「honto 本の通販ストア」サービス終了及び外部通販ストア連携開始のお知らせ
詳細はこちらをご確認ください。
- カテゴリ:一般
- 発行年月:1991.6
- 出版社: 岩波書店
- サイズ:19cm/94p
- 利用対象:一般
- ISBN:4-00-007044-4
紙の本
歎異抄 (ワイド版岩波文庫)
著者 親鸞 (述),金子 大栄 (校注)
数多い仏教書の中でも、最もよく知られているものの一つに歎異抄がある。親鸞滅後、弟子唯円が師の言葉をもとに編んだもので、難解な仏典仏語がなく、真宗の安心と他力本願の奥義が、...
歎異抄 (ワイド版岩波文庫)
このセットに含まれる商品
前へ戻る
- 対象はありません
次に進む
商品説明
数多い仏教書の中でも、最もよく知られているものの一つに歎異抄がある。親鸞滅後、弟子唯円が師の言葉をもとに編んだもので、難解な仏典仏語がなく、真宗の安心と他力本願の奥義が、和文によって平易に解かれている。【「TRC MARC」の商品解説】
関連キーワード
あわせて読みたい本
前へ戻る
- 対象はありません
次に進む
この著者・アーティストの他の商品
前へ戻る
- 対象はありません
次に進む
紙の本
仏の名を呼ぶこと、つまりそれは、何ものかに促がされて「おかあさん」と叫ぶことだ。
2009/10/02 00:56
6人中、5人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:みどりのひかり - この投稿者のレビュー一覧を見る
この岩波の歎異抄は金子大栄校注となっていて、まるまる現代語訳をしているものではなく、用語の説明や歎異抄への解説がしてあります。
擬似恋愛 ある風俗嬢の告白 浅葉チエ著
の書評に弥陀の誓願不思議ということばを使い、この歎異抄にハイパーリンクを貼ったので、ここに歎異抄の第1条の内容を掲げ、そのおおよその意味を説明しておこうと思います。私は専門家ではないので自分で訳すということはできませんが、東京大学印度哲学科を出られた
紀野一義先生
の講話はよく伺いましたのでそのときのお話をもとに説明いたします。
*
歎異抄 第1条
弥陀の誓願不思議にたすけられまいらせて、往生をばとぐるなりと信じて、念仏まうさんとおもひたつこころのをこるとき、すなわち摂取不捨(せっしゅふしゃ)の利益(りやく)にあづけしめたまふなり。弥陀の本願には、老少善悪のひとをえらばれず、ただ信心を要とすとしるべし。そのゆへは、罪悪深重(ざいあくじんぢゅう)、煩悩熾盛(ぼんなうしじゃう)の衆生をたすけんがための願にてまします。しかれば本願を信ぜんには、他の善も要にあらず、念仏にまさるべき善なきゆへに。悪をもおそるべからず、弥陀の本願をさまたぐるほどの悪なきがゆへにと、云々。
*
:
第1条のおおよその意味
弥陀の誓願不思議というものにたすけられて、死ねばちゃんと浄土に往生できるのだと信じて南無阿弥陀仏と、その仏の名前を呼ぼうと思いたつ心が起こったその時その刹那に、すなわち収めとって捨てない、仏の胸の中に抱かれてしまう、そういう利益にあずけられるのだ。その阿弥陀如来の本願には本願の対象は、老人であるとか若いとか善人であるとか悪人であるとかというような区別はない。ただ信ずること、つまり、阿弥陀如来に救われると信ずるこころ、それだけが必要だ。なぜなら、罪が深くて欲と迷いとが盛んな人々を助けようという願なのだ。であるからその本願を信じたからには、ほかに何の善も必要ではない。何故なら念仏と言うことが最高の善なのだから。その最高の善さえあれば他の善は必要がない。悪をおそれることもない。弥陀の本願を妨げられるほどの悪はこの世には存在しないからだ。
:
ここで念仏ということを、紀野先生は「仏の名前を呼ぼう」というふうにしているわけですが、これは、茶道裏千家家元の千宗室 (15代)さんの、{「お母さん」と叫ぼう}と言ったことと同じだと思います。
〈 特攻隊は、前日に出撃命令が出るわけですが、私も終戦が1日遅かったら今日ここにはいなかったでしょう。命令がでるまで一番会いたいのは母親だった。父親には申し訳なかったが、死に直面する恐怖から救われる道として、母親に会いたいという気持ちが強かった。そこで、飛行場に出て、郷里の方を向いて「おかあさん」と叫ぼう、それで心が穏やかになればと、私が提案しました。みんなは初めはそんなことができるかと言っていましたが、私が飛行場で「お母さん」と何度も叫んでいるとみんなも出てきて、泣きながら「お母さん」を叫んでいましたね。そして、翌日には片道の燃料で出撃して行きました。〉
[「禅と人間」対談 千宗室・谷耕月 正眼短期大学創立40周年記念論集]より
だから「おかあさん」と叫ぼうと思い立ったその瞬間、その刹那に「弥陀の誓願不思議」にたすけられて仏の胸の中に抱かれる。
{弥陀の誓願不思議にたすけられまいらせて}というのは、弥陀の誓願に不思議にも助けられて、ということではない。「弥陀の誓願不思議」というひとかたまりなのだ。本当は「弥陀の誓願」だけでもよいのだがこれに「不思議」をくっつけなければどうにもならないのである。
不思議、すなわち、「思議することが出来ない」「考えることが出来ない」「言葉で言うことができない」
弥陀の本願はそういうものだから「弥陀の誓願不思議」としたのである。
これは実は紀野一義先生のおっしゃったことで私の発明ではありません。
{飛行場に出て、郷里の方を向いて「おかあさん」と叫ぼう}ということは、その思いはどこから出てくるのか、誰にも判らない、本人にも分からない。人智を超えている。「思議することができない」
だから「弥陀の誓願不思議」なのだ。
弥陀の誓願不思議にたすけられて、仏の名を呼ぶこと、
つまりそれは、何ものかに促がされて「おかあさん」と叫ぶことだ。
そういうことを親鸞聖人が言ったと唯円が言っている。いや、私、みどりのひかり が言っている。
こう考えてくると「おかあさん」と叫ぶにまさるべきものはない。
「念仏にまさるべき善なき」なのだ。
「本願を信ぜんには、他の善も要にあらず、念仏にまさるべき善なきゆえに。」は本当にその通りだとと思う。
「悪をもおそるべからず、弥陀の本願をさまたぐるほどの悪なきがゆへに」
これもその通りだと思う。
浅葉チエさんの擬似恋愛 ある風俗嬢の告白
を読めばそれがよくわかる。
なお、阿弥陀仏については
浄土三部経、下、観無量寿経・阿弥陀経、ワイド版岩波文庫
または
浄土三部経、下、改訳、観無量寿経・阿弥陀経、岩波文庫
をご覧下さい。
どちらも紀野一義先生が、阿弥陀経のサンスクリット語からの現代語訳、観無量寿経の漢文からの現代語訳をなさっております。
こちら
に戦争中の紀野一義先生の出来事に似たお話が出て来ます
金子大栄氏の解説について何も書きませんでしたが、それでもこの歎異抄を読むとき、
擬似恋愛 ある風俗嬢の告白 浅葉チエ著
が大きな役目を果たすことが分かるでしょう。