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- カテゴリ:一般
- 発行年月:1992.5
- 出版社: 国文社
- サイズ:20cm/244p
- 利用対象:一般
- ISBN:4-7720-0361-4
紙の本
理論への抵抗
著者 ポール・ド・マン (著),大河内 昌 (訳),富山 太佳夫 (訳)
存命中に刊行された論文集はわずかに2冊であるのにもかかわらず、その著作によって70年代のアメリカの批評のありようを変えてしまったポール・ド・マン。本書は、ド・マンの文学の...
理論への抵抗
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商品説明
存命中に刊行された論文集はわずかに2冊であるのにもかかわらず、その著作によって70年代のアメリカの批評のありようを変えてしまったポール・ド・マン。本書は、ド・マンの文学の理論に関するエッセイを収録したものである。【「TRC MARC」の商品解説】
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紙の本
「穴」と「ジャンプ」、あるいは、盲目と明察
2003/06/28 15:13
1人中、1人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:バナール - この投稿者のレビュー一覧を見る
ポ−ル・ド・マンは次のような意味のことを言っている。
「われわれはものが分かったと思う瞬間、“穴”に落ち込んでしまう。
別の言い方をすれば、分かるということは、暗闇の中での“跳躍”なのだ」。
彼の云うことは、一読するだけでは論理的破綻をきたしているようにみえなくもない。けれども時間をかけてその一節に向き合うならば、彼が何を伝えようとしたのか、同じことだが、“何を伝えられないか”を伝えようとしたのかが分かるだろう。
「ものが分かる」という行為を我々は日常的に経験しており、それはあまりにも自明の事柄に属している。が、ド・マンの視線はそのような自明性それ自体に注がれている。それは、「ものを早計に分かったつもりになることへの戒め」といった「自明」性に対する注視ではない。そのような意味に解釈すれば別の“穴”に落ちるだけであろう。
「分かる」とは、“たったひとつのもの”を選び取る行為である。すなわちそれ以外の可能性の純然たる「放棄」であるわけだが、この必然を人は免れうることができない。というのも、我々はその「選択」を選び終えることでしか物事が了解できないためである。
だが実のところ、その選び取る行為には如何なる根拠も些かの理由もありはしない。ただ、根拠や理由があるようにみえる(思いたがる)だけなのである。
つまり、仮に「分った」地点から遡行するならば、最後に根拠や理由に突き当たるはずだというその“論理性”こそが人が落ち入る“穴”に他ならず、そしてそれはしばしばありもしない根拠や理由を「捏造」して知らぬふりを決め込んでしまうのだ。
論理的であることは「ものが分かる」ということと、やはり何等の関係もない。
「分かる」とは、“切断された不連続”な行為である。
人は“連続的”に理解を推し進めてはいないのだ。決して予想もできず見通すことも不可能である絶対的な“困難さ”が、「ものが分かる」ということには常に付きまとわざるをえないと、ド・マンは云い続ける。それは文字通り「奇跡の到来」とでも呼ぶほかないものであるのかもしれない。既知が連続する平原を直進するような気軽さからはわれわれは何も知ることができない。そうではなく、何も見えない暗闇のなかで一歩先が断崖である可能性が横たわる只中を飛び出さねばならぬ、そのような瞬間に始めて「ものが分かる」という行為が開かれうるのであろう。
「分かる」とは、“唐突”であり“野蛮”なる一行為に違いあるまい。
何か行き詰まったような感覚がわたしを無条件に支配するとき、ド・マンのことばが頭に鳴り響んでくる。「お前はものを分かっているのか」と言われているような気持ちになる。