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禅者鈴木大拙が唱えた無尽蔵の「愛」が地球を救う?!
2023/04/09 11:17
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投稿者:永遠のチャレンジャー - この投稿者のレビュー一覧を見る
産声をあげた瞬間から人間は人生の苦痛と直面する。「禅」が如何に問題解決策を示すかの論考のうち、最終章「愛と力」は、万国博覧会向けメッセージゆえに少し毛色が違う。
仏教の究極目的たる衆生済度、すなわち道元禅師にいう「己れ未だ度(わた)らざるに、先に衆生を度さんと欲し営むなり」の願行を普遍的な「愛」という言葉に置き換え、迷いの素たる知性を操る「力」と対比させているのだ。
「愛とは他を認めることであり、生活のあらゆる面において他に思いを致すことだ」。「たがいに関係をもち、たがいに思いやるという考え方は、力の観念を排除する」(197頁)。
「愛は肯定である。創造的肯定である。愛はけっして破壊と絶滅には赴かない。なぜならば、それは力とは異なって、一切を抱擁し、一切を許すからである。愛はその対象の中に入り、それと一つになる」(198頁)。ここでは、自他不二、物我一如が想起される。
「力の誇示のもっとも顕著な一例が、西欧の人々の自然に対する態度にみられる。かれらは自然を征服するといって、けっして自然を友とするとはいわない」(199頁)。
自然災害の多い島国で花鳥風月と親しみ、墨絵にも四季折々の自然美を好んで描いて来た先人たちの営みを思えば、東西文化は異なる価値観、自然観に根差すことが容易に納得できる。
「力の観念は、人格とか、相互依存とか、感謝とか、その他さまざまの相互関係の心を斥ける。(中略)力は、われわれ人類同胞の間にひとしく恩恵を分配しないで、それを独占しがちだ」(200頁)。
「力に酔った人々は、力が人を盲目にし、しだいにせばまる視界に人を閉じ込めるものだということに気づかない。こうして力は知性と結びつき、あらゆる方法でそれを利用する。だが、愛は力を超越する。なぜならば、愛は実在の核心に滲透し、知性の有限性をはるかに越えて、無限そのものであるからである」(202頁)。
ロシアのウクライナ侵攻によるエネルギー危機や食糧危機を目の当たりにすると、大拙の主張にまったく首肯させられる。力の信奉者プーチンの思考は東西対立の残りかすが溜まった旧式回路のままで、権力を弄ぶ愚者の感覚は文字どおり「ぐしゃぐしゃ」なのだろう。
「愛は信頼する。つねに肯定し、一切を抱擁する。愛は生命である。ゆえに創造する。(中略)愛はけっして盲目でない。それは無限の光の泉である」(202頁)。
「われわれは、善にあれ悪にあれ、この人間社会に行なわれることの一切に責任がある。だから、われわれは、人類の福祉と智慧の全体的発展を妨げるような条件を、ことごとく改善もしくは除去するように努めなければならない」(203頁)。
分断社会、貧富格差、グローバル経済、宗教対立、移民問題、資源争奪、核管理、人口問題、気候変動、地球温暖化、海洋汚染、生物多様性…。
難題山積の私たちは、禅者鈴木大拙が唱えた無尽蔵の「愛」を繋いで地球を救う道を真剣に自覚し、覚悟を決めるほかない。
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一つは全て、全ては一つ
2019/05/16 10:20
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投稿者:ただの人間 - この投稿者のレビュー一覧を見る
一つは全て、全ては一つ的な(バガボンドの石舟斎が言っていたような)ことが全体を通じる軸になっていた。単純な論理からすると全く噛み合っていない話の例も多々取り上げられていたが、なぜそのようなやりとりがなされるのかについての説明もなされていた
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p.61「現実的に1つであるものをわれわれが2つに引き裂くところに間違いが生じる」
2元論ー善と悪、明と暗、楽しいと退屈などーはすべて地続きでその時の解釈で生まれるもの。
p.167「禅を概念化してはならない。それはどこまでも体験的に把握すべきものである。」
頭で考えても物事の答えはでない、それはひとつの解釈に過ぎない。体験することでよりよい解釈を導きだす。
人間の脳は巨大すぎるので、頭で考える事に頼ると余計な寄り道をしてしまう。
ビートだなぁ。
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西田幾多郎、藤岡作太郎と共に、「加賀の三太郎」と称された大哲人、鈴木大拙(本名:貞太郎)によって書かれた「禅」の入門書。氏は、「禅」についての著作を英語で著し、日本の「禅文化」を世界に知らしめた偉人である。本書も原著は英語。また、氏自身も「悟り」を開いたとされており、実際に「悟り」を体感した者としての、学問的見地を超えた体験談としての「禅」が伝わってくる。ただし、仏教のことを全く知らない人からすれば極めて難解。
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おもしろかった。
禅を説明しているのが説明しきれていないのが説明になっていると思った。
「禅では不立文字といって、対立の世界から飛び出すことを教える。しかし人間としては、飛び出してもまた舞い戻らぬと話が出来ぬので、言葉の世界に還る。還るには還るが、一遍飛び出した経験があれば言語文字との会し方が以前とは違う」
「知識をわれわれの相対的に限定された知識を意味するなら、智慧は最高度の直観に相当する」
「わしの言葉がわしのもので、お前のではない、お前のものとはなりえない。すべてはお前自身の中から出てこなくてはならぬ」
「浄、不浄とはおのれに属し、誰も他人を清めることはできない」
「人生の根本的問題は集客を分かつものであってはならぬ。問いは知性的に起こされるのであるが、答えは体験的でなくてはならぬ」
「思募のいとなみの限界の外にある。つまるところは、われわれが流れの彼岸にとどまる限り、悟りには至りえない」
「禁欲の修行においては、問うものは自己である。そこでは、自己は自己ならぬもの、敵と対峙せしめられる。だが自己がある限り克服できない。禁欲主義は一種の自負あるいは自己主張のあらわれである」
「人生は盲目的な努力でもなく、獣的な力の表現でもない。」
「意識しないということは、人生が苦であるという事実をいささかも変えない」
「苦しみは啓示である。」
「問題を起こさせたのは知性であるが、知性は自分自身では問題に答えることができない」
「貧の平和は全人格の力をつくしての激しい戦いを戦い抜いて後、はじめて得られる。怠惰や放任安逸な心の態度から拾い集めた満足は、もっとも嫌悪すべきものである」
「動こうとするたびにそれらがわれわれの精神的視界にあついヴェールをかける。われわれは絶えず拘束のもとに生きているように感じる。」
「わしはこれを杖と呼ぶ。おまえたちは何と呼ぶか」
「大道には凡とか聖とかいうものは一切存在しない。名前あるものはすべてそれによって自らを限定する。」
「竹の色はきっと赤でもなく、黒でもなく、緑でもなく、そのほかわれわれの知っているどんな色でもないのだろう」
「言語はかれらの内なる霊性的体験から直接に出てくる一種の叫び、あるいは嘆声である」
「感覚知性の世界は主体と客体との二者対立の世界。われわれはこの二元の世界をその外に出てしまうような仕方で越えなくてはならない」
「疲れては眠り、飢えては食う。この平常心が究極の道であり、最も高い教えである」
「愛は実在をあるがままに見ることからはじまる
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これからの本です。
少しずつ進めたい本です。
「禅とは何か。悟りとは何か。禅の現代的意義とは?―いまや、東洋だけにとどまらず世界的な関心のもとに見直されている禅について、日本の宗教家が、その真諦を平易かつ積極的に解き明かしつ、ヨーロッパ世界へ向けて綴った英文論考を新編集しておくる禅入門の名著。」
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この方をスゴいと思うのは、
掴みにくい・・・表現しにくいものを、
よくここまで言葉にしたというところです。
http://www.tv-aichi.co.jp/bp/wadatti/?p=7557
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鈴木大拙氏がヨーロッパに向けて綴った英文を翻訳したもので、「禅」について、聖書からの引用も随所に入れながら、非常に分かりやすく書かれています。日本人に向けて日本語で綴ると、とかく難しくなりがちですが、訳者の技量の高さもあって、英語で綴ったものを和訳するという作業を経て、日本人にとっても「禅」の入り口に気軽に立てる、そんな印象を受ける名著だと思います。
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鈴木大拙が英語で発表した禅の論文を翻訳したもの。禅は英語ではZenであって、中国語のChanではない。おそらく、大拙の活躍が関係しているのだろうと思う。内容は懇切で禅がどういう宗教なのかということが分かります。実存主義やキリスト教との関係、エックハルトなどキリスト教神秘主義との関係などにも言及しています。基本的には禅が生命そのものであるという点、言語を超えた空の「如」(タタター)なる悟りを得る方法であることが論じられていて、問答の方法としては、逆説・反対の超越・矛盾・肯定・反復・叫び、などを分類している。
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ウンコを他人にかわりにやってもらうわけにはいかないにもかかわらず、なぜ「なぜ生きるのだろう、生きる意味は何だろう?」「悟りとなんだろう?」などと悩むのか。これが禅である。「中二病だね」といって笑う人たちのほうがある意味では禅を、知ってか知らずか深く実践している人たちなのかもしれない。
よく禅をバカにしてとりあげて、「禅問答」などということがある。しかし、禅は問答などしない。本書で取り上げられている趙州などの禅僧のやりとりは問答というべきではなさそうだ。
禅は議論から逃げる[p]。「真理とは何か」と問われればその問うた人の名前を呼んだり、叫び声をあげたりする。何も知らない人がみたら、コントや漫才のようにみえるかもしれない。しかし、この一見こたえにも問答にも会話にもならないようなやりとりのなかに禅の真髄、というか禅のすべてがある。禅は概念化したり議論したりおしえたりするものではなく、体験するものだから[p]である。喉が乾いたら自分でコップを傾ける[p]し、ウンコをしたくなったらトイレにいって自分の中から出す。ただそれだけである。自分のウンコを他人にかわりにやってもらうわけにはいかない。
はしがきではキルケゴールを引用したり、聖書も引用したり、古今東西を問わず禅の真髄を記述するこころみ。なぜなら、禅は「一切の哲学および宗教の究極とするところ」であるから。ただ、最後の愛と力についての章にいたって二元論的考え方が悪い結果に結びつくというような記述は強引な我田引水のような気もする。わかりやすいが、中国とインドの違いはこうだから仏教の伝わり方の違いと禅の発生があったというのもそう。とはいえ、禅についての豊富で多角的な記述は感動もの。それだけでいい。愛がどうのこうのとかいらない。語れば語るほど、「"タタター"(如 as-it-is-ness)は、遠く無限の彼方に去って」しまうことがわかっているくせに[p186]。
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当然ながら、日本文化として主張するのではなく、東洋(ないし東アジア)に共通する精神性として「禅」を語っている。
読んでないかのように馬鹿げた感想を垂れ流して、無知を披露する読者も多いけれど、鈴木自身は「日本」にナショナリスティックな強調をおかない(少なくとも禅そのもの、禅の精神を語るときは)。
鈴木のそのような考えは、本書を「普通に」読めば(学校で教わったように、当たり前に読み取れば)、一瞥即解というところだろう。
ところで本文中で、「フェミニズムと禅」というふうに並列されている箇所に、読者は注目をすべきだろう。要するに、フリッチョフ・カプラの『タオ自然学』『ターニングポイント』のような、ニューサイエンス的な受容風景を想起すべきだということだ。(あるいは、少し横道にそれた魅力的な事例としての『ゲーデル、エッシャー、バッハ』。)
ジョン・ケージらも影響を受けた鈴木大拙。わかりやすいようで実はわかりにくい。他にもいい入り口はあるかもしれないが、鈴木大拙そのものにも禅にもアクセスできるという点で、一粒で二度美味しい。
You ain't heard nothin' yet! とれ、よめ!
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池田さんが陸田氏にすすめていたということで。
正直、かなり驚いた。ことばがどこまでも、ソクラテスであったり、池田さんと同じだったから。存在というものをどのように見つめてきたか、それがたまたま仏教という形を、仏陀の悟りという形をとったに過ぎない。存在を見ようとしない、ちゃちなハウツー生き方本や、無心に信じることを強要する宗教本では決してない。
禅問答は、ソクラテスの対話にとてもよく似ている。真実は、存在は語りえないと知っているのに、わざと短い言葉にして、だけど、大事なことは何一つ語らず、時にはそれを行動で示して、ひとに伝えようとする。
仏教、とりわけ禅は宗教である以上、存在のかなた、宇宙のかなたへを追究するのではなく、あくまで現世、今ここにある「わたし」が「わかる」ということを体得することにかなり重点を置く。この辺もソクラテスとよく似ている。
宗教というと、どこかオカルトめいていて危険で、しかも金儲けと混同されることが多いように感じるが、キリストや仏陀のすべての人を幸福にしたいという、とてつもない愛の深さを感じる。こういう存在が人間の歴史にあるということがとても「在り難い」鈴木氏の最後の「愛」についての言葉のなんと慈愛に満ちたものか。
賢治やジッド、サリンジャーといった「わかっちゃった」にもかかわらず、書かねばならぬ、苦悩がとても滲みる。そして、それをあえて英語という外国の言葉で書き起こした鈴木氏の苦労に、深く感謝。
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[ 内容 ]
禅とは何か。悟りとは何か。
禅の現代的意義とは?
―今や、東洋だけにとどまらず世界的な関心のもとに見なおされている禅について、日本の誇る宗教家が、その真諦を平易かつ説得的に解き明かしつつ、ヨーロッパ世界へ向けて綴った英文論稿を新編集しておくる禅入門の名著。
[ 目次 ]
第1章 禅
第2章 悟り
第3章 禅の意味
第4章 禅と仏教一般との関係
第5章 禅指導の実際的方法
第6章 実存主義・実用主義と禅
第7章 愛と力
[ 問題提起 ]
[ 結論 ]
[ コメント ]
[ 読了した日 ]
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難しすぎる。理解するにはまだ遠い。
禅とは、今までの論理、知識を捨て、ひたすら自分の存在とは何かを考え、悟ることを目的とするということは分かったけど、
あまりのめりこむと、リアルにこっちの世界に帰れなくなりそうで怖い。
12.30.2014
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咀嚼に時間のかかる本だと思う。また暫くしてから読みたい。私の様に理系の学問を学ぶ身としては、二元論的見地に立たずあるがままを見よ、というのは新鮮である。西田幾多郎の「善の研究」も合わせて読むと面白い。