紙の本
マックス・ヴェーバーの中では読み易い部類
2021/08/10 21:35
1人中、1人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:岩波文庫愛好家 - この投稿者のレビュー一覧を見る
約100ページ程度と、非常に薄い一書です。それもその筈で、本書は著者の死後に編纂・出版された『経済と社会』の巻頭論文だからです。社会学とは何かという、まさしく概念を著述したものです。しかも私の表題の通り比較的読み易く、また解り易い内容です。
数多くの社会学のうち、『解釈の社会学』のエピソードとして以下の内容を紹介します。
『或る生理学者が教室で吐いた有名な言葉がある。「第10節 脾臓。諸君、脾臓のことは何も知りません。これで脾臓の話を終わります。」もちろん、この生理学者は、脾臓の位置、大きさ、形態など、本当は沢山のことを知っていたが、ただ機能について述べることが出来なかったので、「何も知らない」と言ったのである。』これには思わず唸らされました。
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ドイツの社会学者、マックス=ヴェーバー(1864-1920)による晩年の著。1922年刊。社会学の学問的意義、彼の提唱した理解社会学についてを説いている。また、社会学における諸概念について詳細に解説がなされており、社会学初学者なら一度は読んでおきたい著である。
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ウェーバーの死後に刊行された論文。社会の分類や特性についてのべてある。権力や闘争の考察は興味深いものがある。ただ、ウェーバー自身も断っていることだが、抽象的すぎてつまらない感じがするのは否定できない。また文体上、挿入句が多すぎて読みづらい。これは訳者の所為ではないだろう。ウェーバーにとって、理解可能なのは個人の行為のみであって、これが組合わさってさまざまな社会が構成される。個人の社会的行為は1)目的合理的行為・2)価値合理的行為、3)感情的行為、4)伝統的行為に分けられ、相手を目指す社会的関係とあいまって、習慣や慣習・秩序・闘争が生みだされる。また、社会的関係にはテーニエスもいうように、共同社会関係と利益社会関係があり、それぞれに開放と閉鎖があり、代表権が設定され、権力と支配が構成される。政治関係の根底には暴力があるということも重要な指摘である。それにしても恋愛から宗教・経済・国家までを射程にいれた社会の分析はスケールが大きいと思う。
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社会学とは、「社会的行為を解釈によって理解するという方法で社会的行為の過程
および結果を因果的に説明しようとする科学」とウェーバーが述べるように、
理解社会学の純粋類型を定義した本です。
行為、社会関係、秩序、権力、団体、国家、宗教、すべからく定義していること。
限界的なケースしかとらえることができないと、反駁を予期したexcuseをしていること。
抜け目がない。批判できない。
けど、この人だれかが止めなきゃだめだ!!
p86、「「権力」とは、或る社会関係の内部で抵抗を排してまで自己の意思を
貫徹するすべての可能性」ってここに書いてあったんだ。
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秩序だとか電灯だとか、慣習・習慣なんかについて色々こまごまと分析してる本。
分かったような気がしてたけど、読み終わった現時点であんまり覚えてないから明日には確実に全部忘れてる件^^^^^^^^^^^^^^^^
でもやっぱり社会学は興味深いっぽいわ。
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マックス・ヴェーバーの死後に編纂された『経済と社会』の巻頭に収録された論文です。
100ページ足らずの非常に薄い本なのですが、非常に勉強になる本です。
これから社会学を勉強したい!という人にはお勧めしません。むしろ、いろいろと社会学の本を読んだ後の頭の整理や基本を押さえたい人にお勧めです。
安いですよ〜!
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マックス・ヴェーバーが死の直前に、社会学の概念の整備を試みた論文。
社会学の整備なんて言う位だから、概念の説明がひたすら並ぶ本。しかし、哲学ほど読みにくいわけではなく、マックス・ヴェーバーが社会学上でどのような考えで言葉を使い、どう考えてきたのかが良く分かる。
分量も少ないし、社会学を勉強しようとする人は、まず読んでみたらいかが?といった内容である。まぁ、それ以外の人は、それほど面白くないかもしれないけどねー。
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内容(「BOOK」データベースより)
社会学の泰斗マックス・ヴェーバー(1864‐1920)がその死に先立って社会学上の重要な諸概念を定義的に明らかにしようと試みた論文。宗教、経済、政治、法律などの各領域で社会学的研究を成しとげたヴェーバーの社会学に関する根本的な考え方を知るために貴重な文献である。なだらかな日本語に移した本訳書は初学者にもすすめたい。
目次
はしがき
第一節 社会学と社会的行為
第二節 社会的行為の種類
第三節 社会的関係
第四節 社会的行為の諸類型―習慣と慣習
第五節 正当なる秩序の概念
第六節 正当なる秩序の種類―慣例と法
第七節 正当なる秩序
第八節 闘争の概念
第九節 共同社会関係と利益社会関係
第一〇節 開放的関係と閉鎖的関係
第一一節 代表権
第一二節 団体の概念と種類
第一三節 団体の秩序
第一四節 行政秩序と規制秩序
第一五節 経営、経営団体、任意団体、強制団体
第一六節 権力と支配
第一七節 政治団体と宗教政治団体
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概念整理、といった印象です。
この一冊だけからは、ヴェーバーがどのように社会を見つめていたのかはまだつかめない。未熟ですから。
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マックス・ヴェーバーが指すところの
「社会学」は、本書では「社会的行為を解釈によって理解するという方法(理解社会学)で社会的行為の過程および結果を因果的に説明しようとする科学」と定義されている。
前半は「方法論的個人主義」についての基本的な研究態度を明示する。そこでは何らかの実在を伴う「社会」を観念する事を非現実的として避け、合理性もしくは感情的な追体験から解釈可能な個人の行為を分析する事を始点とした社会法則を研究する事の重要性が示される。
その後、社会的行為を4つの理念型(そのもの自身としては非現実的ではあるが、現実の事象を分析する為の行為のタイプ。現実の行為は複数の理念型の複合によって示される)に分解する事から始まり、
・秩序(とそれを保証する正当性)の理念型
・社会関係の理念型(共同または利益)
・団体の概念と理念型
・権力と支配についての概念
といった「諸個人の連関としての集団」の分析方法について、定義付けがなされる。
本書はそうした命題集の様相を呈する。従ってこれだけ読むと若干薄味な感は否めないが、自分が所属する集団やそこでのメンバー、またその他の個人・集団の振る舞いを実際に分析してみる事で、社会学(もしくは経済学)のアプローチ方法の一つを自分なりに理解する一助になる。
特にある集団においてアクターが少数で特定可能な場合、その集団の現状分析や将来時点の実態予測をモデル化する際には(限界・制約は多々あるものの)利用可能なアプローチだと思う。
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マックス・ヴェーバーによる、一種の定義集。理念型的に構成された諸概念が列挙されており、その概念を使用すべき領域は非常に多岐にわたる。それがいかに使用されているかは、『経済と社会』本論にあたって確認するべきだろう。ともかく、「理解社会学」のおおまかな全体像を掴むには格好の入門書だと思われる。
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ヴェーバー社会学の諸概念が詰まった一冊です。
ここには、現実にあるもの(様々な行為の意味)を解釈し、類型的に整理するのが社会学であるという、ヴェーバーの理解社会学の基本的な姿勢がみられます。また他方では、現実を類型化することについて、一定の限界をヴェーバーが理解していた事も読み取れます。
つまり、主観的な「意味」とは行為者が自覚している場合もあれば、漠然と感じているにすぎない場合や、衝動的習慣的(意味がほとんど無い)な行為もある。そんな中で、現実を類型化すること(主観的な「意味」、また、その関係を類型化にすること)には限界があります。
lこれは、凄い乱暴に言えば、現実は複雑怪奇で、人間の外面、内面を類型化したところで、実際にそれがピッタリ当てはまる事の方が珍しいということでしょうか。
こうした問題を踏まえてヴェーバーは、「現実の分析に際して、この事実を忘れることがあってはならない」とし、「現実を具体的に考察する場合、社会学は、つねに現実との距離を考慮し、その程度と種類とを明らかにしなければならぬ。(p.35)」として、理論と現実の距離についての警告を促しています。
こうした基本的な姿勢を出発点にして、「行為」や「秩序」「正当性」といった基本的な概念が説明されます。ただ本書は、私にはちょっと敷居が高すぎたかな・・・と言う印象です。新書で出ている入門書や、最近の訳が出ているその他の古典を当たってから本書をお読みになっても良いのではないでしょうか。
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ヴェーバーの死後に出版された「経済と社会」の巻頭論文を訳出したもの。原著で30ページ、本書でも100ページ足らずと小著ながら社会学に関するヴェーバーの根本的な考えを理解する上でとても重要な著作である。社会学に関して、法や宗教、政治、はたまた闘争にいたるまで、各領域の概念を定義的に明らかにしようとしている。
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はしがき
以下に述べる序論的な概念規定は、なければ困るし、あれば必ず抽象的な非現実的なものになってしまう、といっても、私の方法が新しいと主張するつもりは毛頭ない。
第1節
つまり、機械のうちで理解可能なのは、手段としてにせよ、単数或いは複数の行為者の念頭にあって行為の方向を定める目的としてにせよ、とにかく機会と人間の行為の関係である。
周知のように、個人の行為は、自分が空間的に密集した群集の中にいるだけで強い影響を受けるもので、これは群集的行為であって、例えば、G・ル・ボンの著書のような群集心理学的研究の対象になっている。
第4節
単なる慣習の持つ安定性というのは、主として、周囲の多くの人たちの行為が現実に慣習の存続に関心を持ち、それに従った態度を取っているため、自分の行為を慣習に従わせない人間は不適切な行為を行う結果になり、大小の不便や不利益を蒙らざるを得なくなるということから来ている。
第8節 闘争の概念
行為が、単数或いは複数の相手の抵抗を排して自分の意志を貫徹しようという意図へ向けられているような社会的関係は、「闘争」と呼ばれる。現実の移り的暴力行為を内容とせぬ闘争手段は、「平和的」闘争手段と呼ばれる。平和的闘争が、他の人々も同様に得ようとする利益に対して自己の支配権を確立しようとする平和的形式の努力であれば、これは「競争」と呼ばれる。競争の目的および手段が或る秩序に従っている場合は、「ルールのある競争」と呼ばれる。諸個人や諸類型の間で生存或いは残存のチャンスをめぐって行われる、闘争的意図という意味を欠いた潜在的な生存競争は、「淘汰」と呼ばれる。個人の一生におけるチャンスが問題であれば、「社会的淘汰」と呼ばれ、遺伝的素質の残存のチャンスが問題であれば、「生物的淘汰」と呼ばれる。
第一項 相手の生命を狙って、何一つ闘争のルールを守らぬ残虐な闘争があるかと思えば、慣例というルールに従った騎士たちの闘争(フォントノアの戦闘に当って、伝令が、「イギリス軍諸君、最初に撃ち給え」と叫んだという)や、ルールに従った闘争的遊戯(スポーツ)があるし、女性に取り入ろうとする求婚者たちの滅茶苦茶な競争や、交換における利益をめぐって市場の秩序に従って行われる競争的闘争があるかと思えば、ルールに従った芸術上のコンクールや選挙戦があり、それらの間にはむすうの段階が存在する。暴力的闘争特有の手段の性質を考え、その使用から生ずる社会学的結果の特殊性を考えれば、暴力的闘争を概念的に区別するのは当然のことである。
第二項 すべて類型的かつ大量的に行われる闘争や競争では、いろいろの決定的な偶然とか運命とかがあるにしろ、結局、平均的に見て、闘争の勝利に不可欠な個人的性質を多く持つ人間が選び出されえる結果に落ち着くものである。その性質というのが、腕力や非良心的な狡さに優れていることか、知能的能力や声量や煽動のテクニックに優れていることか、上司や図に乗った大衆への追従に長じていることか、独創的能力や社会適応能力に優れていることか、異常とも見える性質や大衆的平均と異ならぬ性質が豊かであることか―それは、闘争や競争の条件によって決定されることで、この条件の中には、個人および大衆のありとあらゆる性質に加えて、闘争行動が―伝統的にせよ、価値合理的にせよ、目的合理的にせよ―従う諸秩序も含まれる。それらのすべてが社会的淘汰のチャンスに影響を与えるのである。しかし、すべての社会的淘汰が、私のいう「闘争」であるとは限らない。むしろ、社会的淘汰というのは、差当り、行動の或る類型、従って、時には個人的資質の或る類型が、或る社会的関係(恋人、夫、代議士、官吏、現場監督、社長、立派な企業家など)における成功の可能性が大きいという意味に過ぎない。この社会的に選び出される可能性が闘争によって実現されるか否か、更に、この可能性がその類型の生物的な残存の可能性を増すか、それとも、その逆か、これらの点については、社会的淘汰そのものは何も主張するものではない。
現実に競争が行われる場合に限っては、私は「闘争」を問題にしようと思う。従来のあらゆる経験に徴して、事実上、闘争を排除し得ないのは、淘汰という意味の場合だけであり、また、原理上、闘争を排除し得ないのは、生物的淘汰という意味の場合だけである。それを完全に排除する方法が案出されないために、淘汰は永遠のものなのである。非常に厳格な規定を含む平和主義的秩序でも、精々、闘争手段、闘争目標、闘争方法に規制を加えて、その一部を排除しようとするに過ぎない。すなわち、残された闘争手段が、(公然たる)競争における勝利を生むことになるし、また、競争が排除されたと想像しても―ユートピア的理論的には可能であろうが―生存および残存のチャンスをめぐる(潜在的)淘汰における勝利を生むことになり、遺伝的素質としてにせよ、教育の結果としてにせよ、この残された闘争手段を駆使する人間に有利に働くのである。こうして、社会的淘汰は、経験的な意味で闘争の排除を阻止し、生物的淘汰は、原理的な意味で闘争の排除を阻止する。
第三項 もちろん、生存および残存のチャンスのために行われる諸個人間の闘争と社会的諸関係の間の闘争や淘汰とは区別せねばならぬ。後者のような概念は、比喩的な意味でなければ使うことは出来ない。なぜなら、言うまでもなく、「関係」というのは、或る意味内容を含む人間行為としてのみ存在するのであるから。それゆえ、諸関係の間の淘汰や闘争というのは、時間の経過に伴って、或る行為が他の行為―同じ人間の行為でも、他の人間の行為でも―によって駆逐されるという意味である。これは、いろいろな方法で可能になる。(一)人間の行為は、或る具体的な社会的関係、すなわち、一般に或る秩序に従った社会的関係、換言すれば、その意味内容に応じた過程を辿る行為、それを阻止することを意識的に狙うことがあり、また、その成立や存続を妨害するよう場合である。例えば、戦争や革命によって国家を、残酷な弾圧によって反乱を、警察力によって萎妾を、法的保護の停止や処罰によって暴利取引を妨害するような場合である。更に、或る種の関係の存続を援助することによって故意に他の種の関係に不利な影響を与えることを意識的に狙うことがある。個人も、結合した諸個人も、右のような目的を持つことが可能である��(二)しかし、また、社会的行為の過程と、そこに働く各種の条件とから、意外な副作用的結果が生まれ、そのために、或る具体的な、或る性質の関係―というのは、必ず、それに対応する行為を意味する―の存続や成立のチャンスが減ることもある。何か変化が起る場合は、あらゆる自然的および文化的な条件が或る働きをして、各種の社会的諸関係の間で―例えば、諸国家の間で―淘汰が行なわれ、強者―適者という意味の―が勝利を収めるなどと言いたければ言ってもよい。ただ、次の諸点を忘れてはならない。第一に、この謂わゆる「淘汰」は、社会的意味でも、生物的意味でも、人類類型の淘汰とは関係がないということ、第二に、或る種類の社会的関係の存続を認めながら、他の社会的関係の存在を認めなかった原因は、具体的ケースについて研究する必要があるということ、第三に、これらの原因は多様なので、それを一つの言葉で表現するのは適切とは思われないということ。一つの言葉で表現すると、どうしても、経験的研究の中へ勝手な評価を持ち込む危険が生まれる。とりわけ、具体的ケースについて見れば主として純粋個人的な条件における成功、その意味で偶然の成功であるのに、これを理論的に弁明すれるという危険が生まれるものである。近年、そういう例は腐るほどある。或る特殊な性質を持つ具体的な社会的関係が純粋具体的な原因によって排除されることがよくあるが、それだけでは、その社会的関係の一般的な適応性が否定されたことにはならないからである。
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「ところが、社会学による行為の理解的解釈から見れば、右のような集団は、諸個人の営む特殊な行為の過程および関連にほかならない。なぜなら、私達にとっては、諸個人だけが意味のある方向を含む行為の理解可能な主体であるから」 ー 23ページ
『プロ倫』を書いた人なので当然といえば当然なのかもしれないが、ウェーバーの着眼はあくまでも個人にあることを再確認した次第。よく比較されるデュルケームは個人というよりは環境とか社会組織のほうにより着目している印象があるけれども、どちらが正しいというよりも、理解するべき事柄によってどちらを強調するべきかは変わるのだろう。
というかプロテスタントって個人主義的なイメージが強いし、実際慣習や思想体系にも個人主義色の強さがにじみ出ているってよく強調されているけれど、そういった認識の強化に『プロ倫』が貢献したところは少なからずあると思うのだけどどうなんだろう。プロテスタントは現在ではあまりにも分化しすぎていて一般的な特徴を挙げるということがとてもじゃないけど困難になってきている昨今、くしくもウェーバーの挙げた「理念型」という概念とともに、プロテスタントの一般的イメージも保存されているような気がしてならない。
いやウェーバーほとんど真面目に読んでないしプロテスタントに関しても詳しくないのでマジで小並感なんですけどね!(言い訳)