』状態。
だってわたしたちは知ってた。
『逃げる』ってことは、永遠に立ち止まらないこと。
立ち止まって嘆いてるおじさんおばさんさようなら、っこと。
わたしはたちは男同志だろうが女同士だろうがちゃんと愛し合って、そしてやっぱり走っているのです。
スキゾキッズバンザイ。
だけど逃げるなら根性もって逃げましょう。途中で疲れたからって、『浅田彰に騙された』なんて泣いちゃだめです。
逃げるに必要なのは強い脚力。そしてあなたの魅力的なセクシャリティ。
この『逃走論』を手に走り始めたおにぃさんやおねぇさんは、今やおじさんおばさんと化してますけれども、でもやっぱり走り続けているのですよ。
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「構造と力」で繰り返し出ていた「カオス/象徴秩序」の二項対立図式に否定的な発言がいくつかあった。
象徴秩序とその外部との「交通」という思考が賛美されているように思った。
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馬鹿がバレるのを承知で書くが、何言ってるのか・何が言いたいのかサッパリ分からん。
世界というものをかなり大雑把に捉えようとしているのだろうか。ここまでくるともはや謎かけの域に入ってる気がするのだが、これで飯が食えるのだからバブルというのは良い時代だなぁと思う。
いや、本当はある程度分かるし具体的に突っ込みたい箇所もあるんだけど、ちゃんと触れるとこっちがケガしちゃいそうなのでやめときます。仕方ないけど、今読むと寒いですこの本。
100円。
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『逃走する文明』(1983)というエッセイがある。近年のとゆうか数年前のノマド論よりも圧倒的に明るくてドライブ感がある楽しい文章。
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[ 内容 ]
《パラノ人間》から《スキゾ人間》へ、《住む文明》から《逃げる文明》への大転換の中で、軽やかに《知》と戯れるためのマニュアル。
―現代思想の最前線を疾走する若き知性がドゥルーズ=ガタリ、マルクスなどをテクストに語る《知》的逃走のための挑発的メッセージ。
[ 目次 ]
逃走する文明
ゲイ・サイエンス
差異化のパラノイア
スキゾ・カルチャーの到来
対話 ドゥルーズ=ガタリを読む
マルクス主義とディコンストラクション
ぼくたちのマルクス
本物の日本銀行券は贋物だった
共同討議マルクス・貨幣・言語
ツマミ食い読書術
知の最前線への旅
N・G=レーゲン『経済学の神話』
今村仁司『労働のオントロギー』
広松渉『唯物史観と国家論』
栗本慎一郎『ブタペスト物語』
山本哲士『消費のメタファー』
柄谷行人『隠喩としての建築』
山口昌男『文化の詩学1・2』
蓮実重彦『映画誘惑のエクリチュール』
[ 問題提起 ]
[ 結論 ]
[ コメント ]
[ 読了した日 ]
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前著「構造と力」よりポップで読みやすい、とのもっぱらの評だが、どっこいポップなのはそういう雑誌に掲載された文章だけで、対談や鼎談などは解っている者同士で丁々発止と交わされる言葉だけに却って「構造と力」より難しいぞ。でも言ってることはだいたい「構造と力」と同じ、脱コード化された「クラインの壺」的果てなき差異化の競争社会から軽やかに逃走せよ。できるかっつーの!と笑い飛ばしたくもあるが、これはオブジェクトレベルでのプラクティカルな指南と言うよりもむしろメタ的な気構えの問題とようやく気付いた。だって目指すは、知の“戯れ”だもの。
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後期資本主義社会を生きる人間の形態として、パラノイアとスキゾイドという2つの類型が紹介される。パラノイア、妄執症型人間は、1つのことに固執する。会社人間、生真面目で禁欲的名人、ひたすらコレクションを増やすオタクはスキゾイドに該当する。浅田彰が称揚するのは、スキゾイド、分裂症型人間の方だ。
スキゾイドは、既存のルール、社会の型を破って自由に飛翔する。広告人間、80年代バブルに浮かれた軽い人は、スキゾイド。キャッチコピー、CMの短い時間に生きる。パラノイアが蔵書をためて、コレクション化していくのに対して、スキゾイドは溜め込まない。感性にフィットした知識を瞬時に取り出し、あきたら捨てる。
浅田彰はスキゾイドの方に後期資本主義社会の可能性を見ていた。オタクは、子宮のような自室にこもって自分のコレクションに耽溺するマザーシップ・コンプレックスの人間として批判された。浅田彰はオタク文化の興隆にも同調せず、東浩紀とも決裂している。さて、2010年現在から振り返ると、浅田彰の方が敗北しており、早稲田のゼミで同人ゲーム『うみねこのなく頃に』を扱う東浩紀の方が勝利している(同時代性と対決しているという点において)。何故浅田彰はオタクを理解できなかったのか。
浅田彰の批判するオタクは、自分の部屋にとじこもって、ただひたすら自分のコレクションに耽溺するノン・コミュニケーションの人間だった。つまり、そこにはインターネットの視点が欠けていた。 80年代なのだからしょうがない。90年代後半、オタクたちは、ネットの網の目という社会空間を手にする。オタクたちは、インターネットの仮想空間内でコミュニケーションをする。ネットでのコミュニケーションの爆発的増大がなかったならば、オタク文化が現在のように、消費のメジャーになることはなかっただろう。
ネットでのコミュニケーションでは、外見、性別、年齢は問われない。どんな服を着ているか、どんな肌の色をしているか、学歴は?、話し方は? 社交性は? といった90年代以前の社会で必要された社交力は、ネットの世界で不要となった。
もちろんネットの世界ではネットの世界独自の社交力が必要となるし、学歴差別、人種差別的発言も掲示板では散見されるが、ネットが生まれる以前の社会ほどには、服や話し方で差別されることがなくなったのである。つまり、ネットの社会は、浅田彰が活躍していた頃の社会の価値観では、服装や話し方の作法がなっていない、趣味がおかしいとして差別されてきたオタクたちが、コミュニケーションの中心に位置し、消費文化を盛り上げているのである。
オタクこそスキゾイドであり、後期資本主義というかグローバル時代の資本主義社会を自由に飛翔しているといえないだろうか。
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新人類の旗手とよばれた浅田彰の「構造と力」につぐ書籍。
当時は、どれもこれも参考になったと思った。
今読むと、一番役立つのは、今、一番役立つのは、「つまみ食い読書術」。
個人的には、浅田彰に追いついたような気がする。
時間があれば、参考文献一覧を創ってみようと思う。
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『構造と力』(1983年、勁草書房)を刊行し、「ニュー・アカデミズム」の旗手として活躍していたころの著者のエッセイや対談などを収録している本です。
分量的に多くを占めているのが、ドゥルーズ=ガタリをめぐる今村仁司との対談と、現代におけるマルクスの思想の意義についての柄谷行人、岩井克人との鼎談です。ただし「あとがき」で著者自身が「いささかコントロール過剰とうつるかもしれない」と述べているように、チャート式のような図式的解釈によりかかっているような印象はいなめません。もっとも著者の出生作である『構造と力』同様、図式化することで思想の重々しさを乗り越え、ある種の疾走感を生み出すことが著者たちのねらいだとするならば、そうした意図はある程度実現されているのではないかという気がします。
80年代の現代思想の雰囲気に関心のある読者にとっては、心地よく読むことのできる本だと思います。
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ニューアカ、というより、浅田その人がフランス現代思想の普及に力あったことは紛れもないが、そのポップ志向とは裏腹に、哲学がますます浮き世離れしてしまったのは悲劇である。
体系なきスキゾがまき散らした断片を、哲学の側ではなく、実用の側からコラージュできないものだろうか。オタクやサブカルは前衛にも庶民にもなりえていない。世間はそんなにナイーブなものではない。
いつになったらポストモダンはそのことに気づくだろうか?
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もっと難解な本だとおもっていたが、スラスラ読めて、35年経ってさすがに前景化されたのか思ったが、難解なのは「構造と力」の方だったようだ。
サブカル雑誌に発表された著作を前後に挟んで、中心は今村 仁司との対話
ドゥルーズ・ガタリを読む
マルクス・貨幣・言語
当時私は浪人していて知的浪費をする余裕もなく時間を浪費していたのだった。願わくば発売当時に読んでおきたかった。
今村 仁司は2017年に65歳で亡くなっている
パラノ・スキゾはドゥルーズとガタリが提示した概念
御本人がゲイだと公表したのはまだ先立ったような
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雑多な本を書きたかったそうだが、本当に雑多だった。最初のほうは想像してたより軽い読み物(雑誌のエッセイ)だったが、未知の用語のオンパレードの節は疲労。私はドゥルーズ=ガタリを知らず…オント・テオ・テレノロジーも初耳、、、徐々に読み広げて見聞深める方向で。。蓮實重彦の話等は、辛うじて読んでた事もあり雰囲気に共感。読書案内も、興味ある分野ではあるので、参考になりそうな気はする。
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86年に書かれたものであるので、当時リアルタイムで読んだ人たちのような読み方は出来ないけれど、現代に続くものはある。
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いろんな議論を別々に繋ぎ合わせたパッチワークみたいな本。気軽に読めていいけど、ドゥルーズガタリやマルクスに関する議論なんかは難しくて置いてけぼりにされた笑、リベンジしたい