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探究 1 (講談社学術文庫)
著者 柄谷 行人 (著)
あえて一言でいえば、本書は《他者》あるいは《外部》に関する探究である。それらの簡単な語は、自分自身を含むこれまでの思考に対する「態度の変更」を意味している。しかし、書いて...
探究 1 (講談社学術文庫)
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商品説明
あえて一言でいえば、本書は《他者》あるいは《外部》に関する探究である。それらの簡単な語は、自分自身を含むこれまでの思考に対する「態度の変更」を意味している。しかし、書いているうちに私のなかでもっと根本的な「態度の変更」がおこった。つまり、私はこの仕事を無期限に持続するだろうという気がしてきたのである。書くことが生きることであるということを私は始めて実感している。(あとがきより)【商品解説】
目次
- 1 他者とははにか
- 2 話す主体
- 3 命がけの飛躍
- 4 世界の境界
- 5 他者と分裂病
- 6 売る立場
- 7 蓄積と信用――他者からの逃走
- 8 教えることと語ること
- 9 家族的類似性
- 10 キルケゴールとウィトゲンシュタイン
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「他者」あるいは「外部」に関して探求した、なかなか難しくチャレンジングな一冊です!
2020/03/14 13:05
2人中、2人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:ちこ - この投稿者のレビュー一覧を見る
本書は、非常に難解な内容の書です。柄谷氏による書は、そのどれもが内容を理解するのがかなり難しいのですが、同書は特にその印象が強いようです。同書の内容は、著者自身が書いておられるように、「他者」あるいは「外部」に関する探究についての内容となっています。どういうことかと言えば、自分自身を含むこれまでの思考に対する「態度の変更」ということです。言い換えれば、「知の領域の転回の」と言えるかもしれません。内容構成は、「1 他者とははにか」、「2 話す主体」、「3 命がけの飛躍」、「4 世界の境界」、「5 他者と分裂病」、「6 売る立場」、「7 蓄積と信用――他者からの逃走」、「8 教えることと語ること」、「9 家族的類似性」、「10 キルケゴールとウィトゲンシュタイン」、「11 無限としての他者」、「12 対話とイロニー」となっています。ぜひ、この難しい内容にチャレンジしてみてはいかがですか?
紙の本
探究
2002/01/19 13:39
2人中、2人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:7777777 - この投稿者のレビュー一覧を見る
西洋哲学体系の基礎になってきた形而上学により排除された他者に焦点を当てた意欲的な論考。ウィトゲンシュタインやゲーデルを引き合いに出し、鮮やかに論考を進めてゆく柄谷氏の手腕には脱帽する。
この意欲的な試みは現代日本思想の収穫である。
紙の本
可能性の探究は終らない。
2004/06/16 00:20
1人中、1人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:すなねずみ - この投稿者のレビュー一覧を見る
他者をその可能性の中心において読むことは、自らの可能性を十全に生きることで(も)ある。
他者の欠点をあげつらうことは、ネガティブな形での自己顕示(「私は彼/彼女の誤りを指摘できる程度には聡明な人間である」云々)を図ることにつながりやすい。その他者理解は、「他者も自分と同様な存在であるがゆえに(容易に)理解可能である」という不遜な独我論のなかで、自らの欠点を他者に投影しているだけの不毛なものであることが少なくない。
>(『探究2』第九章「超越論的動機」より→その後『トランスクリティーク』において、柄谷さんがカントをその可能性の中心において読むに至ることにつながる記述だと思う)
「批判」ということ……1920年代アメリカ、ジャズ・エイジを駆け抜けた小説家フランシス・スコット・フィッツジェラルドは『グレート・ギャツビー』の冒頭に、語り手であるニック・キャラウェイが少年時代に父からもらったこんなアドヴァイスの言葉を置いている。(いい言葉である)
「誰かを批判したいような気持ちになったときには、誰もが自分のように恵まれているわけではないのだということを、(ほんの少しだけでいいから)思い出してみるんだ」
(独我論を乗り越えた場所で)他者をその可能性の中心において読むことは、自ら(「この私」)の限界から目を背けることではない。むしろ「この私」の限界を冷徹に見据えることによって、ひとつの「倫理」を提示=実践することであり、それは「閉じられた共同体」ではなく「開かれた社会」の可能性を探究する「実験の場」としての生である。
ちなみに、(「探究」以降の)柄谷さんの「倫理」に関する考え方に大きな影響を与えたという『ガンジー自伝』のなかで、インド建国の父マハトマ(=偉大なる魂)・ガンジーはこんなことを書いている。
「世の中には、個人とその創造者のみにしかわからないものがいくつかあって、それらは、明らかに他の人に伝達不可能のものである。わたしがこれから話そうとする実験の数々は、そのようなものではない。それらは、あくまでも精神的なものである。あるいは、道徳的なものといったほうがいいかもしれない」
で、かなりランボーなまとめ方をすれば、『探究1』において柄谷さんは、「話す−聞く」関係ではなく「教える−学ぶ」関係(ルールを共有しない者との対話)における「命がけの飛躍」こそが他者をその「他者性」において捉えることであり、「間」あるいは「外部」において生きることの条件であり根拠であると繰り返し(手を変え品を変え)強調している。そして、その「教える−学ぶ」関係の実践こそが、すなわち「可能性の中心」において読み、書くことなのである(と思う)。
『探究1』において、その可能性の中心において読まれるのは、ウィトゲンシュタインであり、キェルケゴールであり、デカルトであり、ドストエフスキーであり、その「探究」を屋台骨のようにして支えているのがマルクス(「人間はつねにみずから解決しうる問題のみを問題とする」from『経済学批判』)である。
最後に、柄谷さんの誠実さ(というか、苛立ち?)がよく現われていると思われる文章を『探究2』から……
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