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紙の本
情熱は罪ではなく、偽りこそ全ての罪の始まりである
2016/02/23 00:06
1人中、1人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:海の方が好き - この投稿者のレビュー一覧を見る
17世紀前半の植民地の新しさと、旧態依然のキリスト教世界の因習が混沌とし、旧大陸の文明からから遠く離れ、単調と未開が色濃く反映されていたニューイングランド植民地で『姦通』の『罪』を犯した為に衣服の胸に『緋文字』の『A』を付けて社会から処罰、排除され、悲しみの人生を送るへスター・プリンの物語を通して、19世紀中頃の新興国アメリカの最良の知性が、現在の自分を生み出したニューイングランドを舞台に、人間社会の『罪』とその克服、歴史的推移を考察し、未来の新しい社会原理の必要を確信するに至るまで。
まずこの物語がどこから始まっているかという事を、読者は考える必要があると言えるだろう。
全ての読者が、物語の記述通り、その夏の朝、つまり二世紀ほど昔のとある夏の日の朝と語りはじめられる、『広場』でへスター・プリンが処刑台でさらし者の恥辱を受ける場面からと考えるだろう。
実際その通りであるが、しかし作者が最も重視する結論、結びから考えれば、この罪と人間をめぐる物語の本当の始まりはロジャー・チリングワースが自らの真実を偽り、へスター・プリンと呼ばれる事になる、うら若き女性を、自ら『たぶらかした』と回想した過去の時点から、全ての悲劇が始まっている事実の重要さを考えるべきだろう。
へスター・プリンと牧師、本当の名前を偽りロジャー・チリングワースを名乗る老医師のいずれもが、自らの欲望と理想に忠実であろうとして真実を偽り、その事によってさらに罪の重さに苦しめられて行く中で、唯一人、偽りや欺瞞と無縁なへスター・プリンの娘パールのみが、物語の終わりに作者が述べる、確かな幸福に生きているらしい事が示唆される。
結びでへスター・プリンが語る、新しい真理に基づき男女のすべての関係が相互の幸福という確かな土台に築かれる為には、偽りや欺瞞から解放された人間で在らねばならない事を作者も『正直であれ!』という明瞭な言葉で断言しているのだ。
わが身にこの言葉を向き合わせて考えてみれば、これ程苦く自身に突き当たる物語も無い。
偽りと欺瞞、あるいは偽善には満ち満ちて、世間並以下の幸福にも程遠いのが私の人生であるのが否応ない事実だからだ。
欺瞞にみち、罪に汚れた塵芥のような人間ですら寄り添ってくれる母娘が居たというのに。
紙の本
遊戯の規則
2002/06/30 08:39
1人中、1人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:あおい - この投稿者のレビュー一覧を見る
メルヴィルと並ぶアメリカ19世紀文学の巨峰の代表作。この人のロマンスとノヴェルの定義はなかなかややこしいが、作品はそれに輪をかけてややこしい。近代小説は、ようするに、この世界は何らかの規則によって動いている、けれども<私>にはそれがどういう規則なのかついにわからない、という物語である。
ちなみにドイツの映画作家ヴィム・ベンダースによる映画化作品があって、これがまた奇妙で面白い内容になっているので要チェック。
紙の本
罪を受け入れて生きていく意味
2010/02/14 21:19
3人中、2人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:SlowBird - この投稿者のレビュー一覧を見る
父の分からない子を産み落とした一人の女が告発された。かなり驚くことだが、この17世紀ボストンでは、政治権力である総督や判事と、教会の牧師とは強く結びついていて、宗教的な罪によって裁判にかけられ、刑罰が下されるのだ。しかしヘスター・プリンは子供の父親の名を決して明かさなかった。彼女はいくらかの獄中生活と、そして胸のところに恥辱を示す赤い「A」の文字を常に身に付けていることを義務付けられる。民衆が求めた厳罰よりは、教会の寛容さによってそうなったのだ。
ヘスターは罰を受け入れて、幼子とともに慎ましく暮らし始める。それを町の人々もいつしか認め、信頼を寄せるようになる。すると彼女の断罪を訴えた教義や大衆とは、一体なんだったのか。告発は無意味だったのかもしれないし、罪を着ることによって彼女は新たな生き方を見いだしたのかもしれない。それについての答えは無い。
一方でまた、この大衆というものは、信じることを決して曲げない頑迷さを持っていながら、同時に善意に溢れている存在でもある。物語の展開はその当然の帰結だ。この作中では無名の人々の印象が強烈で、主人公と一対の存在感を持っている。おそらく現代においても消費性向の中心で、TV視聴率の主役であるような人々なのだろうと思う。激安なんとかや、エコブームや、スピリチュアルなんとかやらを実質的に成立させる人々。作者はそれをこの土地と時代の特性のように描いているが、消費社会が広まるにつれてかどうか、世界的に普遍のものになっているのではないだろうか。
物語はその後、ヘスターのヨーロッパ時代に夫だったという医師が町に現れ、つまり彼女を罪の体現としてだけでない、一個の人間として認める者により、秘密の核心に迫っていくことになる。彼女たちの人生は、また破局に向かって動き出す。それは新たな困難に立ち向かっていく決意を促し、倫理や名誉といった自分たちへの束縛からの逃走さえも想起させる。物語としていえば、そこでまた人々は生き生きと動き出す。まるで微温的な安定の生活から、ふたたび自分を取り戻すとでもいうように。いったい人間の幸福とはどこにあるのだろうか。自我を守り続けることなのか、それを消していくことなのか。物語の舞台から2世紀がたってこの作品が書かれ、それからさらに2世紀がたっても、やはりその答えは見つかっていない。