紙の本
ステレオタイプ
2017/06/06 23:52
2人中、2人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:サラーさん - この投稿者のレビュー一覧を見る
岩波文庫の本としては比較的読みやすい本。戦争における印象操作に始まり、黒人差別を助長する当時の人々の先入観など今読んでも改めて人の認識の曖昧さを痛感する内容になっています。心理学に興味があれば一読をオススメします。
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投稿者:なえ - この投稿者のレビュー一覧を見る
ウォルターリップマンの名著。
かなりエリート主義的な思想ですが、一読の価値は十分。
擬似環境、ステレオタイプなどの重要なキーワードで有名ですが、
上巻はステレオタイプについて詳しく書いてあります。
紙の本
総論からすると、個人的には微妙…
2019/01/14 20:13
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投稿者:岩波文庫愛好家 - この投稿者のレビュー一覧を見る
う~ん、読む人の理解力による所が大きいと思うのですが、上巻はとにかく比喩表現がとても多いです。さら~っと読み進めるのが難しく、いちいちその意味を考えながら読むと、結局かなり時間がかかってしまいます。では下巻は、というと…、この場では内緒。
とはいえ、内容的には成程そうだね~っていう内容です。世論というか、社会一般的な世情について書かれているので、興味深いです。一読しておくのは、いい経験になると思います。自身の脳ミソの糧に!
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第一次大戦直後に書かれたもんですが、これがまたきゃなり難しい…難しいですが、60年以上前に書かれているのに、全然現代社会にも通用する内容です。
大衆心理とか興味ある方は面白いのでは?
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1922年に書かれたジャーナリストであり、政治学者であったリップマンの著作。同時代的な著作をカー、レーニンと読んだ後に読み始めたので、第一次世界大戦前後の時代認識と思想動向の理解には役立った。リップマンは、カーと共に国際政治の枠組みでは現実主義として捉えられる事が多いが、既に概念が多様になり、ブレが見られる現実主義という枠組みではむしろ誤解が生まれるようにも思う。
カーもリップマンも、人々が理想を語る割に、現実をきちんと認識しようと努めていない事、現実と理想の相違をきちんと認識した上で政策が語られていない事を問題にした。リップマンの場合、それは状況を理解する手段、方法に向けられており、抽象的なステレオタイプや世論という概念への不信が存在したのである。本書上巻では、まず個人と情報の接点について実はそれが制限されたものであり、また接触の機会もある程度限定されており、情報を受け取る際の注意力と時間によって認識が異なり、情報の伝達の際のスピードや言葉、そしてその明確さでも大きな認識の相違が生まれる事を明かにした。次に、ステレオタイプについて触れ、ステレオタイプがいかなるものであり、どのように形成され、どのように活用されるのか、その盲点と効用について触れた。そしてそのステレオタイプ形成や情報の管理、検閲、あるいは情報の構成における人々の利害や関心がそこに介在している事、そして情報を受け取り、個々人で再構成し、処理する場合にもこれらが介在している事実について明らかにしている。
情報革命とも形容されるネット時代の現代では、これらの指摘は当てはまらないという主張もあるかもしれないが、果たしてそうだろうか。第1に、情報が溢れかえる事はここの情報への処理能力を低下させる為、それらの情報の真偽を逐一検証する事をより一層困難にする。従って、情報が溢れる事と情報を正しく選択し、あるいは理解する事は別問題である。第2に、一部の情報は一般市民がその情報の出し手として担える状況が生まれている点は否定出来ないが、多くの情報はマスメディアや権力の側が制御出来るという明らかな事実が存在する。中国当局は、国民のネットアクセスを制御出来るし、アメリカの公益団体は事実上世界のネットを制御している。また国防等に関しては、知っていても伏せるべき情報をマスコミは知っている。第3に、情報はすべての人に平等に提供される訳ではない。求める情報を得る為にはそれなりの対価が必要であり、少なくとも新聞、テレビ、ラジオ、ネット等の媒体から得る必要があるが、これらは先進国では多くの国民に広く普及しているが途上国では違う。かつては知識人しか情報が入手できなかったが、現在でもその点(情報の偏在)に変わりはなく、加えて先進国でも権力者や政権当局者と一般市民の間には情報の偏在がある事は言うまでもない。他にも多々あるだろうが、古典であるから現代に無意味な著作であるとは全く言えないことを少なくともこれらは示しているだろう。
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私が初めて「面白い」と感じた学術書です。
人はなぜ、他人のことを「こうだ」と決めてみてしまうのか。
ステレオタイプとはなんだろうか。
メディアからもたらされる外国情報にはどのような意味があるのか。
私が今の研究を進めてくなかでひとつのキーストーンになった本です。
永遠の名著です。
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世論というものがどう形成されていくのか?に焦点を当てたもの。
世の中で起こる事実に対し、我々は自らが作り上げたイメージ、もしくは存在するイメージに基づいて判断を行う。つまり主観でつくりあげたイメージが、世論を創りだす、ということか。
そのようなイメージが実際の事象と異なってくる理由として、
1.人為的検閲
2.社会的に接触を制限する状況(物理的な距離とか)
3.時間の不足(24時間ニュースを見たり、ましてや事件現
場に行くわけにはいかない)
4.伝えやすく要約することにより歪曲
5.語彙の乏しさ(世の中を表現するには、語彙が乏しすぎ
る)
6.世の中の常識を破壊しうることへの恐怖
を挙げている。
他に注目することとして、ステレオタイプという言葉を、初めて今の偏見の意味で扱っている。?に関連するが、人は何かを理解するとき、自らのステレオタイプという枠組みにその事象を当てはめ理解する。そのステレオタイプに当てはまらない事象に対しては、無理やりそのステレオタイプとの関係性を見つける(=作り出す)のだ。
例えば、円錐を2次元で鳥瞰図を用いて伝えようとすると、円にも三角形にも捉えられる。そのような事が、世論を形成する際には起こるのだという事だ。
文体は、まどろっこしくなく、またたいして抽象的でもなくすっと読むことができる。そして話の持って行き方もスムーズで結構読みやすい。
文量が多いので、今後もう1度読む必要があるだろうが、とても秀逸な本です。事実の理解を形成するのは、その事実の一面である、という事がもっとも勉強になった点。
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目次
第1部 序
第1章 外界と頭の中で描く世界
第2部 外界への接近
第2章 検閲とプライヴァシー
第3章 接触と機会
第4章 時間と注意力
第5章 スピード、言葉、明確さ
第3部 ステレオタイプ
第6章 ステレオタイプ
第7章 防御手段としてのステレオタイプ
第8章 盲点とその効用
第9章 規範とその敵
第10章 ステレオタイプの検出
第4部 さまざまの関心
第11章 利害関心の参入
第12章 利己主義を見直す
解説
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リップマン『世論』上巻は、主にステレオタイプについて論じている。人間がいかに事実を知ることから隔てられているかという主題が、新聞を読む時間の短いことや、各人がもっているさまざまな欲望・偏見・無理解から述べられている。これを読めば、簡単に「知る権利」という言葉が使えないと思う。われわれはリップマンのいうように、疑似環境を通して、多様な事実をフィルタリングし、「節約」して物事を認識している。しかし、われわれの行動は、ほかならぬ現実に対して行われる。つまり、おかしな目で、身にせめる環境に対応していかねばならないのだ。なかなかに絶望的な人間観であろう。ただ、その中でも「世論」なるものが成立してくるということは、それだけで不思議な現象といえるだろう。また、人間の性格についても、複数の性格が場合に応じて出てくるとしており、人間観としても、面白い観点を含んでいる。社会主義者は経営など誰にでもできるというステレオタイプをもっているという点も興味深い。経済的利害関係、つまり階級の対立を均質なものととらえる社会主義者の人間観は楽天的すぎることが分かる。アンダーソン『想像の共同体』よりも、本質的な気がする。
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本書を執筆したリップマンの動機は戦争中に自身が情報戦に関わったことに加えてベルサイユ条約における戦勝国(連合国)の傲慢な態度と行動にあったと言われている。さらに『世論』というタイトルにこめられたのは、こうした戦争と戦後処理を止めることがなかった世論に向けられていたのだと思われる。
根本的に論じられることもないままに...
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【読後の感想や読書会当日の様子などはこちら↓】
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人はステレオタイプに生きていることを様々な事例を参照しながら説く、世論形成に関する第一書。様々な示唆に富んだアイデアは現代にも十分通用する。
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ステレオタイプという用語を作ったウォルター・リップマンの代表的著作。大衆に対して著者がとのような考えをもっていたかわかる。エリート論者。
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あまりにも巨大で複雑な現実世界を正確に把握することは不可能だ。したがって、われわれが認識している世界とは、断片的な情報を頼りに、各々が頭の中で勝手に創り上げた世界像にすぎない。著者はこれを現実環境と対比して擬似環境と呼ぶ。
この擬似環境は現実環境をただ単純化したものではない。擬似環境はあくまでも世界像であり、そうである以上、そこには体系的で秩序正しく矛盾のない世界像を求めようとする心的欲求が働く。そうして混沌とした現実環境に一定の体系や秩序を与えようとするとき、ステレオタイプが発動し、数ある事実の中から都合のいい事実だけが取捨選択されて、一つの世界像が形成される。さらに、ステレオタイプに反する事実に遭遇した場合、自分の思い描く世界像は崩壊の危機に瀕することになってしまうため、その防御的反応として自分にとって不都合な事実はなかったことにしようとする心理が作用する。その結果として、次のような不思議な対立が起きてしまう。
「あるアメリカの編集者は、『アメリカには階級は存在しない』と書く。『共産党宣言』は、『これまで存在した社会の全歴史は階級闘争の歴史である』と言う」(p.171)
つまりステレオタイプを通して創られた世界像(イメージ)は現実を著しく歪めてしまうことがあるのである。その集積を「世論」と呼ぶとすれば、そこに一体どれほどの真実が含まれているというのだろうか。それは今日の大衆社会において果たして民主主義は可能なのかというラディカルな問いにも結びつく。ここでリップマンは一つの困難な希望を示して、話は下巻に移る。
「自分たちの意見は、自分たちのステレオタイプを通して見た一部の経験にすぎない、と認める習慣が身につかなければ、われわれは対立者に対して真に寛容にはなれない」(p.172)
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どんな人でも、自分の経験したことのない出来事については、自分の思い描いているそのイメージが喚起する感情しかもつことはできない。したがって、他人の行為を真に理解しようとすれば、彼らが知っていると思っていることはどういうことかを知らなければならない。(p.27)
言葉は、流行にも似て、くるくると変わり、今日はあるイメージ群を、明日はまたべつのイメージ群を喚起させるものである。同じ一つの単語でも、記者が頭の中に描いていたのと同じ考えを、そのままそっくり読者の頭に呼びさますかどうかはたしかではない。(p.94)
耳目を集中しているう全世界に向かって、イギリスの首相は英語で語る。それは自分独自の言葉で自分独自の考えを語るということであり、これを聴くあらゆる種類の人びとは、そうした言葉の中に自分たち自身にとっての意味を見出すのである。彼が言わんとすることが、いかに含蓄深く微細なものであろうと、あるいはむしろ含蓄が深ければ深いほど、微細であればあるほど、彼の言わんとする意味は、標準的な言葉の中に放たれ異国の人たちの頭に改めてばらまかれるときに、いっそう大きな傷を受けるのである。(p.95)
「思考という耐え難い重荷」は、状況が思考を重荷にしているから重荷なのである。しかし、本来、考えるということはダンスをするのと同じように心浮き立つものであり、それと同じように自然なことであるはずだ。(p.104)
羊飼いは一頭一頭全部見分けられる。斑点の広がり方、区別がつかないほどちょっとした息づかいの違いが、素人目には見えない個別の特徴をあらわしているのである。したがって、事物のあらわす意味を自分のものとすること、換言すれば、事物をありのままに理解する習慣をつけるということは、意味の(1)限定性と区別、(2)一貫性あるいは安定性を、そのままでは不明確、不安定なもののなかに導入するということなのである。(p.111)
われわれはたいていの場合、見てから定義しないで、定義してから見る。(p.111)
このような事情(一定の観念を通して外界の光景を観察すること)には経済性という問題がからんでいる。あらゆる物事を累計や一般性でなく、新鮮な目で細部まで見ようとすればひじょうに骨が折れる。(p.122)
進歩を"発展"と考える習慣は、外科医の多くの要素をまったく無視してしまうことにもつながってきた。"進歩"という目の前のステレオタイプに気をとられて、たいていのアメリカ人は、彼らのいわゆる"進歩"にそぐわないものをほとんど見ないできてしまった。(p.150)
仕事を鼓舞する力に溢れた進歩的なステレオタイプは、どのような仕事を、そして、なぜその仕事をするのかを決定する努力をほぼ完全に忘れさせる。(p.154)
われわれは自分たちの目が見慣れないものは見ないでしまう。意識的な場合もあるが、それよりも知らず知らずのうちに、われわれは自分の哲学に合致するような事実に強い印象を受けるのである。(p.162)
現在の教育状況にあっては、一つの世論とは、何よりもまず道徳や規範を通して見た、諸事実の一つの見方なのだ。つまり、われわれがどのような種類の事実群を見るか、どのような光をあ��てそれを見るか、その大方を決定するのは、われわれの諸規範の中心にあるステレオタイプのパターンだと言いたい。(p.170)
自分たちの意見は、自分たちのステレオタイプを通して見た一部の経験にすぎない、と認める習慣が身につかなければ、われわれは対立者に対して真に寛容にはなれない。事実の両面性が信じられるようになるのは、長い間批判的な目を養う教育を受けて、社会について自分たちがもっているデータがいかに間接的で主観的なものであるかを充分に悟ってからのことだ。(p.172)
現在何がなされなければならないかについて、その論拠を歴史に求めてそれを利用しようとするなら、自分の意見を援護してくれるような過去の時点を選ぶことになるのは必至であろう。(p.196)
われわれは、自分に影響を与えるあらゆる人たちによって、自分の中のさまざまな自画を形成する。(p.237)
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ありのままに見ることを妨げる、「ステレオタイプ」の存在を解き明かした本。見て定義づけるのではなく、定義づけてから見る。そして、ステレオタイプに一致したものばかりに注目してステレオタイプを補強し、ステレオタイプに矛盾するものはなかったことにする。つまり、見る前に何が見えるかは決まっているのである。
デモクラシーにおいて、人々が物事を正しく判断できるということは、必須の前提である。しかし、政治の場面でステレオタイプが適用されれば、そのような冷静さは望むべくもない。解説によれば、ジャーナリストたる彼はデモクラシーの発展のために、そのようなステレオタイプを指摘し、人々が自身の(情報)環境統御をできるように努めた。
一方、現代を鑑みれば「分かりやすさ追求」のもと、マスコミが率先してステレオタイプを構築しているように思われる節がある。デモクラシーの根幹であるマスコミが、デモクラシーを根から揺さぶっているのである。
最後に、本書でチラッと触れられていたが、ステレオタイプに、「闘争」という強く人々の興味を引くものが加われば、「桃太郎の鬼退治」とでも言うべき「劇場型」の政治が展開され人々が熱狂するという構図は、非常に面白いと思う。