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内省と遡行 | 9-112 | |
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言語・数・貨幣 | 113-312 |
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紙の本
映画「ベルリン・天使の詩」に、やさしさをもらった人たちへ。
2004/06/26 23:30
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投稿者:すなねずみ - この投稿者のレビュー一覧を見る
『内省と遡行』について、柄谷さんは「あとがき」でこう書いている。
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つまり『内省と遡行』は、『ヒューモアとしての唯物論』が「日本のことも私のこともよく知らない読者を想定して」書かれていることと、正反対の態度で考えられ書かれている本であると言ってよいと思う。
『内省と遡行』の解説を浅田彰さんが、『ヒューモアとしての唯物論』の解説を東浩紀さんが、それぞれ書いていることも、非常に象徴的な感じである。(いずれの解説も非常に明快)
(そういえば、僕は浅田さんの『構造と力』をいつも『構造としての力』と言い間違えてしまう……で、この本は僕のなかでゴダールの『気狂いピエロ』という映画とイメージが重なっている。人を苛立たせるセンチメンタリズム(?)……でも、大切な何かがそこに置き忘れられているような気がする。なんていうか、愛すべき馬鹿さ加減、のようなもの。あるいは、「方法的」なもの)
この二冊の本はコインの裏表のようにして「人間の生におけるとの問題(?)」を徹底的・究極的に思考していて、その思考の襞に触れているかのような心地よさが僕はとても好きだ。
柄谷さんは『内省と遡行』において、「積極的に自らを>に閉じこめ」ることで「不在としての>に出ようと」試みている(←「内省を徹底化することによって、内省そのものの反転としての遡行……にいたる」by浅田彰)。その際、彼は二つのことを自らに禁ずる。「外部をなにかポジティヴに実体的にあるものとして前提してしまうこと」、そして「詩的に語ること」。そしてその「遡行」の果てに「交通空間」を見出す、『ヒューモアとしての唯物論』において表現されているように。
この二つの本をつなぐ糸は、僕にとって「私はなぜここにいて、そこにいないのか」というパスカルの『パンセ』のなかの言葉である。「宇宙の無限の空間」への畏怖を表現したパスカルのその言葉を、柄谷さんは「近代物理学の空間(=均質な、交換可能な空間)」を前提としたものであると言う(「批判」する)。
ヴィム・ヴェンダース監督の映画『ベルリン・天使の詩』に触発して書かれたらしい「学術文庫版へのあとがき」に、こんな言葉がある。非常にカラフルな文章である。(なんというか、柄谷さんらしくない。なんだか、素敵である)
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子供は子供だった頃
いつも不思議だった
なぜ僕は僕で君でない?
なぜ僕はここにいて
そこにいない?
時の始まりは いつ?
宇宙の果ては どこ?
(『ベルリン・天使の詩』より、ペーター・ハントケの詩。抜粋)
久しぶりにピーター・フォーク(刑事コロンボ)に会いたくなった。
もと「天使」たちの、心を通さずふっと現われる「慈愛(のほほえみ)」(by荒川洋治)に触れたなら、人はもっと、やさしくなれる。