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全く笑えない、笑うということ。人間、考え出すと、ちょっと自分の一挙手一投足が怖くなります。
前ぇ〜に読んだので、今読んだらもう少し理解しやすく読めるだろうか。
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確かに、笑いを論じた本なのに全く笑えない。
そもそも事例が古すぎて、イメージしにくい。
しかし、お笑いブームといわれる現代だからこそ読むべき価値のある本。
笑いとは根底で普遍的であり、文化による差などないのではないかと思わせてくれる見事な分析が展開されている。
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これほど誤読された本もないのでは?「ベルクソンの語らなかった笑いもある」と柳田國男はじめとする碩学がよくいうが、本当はこれにつきると思う。
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親父に借りた本。
何か難しい本を読みたいと言う単純な動機から借りた。大変読むのに時間がかかり、こつこつと読んでいたが結局まだ読み終わっていないまま数ヶ月放置している。
人はなぜ笑うのか、どういう場面で笑うのか、といった問題に対する分析を試みるという発想が私にはなかった。様々な笑いに共通するぎこちなさのようなものを見出し、その追求をしよう、というところまで読んだ気がする。要追読。
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笑いというものを考察する。 読んでみるとわかりますが、笑いという事象についてこんなに納得できるのか、と驚きます。
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やはり、哲学書は苦手です。
「笑い」について考察しているのですが、いや本当に笑えないほど読みにくい。まー、「笑い」をこれだけ読みにくく書けるものかと逆に感心しました。
「笑い」は論じずとも、感じるだけで十分ですと言った感じです。
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・無生物の生物性
・人間の機械性
・不意打ち
・落差
・繰返し
・ひっくり返し
・交叉
・自動現象
・放心
・非社交性
・機智
・滑稽
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事例が知らない事ばかりで結局のところわからない事ばかり。
笑いについての一例は人間の機械的こわばりから発せられるというのがかろうじてわかった。
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喜劇における笑いの分析によって、笑いの持つ生活や社会にとっての効用を暴きだし、生活や社会よって生が緊張や弾力を要求されていることが明らかにされている。
笑いは社会による不適用への罰でもあり、一時の緊張をほぐすものではあるが直後には生活や社会への適用へととんぼ返りさせられるものである。
悲劇と喜劇の本質的な違いや芸術の捉え方など非常に価値ある話しが語られている。
ベルクソンさんかっこいい!
Mahalo
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笑いは社会的身ぶりであると同時に、その本質は機械的な「ぎこちなさ」を指摘して対象に屈辱を与えることである。
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古書店にて購入。初ベルクソンにこれというのもどうかと思うが、別にベルクソン哲学の勉強をしているわけではなく、巷にはびこる自称〈お笑い評論家〉たちの先達のようなこの著作に、どのような現代的意義が残されているのかを確認したいがために買ったようなものなのでまあ良しとする。解説にもある通り、著者の視線の先にあるのは何よりモリエールであり、古に名高いアリストパネスやシェイクスピア、ラブレーらは埒外にある。よってその論調も〈恐らく我々はこの点をあまりに深く追究しない方がいいであろう〉と些か微温的になってしまっている。
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笑いというものを学問にしたのは、フロイトやベルグソンのおかげだと思える。
笑うという行動というよりは、何かを「おかしい」感じるのは一体どういうことなのか、この心の動きは一体何なのだ。ベルグソンの興味はそこから始まる。
それを考えるために、ベルグソンは、一体何を我々はおかしいと感じるのか、そこから攻める。モリエールの喜劇に詳しい訳ではないが、ベルグソンにとって、相当魅力的なものであったに違いない。
たしかに彼のおかしみは、モリエールをはじめとする当時の喜劇に限った話であるかもしれない。シェイクスピアなどのことは一切と言っていいほど触れられていない。しかし、彼がこのようにして、笑いの観察をじっと始めたことこそ、笑いを学問したことこそ、意義であると思う。誰しもが何かをおかしいと感じる。当たり前すぎることだ。だが、この当たり前が当たり前である不思議さ、そして、このおかしみというものがひとを強く動かし、精神が立ち上がる。これを考えずにギリシア以降捨て置かれたということが、ベルグソンにとっては我慢ならなかったのだと思う。
生きるということはおかしみをどこかで感じるということだ。学問はその不思議を追究することに他ならない。彼が今後この笑いというものをどこまで追求していったかは知らぬ。けれど、彼はきっと必ず、どこかでこの笑いについて探究し続けたはずだ。これは始まりに過ぎない。
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この翻訳が読みづらい方へ。p.122から読めばだいたい言いたいことがわかる。序盤に展開した論を応用した形で、言葉だの性格だの滑稽さの説明に入っていくので、その都度作者は説明を繰り返している。そのうち、p.122の部分からが、大変分かりやすい比喩で書かれている。そこから、p.25の最後の行とp.43から始まる三つの説を読めばだいたいこの本がわかる。そこを先によんでからまた頭から読むと理解が進むだろう。
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ベルクソンについては小林秀雄伝で興味が湧き、まずは本書を手に取ってみた。
小林秀雄はマテリアリズムだけでは説明できない人間の生、あるいは精神をベルクソンを拠り所としながら説いているが、本書にも十分にその思想を垣間見ることができた。
それは喜劇(笑い)を肉体に、悲劇を精神に分けて論を進めているところに最もよくみられる。「精神を示す偉大なスピーチ中に、肉体を感じさせるくしゃみをすると笑いが起きる」という例えは見事!
笑えない笑いの本と皮肉的に言われているが、個人的には具体例の部分は特にクスクスと笑えた笑。
また本書で展開される芸術論も興味深い。私は「芸術は誰かがイデアを直観したことに端を発して創造されるものであれば、では一体鑑賞者は何を見ているのか?同じイデアを直観し得ないはずでは?」という疑問を持っていた。
これに対してベルクソンはこう言っている。
「彼(芸術家)がまことにそれを見たのであったなら、彼が張を撤するためにやった努力は、我々を否応なしに模倣させずにはおかない。彼の作品は我々に教訓として役立つ一つの範例である。そして教訓の効力によってまさしく作品の真理が測られるのである」
なるほど!と。
このように、笑いに関する喜劇や悲劇の考察だけではなく、詩を主とした芸術論も読めるので、かなり面白い。
次は『物質と記憶』かなー。
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初読は学生時代。しかしこの独特の持つて回つた物言ひに、理解するのに難儀しました。否理解出来なかつた部分もありました。まあわたくしの無知蒙昧さが招くもので、仕方あるまいと感じてゐました。
齢を重ねて再読した際には、やはり分かりにくくて、結局この文章(訳文)は悪文なのだらうと勘考しました。多分原文はもう少し分かり易いのではないか。林達夫といふ人は有名な偉い先生なので、お前何様だと言はれさうですが。
例へば「生活と社会とが我々各人から要求するところのものは、現在の境地の輪郭を識別するところの絶えず気を張っている注意であり、それはまた、我々をそれに適応させることができるようにする肉体と精神との一種の弾力である」なんて文章、一読してすんなり頭に入つてこないのが悔しいのであります。
笑ひといふものは人間的な概念らしい。動物は笑はぬのでせうか。笑ひの元となる「おかしみ」(拙ブログの表記では「をかしみ」となる筈ですが、本書に合せます)を分類し、夫々をモリエールなどの喜劇作品をテクストとして解説してゐます。
第一章で「おかしみ一般」「形のおかしみ」「運動のおかしみ」「おかしみの膨張力」を論ずる。いはばタテの分類でせうか。基本的な三つの点を指摘します。即ち、「おかしみ」は固有の意味で人間的であること、無感動であること(笑ひの大敵は「情緒」らしい)、他者から孤立してゐないことのやうです。
第二章は「状況のおかしみと言葉のおかしみ」。子供の遊戯「びっくり箱」「操り人形」「雪達磨」の三つを例にとり、如何なる場合に「おかしみ」が誕生するのかを(たぶん)丁寧に繰り返し説明してゐます。
第三章「性格のおかしみ」では、「放心」なる概念が度々登場します。「笑いは何よりもまず矯正である。屈辱を与えるように出来ている笑いは、笑いの的になる人間につらい思いをさせなければならぬ」「笑いは絶対的に正しいものであるというわけにはいかない。また必ずしも親切なものでもないことを繰返しておこう」などといふ指摘は、現代の芸人さんにも通じるものがあるのではないでせうか。まあ良くわからんが。
後半になるに従ひ、越来越熱が入り面白くなつてきます。とはいへ、やはり別の新訳でも一度読まうと存じます。